戸山ヶ原・戸山荘伝説

自宅マンション7階から、都内最高峰の箱根山が見える。
いや、食卓でフッと顔を上げれば、真正面が緑の箱根山だ。
そこから手前窪地の4階建ての戸山ハイツ屋根も見える。
新宿とは思えぬ四季折々の自然が堪能出来る緑ゆたかな一画。あっちこっちに巨木も聳えている。
この一帯、かつて江戸一の名庭と言われた尾張藩江戸下屋敷(通称、戸山荘)で、その広さ実に13万6千坪。
箱根山は、その築山・玉圓峰(丸ヶ獄)跡。
同ハイツが建つ窪地は池泉回遊式庭園の「上の御泉水」と名付けられた池跡。
山の向こうの早大文学部・学生会館下からは、戸山荘の「龍門の滝」滝壷遺跡も発見された。
そして今はもう、その面影は想像出来ぬが、明治通りから山の手線を越えて広大な「戸山ヶ原」が広がっていたと言う。
戸山アパッチゴルファーが出没し、画家たちが写生し、多くの人々が心の故郷とした草原も広がっていた。
コリアン・タウン化する大久保に居て、遥か江戸・明治・大正時代へと想いが馳せての…



「戸山ヶ原・戸山荘伝説」

寛文9年(1669)<そもそも、広大な戸山荘には女系三代の影があった>
 同8年、牛込済松寺の開祖「祖心尼」(そしんに)が家光より拝領した和田村・戸山村の寺領、4万6千坪を尾張藩邸として譲り、同9年に下屋敷造営を開始。同11年(1971)に園地主要部分をなす8万5千坪を幕府から拝領して、合計13万6千坪(東京ドームが5千坪なら、東京ドーム27個分の広大さ。現在の大久保通り、明治通り、諏訪通り、そして国立病院〜早稲田文学部を結ぶラインに囲まれた地域で、戸山ハイツ、戸山公園、戸塚第一中学、学習院女子短大、戸山高校を含む一帯)で、近世の大名庭園のなかでは最も広い。
 なお「祖心尼」は、三代将軍家光の乳母で大奥で絶大権力を有した春日局の縁つづきで、春日局亡きあと大奥の実力者。孫娘の「お振の方」が家光の側室となって「千代姫」を産む。この千代姫が尾張徳川家の二代藩主光友の正室に…。「祖心尼」が土地を譲ったのもその縁によるもので、広大な戸山荘には女系三代の影があった。なお春日局も広大な土地持ちで、文京区春日町がその由来になっている。
 また江戸の尾張藩は市ヶ谷門前(現在の防衛庁)に藩主やその家族、家臣たちが居住した上屋敷、四谷麹町に隠居した藩主や世子の居宅に使われた中屋敷、別宅や遊園所、避難所としての下屋敷は戸山荘を含め六ヶ所もあった。

元禄6年(1693)<江戸一の名園完成>
 尾張二代藩主・光友が綱誠に家督を譲って、1669年から24年間に渡って造営され続けてきた戸山荘に隠居。山荘概略は
広さ13万6千坪の池泉回遊式庭園で、中央部に広い泉池を設け、それを回って築山や渓谷が造られ、数多くの神社・仏閣・茶屋・亭を配し、また古い鎌倉街道の一部を取り込み、一方、大原と呼ばれた狐の棲むような草原もあり、さらには農家の点在する田園や、宿場町や門前町を写した町場まで設けられた。江戸最大規模、かつ豪華な庭園美を誇っていたと言う。
※築山・箱根山は標高44.6メートルで東京最高峰。泉池を掘った土を揚げて築かれた山。尾張藩の記録では、田畑を屋敷に取り込まれて他所へ替地を余儀なくされた百姓の難儀を救うため、15歳以上の男女に土を運ばせて銭を与えた、と伝えられている。なお江戸時代の正式名称は「丸ヶ獄」あるいは「玉円峰」、宝暦頃の戸山御屋敷絵図には「麿呂ガ獄」。箱根山と呼ばれるようになったのは、庭園内に「小田原宿」と俗称される宿場町が造られたことから、と推測されている。また同山が現在も残っているのは、明治天皇が戸山学校へ御臨幸の際に登られて、後々も「明治天皇御野立所」の標柱があってのものと推測される。

虚構の町「小田原宿」
 戸山荘の名を高めたのは、庭園内に約140メートルに36軒の町屋が並んだ「御町屋」、俗に「小田原宿」と名付けられた虚構の町が造られていたことによる。米屋、酒屋、菓子屋、薬屋、瀬戸物屋、本屋、絵屋、扇子屋、植木屋、さらには弓師、矢師、鍛冶屋といった職人の店、医師の家もあったというから驚き。将軍の御成りなどには、これら店は暖簾、看板で飾り付け「ものとして足らざるはなし」というほど多種多様な商品が並べられたと言う。
※町屋の北の入口脇に高札が建てられ、以下の文言が記されてあったという。
 一、この町中において喧嘩口論これなきとき、番人はもちろん、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所へ届けばからざること
 一、この町中に押し買いは了簡におよばざること
 一、竹木の枝、キリシタンかたく停止のこと
 一、落花狼藉、いかにも苦しきこと
 一、人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと
※こんな川柳が江戸庶民に詠まれている。
  
