ワインのヴィンテージ研究

 
イギリスやアメリカではヴィンテージを知ることは紳士淑女の身嗜みとなっているという。なぜなら、晩餐に招かれたとき供出されたワインを賞賛するために必要だからという。そんなわけでおいしいワインを飲む(飲ませてもらう)ためには心してヴィンテージチャートを覚えないと!(冗談です)

 ボルドーのヴィンテージ情報は大体把握しているけどブルゴーニュ、イタリアあたりになるとまるでダメ。わかっていそうでわかってないワインのヴィンテージの勉強を少しづつしていこうかなと思っています。ちょこまかと改訂していきますので、気にせず読み落としてください。

参考文献
マイケル・ブロードベンドのワイン・ヴィンテージ案内 柴田書店
ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ1900-2005 ジャッキー・リゴー 白水社
山梨県ワイン酒造協同組合ヴィンテージチャート


 あとせっかく歴史のある話なので、ムートンのエチケットで美術の勉強もしてしまおうと思います。

20世紀の美術について
 
スペインワインに関する情報


バローロのヴィンテージ(編集中)

地球温暖化の影響で、バローロはかつてない良好なヴィンテージが続いている。1996年以降、02年を除いて平均以上の優良な作柄に恵まれている。

 「2000年は暑くて良い年。早くから楽しめる。01年は少し冷涼だったが、アクセントがあり長期熟成の年。03年も暑くて、酸が低いがすぐに飲める。04年は90年に近い素晴らしい年。05年も04年ほどではないが良い。06年と07年は樽の中にあるので判断は控えたい」

 00年は米国のワイン・スペクテイター誌が100点をつけたことで01年との優劣が話題になった。「00年は酸が低く早くから飲めるので、最初の印象は良いが、長期熟成する本来の性格を考えれば01年の方が優れている。96年、99年、01年、04年、05年が最近では優良なヴィンテージだ」という。



2006
勝沼 ☆☆☆ 6―7月及び9月が寡照で、8月は好天日が続いた。ブドウは着果過多の傾向で推移したため品質は平年並の作柄に。
 
ボルドー  クラシックな年

ブルゴーニュ  ☆☆☆☆★ 2006年ヴィンテージのなかでも天候に恵まれた地となった。

ボジョレー ☆☆☆☆ 9月の収穫期好天に恵まれた

ロワール

イタリア ブルネッロ・ディ・モンタルチーノは97.04.06と☆5つ

プロヴァンス 10年で最良の出来?

ドイツ  ☆☆★  地域によりだが雨が多い年

2005

   

 今回のアーティストラベルは、イタリアの彫刻家ジュゼッペ・ペノーネ(1947ー)。ピエモンテ生まれ。自然な素材で創作する「アルテ・ポーヴェラ」の旗手として世界的な評価を得ており、パリのポンピドーセンターにも作品が展示されている。
 今回のラベルはブドウの葉と人間の手を題材にした。「描かれた手はブドウ栽培者の手でもあり、(すぐにムートンのグラスを握る)ワインを飲む人の手でもある。自然と人間が一体になったワイン造りが、自然を大切にする作家によって表現されているとのこと。

 9万9750円(エノテカ)

 パーカーポイント: 93-95(アドヴォケイト170号07年4月)  : 94-96点(アドヴォケイト164号06年4月)
 ワインスペクテーター: 92-94点(06年6月)


日本(山梨)☆☆☆
 列島は昨年に続き台風被害を被ったが、県内は着色期、成熟期とも少雨で日照量が多く経過して豊産。品質は平年並みに。

ボルドー☆☆☆☆☆  
ブルゴーニュ ☆☆☆☆☆

プロヴァンス
イタリア 開花時期まで気温が上昇せず、地域によっては降水量が多く、収穫量は04年を上回ると予想された。7月中旬に気温が一時上昇し、安定した日々が数日間続いたが、8月に入ると急激に気温が下がり、日照量も例年を下回った。下旬から長雨が始まり、特に北部トスカーナからエミリアロマーニャにかかてはダメージが大きかった。

ドイツ ☆☆☆☆ 2001年以降過去4年の好調なヴィンテージを維持。

2004

 

「Mediterranean Pines in Cap d`Antibes By SAS Prince of Wales」=アンティーブ岬の地中海の松の木
水彩画の名手と言われるチャールズ皇太子によるエチケット。英仏協商(植民地政策に関する協定:1904年)の調印から100周年を祝っているラベルのようです。

WAの評価
ブドウの収穫は9月29日に始まり、10月15日に終わった。ムートン2004年は70%CS、15%M、12%CF、3% PVのブレンド。2005年Parker 4月現在(91-93)ポイント
飲み頃2011-2028年

26000円(エノテカさんのリリース価格税抜き)


日本(勝沼) ☆☆☆☆ 日本列島は甚大な台風被害に見舞われた年だが、幸い甲州は収穫期まで好天に恵まれ、品質の良好な作柄となる。

ボルドー ☆☆☆★
ブルゴーニュ ☆☆★
アルザス 辛口白☆☆☆★ 甘口白★

ピエモンテ ☆☆☆☆★ イタリア・ピエモンテ地方の2004年は素晴らしい作柄となり、多くの生産者が過去最良のワインを生むという評価を、米「ワイン・アドヴォケイト」誌10月31日号で、イタリア担当のアントニオ・ガローニ氏が発表した。 04の最上のバルバレスコは完璧で、バローロも同様だという。ガイヤの「ランゲ・ソリ・サン・ロレンツェオ」に98点、「ランゲ・ソリ・ティルディン」に97点、ブルーノ・ジャコーザの「バルバレスコ・リゼルヴァ・アジリ」に98点、「バルバレスコ・ラバヤ」に97点などの高得点がついた。スペイン
リオハ ☆☆☆☆☆
リベラデルデュエロ ☆☆☆☆☆

ドイツ ☆☆☆☆
   
2003
  2003年は日本での羊年で日本人画家の登用が期待されましたが、通常のアーティストラベルではありませんでした。2003年は創立150年の記念すべき年だったんですね。
 1853年というのは、英国ロスチャイルド家、ナタニエル・ドゥ・ロスチャイルド男爵が、シャトー・ブランヌ・ムートン(35ha)を買い取り、シャトー・ムートン・ロスシルドと改名した年です。03年エチケットは、このナタリエル男爵と当時の契約書の文面をモチーフにしたものだということです。
 そういえば1953年も創立100周年記念ラベルでした。

    

ppは95-96点、82年以降で最も葡萄の完熟感のある最も華々しいムートンと好評価である(ボルドー第4版)。2012-2035 34000円-45000円

ボルドー 赤19 白18
ブルゴーニュ 赤18 白17
シャンパーニュ
ローヌ17
アルザス16
ロワール18
シャンパーニュ16
ドイツ ☆☆☆☆
日本☆☆☆ 春先から8月中旬まで降水量は平年を上回った。日照不足と冷夏の年であり葡萄の生育は遅れた。8月下旬以降晴天が続き、気温も上昇したが、生育の遅れは取り戻せず、綺麗な酸は残ったが、糖度は平年と比較して低めでの収穫となった。
スペイン リオハ ☆☆☆★
ポート 

 
2002年

2002年はイリヤ・カバコフ(Ilya KABAKOV1933-)
1933年ウクライナ共和国ドネプロペトロフスク生まれ。インスタレーション・アーティスト。はじめは絵本の挿絵画家としてスタートしたが、レニングラード芸術学校で学んだ後、50年代に抽象表現主義へ移行。70年代以降、共産主義体制に対する批判を込めた作品をドクメンタ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、シドニー・ビエンナーレなどに出品し西側でも注目される。88年からニューヨーク在住。
2001年に変更されたチケットの下半分が元に戻った。

16800-17900 WS:95-100 E:5 WA94-96+ 2015-2040

   

ヴィンテージ情報
ボルドー赤18 白18
ブルゴーニュ赤19 白18
ローヌ13
2002年は難しいヴィンテージ。日照量も低く、降雨量が多かった。もっとも、ワインは素晴らしい酸味をもつことができました。2002年ヴィンテージはそのため、新鮮さと、しっかりとして柔らかいタンニンと、素晴らしいフィネスがバランスの取れたワインになるでしょう。 2002年ヴィンテージの特徴は、ポリフェノールの熟成(果皮とタンニンの生物学的な熟成)とアルコール的熟成(糖度の上昇)との間に“ずれ”がありませんでした。
アルザス17
ロワール17
シャンパーニュ16
イタリア
ピエモンテ
トスカーナ
過去50年の歴史でこれほどまでの異常気象に悩まされた年ははなかった。とくに、5.8.9月の降雨量は記録的な多さ、腐敗病やカビと奮闘しながらの困難なブドウ栽培となった。オフヴィンテージ、困難な年  マッキオーレのスクリオ、テヌータディトリノーロなどファーストワインが造れなかった。2002年の赤ワインは夏に雨が降る難しいヴィンテージとなり、生産量が減り、価格が値下げされる。マッキオレでは、カベルネ・フラン100%で造る2年目のパレオ・ロッソは前年の21000本から大きく生産を減らして8000本となり、価格も8500円となる。メルローの金字塔、メッソリオは前年より半減の4000本で、価格も15000円と40%以上も値下げされる。「スクリオ」用のシラーはマッキオーレ・ロッソ02年に回されたほかバルクで販売され、02年は生産されなかった。
スペイン
リオハ ☆☆
リベラデルデュエロ☆☆☆
日本☆☆☆☆☆ 1994〜2006までで5つ☆はこの年だけ。
 梅雨入りは後降水量は少なめで、曇天の日が多く、平均気温はやや低めに推移した。梅雨明け後は高温が続き、早い時期に台風の襲来があったが被害は無く、順調に成熟期を迎えた。降水量は平年に比べ少なく、日照時間は多く、各品種の成熟は順調に推移した。収穫時期も降量が少なく、病害の発生も例年に比べると少ない傾向にあった。このため健全果での収穫が可能であった。
ドイツ ☆☆☆☆


 2001年

  


2001年はロバート・ウイルソン(Robert Wilson1941-)というアメリカ人画家(舞台演出家)が担当。今年からエチケットの下半分のデザインを変えてきた。価格は17900〜21000円。ヘビーボトルに詰められているという。彼の友人のマダム・フィリピーナが描かれており、緑は葡萄の樹の若枝、黄金色は太陽の調和、ライトレッドと濃い紫というワインの半音階(色彩の中庸とでも訳すのかな?)を現しているという。
セパージュ比率はカベルネ・ソーヴィニヨン86%、メルロー12%、カベルネ・フラン2%。
ロバート・パーカーJr氏のポイントは89+?。飲み頃は2015年から。


ヴィンテージ情報
ボルドー赤16 白16 ソーテルヌは例外的に素晴らしいヴィンテージ
ブルゴーニュ赤16 白17 
ローヌ17
アルザス16
ロワール16
シャンパーニュ16
ドイツ ☆☆☆☆☆ 71年以来の当たり年とのこと
リオハ ☆☆☆☆☆エクセレント
リベラデルデュエロ☆☆☆☆
ピエモンテ☆☆☆☆☆ ピエモンテは1996〜2001年まで6年間にわたり傑出したヴィンテージが続いたが、01年については「最も完ぺき」と評価。バローロは「リッチな色合いと強烈なアロマ」を備えた長期熟成型という。00年と01年の優劣が議論になっているが、01年のトップのボトルの多くは「壮大で、00年より複雑で、熟成に耐える」としている。ただ、00年も果実味主体の早くから飲めるワインで、品質が全般に一貫している点を評価している。

トスカーナ 初春の寒波の戻りで発芽直後のブドウの芽がダメージを受け、収穫量が減ったこと、収穫前の9月の気温が低かったりで気象麺では不利な点が多かったが、バランスがよくエレガントな仕上がりとなった。
日本 ☆☆☆☆ 猛暑と旱魃の年 全体的に雨が少なく日照時間が多かったため、収量は落ち込んだが作柄は良く、完熟した葡萄が収穫された。


2000年 



2000年のムートンは新たな旅立ちという意味で、特別に従来の絵画によるエチケットを採用せず、独自のエッチングによるボトルデザインとした。モデルはシャトー内の美術館にある16世紀のお宝「the little Augsburg Ram(アウクスブルクの羊)」である。ガラスメーカーのB.S.N社がエナメルを浮き彫り状にする特殊技術により仕上げたもの。PPは97+。気になる値段であるが、43200円-69000。MG18万5000円。飲み頃は2020〜2060とされる。私の人生最後のころちょうど飲み頃の真っ最中なんですね。

ヴィンテージ情報
メドック左岸 ☆☆☆☆☆ 最高の年 100年で3本の指に入る出来とのこと。特にカベルネのフィネスはたとえようもないとされる。実際に飲んだ印象では、異様に固いという印象を受ける(飲んだ数は少ないが)。右岸も同様。
右岸 ☆☆☆☆★ 98右岸よりも00右岸は劣るとされる。またポムロムよりもサンテミリオンのほうがいいという話も。
ボルドー辛口白☆☆☆ 赤ワインほどでない。肉厚でフルーティーだが,酸味に欠け,力やパンチが物足りない。
ソーテルヌ☆☆☆ 10月11日、12日の雨までに1〜3度収穫できればよかったが、それを逃してしまったシャトーではボトリティスよりも陰干しなどのテクニックで甘くするほかなく、出来としてはさほどではない。
ブルゴーニュ赤☆☆☆ チャーミングで早熟型。実際に飲んだ印象ではやや希薄感があるイメージか。
ブルゴーニュ白☆☆☆☆★ いい年
ローヌ赤 ☆☆☆☆★
アルザス☆☆☆☆☆
シャンパーニュ☆☆☆ 収穫期まではひどい天候であったが、9月中旬に真夏のような天候となり回復。とても低い酸が特徴的とのこと。
イタリアピエモンテ ☆☆☆☆ 乾燥した暑い夏のせいで、糖度があがり、潜在的アルコール度数の上昇及び収穫量が激減した。10月12日以降6週間に及ぶ豪雨が降り続いた。晩熟型ネッビオロにとっては厳しかったが収穫を終えていた多くの生産者にとっては問題がなかった。アドヴォケイト2000ピエモンテ
イタリアトスカーナ☆☆☆☆ 8月の猛暑で葡萄が過剰な糖度とアルコール度を有するに至ってしまった。10月に降雨が多く、遅熟型のサンジョベーゼには影響が多かった。
ドイツ ☆☆☆ 
ナパ☆☆☆★ 10月以降ぐっと冷え込み晩熟型のカベルネは並の出来。
スペイン リオハ☆☆☆ 夏の高温でいい出来。 リベラデラドュエロ☆☆ 冬ゼロ度を下回ったため、CSやMに比べ弱いテンプラニーニョには厳しかった。
チリ☆☆ 大雨で収穫が遅れた。凝縮した葡萄の収穫ができなかった。
日本 ☆☆☆ 真夏の猛暑に続く、局地的な大雨による降水量の影響が心配されたものの、9月に入り気候状況が良好に推移したことでぶどう果は例年をやや上回る状態で収穫できた。
ポート ヴィンテージ宣言


1999年

 


1999年のムートンはレイモン・サヴァニャック(1907〜2002.10.30)というフランス人のポスター作家である。戦後のフランスを代表するポスター作家。1935年アールデコの巨匠カッサンドルの助手になり、'49年に注文なしで描いた「牛乳石鹸」のポスターで名声を確立。単純な構図、解りやすい表現、ユーモアと個性あふれる作品は「ヴィジュアル・スキャンダル」の語を生み、現代ポスターの一大指針となる。2002年95歳で永眠。20世紀最後の年にどのような作家を登用するか興味があったが、ムートンによると24年のジャン・カルリュ(97年死亡)から始まり、99年のサヴァニャックが二人ともポスターデザイナーということでちょうど一回りしたということらしい。価格は14800円〜21000円というところ。pp93点。

vintage情報
メドック左岸赤 ☆☆☆★ 収穫期に雨
右岸 ☆☆☆★ 右岸のほうがよかった。
グラーブ白 ☆☆☆
ソーテルヌ ☆☆☆★ 最初の収穫後雨が降り、カビが繁殖し、次の収穫は12月まで待たねばならなかった。
ブルゴーニュ赤☆☆☆☆ 9月19日から月末まで雨が降り続いたせいで、それ以前に収穫できた生産者の出来はよいものの、押しなべてムラのある年かもしれない。もっとも実際に飲んだものはかなり濃く凝縮されているという印象。
ブルゴーニュ白☆☆☆
アルザス☆☆☆☆ とてもよい年
シャンパーニュ☆☆☆☆ 特にシャルドネの出来は大成功だった模様。
ローヌ北部赤☆☆☆☆★ 天候もよくコートロティなどよい出来。
ローヌ南部赤☆☆☆★   やや雨が多かったため例年並の出来。
ローヌ地方詳細

イタリアピエモンテ☆☆☆☆★  雨が少なく暑かった
イタリアトスカーナ☆☆☆☆★ 5月末から30度に達し、9月まで高温が続き、暑い年。雨も適度に降った。
スペインリオハ ☆☆
スペインリベラデルデュエロ☆☆☆☆
ドイツ
チリ☆☆☆☆☆ 開花結実期の天候不良により収穫量が激減したが、夏以降、稀に見る好天に恵まれ、これまででも記録的な最良の年に。
ナパ
日本☆☆☆☆ 成熟期は多雨だったが、葡萄果が肥大し、収穫量は多め、収穫期には少雨となり平年並み。


1998年




1998年のエチケットは、RUFINO TAMAYO(1891-1991) メキシコ人の画家であるルフィーノタマヨ。メキシコ革命後の壁画運動の影響下のいわば第2世代であり、ラテンアメリカ古代文明の出土品(土偶や壷など)が醸し出す、素朴な色合いや丸みを帯びた形を、自身の現代感覚と上手く融合させることで、独自の作風を築き上げた。現役の作家を登用するというのがムートンの伝統であると思ったが・・。
17500円から3万5700円まで。98ムートンはパーカーの評価がかなり変化したようだ。90→92→96。

ヴィンテージ情報
メドック左岸☆☆☆☆
右岸☆☆☆☆☆ メルロ最良の年。
ブルゴーニュ赤☆☆☆☆
ブルゴーニュ白☆☆☆☆
アルザス☆☆☆☆
シャンパーニュ
ローヌ北部☆☆☆☆★
ローヌ南部☆☆☆☆☆
部では、グルナッシュは、恐らく過去20年の最高の出来上がりでした。通常は、シラーに比べて、明るい色調です。しかしながら、1998ヴィンテージでは、この品種には決して見られない濃い色調に誰もが驚きました。
現在、ワインは熟成中であり、ヴィンテージの品質的判定は、まだ時期尚早ではありますが、4―5週間、醸した最初のワインは、相対的に酸は低めです(乳酸も低い)。アルコール発酵の後、すぐにマロラクティック発酵が始まりました。赤の品種では、タンニンは、やや柔らかさに欠けるほど、極端に力強く感じられます。
イタリアピエモンテ☆☆☆☆★ 昼暑くて夜涼しく雨も適度
イタリアトスカーナ☆☆☆☆ 猛暑と渇水の夏
スペイン
ドイツ
チリ☆ 低温と日照不足と雨にたたられ、希薄感のあるワイン。現地では最悪の年とされている。
日本(勝沼)☆☆ 梅雨明けも遅く秋雨も多く、収穫期に雨が多く、気温も高めに推移し、やや不良。1月の大雪で葡萄棚の崩壊が相次いだ。



1997



1997は、Niki de Saint Phalle(ニキ・ド・サン・ファル 1930−2002)が担当。1930年、フランスの銀行家の娘としてパリに生まれた。彼女が胎内にいるときに恐慌のあおりで父の銀行は倒産。一家はアメリカへ。ハイティーンの時には「ヴォーグ」などのモデルとして活躍、「ライフ」誌の表紙も飾る。若くして米作家ハリー・マシューズと結婚するが、60年に離婚。そのころからスイスのキネティック・アートの旗手、ジャン・ティンゲリーと同棲、創作活動をともにする。61年、最初の射撃画(60年代初頭、レボルバーや小さな大砲でキャンバスに絵の具を撃ちつけるパフォーマンス芸術)で世界のアート界に衝撃を与えた。イブクラインらのヌーヴォー・レアリストたちと交流。60年代半ば〜「ナナ像」をはじめ、女性美を高らかに陽気に歌い上げる数々の作品を発表。ジャン・ティンゲリーとのコラボレーション作品も数多く制作。78年、ガウディの庭園に魅せられて以来、長年彼女がライフワークとして想念してきたプロジェクト、「タロット・ガーデン」をトスカーナ地方に建設開始。91年、生涯の最高のパートナー、ティンゲリーを脳卒中で失う。98年、タロット・ガーデン完成。
 彼女をモデルにした映画
「ニキ・ド・サンファル〜美しい獣(ひと)」NIKI DE SAINT PHALLE wer it das Monster-du oder ich ペーター・シャモーニ監督作品/1995年/ドイツ映画/35ミリ/1:1.66/ドルビー・ステレオ/93分/配給:パンドラ が製作されている。