雲助がないがお庭の不足なり  駒下駄で越すはお庭の箱根山  五十三次日帰りの御遊覧
  御所と富士お庭の中にないばかり  結構さお庭に木曽路ないばかち 双六の絵図で出来たる御庭なり
  品のよい旅人の通る御庭なり  関守に女中衆をしてお慰み

享保20年(1735)<尾張藩七代藩主・宗春により華々しい宴>

 3月末、七代藩主宗春が戸山荘で華々しい花見の宴。その4年後、元文4年(1739)正月に、幕府より宗春謹慎の命で隠居へ。宗春の生涯を描いた歴史小説、清水義模「尾張春風伝」(上下、幻冬社刊)に、戸山荘の宴が活写されている。


宝暦11年(1761)<谷文晁、25景を描く>

 九代藩主宗睦が藩主になり、戸山荘は盛期を迎える。寛政10年(1798)9月、著名な画家の谷文晁(たにぶんちょう)を戸山荘に招き、25景を描かせせている。10月、将軍家斉を再々度迎える。

寛政5年(1793)、第15代家斉いわく「すべて天下の園池は当にこの荘をもって第一とすべし」。
 
第15代将軍家斉(いえなり)が、同年3月23日に初めて戸山荘を訪れる。以後、知られるだけでも4回訪ずれ「すべて天下の園池は当(まさ)にこの荘をもって第一とすべし」と述べた。寛政5年の家斉に従った3500石の旗本・佐野肥前守義行は、そのときの見聞記「戸山の春」にこう記しているという…。
 
以下、閑を見て加筆・・・

享和3年(1803)<古駅楼など焼失>

 正月火災に見舞われ、町屋36軒のうち古駅楼を含む29軒が焼失。※古駅楼は、宿場の本陣で、有名な小田原名産の外郎(ういろう)薬「透頂香」の老舗である虎屋藤左衛門の店に見立てたものと思われる。


文化12年(1815)

 古駅楼はじめ8軒が再建。

文政3年(1820)

 11軒、同4年には10軒が完成し、旧状に復された。同時に類焼した大日堂、人丸堂の再建。

天保14年(1843)
 12代将軍家慶(いえよし)が3月に訪れているが、その前に尾張藩では庭掃除を中村家(戸塚村名主)に命じている。中村家は掃除人足延232人、杣(そま)人足(植木職人と解釈していいか…)249人を使って掃除を行なった。この時に尾張藩が中村家に掃除代金として下付したのは29両。

弘化4年(1847)
 12代将軍家慶が高田馬場に近い鼠山で銃隊の訓練を視察後、戸山荘に来遊。虚構の宿場町は健在で、この時の見聞記が「尾張藩江戸下屋敷の謎」に現代文で詳細に紹介されている。


安政2年(1855)

 江戸を襲った大地震で、戸山荘御殿はじめ園内の建物に大被害。翌年の台風にも見舞われ、多くの樹木や建物が倒された。

安政6年(1859)<御殿全焼>
 青山隠田の火災が飛び火して御殿は全焼し、他のいくつもの建物が類焼。

★戸山荘地図の説明 これは大江戸博物館の床に描かれた江戸地図の一部。
(1)上左角、松が描かれた所が現在もある「穴八幡・放生寺」。この右側の小川から大きな池(御泉水)に流れ込むところに「龍門の滝」があった。現在の早稲田大学・生会館建築中に石組みが発見されて、現在は名古屋・徳川公園に移築再現されている。
(2)池(御泉水)中央に中橋が架かって「茶屋道」を経て「磨ヶ獄」。これが現在の「箱根山」。
(3)箱根山の右側が尾張名古屋藩の御殿、戸山屋敷。
(4)御殿の右側を縦に走る黄色の道辺りが、現在の大久保通り。明治通り横断して若松町に抜ける辺り。
(5)大池の下の白い斜め部分が「御町屋通り」。小田原宿を模したといわれる虚構の町並。
(6)園左下辺りが現在の戸山一中(現在工事中)、学習院女子の中・高、戸山高校。左下角先には現在の「諏訪神社」。
※ちなみにあたしんチのマンション位置は、「御町屋通り」の下の境界脇。で、窓を開ければ「箱根山」。

江戸時代<百人町の躑躅>
 尾張藩江戸下屋敷の西側、現在の明治通りを越え、山手線を越えて広大な戸山ヶ原が広がっていた。その南西側が現在の百人町2丁目で、ここは鉄砲の百人同心が寛永12年(1635)に賜った地。彼らは徳川家康が江戸入国(1590)にあって、武田や北条などの残党の攻撃を防御する目的で配置された。
 百人組組屋敷の屋敷割は、
一般の組屋敷が100〜300坪代であったのに対し763〜4,202坪と極端に大きく、また間口が狭く奥行が非常に長い得意な形態で、これは屋敷地のなかに宅地とともに耕作地が含まれていたためと考えられている。また開墾しなければ用をなさぬため、少ない屋敷を望む者も多かったとか。
 躑躅栽培は、最下級の武士ゆえ金も仕事も少なく、公然と内職に精を出せ、かつ広大な耕作地が活用出来たためと思われる。江戸資料「遊歴雑記」によると… 大久保百人町組屋敷北の通り組同心飯島武右衛門という、西の木戸より北側の二軒目にして、躑躅に名高し、先彼の居宅の庭、大小のつつじ貳參拾株を植ならべ、その色の真紅に、花形又異なるは実に奇観の壮観たり、是さへ見上げる大小のめづらしきに、猶又居宅の北うしろ、只一面に躑躅ならざるはなし、その樹の高さ八九尺、或は壹丈余、低きも五六尺より三尺まで、左右に成木せし事数千本…と、まぁ、詳しく記された後、その賑わいもこう書かれている。…江戸第一の壮観で花の咲く頃は諸侯の大夫の室をはじめ、士庶人に至るまで日々朝より引きもきらず群集して、此組屋敷の園中に終日酔を盡し、又詩歌、連俳に、日のかたぶくを恨める徒もありて…と記されている。(「新宿区史」より)