 太陽から皿へ、官能的な口と伸びた手を用いたニキの作品は、食卓の楽しさを語るものである。これは、この世の初めと同じくらい古いストーリー(アダムとイブの寓話)であるが、伝統的なリンゴ(禁断木の実)ではなく、誘惑者である蛇は悪よりもワインを愛しているがゆえに、イブに対し、まさしくロッチルドのワインを差し出しているのである。
16000円から26000円まで。PP90

ボルドー左岸赤☆☆☆
ボルドー右岸赤☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆
アルザス 非常に暑かった97年はパワフルなゲヴュルツやピノ・グリには空前のヴィンテージだが、リースリングは緩くて品が無い、といった具合です。
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆☆
リオハ☆☆☆☆
ナパ☆☆☆☆☆
日本 ☆☆☆☆ 収穫期に雨が少なく、日照量も平年以上で通年を通し、最良のヴィンテージ


1996
 

グ・ガン(古干 GU GAN 1942ー) 中国書法(書道)芸術の第一人者。書画作品は大英博物館、ケルン極東美術館、ウィーン博物館、中国美術館などに展示・収蔵されている。

24800-39800 MG66290
PP94+

メドック赤☆☆☆☆
ボルドー右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆☆
アルザス 96年は適度に涼しく乾燥した年で、非常に緻密で上品な辛口ワイン(特に最高のリースリング)を生み出したが、反面、甘口ワインはまったくといってよいほど出来なかった。
ローヌ赤☆☆
イタリア☆☆☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆☆☆
日本 ☆☆☆☆ シーズンを通じて少雨で推移、成熟期も朝夕が涼しく、良品質の果実を収穫。


1995
 

アントニー・タピエス(Antoni Tapies 1923-)スペインバルセロナ生まれの画家、建築家、陶器作家

アンフォルメル(Informel)フランスの評論家ミシェル・タピエによって、1950年代のヨーロッパ、とくにフランスにおける抽象絵画(Abstract)のひとつの傾向として、1952年に提唱された「形式のない美術」の総称。別名として、フランス語で「しみ」という意味であるtacheから命名されたタシスム(Tachisme)とか、別の美術という意味からアール・オートル(Art Outre)などと呼ばれることも多い。ジョアンミロ、ピカソと交流がある。


29800-60900
PP95+
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆☆
アルザス 94年や95年は、秋に雨が降り、辛口ワインはぎこちない味となったとしても、それが逆に多くの素晴らしい貴腐ワインを生み出しました。
ローヌ赤☆☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆
ナパ☆☆☆☆
リオハ☆☆☆☆☆エクセレント
日本 ☆☆☆☆ 成熟期に日照量が多く、雨が降らず、収穫期には低温傾向で推移したので作柄は良好。



1994
 
 

カレル・アペル(Karel Appel 1921-)アムステルダム生まれ
1921年オランダに生まれる。1948年にはアレシンスキー、コルネイユらと共に、コブラ(参加した画家達の出身地コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの頭文字をつなげたもの)を結成する。戦後の抽象における表現主義的傾向を代表するこのグループは、個人的幻想を直接に表現しようとした。アペルは、ナイフで絵具をキャンバスに叩きつけたり、ひきずったりして描いた。民族芸術や子供の絵にも興味を示し、色や線というよりは創造行為の熱っぽさを反映した荒々しいイメージを重視した。アンフォルメルや、日本の具体グループ、またアメリカの抽象表現主義との関わりもよく指摘されるところである。

17800-28700
PP90点
メドック赤☆☆☆
右岸赤☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
アルザス 94年や95年は、秋に雨が降り、辛口ワインはぎこちない味となったとしても、それが逆に多くの素晴らしい貴腐ワインを生み出しました。
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆☆☆☆エクセレント
日本 ☆☆☆☆ 生育期に高温で推移し、日照量が十分確保でき、作柄は平年作に比べ良好。


1993年

 

 93のムートンのエチケットはBalthus (バルテュス1908-2001)。
 バルテュスはポーランド系フランス人の画家であり、昨年2月28日スイスの山荘で亡くなったばかりである(享年92歳)。20世紀最後の具象画家と呼ばれ、彼の晩年の様子はこの前の日曜美術館(NHK)でも放映していたが、ものすごく光を大切にする人だという印象。テレビクルーに撮影用のライティングを消させて、時間の経過による光のうつろいを一番自分の絵がきれいに写る瞬間をインタヴュアーの江國香織さんに見せようとしていた。
 奥さんは日本人画家の節子さん(91年のムートンのPainter)。1961のパリの日本画展の準備のため来日したときに出会い、節子さん20歳、バルテュス54歳だったそうである。節子さんは今も毎日和服で通している初老の方。娘さんが春美さん。
 バルテュスの絵は、少女の裸体などが多く、このエチケットも同様であるが、アメリカではネオ・ピューリタンから幼児ポルノだということで批判を受け、アメリカ輸出用のムートンはこの年だけは無地のエチケットという話は有名。現在93ヴィンテージは、ウメムラさんで19800円。高いところで36000円。現在ではUSAラベルの方が高い値段がついている(40000円)。パーカーポイントは90点。 しかし、この絵の女の子のモデルは日本人かもしれない。なぜ、少女の絵を書き続けるのかという質問には「完璧な美」だからというのが芸術新潮の答え(2001年6月号に詳細があるようです)。
 映画のなかで93のムートンが使われたことがあります。「ディープインパクト」。この映画は巨大惑星の地球衝突を描いたSF作品。人類危機の大災害にどう立ち向かい、地球最後の日を誰と過ごすかというテーマです。政府が用意した巨大シェルターに避難できるのは50歳以下まで。主人公ジェニーの母親は高齢のためそこに入ることはできません。そんな母が人生最後の夜を彩るために、ひとり飲むワインがムートン1993年。幼い娘の写真を眺めながらこのワインを飲むのです。

ヴィンテージ情報  ブルゴーニュ赤、アルザス
フランス
ボルドー
メドック ☆☆ 9月6日に雨が降るまではそれなりによいヴィンテージになるに違いないと思っていたが9月の雨はそれはすごいものだったらしい(30年間の平均のなんと303%)。そんなわけで、一般的にはひどいヴィンテージと評されているが、パーカーは1991、1992にくらべるとまだいいとしている。10月中旬までには収穫が終わった。
 ムートンでは、finally a good vintage と評価している。
右岸(サンテミリオン、ポムロル) ☆☆☆ メルロー9月中旬には完璧な状態まで仕上がっていたので、カベルネよりも出来がよく、したがってメドックよりも評価がよい。メルローは早熟型の葡萄で、カベルネは晩熟型の葡萄である。収穫期にして1ヶ月の違いがあるという。カベルネはその意味で修正が効かず、リスクの大きい葡萄と言えるわけだ。今後全世界的にメルロー優位の時代となるであろう。
辛口白 ☆☆☆ 摘み取り開始が9月10日ということで、すぐに大雨がきたが、急いで収穫しなんとかなった模様。
ソーテルヌバルサック ☆ 雨のせいで最悪の年。貴腐菌はほとんど発生せず。

ブルゴーニュ
赤 ☆☆☆☆ 9月22日の本格的な雨の前にすでに葡萄は熟し収穫が開始されていたためよい状態であった。最高のものはまだ飲み頃が続くが、上の中、下のクラスはすでに十分な飲み頃。ボジョレーは全く雨の影響を受けなかったため最高の出来。クリュボジョレーの最高のものがあったら、今ぜひ試してみたい。
白 ☆☆★ 6月に雹が降りムルソーやピュリニーなどは収穫量が減った。また8月の暑さで樹液の流れがわるくなったものもあり、ばらつきがある。

アルザス ☆☆☆☆ 9月23日の収穫(1976年以来最も早い収穫)の直前に天候が崩れ始めたが、その段階ですでに皮が厚くなっていたため葡萄の出来はよかった。もっとも雨のせいで、遅摘み、グランクリュは生産量が僅少。

シャンパーニュ ☆ 収穫期直前になり、雨が降り続き、平均20mmのところ140mmも降ったということでコートドブランは全滅。ドンペリはこの年もリリースされている(92、93が量的に少ないのか、あるいは早くも売れてしまったのか、現在早くも95ヴィンテージ)。ドンペリは86や89のような厚い味わいの年はむしろ逆に作らないということで、93はジェフロワ氏の嗜好に合ったヴィンテージなのかもしれない。

イタリア
ピエモンテ ☆★  収穫期中の豪雨であったが、それまでに十分皮が厚くなっていたので最悪を逃れた。中庸なバランス感覚が落ち着けるバローロ。
トスカーナ ☆☆★ この年は南に行くほどよいということである、やはり収穫期の雨の前に熟していた。実際旅行中にも並みの年という印象の年であった。

ドイツ ☆☆★ ヨーロッパ全域が9月の雨に悩まされ、ドイツも同じくでばらつきのある年。

ナパヴァレー ☆☆ 太陽の国カリファルニアであるが天候不順のためここ10年で最も悪かったようである。

スペイン ☆☆ この年は悪い 

チリ ☆☆☆ チリは天候に恵まれているから毎年いいヴィンテージというのは俗説だそう。98は最悪、、99は最高とのこと。

日本  ☆☆ 冷夏傾向で雨が多く、日照不足でやや不良。勝沼は冷害におそわれた年。
 

1992年



 92のムートンのエチケットは、デンマークで最も人気のある画家PER KIRKEBY(ペール・キルケビー 1938-)。
 彼は60〜70年代にかけ、油絵の画材道具で絵を描いたのではなく、値段の安いメゾナイト(建築用素材、サイズ122×122センチ)に、自転車用ブラシと工業用エナメルペンキで絵を描いた。コペンハーゲン生まれのキルケビー氏は、自然史を学び地質学者でもあったうえに、芸術的分野にも造詣が深く、後に画家としても確立した人物です。
 このラベルで、彼は、一つの巨大なワイングラス(真ん中にうっすらと見えますね)から深い赤い色合いのワインがあふれ出ている様子を描いており、グラスの周りには、遠近法で面白く描かれたブドウの樹と色合いが織り交ざり、太陽の光とメッシュになっています。
 92のムートンは15000円から26000円。pp88点。
ヴィンテージ情報
ボルドー
メドック ☆ メドック一般的には、91が☆☆、92が☆、93が☆☆☆、94が☆☆☆☆ということで、92ヴィンテージが暗黒の4年間の中で最も低い評価となっている。
右岸 ☆☆ サンテミリオン・ポムロムについてはメドックと異なり、91☆、92☆☆、93☆☆☆、94☆☆☆☆となっている。メドックと並び決して評価は高くないが、素晴らしいシャトーものについては、現在とても飲みやすい最高のバランスを示して。とある会で飲んだオーゾンヌ92は素晴かった。
辛口白 ☆☆☆ 収穫期に9月後半に豪雨が降った悲惨な92ヴィンテージであるが、SBとSeについてはそれ以前に収穫を終えていたので、濃度はさほどではないがフレッシュな果実味のある葡萄が収穫できた。
ソーテルヌ ☆ 冷たく湿気の多い気候が貴腐菌の繁殖を妨げた。この年イケムは作っていない。
ブルゴーニュ
赤 ☆☆★ ブルゴーニュでは黒葡萄も白葡萄もよく熟し、雨が降る前に収穫できたところが多い。
白 ☆☆☆
ローヌ 北部☆☆、南部☆
アルザス ☆☆☆☆ 他のフランスに比べ、アルザスは大変いい気候に恵まれた。反面暑すぎる夏のせいか、酸がやや低めのため早飲みタイプ。遅摘みワインも収穫期の天候に恵まれ、最高の出来を示したという。
シャンパーニュ ☆☆☆☆ 生育期の気候は申し分のないもので、葡萄は3種類とも健康で、完熟かつ多産だった。収穫は早く、短期に終了。
イタリア 9月末から10月半ばまで続いた嵐と豪雨
ピエモンテ ☆ 雨が多くてよくなかった。白はまずまずの出来。ネッビオロは運に恵まれなかった。
トスカーナ ☆★ 収穫期まではトップクラスとの期待が雨でくつがえされたが、収穫期を早めた結果ピエモンテよりはよい。
スペイン ☆☆
ドイツ ☆☆☆
ナパ ☆☆☆☆
チリ ☆☆
日本 ☆☆☆☆☆ 生育期から収穫期まで雨が少なく、理想的な環境で優良となる。
  1992の山梨はよかったとのコメントがサドヤのシャトーブリアン赤にある。



1991年



91年のエチケットは、SETSUKO(出田節子 1942〜)。
 先に紹介したバルテュスの妻である。
 この絵は、ワインの一生をあらわしたもので葡萄の開花から、実をつけ収穫(右から2番目は麦の穂)、そしてボトルに詰められ、デキャンターで今まさに飲まれようとしている様子を表現しているそうである。日本人でムートンのラベルを描いたのは、79年の堂本尚郎に次いで2人目。なぜ、バルテュスより先に世界的には無名な節子の絵が使われたか。気難しいバルテュスに描いてもらうためかとかんぐりたくなるが、実はこの年は日本の未年。それでバルテュスよりも先に奥さんに頼んだというのがホントのところではなかろうか。とすると次の未年である2003年も日本人画家?岡本太郎あたりに書いてもらいたかったが・・・。
 91のムートンは、19400円-24500円。パーカーポイントは86+。

ヴィンテージ情報  ナパヴァレーかスペイン。

フランス
ボルドー
メドック ☆☆ ポイヤックサンテステフなど北になるほどよい。4月の霜が災いし、収穫量は激減した。また収穫期に8日間の大雨が降り続いたということでひどい年。ムートンによるとこの年はuneven year ということでばらつきのあるあるいはむらのある年という意味?
右岸 0  ここはメドック以上にひどいとのこと。4月の霜がすべての原因。
辛口白 ☆☆
ソーテルヌ 0  ひどい
ブルゴーニュ赤 ☆★
ブルゴーニュ白 ☆
ローヌ
  北部ローヌは☆☆☆☆ 4年連続の当たり年だったそうである。赤エルミタージュ、コートロティ 白エルミタージュ、コンドリュー
  南部ローヌは☆ 赤シャトーヌフデュパブ、ジコンダス
アルザス☆ 
シャンパーニュ ☆ しかし、収穫量はまずまず。ヴィンテージシャンパーニュは大手のメゾンではほぼ造られていない。
イタリア
ピエモンテ、トスカーナとも☆ 収穫期の大雨
ドイツ ☆☆★ ドイツでも88.89.90と3年連続の超当たり年であり、その次の年ということで存在がかすみがちだが
 この年、並以上の年ということ。
ナパヴァレー ☆☆☆☆☆ 世界は広い!フランスが散々でもアメリカは超当たり年。秋には何日にも続く素晴らしい小春日和に恵まれ、10月の大雨以前に収穫は完了した。こういう情報はやはり勉強してみないとわからないもの。この年の勉強の最大の収穫。
スペイン ☆☆☆☆ もっともヘレスのシェリーは要注意。労働者のストライキで質量ともにイマイチだったという。
チリ ☆ 98と並ぶ悪い年だった
日本 ?


1990
 
 

フランシス・ベーコン(Francis Bacon 1909-1992)  アイルランドのダブリンに生まれた。著名な哲学者のベーコンの傍系の末裔である。抽象絵画が全盛となった2次大戦後の美術界において、具象絵画にこだわり続けた画家である。作品は大部分が激しくデフォルメされ、ゆがめられ、あるいは大きな口を開けて叫ぶ奇怪な人間像であり、人間存在の根本にある不安を描き出したものと言われている。

31800-45000 MG80000
PP87点
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆☆
ナパ☆☆☆☆
リオハ☆☆☆☆
日本


1989

 

ゲオルク・バセリッツ(Georg Baselitz 1938-)   1938 旧東ドイツのドイチュバーゼリッツに生まれる。
1969 上下を逆転させたような作品を描き始める。
ヴェネチア・ビエンナーレ、ドクメンタ7に参加。

33800-68000
PP90点
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆☆


1988

 

キース・ヘリング(Keith Haring 1958-1990)

1958年5月4日、ペンシルヴァニア州カッツタウン生まれ、
20歳の時に引っ越したニューヨークで、バスキア、ケニー・シャーフたちと出会い地下鉄の広告板の黒い紙にチョークで落書きをはじめる(サブウェイ・ドローイング)。1982年 ヒューストンストリートに巨大な壁画を製作。1985年 ユニセフのアフリカ緊急援助基金のため展覧会を開催。1986年落書きをやめ、キャラクターを商品化してポップ・ショップを開店。1986年 壁画制作の代表的なものといえる「ベルリンの壁」に90メートルの作品を残す。1987年 「エイズ撲滅のためのアート展」に出品。また、東京多摩市の子供たち500人とともに壁画を制作。1989年エイズ感染を公表。エイズ知識を広めるためのキャンペーンにかかわり、キース・ヘリング財団を設立した。1989年 イタリアのサン・アントニオ教会の外壁に壁画を描く。1990年 国連の「エイズ防止・世界年」の記念切手及びリトグラフを製作する。1990年2月16日没。
 シンプルかつユニークなキャラクターは、直接には漫画から出てきたものだが学生時代ロラン・バルトやウンベルト・エーコなどの構造主義の記号学を学び、ウイリアム・バロウズの詩を参考としつつ、言語的な記号による絵画表現を模索した結果である。

27500-50000
PP92点
メドック赤☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆☆
ブル白☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆



1987

 

ハンス・エルニ(Hans Erni 1909-)  スイス生まれの画家・版画家


23000-27000
PP89点
メドック赤☆☆
右岸赤☆☆
ソーテルヌ☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆
ローヌ赤☆☆
イタリア☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆☆☆


1986
 

ベルナール・セジュルネ(Bernard Sejourne 1947-1994)
1947.11.20ハイチ生まれ。ハイチのエリート家庭に生まれ、高校卒業後正式に美術の勉強を始める。ジャマイカなどで勉強した後、ニューヨークの美術学校に通う。美しく優雅、優美な作品が特徴で、描くテーマとしては、女性・風景・花が多くいずれも大きなサイズの作品であった。これは彼の特徴である流動的な線による動きの効果を生かすものである。使用する色は寒色から暖色まで様々で通常メゾナイト上にアクリル絵の具によった。ハイチ美術のコレクターから特に人気を博している。

56800-76000
ロンドン43800 ケース2618ポンド(52万3600円)
PP100点
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆ ブルゴーニュの86年はとても脆弱な年。ボルドーがよかったのとは対照的。
ブル白☆☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆
ナパ☆☆
リオハ☆☆


1985

 

 1985年のムートンは、PAUL DELVAUX(ポール・デルヴォー1897〜1994)の作。ベルギー生まれでシュールレアリズムの先駆者の一人。二人のかわいらしい少女と葡萄の粒が、目で見て、触れて、味わえるという意味のラベルだそう。
pp90+。値段は意外に手ごろ。最安値は3万5000円。平均は3万7000円くらい?最高値は8万6000円というのがあった。

ヴィンテージ情報
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆☆
ナパ☆☆☆☆☆☆
リオハ☆☆☆☆


1984
 
 

ヤコブ・アガム(Yaacov Agam 1928-)
イスラエル出身の画家彫刻家。オプ・アート、「オプティカル・アート」の略で、「オプティカル=視覚的、あるいは光学的」という形容詞は、作品の実質的な特徴からすれば「錯視効果のある」という意味になる。1960年代中ごろから)、「キネティックアート(60年代におこった「動く芸術」のこと。80年代からのコンピューターの普及によるメディアアートに発展する)の第一人者。
1928年、リションレツィオン生まれ。エルサレムのベザレル美術デザイン学院に学び、1951年渡仏。1953年、動きの要素を持つ絵画作品ばかりで構成した個展をパリのクラヴァンギャラリーで開催し、1955年にはドゥニーズルネギャラリーでの「運動」展にティンゲリーらと参加、キネティックアートのパイオニアの一人として脚光を浴びる。以来「芸術作品とはかくあるべきだ」といった制約や慣習を退け、柔軟に「変化してゆくこと」を追求する姿勢を貫いている。その活動は、造形作品の制作にとどまらず、演劇、文学、音楽など広範囲にわたっており、近年ではコンピュータを駆使した作品も手がけ、世界各地で発表を続けている。モチーフとして虹に興味を持っている。