文久2年(1862)<百人組解体>
 同年、百人組は解体され、多くは大砲組に編入された。慶応3年(1867)の大政奉還の後、徳川氏は明治元年(1868)に静岡藩主に就任するが、旧百人組の同心達の中には、徳川氏に従って静岡に移住した者もあった。東京に残った者は、従来の大縄地が東京府大病院御薬園培養地となった関係で、薬園の培養方に従事。明治2年(1869)、旧同心が士族となり、13石の禄が給与され、同培養地廃止で培養方の職を解かれ、新たに150坪の屋敷地が旧大縄地の中で各人に与えられた。
大久保の躑躅(つつじ)は、明治維新後は専門の業者の出現にとって、躑躅園として名所化されて行った。(「百人町三丁目遺跡V」より)

大政奉還後<西郷隆盛率いる薩州兵が駐屯>
 尾張徳川家は、静岡に退いた徳川荘家の窮状を救うため、戸山荘を宗家に譲る。新静岡藩では江戸に残った数多い家士たちに、この広大な園地を開墾させたという。しかし数年を経ずして、西郷隆盛が薩州兵を率いて上京した際、ここを駐屯地としたといわれる。


明治7年<戸山荘が軍用地になる>
 明治6年に戸山荘は陸軍用地になり、明治7年に戸山学校が置かれた。さらに陸軍病院、近衛騎兵連隊、陸軍幼年学校などが次々に建てられた。また市谷の尾州候本邸も陸軍士官学校が置かれ、東京有数の広い軍用地になった。

明治9年〜11年<中村家の土地(戸山ヶ原)を陸軍戸山学校が購入>
 中村家は天正19年(1591)以前から、この地に住んでいたらしい。

明治12年<戸山ヶ原に洋式競馬場完成>

 アメリカ合衆国大統領グランド将軍夫妻の来日にあたり、洋式競馬場が出来たが、後に目黒、府中と競馬は移って行った。(「小滝橋から早稲田まで」より)

明治18年<新宿駅開設>

明治22年<4月、国電中央線の前身甲武鉄道が開通し、大久保駅が23年5月に開設。戸山ヶ原に競馬場>
 明治14年の測量で20年に出版された古地図として高田馬場共栄会発行の「小滝橋から早稲田まで」なる本に紹介されている地図によると、戸山ヶ原の射撃場と書かれた南側に「競馬場」とあり、楕円コースがしっかり記入されていた。甲武鉄道も記されているが、これだと年代が合わぬ。工事前の測量時の地図だろうか?

明治33年(1990)〜<洋画家・中村彝の青春 ※伊豆大島・長根浜公園に碑がある>
 洋画家・中村彝が牛込区原町3丁目7番地の長兄・直方宅に移住したのは明治31年、11歳の時。牛込区愛日小学校高等科に転入。明治33年1月、兄・直が大隊副官となり、牛込区市ヶ谷谷町の厩のある家に転居。4月、早稲田中学(現・早稲田高等学校)入学。5月、大久保村大字東大久保236番地に転居。その後、名古屋の幼年学校に入学するが、18歳頃まで牛込区内の転居を繰り返す。
 …彝は野田半三のことばがうれしかった。彼が写生をしている場所などすぐ予測できた。姉の伝言をきくと彝はさっそくスケッチブックをふところにいれて
戸山ヶ原へ行ってみた。野田がつめたい風に吹かれながら杉並木を一心に写生していた。
 …こっちも此頃は大分秋臭くなって来た。朝夕の露へさに戸山の露を思ひ浮かべて(
知ってるかい戸山の露は?あの戸山の原一面に生えた紫色の毛虫草に、玉なす露を浮べて清らかな朝日を受けて銀色に煌くんだ)戸山恋しの情に燃える事がある。此度帰ったら大久保辺へ引越さうかと思ってる…(中原悌二郎書簡、明治41年9月付)
 …「今時分になるとあの広い草原の草刈の群が大きな鎌をふるって草を刈って居る。軍馬の飼葉にするそれ等の草が方々に小山の様に積まれ、それを運搬する馬車や馬方や、彼等の「のみさし」の土瓶等が方々にちらかって居る。夕方になると、原のはづれの櫟林から静かに「夕日」が現はれる。真黒い森の繁みからは、大きな「カンバス」を背にかついだ「絵かき」が黄金の地平線に表はわれて、静かに
大久保の方へ帰って行く。軍隊は軍歌を唱ひながら、遠く夕霞の間を射的場へと消えて行く。僕等はよく何時までもそこの小高い丘の上に立って、焼芋などを齧りながらぼんやりとそれ等の光景を眺めて居たものです。僕は秋が大好きです」(後年「大正9年」、戸山ヶ原を思い出して伊原弥生宛の手紙で。米倉守著「中村彝・運命の図像」より) 彼は有名な「エロシェンコ氏の像」を残し、大正13年のクリスマス・イブに亡くなった。享年37歳。
※「週末大島暮し」のブックガイド「ノンフィクション編」に「中村彝 運命の図像」を紹介しています。ご参照下さい。

明治35年(1902)<小泉八雲、西大久保に転居>
 ギリシャ生まれで、英国から米国に渡って新聞記者をしていたラフカディオ・ハーンが明治23年(1890)に来日し、島根での英語教師から東京帝国大講師になると同時に上京。明治35年に西大久保265番地に転居。明治37年「怪談」出版。同年9月26日に同宅で死去。通称「こぶ寺」自証寺で葬儀。

明治36年頃<つつじ見物の臨時列車走る>
 江戸時代百人組によって躑躅名所になった同地は、明治16年頃に大いに躑躅の増殖改善がされたが、明治36年4月1日につつじ見物臨時列車が運転されるほどの人気を集めた。翌37年雑誌に紹介されたつつじ園は7園、日露戦争の花人形が多かったと言う。この時代が最盛期で、付近に住宅が増え、明治36年の日比谷公園開園にここのつつじが五百円で売られた。大正末に栽培は姿を消した。他に同地は栗も名産のひとつ。大久保町は住宅地として発達して行く。住宅街の地主さんに元の花屋さんが多いと云う


明治38年(1905) <近代絵画史上、有名な写生地だった>
 田んぼを作って、その米を食べていました。(明治19年の太田さんは同年に移ってきて…「わがまち大久保」より)
明治37年(1904)、日本の水彩画ブームを担った
三宅克巳が「大久保村」を、明治38年(1905)には萬鐡五郎が「戸山ヶ原の冬」「戸山ヶ原の春」を、明治44年(1911)に小島善太郎が「戸山ヶ原」を描いている。この頃の戸山ヶ原は「近代絵画史上、有名な写生地」だった。(「描かれた新宿」より)
 明治26年生まれの画家・曽宮一念が12歳の時、明治38年に百人町に移転して来た。氏へのインタビューの一部を紹介。…私の父が郊外生活をしたいというんで、大久保に越したんです。枡本という牛込にあった酒問屋の隠居が、新築の借家をどっさり作ったんですが、おそらく何十軒と作ったらしいですよ。私の父が桝本別荘ってののすぐ隣りに、そのうちの一軒をかりましてね、そこに足掛け3,4年いました。その自分の大久保は、ツツジの名所と言う事で世間に知られていあました。大久保には通りが2本ありましてね、東寄りの通りにツツジ園が二つありましたよ。(「新宿歴史博物館紀要・創刊号」に氏へのインタビューで病床の中村彝の看護から佐伯祐三との交流までが詳しく紹介されている) ※この二つツツジ園は「日出園」と「萬花園」だろう。新大久保駅から大久保駅の大久保通り右側はこの2園が占めていた。(今井金吾著「半七は実在した」に地図入りで詳しく紹介されている。ちなみに両園と現在の社会保険中央病院の間に、半七の生みの親・岡本綺堂宅があった)

明治38年5月  <島崎藤村、西大久保で「破戒」を完成>
 明治38年5月、島崎藤村は執筆中の小説「破戒」を完成させるため、家族をつれて再上京し、西大久保(現住所は歌舞伎町2丁目)に移住した。ここを世話したのは、明治学院時代の学友で画家の三宅克巳(前述)。三宅は自身のの著書「思い出づるまま」の中で
「私が大久保の静かな植木屋の地内の新築家屋を発見して御知らせして、其所に住まわれることになったが、藤村さんも未だ幼少なお嬢さん達を引連れ、不安の思いで上京される。間もなく引続く不幸が重なり、とうとう大久保の住居も見捨て、今度は賑やかな粋な柳橋の芸者屋町に移転された」と書いているとか。不幸とは、極貧による栄養失調により三女、次女、長女と次々亡くし、三姉妹のお墓は山手線寄りの長光寺だった(現在は馬篭)。「破戒」脱稿後の明治39年9月、彼は浅草新片町に転居。

明治39年<子供たちが肥溜めに落ちた>
 7歳の時、当所に来た。草ぶきばかりの田舎で、垣根の内側に肥溜めが並んでいて、子供が隠れん坊をすると、それに落ち込んで…(明治33年生まれの中野さん「わがまち大久保」より)。※アタシは昭和19年生まれだが、十条銀座の一軒裏の畑で肥溜めに落ち、泣きながら家に帰って、井戸水をかけつつ洗ってもらった。


明治40年<国木田独歩死去1年前に西大久保に移住>
 明治41年6月、茅ヶ崎の病院で死去、享年38歳。病院で友人にこう漏らしたと言う。「回復したら大久保に戻りたい。新緑の武蔵野の趣が実に良い。東京中で一番空気がきれいだ。アア、大久保にに帰りたい」。
 また同40年に、植井武という方が大久保小学校へ転校して来て、20年間住んでいた間に武蔵野の面影を色濃く残した戸山ヶ原の写生を続けていて、昭和51年に当時描いた20数点の絵を新宿区中央図書館で展示したと「新宿回り舞台」でモノクロながら2作品が紹介されている。画家・田中岩次郎が大正時代に描いたと同様の風景が広がっていた。