23000前後
メドック赤☆
右岸赤☆
ソーテルヌ☆☆
ブル赤☆
ブル白☆
ローヌ赤☆☆
イタリア☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆


1983

 

ソウル・スタインバーグ (Saul Steinberg 1914-1999)
1914年6月15日、ルーマニア生まれ。ミラノでブカレストとアーキテクチャーの大学の哲学および文学を学ぶ。この間、1936年〜1939年まで漫画を公表している。1940年にアメリカへ逃れ、海軍に加わりました。戦争後、ニューヨークに定住し、50年以上の間ニューヨーカー誌の仕事をこなし、国際的に有名なアーティストに。イームズとの交流もあり、イームズチェアに絵を描いた作品は有名。スタインバーグは、アートの領域まで、漫画の評価を高め、当時、最もオリジナリティのある芸術家と言われた。1999年没。享年84歳。

28400-40000
PP90点
メドック赤☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆☆


1982

 

ジョン・ヒューストン(John Huston 1906-1987) 1906年アメリカミズーリ州ネヴァダ生まれ。映画監督。
名優ウォルター・ヒューストンと女優のレア・ゴーレの間に生まれ、3歳になると両親と共に舞台に出演、その後も両親の巡業についてまわるが、子供の頃は病弱だった為にボクシングを始め、学校を中退してボクサーとなり、14歳でアマチュア・ライト級のチャンピオンとなった。19歳の時にはオフ・ブロードウェイの舞台に立つが、突然メキシコに渡って騎兵隊に入隊する。その後は、ホースショーの芸人や小説の執筆などの仕事を経て再び俳優として舞台や映画に端役として出演した後、41年「マルタの鷹」(ハンフリーボガード主演)で監督デビュー。多彩な趣味を誇り、この水彩画も趣味の一つ。

BT79800-110000
MG30万ー52万
ロンドン343ポンド(68600円)
PP100点
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆
ブル白☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆
イタリア☆☆☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆☆☆☆エクセレント


1981

 

アルマン(Arman Fernandez 1928-)
 フランス・ニース生まれ。父は北アフリカからの移民で、 中古品とアンティーク家具の店を経営していた。10代の終わりに柔道の稽古を通じて、イヴクラインと知り合い、絵画制作を薦められる。 49年パリに移り住み、 シュルレアリスム風の絵画を描くに至り、1954年にシュヴィッタースの展覧会を見て、 翌年からスタンプのシリーズの作品を手がけるようになる。 やがてそれは靴や瓶の栓、 機械部品、 電話器、 楽器などといった、 私たちの日常を取り巻く物質の解体、 集積、 再構築へと発展をとげてゆく。1959年日常的なものを用いた「集積」「ごみ箱」シリーズを製作。1960年パリのイリスクレール画廊で、ゴミで埋め尽くした「充満展」を開催。同年イヴ・クラインの「ヌーヴォー・レアリスム宣言」に署名。その後、NYへ。ジャンクアート、ヌーヴォーレアリスムを代表する一人。

19800-44100
メドック赤☆☆
右岸赤☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆
ブル白☆
ローヌ赤☆☆
イタリア☆☆☆
ナパ☆☆
リオハ☆☆☆


1980

 


ハンス・アルトゥング(Hans Hartung 1904-1989)

ドイツのライプツィヒに生まれる。ライプツィヒの美術学校とドレスデンのアカデミーで学ぶ。ドイツ表現主義やカンディンスキー、クレーらから影響を受けて抽象表現的作品を制作。1922 インクと木炭のデッサンによる表現主義的抽象スタイルという独創的な様式の実験をはじめる。1935 ドイツ国内でのナチスの台頭に嫌気がさし、パリへ移住。第二次世界大戦では外人部隊に参加し、右足を負傷し切断する。1930年代後半。色面が地に後退するとともに、黒の線が自由に動く作風が確立される。1941 フランスに帰化。美学と数学の関係を求めた表現主義的手法の抽象作品の様式を確立していく。

23000-29000

メドック赤☆
右岸赤☆
ソーテルヌ☆☆
ブル赤☆☆☆
ブル白☆☆
ローヌ赤☆☆
イタリア☆
ナパ☆☆☆☆
リオハ☆☆☆


1979年




 1979年のエチケットは、堂本尚郎(hisao doumoto 1928〜)氏。
 日本画壇の重鎮である堂本印象の甥にあたる。彼は京都に生まれ1955年神戸から貨物船に乗ってパリへ渡る。13年間のパリ生活の後、日本に戻るが海外での評価は高い。氏の作風であるが、アンフォルメル運動に影響されたと言われる。アンフォルメルとは、「非定型の」という意味で第二次世界大戦以降のヨーロッパで、既存の芸術を否定し、絵の具などの素材の物質性と、作者の身振りを強く残した作品が注目された。それらははっきり形が定まらず、物質感が全面に押し出されていたために、アンフォルメルと呼ばれるようになる。実存主義の思想やアメリカの抽象表現主義とも時代を共有するものです。日本でも1950年代なかばより紹介され、1957年のアンフォルメルの代表作家ジョルジュ・マチウ、サム・フランシスの来日時には、大きな話題となり、アンフォルメル旋風とよばれた。堂本尚郎氏は本来1980年のエチケットを描くことになっていたのであるが、1979年は日本で未年(ひつじ)にあたることから1年繰り上げられたのは有名な話。79のムートンの値段は1万9000円〜3万9000円。パーカーポイントは76点。
 
ヴィンテージ情報 ブルゴーニュのグランクリュクラスのブランかシャンパーニュ、イタリアのいいもの。
フランス
メドック ☆☆★ タニックな年であり、果実味に乏しいと評価される。マルゴー村、グラーブはよいとされる。ムートンは、a big tannic vintageと評している。
右岸 ☆☆☆ 評論家によりメドックよりよいかどうかは評価が分かれる。果実味のある点でメドックより優れているとの情報もあり。
辛口白 ☆☆☆
ソーテルヌ ☆☆☆
ブルゴーニュ赤 ☆☆☆
ブルゴーニュ白 ☆☆☆☆ コートドボーヌは特によい。
ローヌ赤 北部、南部とも☆☆☆★
アルザス☆☆
シャンパーニュ ☆☆☆☆夏の間中絶好の気候に恵まれて十分に成熟した葡萄が豊富に取れた。酸味がしっかりしていてスタイルの良いワイン。
イタリア 
ピエモンテ ☆☆☆☆ バローロ、バルバレスコは非常によい出来。
トスカーナ ☆☆☆☆ モンテプルチアーノ、ブルネッロモンタルチーノは非常によい出来。
ドイツ ☆☆☆
ナパ ☆☆☆
スペイン ☆
ヴィンテージポルト ☆☆ マイナーな3社がヴィンテージ宣言をしたにすぎない。



1978
 
 

ジャン・ポール・リオペル(Jean-Paul Riopelle 1923-2002)

カナダのモントリオールに生まれ、 1947年以来主としてパリで活動を続けている。アンフォルメルの運動に参加した代表的な画家の一人。濃密で多彩な色彩が万華鏡のように散らされた画風で知られる。
1923年,カナダのモントリオールに生まれる,47年以降パリに定住。シュルレアリスムの提唱した自動記述(オートマティスム)の理論への関心を持ち、色鮮やかな抽象画を制作する。それは、ランダムに色を散らしたものであるが、混沌を支配する私達の認識の範囲外にある法則性の存在すら感じさせるものだ。
40年代後期、チューブから直接画布に絵具を塗り付ける技法を用いた。サロン・ド・メの常連で、サンパウロやヴェネツィアのビエンナーレ展、ドイツのドクメンタ展などにもしばしば出品している。
カナダ人初で2種類のエチケットがある。

40000
メドック赤☆☆☆
右岸赤☆☆☆
ソーテルヌ☆☆
ブル赤☆☆☆☆☆ 78はブルゴーニュ最高の年。
ブル白☆☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆☆
ナパ☆☆☆☆
リオハ☆☆☆


1977



エリザベス女王母后ご来訪記念
1977年4月フィリップ男爵の招待に応じ、エリザベス女王がムートンに3日間滞在した。

そのときのディナーのワインリストは、1921年ムートン、1879年ムートン、1969年MBPと読める。また料理ではCurry de Pour〜と読める。

ロンドン92ポンド(18400円)
メドック赤☆
右岸赤☆
ソーテルヌ☆
ブル赤☆
ブル白☆
ローヌ赤☆☆
イタリア☆☆
ナパ☆☆
リオハ☆☆


1976

 

 ピエール・スーラージュ(Pierre Soulages 1919-)

 1919年、フランス中西部のアヴェイロン県ロドスに生まれる。古代ケルトの巨石文化の遺跡やロマネスク建築の寺院に囲まれて育つ。1938〜39年、パリでピカソの展覧会を見て深い感銘を受け、41年から1年間、モンペリエの美術学校に通う。ナチスの占領下時代にモンドリアンやカンディンスキーの複製画を見てはじめて抽象絵画の存在を知る。初期の黄土色や褐色の地色に灰色や黒のダイナミックな線で構成された作品は現代につながるものである。1946年から画面が非具象になり,骨太な黒の書的(カリグラフィック)な線によって記号が形作られる。40年代末から線はより太く,地の比重が少なくなり,建築的構成が重視される。50年代末になると黒はもはや線ならぬ面と化し,より自由な動きを示す一方,地の色彩は鉱物的な透明さを得る。60年代末以降,黒の面は流れるような処理を施され,より静穏な構成が達せられる。
 70年代末からは「黒」のみが躍動する作品が中心になる。「黒が発する光、その光こそ求め続けている唯一のもの」と語る。



32000-40000
メドック赤☆☆
右岸赤☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆
イタリア☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆


1975

 

アンディ・ウォーホル(Andy Warhol 1930-1987)

アメリカのペンシルヴェニア州ピッツバーグに生まれた。カーネギー工科大学にて絵画、デザイン、写真等を学ぶ一方、コマーシャルアートも修得。ニューヨークでイラストレーターの仕事に従事。その後、 60年代初頭シルクスクリーンに取り組み始め、代表的なモチーフとなったキャンベルスープ缶、マリリンモンローなどのシリーズを制作。ポップアートのリーダーとしての地位を確立した。また、 1963年から撮り初めた映画の他、雑誌の刊行、演劇、写真など、行った活動は幅広い。 1987年心臓発作のため死去。