明治40年頃<…は憧憬の大久保文士村だった>
 大久保の文士村にはそのまた昔、明治40年頃、恩師吉江孤雁氏が独身で西大久保に下宿していた。ちょうど新大久保から戸山ヶ原へ出るあたりであったらしい。国木田独歩氏もその付近に住んでいた。…詩人・尾崎喜八の義父である小説家水野葉舟氏も付近に住んでいて…。また当時の尖鋭な評論家前田晁氏や若山牧水と並び称された歌人前田夕暮氏もその辺にいたようである。そして新大久保から、牛込(新宿区)若松町を中心に数多い文士が住んでいて、大久保クラブに集まっていたらしい。大久保クラブではみな投扇興という京都風の風雅な遊びを楽しんでいたようだ。(西條嫩子著「父 西條八十」より小見出し「憧憬の大久保文士村」より)

明治43年頃(1910)<西條八十、早大予科英文科の頃に諏訪町に下宿>
 父もその影響(自然主義)を受けて、生家が牛込であるというのに、早稲田の自然主義派がたむろする高田馬場の諏訪町に下宿をさがしあて、一人だけで移転していった。その下宿は、ひろびろと果てしなく広がった戸山ヶ原の一隅にあった。窓から見ると諏訪神社の近くに、島村抱月氏の洋館の屋根がよく眺められた。父の隣りの部屋には尾張の知多半島出身の岡本霊華という、鼻下に八字髭をたくわえて小説家が住んでいた。(西條嫩子著「父 西條八十」)
 西條八十の生家は牛込・払方町。大正11年頃に兄(兄名義の不動産)が住んでいた淀橋・柏木町に移転。昭和10年頃に同じ柏木の鳴子坂に近い300坪の邸宅を購入。戦火が厳しくなった頃、昭和18年に同邸を18万円(購入時の6倍)で売却し、茨城県下館市に移住。戦後は成城に住んだ。

明治43年<空気ランプから電燈へ。日野大尉の飛行実験>
 私どもの家では電燈に切り替えるのがおそくて、明治43年頃でした。それまでは空気ランプというのがぶら下がっていて、石油を入れてまわりから火が出るようになっていました。夕方五時半頃になると、各部屋にランプを配ってあるくのです。従兄で書生のジロさんの役目でした。朝になるとまた、各部屋から集めて、ホヤを磨いて、つぎつぎに棒にさしてゆくのです。(略) ランプを磨いたり、昼間納めておく部屋がランプ部屋です。(酒巻寿「おてんば歳時記」より。氏は明治29年、神楽坂の通称「牡丹屋敷」のお嬢さんで、6歳の時に新宿区若松町の御屋敷に移転。一般庶民の電燈化はもっと後だったのでしょうか)

 同年3月、日野熊蔵大尉が自ら製作した日本最初の飛行機を、自分で搭乗して飛行実験。わずか200bの狭い射撃場に見物人が押しかけので、滑走には成功したが飛行しなかった。日本最初の飛行が出来たのは同年12月、代々木錬兵場で。(代々木公園に立派な碑がある)

明治44年<市谷小学校・4年生女子の作文>
 きょうはお天気でしたから、先生につれられて郊外運動に出かけました。朝八時学校を出て原町の坂を上がり、若松町を通って戸山学校(旧陸軍教育施設、現・戸山ハイツ一帯)の前から大久保に出て、戸山の錬兵場(現・区体育館)で兵士の体操を見ました。それから戸山ヶ原を越し、諏訪神社へ参詣して二十分ばかり休んでつみ草をしました・畑には一面の麦の穂が出ていました。そして一行は早稲田大学から喜久井町を経て学校に帰って来たのは十一時でした。いい空気を吸ってのんびりしたゆかいでした。「新宿回り舞台」より) 
現在の箱根山ふもとの東側にあるスリバチ状の窪地が軍楽学校の野外音楽堂跡。

大正3年頃<軍人が多く住むようになった>
 将校の家は馬小屋がついている家が多かった。(明治38年生まれの秋山さん「わがまち大久保」より)


大正4年(1915)<永井荷風「日和下駄」刊。「第八章 閑地」で戸山ヶ原をクローズアップ>
 戸川秋骨(1870〜1939。詩人・英文学者。慶大文学部の教官で、荷風の同僚だった)君が「そのままの記」に霜の戸山ヶ原という一章がある。戸山ヶ原は旧尾州侯お下屋舗(しもやしき)のあったところ、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる射的場となっている。このあたり豊多摩郡(とよたまごおり)に属し近きころまでつつじの名所であったが、年々人家稠密(ちゅうみつ)していわゆる郊外の新開町となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君曰く
 戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。(中略。他の武蔵野の趣を残した多くの地には鋤が入っているが…) 戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹がたくさんある。大きくはないが喬木が立ち籠めて叢林をなしたところもある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものはここにそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草をもって蔽われていて、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人のほしいままに散歩するに任す。四季のいつと言わず、絵画の学生がここそこにカンヴァスを携えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。(中略)。しかるにいかにして大久保のほとりに、かかるほとんど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議なことにはこれが俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分はほとんど不用の地であるかのごとく、市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。(略)。一利一害、今さらながら応報の説がことに深く感ぜられる。