34500-60000
PP88点
メドック赤☆☆
右岸赤☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤★
ブル白☆
ローヌ赤☆
イタリア☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ☆☆☆☆


1974

 

ロバート・マザウエル(Robert Motherwell 1915-1991)

1915年ワシントン州アバディーンに生まれる。アメリカ抽象表現主義の画家。 1932年サンフランシスコのカリフォルニア美術学校で絵画を学び、スタンフォード大学に入学。学生時代より美術だけでなく文学、音楽、精神分析などに関心をもち、同大学で哲学の学士号を取得。次にハーヴァード大学大学院でドラクロワの美学に関する論文を書く。40年コロンビア大学大学院でメイヤー シャピロに美術史を学び、彼のすすめで画家になる。51年、ダダイズムの文献を翻訳紹介。1967年から「オープン」シリーズの制作を開始。作品は抽象表現主義の典型的なものといえ、矩形の中にほぼモノクロームと見なしてよい色面で表情をつけられている。

38000円
メドック赤☆
右岸赤☆
ソーテルヌ☆
ブル赤☆
ブル白☆
ローヌ赤☆☆
イタリア☆☆☆
ナパ☆☆☆☆☆
リオハ☆


1973

 

パブロ・ピカソ(Pablo Picasso 1881-1973) 

1881年スペイン・マラガに生まれる。20世紀美術を代表する画家。絵画教師の父親に手ほどきを受け、幼少時から卓越したデッサン力を示し、バルセロナの美術学校でアカデミックな技法を学ぶ。1900年パリを訪れ、ロートレックの影響を受ける。1902年頃から抒情的な「青の時代」に入り、続いて「バラ色の時代」を経て、07年に「アヴィニヨンの娘たち」を制作、ブラックとも出会い、キュビスム(立体主義)の幕開きであった。1918年頃から新古典主義的傾向に変わり、25年頃からはシュルレアリスムをとり入れる。人体のフォルムを自由に変えてしまうピカソ独特のスタイルを展開した。1933年には雑誌『ミノトール』創刊に参加、37年にはスペインのフランコ政権に抗議して〈ゲルニカ〉を制作した。戦後は〈画家とモデル〉のシリーズや過去の巨匠に題材をとった作品も作り、また日記のように毎日大量の版画を制作した。彫刻、セラミック、舞台装飾、ポスターなどの分野にも手をひろげた。1973年没する。

39800-56700
メドック赤☆☆
右岸赤☆☆
ソーテルヌ☆
ブル赤☆
ブル白☆☆☆
ローヌ赤☆☆
イタリア☆☆☆
ナパ☆☆☆☆
リオハ☆☆☆


1972

 

 セルジュ・ポリアコフ(Serge Poliakoff 1900-1969)

 1900年にモスクワの富裕な家庭に生まれるが、1917年のロシア革命を逃れ、著名な歌手だった叔母と共に欧州各地を流浪後、23年にパリに落ち着く(62年フランスに帰化)。はじめ音楽を学び、ギター奏者として生計をたてていたが、29年画家を志し、パリ、ロンドンの美術学校で学ぶ。カンディンスキーを知って抽象に転じ、38年最初の抽象画を発表。35歳のとき、大英博物館で、エジプトのミイラの木棺に、色が重ね塗りされて層になっていることを発見したのが、画家としての転機になった。これをヒントに、グアッシュの色を混ぜるのではなく、上から重ねていく技法を使い始め、独特の質感を作り上げることに成功した。47年カンディンスキー賞を受賞。52年バング画廊との契約を機に、副業のギター奏者を辞めて、制作に専念できるようになった。ポリアコフは油彩の他に、1946年から晩年まで、リトグラフ、木版、セリグラフ、銅版など 118点の版画を制作しました。一見、色がひしめき合うような構成で、形態よりも色彩の重なり合う空間に、自らの内的世界の投影を図る作品は、造型性とポエジ−との結合といえる。

原画はこのころから大きくなる(それまではほエチケットに近いサイズ)。

28500-50000
メドック赤☆
右岸赤☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆
ブル白☆☆
ローヌ赤☆☆
イタリア★
ナパ☆☆
リオハ★

1971

 

 ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky 1866-1944)

 彼はモスクワで生まれ、オデッサで子供時代を過ごした。モスクワ大学で法律と経済を学び、研究者として将来を嘱望されていたが、フランス印象派展で見た、モネの『積藁』が忘れられず、30歳を過ぎてから美術を志す。1900年、34歳でミュンヘンの美術アカデミーに入学した。その後、マルクと年刊誌「青騎士」を刊行し、そこに結集した人々とともに、ドイツ表現主義の一大勢力を形成し、「抽象表現主義」の創始者として活躍した。
 フランスのキュビスムに影響を受け、1910年に最初の抽象絵画ともいわれる作品を制作した。そこには、シェーンベルクら前衛音楽家との深い交流が影響を与えている。ロシア革命後は一時モスクワに戻り、ロシア芸術科学アカデミーの設立など、要職を務めたが、その後ドイツへ戻り、1922年から33年にかけて、造形美術学校「バウハウス」で教鞭を執った。ナチスの台頭に伴い、バウハウスが閉鎖され、1933年暮れにパリへ亡命し、終戦を見ずに同地で死亡した。


35000-45000
メドック赤☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆☆
ナパ☆☆☆
リオハ


1970
 

 マルク・シャガール(Marc Chagall 1887-1985)

ロシア生まれ、現ベラルーシのヴィテブスクで生まれる。両親はユダヤ人。1908年からペテルブルクの美術学校で学び、1910年パリへ出る。ゴッホやフォーブの強い色彩に影響を受ける。
1914年ベルリンで個展を開き、成功。直後第1次世界大戦の勃発によりロシアに帰国。戦後の1923年パリに戻る。 第2次大戦中はナチスの迫害から逃れ、1941年アメリカにわたる。 1947年パリへ戻ったシャガールは、1950年から南仏に永住することを決意した。パリオペラ座の天井を作成したりした。シャガールはスーチン、モディリアニ等と共に、20世紀前半のエコール・ド・パリを代表する画家。印象派やフォーヴィズム、表現派の影響を受け、それを自家薬籠化しながら故国ロシアへの限りない愛慕をノスタルジックに終生描きつづけた。色彩豊かで幻想的な作風が特徴。馬や花嫁や思い出の人物・風景が空に舞いただよう、柔らかいカラーの幻想画は宗教的でもあり、彼の暖かくナイーブな世界は多くの者に愛された。

4万8000円〜70000円(複数店取り扱い有)
PP90点
メドック赤☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆
ブル白☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆☆
ナパ☆☆☆☆
リオハ☆☆☆☆


1969
 
 

 ジュアン・ミロ(Joan Miro1893-1984)

スペインの画家。1893年カタルーニャ地方の年バルセロナに生まれる。商業高校を卒業後、見習い会計として働くが、18歳のとき、うつ病と腸チフスを患い、長期の療養生活を余儀なくされる。この頃から画家を志し、1912年バルセロナの美術学校に入学。1919年パリに出てピカソなどと交流し、シュルレアリスム運動の主唱者アンドレ・ブルトンと出会う。ミロの作風は原色を基調とした抽象的なものであり、シュルレアリスムの本流からは離れたものであったが、自由なミロの作風が受け入れられてシュルレアリストのグループに迎えられた。 ミロはこのようにシュルレアリストに分類されるのが通例だが、彼の描く人物、鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり、20世紀美術に独自の地位を築いている。
1954年ヴェネツィアンビエンナーレで版画大賞を受賞。 1983年アトリエのあるマヨルカ島のパルマで死去。彫刻や大規模な作品も数多く残している。


4万円前後(複数店取り扱い有)
メドック赤☆
右岸赤☆
ソーテルヌ☆☆
ブル赤☆☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆


1968

 

ボナ・ティベルテリ(Bona Tibertelli 1926-2000)  イタリア生まれの画家、詩人。 シュールレアリスムの作家夫ピエールドマンディアルグと1950年結婚。その影響で多く前衛芸術家と知り合い、彼女自身シュールレアリスムの影響を強く受けた。1958年メキシコ旅行 メキシコ人画家トレドToledoと恋に落ちる 2000年8月15日パリで死亡

Bonaを知るために
@著作「カファルド」 ボナ・ド・マンディアルグ 訳:高山鉄男 コーベブックス 1976年
A画集「ボナわが愛と絵画」  A.ピエール・ド・マンディアルグ / 生田 耕作 (訳) 新潮社1976
B雑誌「夜想」創刊号「アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ×ボナ」1979年9月 同13号特集シュルレアリスム 皓星社が発売元・ペヨトル工房
C「横尾忠則自伝」マンディアルグに会いに行ったときに、ボナが横尾を見て、「あなた、わたしが昔愛し合ったメキシコ人にそっくりだわ」
D雑誌「国際交流」23 ジャン=ルイ・バローがマンディアルグ訳の『サド侯爵夫人』を来日公演したときので、マンディアルグ、ボナ、観世栄夫の鼎談が入っているというもの。


ロンドン255ポンド(51000円)


1967

 

セザール(セザール・バルダッチーニ Cesar 1921-1998)

マルセイユにイタリア系樽職人の双子の1人として生まれる。1942年、 パリに出て翌年エコールデボザールに入学する。 知人でもあるジャコメッティの作品に影響を受け、 自分なりの表現方法を模索していたが、 1952年、 友人から「自分の工場内に散らばっている鉄屑を使ってよい」との申し出を受けたのをきっかけに、 本格的に鉄屑による作品制作を始める1954年、 パリの画廊で初個展を開催。 擬人化された動物、鳥、 人間といったモチーフを、 寄せ集めた鉄屑を用いて表現する溶接彫刻の作家として知られるようになる。 1960年、自動車のコンプレッション(圧縮)を発表。 これはスクラップ工場のプレス機を用いて作られ、 それまでの手仕事からのダイナミックな転換は、センセーショナルに迎えられた。 同年、 評論家ピエール レスタニが提唱した「ヌーヴォーレアリスム」の一員となる。 1967年、 ポリウレタンを用い、 巨大なエクスパンション(膨張)を発表。 戦後のフランスを代表する彫刻家のひとりである。

3万7000円(コマザワワインクラブ、ワインショップグラシアス)
メドック赤☆
右岸赤☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆☆
ブル赤☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆


1966
 

 ピエール・アレシンスキー(Pierre Alechinsky 1927-)
ベルギーのブリュッセルに生まれる。ラ・カンブル美術学校で書籍装飾とタイポグラフィを学ぶ。当初はキュビスムの影響下にあったが、アンソールの作品を知り表現主義的色彩を強める。「若きベルギー絵画」「コブラ」などの運動に参加。
1951年「コブラ」解散後、パリに移住し、版画を学ぶ。日本の書にも興味を持ち、森田子龍の「墨美」グループと交流。1955年には来日して映画「日本の書」を制作している。1960年代初頭にアメリカを訪問して以降油彩を放棄し、アクリル画や版画を制作。1987年、ベルギー王立アカデミー会員となる。渦巻くような独特の魅力的な線による、幻想的ヴィジョンに満ちたエネルギッシュな作風を特徴とする。

6−8万円(5件ほど販売している)
メドック赤☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆


1965
 

ドロテア・タニング(Dorothea Tanning 1912-)  アメリカイリノイ州生まれ、マックスエルンストの妻でシュールレアリストの画家。35年、ニューヨークへ。36年MOMAで行なわれたダダ・シュールリアリスト展に大きな影響を受けた。2次大戦の年を逃れて、ヨーロッパのシュールレアリストたちがニューヨークに亡命し42年マックエルンストと出会う。その後もパリとニューヨークを行き来しつつエルンスト亡き後も制作活動を続けている。

43000円(アーベインワインショップ)、12万円(コマザワワインクラブ)


1964
  

ヘンリー・ムーア(Henry Moore 1898-1986) イギリス生まれの20世紀を代表する彫刻家
1898年、イギリス、ヨークシャー州の炭鉱町カッスルフォード生まれ。1917年第1次世界大戦に従軍した後、リーズ美術学校からロンドンの王立美術学校に進む。1924年から39年まで王立美術学校で、32年から39年までチェルシー美術学校で彫刻を教える。1933年ハーバート・リードやニコルソン、ヘップワースらと前衛芸術グループ「ユニット・ワン」を創立して国際的活動を開始。1936年には、ロンドンでの「国際シュルレアリスム」展に参加。第2次世界大戦中は公式戦時芸術家に任命されロンドン地下鉄構内で〈防空壕シリーズ〉のデッサンを行なう。1948年第24回ヴェネチア・ビエンナーレ展国際彫刻大賞、53年第2回サンパウロ・ビエンナーレ展国際彫刻大賞受賞。
 石や木、大理石など素材の持ち味を活かし、「母子像」や「横たわる裸婦」といった一連のテーマはじめとする人間愛・生命力溢れる作品を制作した。 また、有機的な形態の彫刻に穴をあけ 、ロープを通した抽象作品も有名である。独自の造形理念や屋外彫刻の創作によって国際的地位を確立した。半ば抽象化された形態にもかかわらず、自然の観察から得た力強い生命力の充実したヒューマニスティックな表現によって世界中の人々に親しまれ、日本でも多くの展覧会・回顧展が開催されている。


64000円((SPECIAL WiNE SHOP CAVES)、52000円(コマザワワインクラブ完売)
メドック赤☆
右岸赤☆☆☆☆☆
ソーテルヌ
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆
リオハ☆☆☆☆☆ エクセレント


1963

 

 ベルナール・デュフール(Bernard Dufour 1922-)
13万円(ただワインが好きなだけ 完売)
ロンドン632ポンド(12万6400円)
ブル赤☆
ブル白☆☆


1962
 

 マッタ(Roberto Matta Echaurren 1912-2002)
マッタは、チリのサンティエゴに生まれる。サンティエゴの大学で建築を学ぶ。ヨーロッパを放浪した後、パリで、ル・コルビュジェの建築事務所につとめる。1937年頃に出会ったピカソ、・マグリット、ミロらに影響を受けて、絵画制作を始め、シュルレアリスムグループのメンバーとして活躍。2次対戦中はアメリカにわたり後の抽象表現主義の作家に多大な影響を与える。1948年パリに帰り、ユネスコ本部のために巨大フレスコ壁画を制作した(『三つの存在一火に向う星座』1958年)。
 マッタは、オートマティスムという手法で作品を描く。オートマティスムとは、シュルレアリスムの作家たちが発明した技法であり、無意識の作用によって霊媒のように筆を動かして表現するものである。それは、意識の下に眠る部分を呼び起こし、自己の内面をより深く知るための手段である。マッタはこの技法を一つの手段として利用することにより、50年以上にわたって独自の理論を構築し、表現しつづけた。 デュシャンにより存在や空間概念を表現する方向性を得たというマッタの芸術の原点は、「目を閉じたまま見る」ことである。その基本的な作品世界は、多少の変遷はありながらも常に変わることなく、知覚できないものを形作ろうと喚起し続ける茫漠とした無意識の世界なのである。


8万5000円(コマザワワインクラブ完売)
ロンドン369ポンド(7万3800円)
メドック赤☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆
イタリア☆


1961
 

 ジョルジュ・マチュー(Georges Mathieu 1921-)

 1921年,ドーヴァー海峡に面したフランス・ブーローニュに生まれる。1942頃より絵画制作を始める。
 40年代末にはマチウ独自のスタイルが確立する。平坦な単彩の地に,数色で烈しい動きを伴う線描が施される。
 1952 タピエが「アンフォルメル」という言葉を使い始め、アンフォルメルのデモンストレーター的役割を担っていく
 1957 来日し、公衆の前で儀式や祭りを行い、3日間で21枚の作品を制作する。白木屋で展覧会。また、白木屋ガレージで草月会館ホールの壁画を制作。サム・フランシスやタピエとの来日であり、日本の具体と共振し、日本でのアンフォルメル運動も盛んになる。
その後、陶器、タピストリーの制作、ポスター、切手、貨幣のデザイン、公園の設計など公共活動にスタンスを移す。
 
PP98点
BT32万(コマザワワインクラブ)
MG85万(タカムラ)
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆
イタリア☆☆☆☆


1960年



 1960年のエチケットは、JACQUES・VILLON(ジャック・ヴィヨン 1875〜1963)
 マルセル・デュシャンの兄にあたる。キュビズムの影響を受けている。幾何学的なワインの木に囚われた
鳥の動きをを表現したものという。よく見ると画面中央の赤い物体が鳥に見える。
 私のバースヴィンテージであるが、60のムートンはいまだ飲んだことはない。
60のムートンは、小売で8万〜11万5000円。プティタネほど高くなるという矛盾がある。パーカーポイントは61年以降なので評価なし。しかし、おいしいといううわさである(ゴトー酒店の店主氏のテイスティングによる)。

ヴィンテージ情報 
メドック ☆★ 冷夏で8月9月に雨が多かったのがよくなかったが、中には風味のあるものもある。
 マルゴー、ラフィットはレンガ色に枯れていたが、さすが1級、ほんのりと果実味も感じ、軽いがおいしく飲める。
 ラスカーズはおりが舞ってしまっていて評価できない。ラミッションもちょっと思い出せない。
右岸 ☆★ いつかペトリュスを飲んでみたい。セラーにはシュバルブランがあるが。
ボルドー辛口白 ☆★ グラーブはまあまあというが。
ソーテルヌ ☆★ 60のイケムはどれくらいの値段がついているのだろう?
ブルゴーニュ
赤 ☆ ここではやはりロマネコンティを飲んでみたい。一生に一度。
白 ☆ DRCル・モンラッシュもお願いしたい(誰にお願いするのだろうか?)
ドイツ ☆ 多産で荒っぽく熟成感がなく柔らかすぎるワイン。探し求める価値はないということ。
イタリア ?
スペイン ? ウニコを試したが、南の国特有の蒸れた香りがイマイチ。
ヴィンテージポート ☆☆☆★ 24社がヴィンテージ宣言。理想的な気候だった。最上品は21世紀になっても飲める。
マディラ ☆☆☆



1959
 

 リチャード・リッポルド(Richard Lippold 1915-2002)  アメリカの彫刻家、エンジニア、デザイナー。ミルウォーキで生まれ、ニューヨークで没。ワイヤーや金属シートによる複雑で整理された彫刻を得意とした。

BT 25万(ワインセラーカワハラ)、28万2000円(SPECIAL WiNE SHOP CAVES)、41万(タカムラ)
MG
 132万(タカムラ)

PP100点
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆


1958
 
 

サルバドール・ダリ(Salvador Dali 1904-1989)

スペインの画家・版画家・映画製作者。1904年カタルーニャ地方のフィゲーラスに生まれる。フィゲーラスの美術学校でジュリアン・ニュヌス教授にデッサンを学んだ後、マドリッドのサン・フェルナンド美術アカデミーで学んだが、在学中アカデミーの古典主義的な教育方針から衝突を起こし、1926年10月20日、国王の命により永久追放となる。1929年パリ滞在時にシュルレアリスム運動に参加。卓越した技術で夢想的なイメージを描きシュルレアリスムの先進として世間から注目を集めた。同年には後の妻となるガラと出会う。その後ガラと結婚、第二次大戦を避けるために渡米。大戦後は故郷スペインのフィゲラスに戻り、以後永住することとなった。晩年は先立ったガラの死もあり制作意欲も失せる中、1984年8月30日、在住していたピュボル城の火災で大火傷を負うが皮膚移植にて回復。1989年心臓発作により84年間の生涯を閉じた。
代表作「柔らかい時計」「内乱の予感」な

15万円(コマザワワインクラブ完売)
ロンドン303ポンド(60600円)
メドック赤☆☆
右岸赤☆☆
ソーテルヌ☆
ブル赤☆☆
ブル白☆
イタリア☆☆☆


1957
  
 

 アンドレ・マッソン(Andre Masson 1896-1987)

 1896年 フランス・オアーズ・バラーに生まれ、ブリュッセルやパリの美術学校で学んだ。1919年 パリに定住し、最初キュービズムを目指したが、のてシュールリアリズムに参加。オートマティスム(自動筆記)を実践 1933年 ミロと共にニュヨークで展覧会。人間の生と死のドラマをエロティシズムとサディスティックな感覚で、神秘的世界に描き出している。1941 第二次世界大戦を逃れ、アメリカへ亡命。ギリシア神話に題材を求める。亡命生活を45年まで送る。ポロックら初期抽象表現主義に影響を与える。1945 帰国。南仏に移住印象派の再発見や禅、東洋美術への関心によるカリグラフィックな作品を発表。

ロンドン482ポンド(96400円)
メドック赤☆☆
右岸赤☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆
ブル白☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆



1956

 

 チェリチェフ(Pavel Tchelitchew 1898-1957)

 モスクワ生まれ。キエフのデッサンアカデミーで学んだ後、1923年パリに移住。新ロマン派の画家たちと展覧会を行なったり、シュールレアリストたちと交流を深めた。2次対戦中は渡米。

18万7000円SPECIAL WiNE SHOP CAVES 完売)
ロンドン337ポンド(6万7400円)


1955

 

 ジョルジュ・ブラック(Georges Braque 1882-1963)  フランス人画家。キュビズムを代表する一人。

パリの近郊で生まれる。22歳のとき、パリに出て美術学校に通う。初期の頃はフォビズムやマティスの影響を受け、野獣派の作品を制作していたが、1907年ピカソの『アヴィニオンの女達』を見たことで衝撃を受ける。以降、ピカソと共に キュビズムを発展させていく。キュビズム時代はピカソと非常に良く似た画風の作品を制作していたが、次第に独自の道を歩み始めた。 晩年は静物画、室内画を中心に装飾性と単純化を押し進め、平明で抑制された作風になっていく。

P97点
18万円(オーケストラワインシップ)

メドック赤☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆☆☆
ブル赤☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆


1954

 

 ジャン・カルズー(Jean Carzou Jyan Caruzu 1907-2000)
 非常に細いシャープな描画で、シュールに力強く描き込み、独自の世界を作りあげた現代フランス画壇の巨匠である。1907年、アルメニア生まれ。建築専門学校で学んだ後、モンパルナスのアカデミーで絵画を専攻する。最初は、印象派に傾倒するが次第に抽象を追及、やがて幻想的な独自の画風を確立した。1949、50年、連続してアルマルク賞受賞。1955年、ベニスを主題に大個展。「時代の証人展」では一般投票で最高賞を獲得、イル・ド・フランス大賞受賞。南仏ヴァンスに16世紀の宮殿を改造したカルズー美術館がある。
舞台衣装、舞台装置にも才能を発揮。

22万円(コマザワワインクラブ完売)
ロンドン1017ポンド(20万3400円)
メドック赤☆
右岸赤☆
ソーテルヌ
ブル赤☆☆☆
ブル白☆


1953

 

創業100周年記念
PP95点
BT25万円(コマザワワインクラブ完売)
MG67万円(タカムラ)
メドック赤☆☆☆☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆☆



1952

 

 レオノール・フィニ(Leonor Fini 1908あるいは1918-1996)アルゼンチンのブエノスアイレス生まれ。イタリアの女流画家。画家を目指して14才でパリに移り、シュルレアリストたちの仲間入りをする。生死やジェンダーをテーマに、筆跡を残さず描かれた白い裸婦像が印象的な独自の作風を作り上げた。舞台衣装のデザインや小説の挿絵なども多く手掛けている。パリで死去。愛猫家で有名。


14万円(コマザワワインクラブ)
メドック赤☆☆☆
右岸赤☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆☆☆☆
ブル白☆☆☆☆
ローヌ赤☆☆☆☆
イタリア☆☆


1951
 

 マルセル・ヴェルテス(Marcel Vertes 1896-1961)
ハンガリー生まれ。後にパリへ渡りアカデミー・ジュリアンにて美術を学ぶ。生涯の大半をパリとニューヨークで過ごす。芸術家としてだけでなく文筆家,ファッションデザイナーとしても高名で、‘52年にはオスカー最優秀舞台美術賞に輝いた。

ロンドン731ポンド(146200円)


1950

 

 ジョルジュ・アーヌルフ(Georges Arnulf 1921-1996) モナコに生まれパリに学ぶ。29歳のときにムートンのエチケットを描いた。プレコロンビア芸術に引かれ、1957年から1966年間コロンビアに滞在し、数々の文化関係の任務につきながら仕事のあい間に、教会のステンドグラスやフレスコ壁画を制作した。1967年、フランスに帰国し、まずニースで、その後パリでデッサンを教えるかたわら自分の仕事を続けた。フランス地方の幾つかの町で個展、公共建物の壁飾、それに豪華本の挿画等を行なった。

ロンドン680ポンド(13万6000円)
メドック赤☆☆
右岸赤☆☆☆☆
ソーテルヌ☆☆☆
ブル赤☆
ブル白☆☆☆


1949

 

 アンドレ・ディニモン(Andre Dignimont 1891-1965) パリ生まれの有名な水彩画家。ロンドンとパリで学んだ。非常に多作家であることでパリの美術界では評価が固まった。パリのカフェや挑発的な女性を好んで描いた。最初は水彩画を描いたが徐々にペンとインクにより、色を落とすことになっていった。

PP94点
BT28万700円SPECIAL WiNE SHOP CAVES 完売)
MG160万円(タカムラ)
ハーフ13万7400円(ロンドン)


1948

 

 マリー・ローランサン(Marie Laurencin 1885-1956)

フランスの女性画家。1883年パリに生まれる。1904年画塾アカデミー・アンベールで絵画を学び、その後、先進的な芸術家と交流を広げながら、制作活動をおこなう。彼らのたまり場だったアトリエ兼用の古いアパート、通称「洗濯船」で、ピカソやアポリネールらとの伝説的な青春時代を送るうちに、「淡い色調と簡潔なフォルムによる憂いをたたえた詩的な女性像」という独自の画風を作り上げた。30歳ごろには「エコール・ド・パリ(パリ派)」の芸術家たちの中でも重要な位置を占めるようになっていた。31歳の結婚直後に始まった第一次世界大戦のため、その後7年間に及ぶ亡命生活を強いられた。戦後、離婚して単身パリに戻ってからのマリーは画風を大きく変えた。それまで彼女の絵にぴったり寄り添っていた「憂い」を消し去り、繊細さと華やかさと官能性をあわせ持つ、夢の世界の幸せな少女像を生み出しました。マリーに肖像画を注文することが上流婦人の流行となり、また舞台装置や衣装のデザインなどでも成功を収めた。女性らしい繊細な世界を淡いピンクやグレーなどの色調で柔らかで上品に描いた。代表作は「接吻」「扇」など。


PP92点
16万5000円SPECIAL WiNE SHOP CAVES 完売)


1947

 

ジャン・コクトー(Jean Cocteau 1889-1963)  フランスの詩人(詩人と呼ばれることを最も好んだ)
1889年、パリの近郊で生まれた。詩、小説、劇作、音楽、映画、絵画の分野に活躍した世界的スケールの才人。ジード、ピカソ、ストラビンスキーらと親交を結び、文化的スターであった。青年時代から社交界に出入りし才気溢れる詩人として著名音楽論「雄鶏とアルルカン」(1918年)、幻想物語「ポトマック」(1919年)、小説「恐るべき子供たち」(1929年)、映画「美女と野獣」(1945年)、「オルフェ」(1950年)など本業の詩以外のジャンルでも傑作、問題作をつくり、現代文化に大きな影響を与えた。美術では1920年代、ダダやシュールレアリズムと対立する。美術ではピカソと互いに影響しあい、油絵、素描、パステル、陶器の他、版画はカラーリトを制作。

この作品のオリジナルは紛失されており、ジャン・マレーによる複製である。
 
PP97点


1946

 

ジャン・ユーゴ(Jean Hugo  1894-1985) フランス人画家。「レ・ミゼラブル」で有名なヴィクトール・ユーゴの曾孫。デッサンや絵画に才能を示し舞台芸術に関心があった。

ロンドンで3682ポンド(73万6400円)

1945

 

フィリップ・ジュリアン(Philippe Jullian 1921-1977)  ボルドー生まれの画家、画家・評論家
この年はジャン・オベレルによる凱旋門のエチケットも作成されたが、採用にならなかった。

PP100点
Far East Cellarsさんで、116万円。


1924

 


ジャン・カルリュ(Jean Carlu1900-1997) アール・デコ時代の代表的ポスター作家
右側に羊、左側に家紋の5本の矢が表現されている。

アール・デコとは、一般にアール・ヌーヴォーの時代に続きニューヨークを中心に発展したデザインのこと。流線型やジグザグ模様など直線と円弧を組み合わせた幾何学性が特徴。メタリック調の物が多い。1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。建築様式としてはニューヨークの摩天楼が有名。一世を風靡した。しかし大恐慌によりアメリカ経済が力を失っていくのと同時にブームは去った。

ムートン 1924年までの歴史
1853年 英国ロスチャイルド家、ナタニエル・ドゥ・ロスチャイルド男爵が、シャトー・ブランヌ・ムートン(35ha)を買い取り、シャトー・ムートン・ロスシルドと改名。
1855年  シャトー・ムートン・ロスシルドがメドック公式格付2級(ポイヤック)となる
1922年 ナタニエルの曾孫フィリップ・ドゥ・ロスシルド(1902-1988)が、シャトー・ムートンの管理を任され、ぶどう園を改良し、経営に力を注ぎ始める。
1924年、シャトー元詰を開始。グランシェ(大酒倉)を建造。フィリップは、それまでの卸売業者が取り仕切っていたことに対し(樽で販売後ネゴシアンが熟成、瓶詰め、販売を行なっていた)、ムートンの全生産ワインをシャトー内瓶詰めで出荷することを決め、ラベル貼りまで自社で行なうこととした。これを記念して当時著名な図案デザイナー、ジャン・カルリュに1924年ラベルを発注した(1993年初ヴィンテージのル・プティ・ムートンのブドウのエチケットもカルリュに依頼した)。
 その後その後ムートンのラベルは、何度かの変遷と試行を繰り返し、1945年には現在のアーティストラベルの形式が定着した。なお、カルリュのこのラベルは25年26年にも使われたという。また、37年にはギャラニスの万国博覧会、38年にはラボードの英国王室の公式訪問をテーマにしたラベル図の試作品が作成されいる。

1924年のムートンは国内での販売はない模様。ロンドンでマグナムが3000ポンド(60万円)。なお、国内販売の他シャトーの24ヴィンテージであるが、ラフィットが13万5000円(ワイナリー和泉屋さん)、カロンセギュールが14万8000円、グリュオラローズが19万2000円、パルメが12万5000円、イケムが60万円.

PP75点

ヴィンテージ情報
ボルドー赤☆☆☆ 
ソーテルヌ☆☆☆ よく熟した魅力的な年。これからも非常によい状態でありうる。
ブルゴーニュ赤☆☆☆☆ 
ブルゴーニュ白☆
ヴィンテージポート☆☆☆(18社)