大正5年秋<戸川秋骨と夏目漱石が戸山ヶ原で立ち話をしてるってぇ〜と>
 上記は荷風さんの記だが、その戸川秋骨(しゅうこつ)が戸山ヶ原を書いている。これは彼の「人物肖像集」(アンソロジー)に出ていて、例えば「知己先輩〜戸山ヶ原の立話」はこんなこと…。大正5年秋10月(死去2ヵ月前)、戸山ヶ原の射的場の辺を歩いていると漱石と出会った立ち話が始まった。坂道で、その道に平行して兵隊相手の休み茶屋に向かう細い道もあった。漱石の立ち話が延々と続き、人が来ると二人を避けて細い道を通るが、若い男と連れ立った盛装美人が足を取られて傾斜を滑り落ちた。赤土だから始末が悪い。気の毒に思ったけど漱石さんはまだ話を止めない。そのうち、盛装美人は上の茶屋で装を整えて下りてきたが、先生はまだ夢中でしゃべっていた…、という内容。他に「私はよく岩野君(泡鳴)と大久保の銭湯で一緒になった」などもあり、彼の著作を丹念に探してみれば、この頃の戸山ヶ原のことがいろいろ出てきそうです。

大正5年<明治通りは、今の人道ほどの狭さだった>
 もう通りに商店が出来ていたが、明治通りは、狭くて今の人道くらいだった。(明治30年うまれの落合さん「わがまと大久保」より)

大正7年<大久保通りは軍人ばかり>
 大久保駅前通りは馬力がすれ違うのがやっとでした。当時は軍人の街で、将校が出歩けば、兵卒が敬礼にいそがしいくらいでした。(明治27年生まれの竹原さん「わがまち大久保」より)

大正9年<戸山ヶ原球場に実業団36チームが熱戦を展開>

 鉄道のほかに一般企業の会社、さらには県庁、市役所まで続々と野球チームを持ち、大正9年戸山ヶ原球場で行なわれた東京実業団大会には36チームも参加するほどの盛況であり、これが全国大会開催の一つの布石になったともいえる。(サイト「JR東日本野球部とは?」より)

大正10年10月2日<坪内逍遥、陸軍戸山学校内広場で「熱海町の為のページェント」を上演
 大正9年10月、早稲田大学内に文化事業研究所を発足させた逍遥は、さっそく熱海双柿舎で「熱海町のページェント」題する台本を書きはじめた。それは9場面に及んでいたが、陸軍戸山学校内の広場で上演されたのは@「世界の公園」A「事代主の神」C「頼朝と文覚」D「石橋山の合戦」H「小逢來」の5場面。 野外の演技空間は上舞台、下舞台、張り出しに三分割され、「正面松並木の後には紅白の幔幕を張り、楽屋への通路を隠し、旁々目障りな軍楽隊教室の見えるのを幾分でも消すことに用立てた」と、「
逍遥選集」第9巻に付された「ページェント上演略記」で大村弘毅がしるしている。(以上、津野海太郎著「滑稽な巨人」より) ※軍樂学校には団伊玖磨や芥川他寸志が在籍。※1966(昭和41)年には、唐十郎が戸山ヶ原で野外ハプニング劇をしている。

大正11年頃<画家・田中岩次郎の戸山ヶ原を描く>
 サイト「いのは画廊」に1999年3月の企画展「田中岩次郎」紹介…「ある白馬会の画家・田中岩次郎」の「初期水彩画」に、「戸山原の牧場」「戸山ヶ原の牛舎」(共に水彩画)が紹介されていて、題名通り牧歌的風景が描かれている。なお、同サイトによると、田中岩次郎は神田に生まれ、関東大震災まで柏木(現在の西新宿)に住んでいた、とある。

大正12年<関東大震災>
 高橋:余り被害はありませんでしたね。火事もなかったし。材木屋さんの材木が倒れたぐらい。あとは屋根の瓦がすべって落ちたんです。岩瀬:それでも2、3日は地震の後がこわいんで、屋敷の裏の竹薮に泊まったんです。(わがまち大久保」より)


大正時代〜<永井荷風、菊池寛など作家たちも住まう>

 …新大久保の駅からほど近い百人町…。すぐ裏は陸軍錬兵場の戸山ヶ原が見渡す限り広くあり、江戸の頃より躑躅の名所と言われただけあって、何処の家にも躑躅の花が美しく咲き競う町であったという。大震災はその大久保で出遭った。(中略)。百人町は文士が多く住んでいて、師である永井荷風さんも一時大久保の住人であったし、隣家が岡本綺堂さん。菊池寛さんのお宅も近くであった。文壇仲間の交流もあり作家としての芽が出はじめた父の夢は、戸山ヶ原の空高くほとばしるように広がっていったことだろう(大正時代の作家・邦枝完二の長女で、俳優・木村功夫人の木村梢著「東京山の手昔ものがたり」より)

大正13年3月〜14年6月
<岡本綺堂、百人町に転居>
岡本綺堂が市外大久保百人町301番地に在住したのは、大正13年3月から同14年6月までである。(サイト「岡本綺堂」より)



大正13年1月6日<戸山ヶ原アパッチゴルファー出現>
東京日日新聞のゴルフ史上貴重な記事が載っている。題して「戸山ヶ原のゴルフ老人」。見出しは運動を延命の薬に 戸山ヶ原のゴルフ老人 十数年休むまぬ熱心に持病がケロリと退散 以下、本文抜粋…
 この十数年間、雨が降らうが雪が降らうが一日として戸山ヶ原に姿を見せぬことのない鳥羽老人は、わがゴルフ界の先覚者として且運動精神を真に体得した人として称されている。老人がゴルフに親しみ出したのは持病の心臓病で余命幾ばくもないと医師から宣告された明治四十年の春。職業柄洋服仕立ての見本に送られた写真で外人がゴルフに親しんでゐるのを見て自分も一つやって見ようと思ひ立ち、苦心の末やっとクラブと球を手に入れ病身を運んで戸山ヶ原に立った。(略)自己流ゆえ、ドライバーの飛距離は三、四十ヤード程度で、若手の後進が二百ヤードを平気で飛ばすのにくらべると十分の一にも及ばない。ただ草中に見失はれた球を逸早くさがし出すことが大の得意でこことにらんだ場所には百発百中決して球から五インチと離れたことがない。併し氏も目的は技術の進歩ではなく、短命を宣告された健康状態を運動によって回復して見せようとするにあり、こも目的は見事に達せられた。心臓病は一年足らずのうちに綺麗に回復して医師をおどろかせた。(略)最近この老運動家を中心に新しいゴルフ倶楽部が生れた。入会希望者は市外戸塚町諏訪川崎方ゴルフ倶楽部へ照会すれば誰でも歓迎するとのこと。

※なお、井上勝純著「ゴルフ、その神秘な起源」によると、鳥羽老人の姿を認めた洋行帰りの同好の士らが次々に加わって、次第にショートコースが出来たという。また球拾い名人は鳥羽老人ではなく原老人で、当時のボールは新品で1個2円(今日の金額で1万円)也。なお、ここで生まれた「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」の発会式は同月13日に行なわれ、会員80名が参加したとある。陸軍錬兵場の兵隊がいない時間にもぐり込んでプレイする訳で、称して戸山ヶ原のアパッチゴルファー。しかし人数が多く、かつ大っぴらにやられるようになって、陸軍もついに黙認できずにゴルフ禁止と相成った。締め出された同倶楽部員たちは、やがて「武蔵野カンツリー倶楽部」設立に動き出すことになる…。

昭和7、8年頃<かもぼこ型の陸軍射撃場>
 「昔はつつじの名所いまは軍国色の大久保」と言われ出した大久保。この頃の同地の顕著なる建物は陸軍射撃場、陸軍科学研究所、陸軍技術本部、高千穂学園、海城中学、市立大久病院、市電大久保病院など。省線新大久保か、大久保に下りて北にはいると、すぐそこは戸山ヶ原だ。(昭和6年、
逸見亨の絵に「戸山ヶ原」があって広場で野球に興じる群像が描かれている。「描かれた新宿」より) 陸軍射撃場は線路の向ふ側にかまぼこの並んだ様にうねっている。この建物の中で実砲射撃をやっている。山手電車はこの町の四分の一の広さもあるといふ陸軍用地の中を走っている。何と言ってもほっとする郊外風景だ。四季の散策地として原にきて白雲を眺め、櫟林をさ迷ふ人も多い。(「新宿区誌」より)
<かもぼこ型について>高橋:最初は線路ぎわに山がありまして、その山を目がけてたまを撃っていたんですよ。そのたまが中野の方へ飛んで行っちゃったりなにかするんで、そこでこんどは円体濠といってまるいトンネルをいくつもこしらえてね、その中で射撃をするんですよ。 岩瀬:三角山へたま拾いに行ったんですよ。高橋:女子学習院のあたりは騎兵隊でしょう。こっちは射撃場でしょう。山本:今の戸山中学校のところは馬場になっていましてね。二・ニ六事件の時は、あすこから三角の旗を振ってね、ぞくぞくと出てきたんですよ。(「わがまち大久保」より)

昭和8年(1933)12月25日<江藤淳、大久保に生れる>
 戦後日本を代表する文芸評論家・江藤淳が「戸山ヶ原のほとりの大久保百人町」で誕生。父は三井銀行本店営業部勤務。その家で4歳半の時に母を結核で亡くし、新しい母が来て妹が生れ、祖母が叔母従妹を預かっていた。小学1年の時、尿意を覚え手を上げて教室を出て便所に走りはじめた時に「廊下を走るな」と叱責されている間にお漏らした。これを契機に登校拒否児童になって、小学3年生で義理の祖父の隠居所・鎌倉に転地。「私の育った戸山ヶ原のほとりの家もそんな家(庭に土があって樹木が生い茂った)で、茶の間の外には柿が…」と書いている。こんな事も書いている。要約で紹介すると…「漱石の小説の登場人物も、ほとんど例外なく東京の市街地の内側に住んでいる。「頗る遠い」という『三四郎』の野々宮さんの家も大久保にあるので、これは市街地の外緑部という感じなのだろう。東京が西にひろがりはじめたのは、勿論、関東大震災以後のことだったに違いない。更に終戦直後、戸山ヶ原に鉄筋コンクリートの都営住宅が立ち並んだ頃に一時期を画し、都庁舎の淀橋浄水場跡への移転が東京の西への傾斜を決定的に追認した」。(「渚ホテルの朝食」より)

昭和10年代<…の戸山ヶ原をスケッチする画家>
 昭和57年9月1日付けの毎日新聞に、昭和10年代の戸山ヶ原と町を描き続ける人として、浜田煕氏が紹介されている。(小滝橋から早稲田まで」より) ※その浜田氏の「記憶画 戸山ヶ原 今はむかし…」は1988(昭和63年)に自主出版され、5年後の1993(平成5年)に再販されていて新宿・中央図書館で借りることが出来る。これは氏が中学時代にスケッチした絵が昭和20年5月25日の空襲で焼失し、これを思い出しつつ描いたスケッチ集で、1988(昭和63年)撮影のスケッチ現場写真が添えられる他に、1938(昭和13年)と1988(昭和63年)の対比地図もあって、戸山ヶ原の面影を探しやすい構成になっている。また再販にあたって貴重な写真の数々も掲載され、幻の戸山ヶ原が俄然、鮮やかに甦って来る貴重な資料になっている。

戦時中
 戸山ヶ原には高射砲陣地があり、空襲時にはB29に対し盛んに撃っていたが届かなかった。


昭和20年5月25日<…の東京大空襲で>
 私の生れた大久保百人町の家は、昭和20年5月25日の東京大空襲で焼けて以来、跡かたもなくなっている。(略)。私はやはり、大久保の家の庭をいろどっていたつつじや、築山の上の赤松や、植込みのかげから匂って来た木犀や、といったようなものを回復したいという願いを断ち切れない。(江藤淳「妻と私と三匹の犬たち」)

昭和20年<陸軍医学校、大量の人体標本を埋める>
 平成18年(2006)6月24日、朝日新聞夕刊に衝撃のニュースが載った。「人骨、別にも埋めた 元看護婦が証言」。内容は平成元年(1989)7月、国立予防衛生研究所(当時。現在は国立感染研)の建設中に、同地より頭蓋骨,大腿骨など100体以上と見られる人骨が見つかって大騒ぎになった。これは戦時中、この周辺に陸軍の医療関係施設が集中していて、戦時中に中国で細菌や毒物などの生体実験をしたとされる「七三一部隊」(関東軍防疫給水部)に日本における研究拠点もあって、その遺体とされていた。しかし今年(平成18年)になって、旧陸軍軍医学校で看護師を務めていた女性(84歳)が「進駐軍に見つからないように人体標本を3ヶ所に埋めた」と初めて具体的に証言。厚生省が同地区を発掘調査をする方針と報道。女性は「半世紀以上が経ち、当時のことを知る人も少なくなった。自分の目で見て、実行したことだけを<人骨問題を究明する会>の方に話しました」と。

戦後<次々に学校当地に>
 戸山荘の地は進駐軍に接収された。が、その後、ごく一部が戸山公園となったほかは、早稲田大学文学部、国立医療センター、都営住宅、東戸山小学校などにとって占められ、戸山荘を追憶させる遺跡は、ついに箱根山のみとなってしまった。 (以下は「わがまち大久保」より) 早稲田・理工学部(の場所?)が駐留軍の宿舎になっていて、ジープが明治通りをずうっと通って埼玉県の朝霞のキャンプ場につながっているんですって。

 明治通りに正門を構える女子学習院は、昭和20年の空襲で青山校舎が焼失し、目白の徳川義親公爵邸一部の仮校舎で玉音放送を聞き、旧近衛騎兵連隊の建物が空いて初等、中等科は護国寺から、高等科研究科は目白から移転。敷地は4万5千坪。当初、正門は馬場下町に面していたがは、昭和24年に現在の明治通りに面した門(ドイツ特注製)を目白から移設。また、敷地内には清水が湧き、畑もあったそうだが、後に西側の馬場が戸塚一中に、厩舎のあった部分が戸山高校になった。(「このまちに暮して」より)

昭和24年<戸山荘跡に1052戸の戸山ハイツ>
 昭和23年、戸山荘跡一部に都が自然動物園と競技場を計画するも、第8軍東京軍政部司令官(駐留軍)は「市民は住宅がなく困っている」と都に建築材料を提供。従来の起伏がブルドーザでならされ、昭和24年に1052戸の水洗トイレ付き木造住宅を建築、「戸山ハイツ」と称し戦災者、引揚げ者に入居させた。米軍資材のため窓は前へ押して開く形。この頃には箱根山の西側に陸軍プールがあり(後に唐十郎の劇団がここで野外劇のようなものをした)、現在の東戸山小学校体育館の裏あたり(校庭東南端崖上)に大久保通りに面して人工岩場があった。高さ約30メートル。陸軍戸山学校の生徒が山岳訓練や城壁よじのぼりの訓練をした跡で、戦後は山男たちらのロッククライミングの練習場になった。(昭和47年4月に撤去「新宿の散歩道」より)
 大久保通りに面したところは、コンクリートの塀で囲まれて、野生の雉もいた。戸山3丁目(復興住宅)は元国有地で、昭和21年に「住宅営団」が2軒長屋を作って、いち早く入居。昭和27年に払い下げ個人所有となった。現在の児童相談センター、心身障害者福祉センターの辺りは明治通りを走るトロリーバス(池袋〜品川西口)の車庫だった。後、昭和45年から順次、鉄筋アパートに改築、49年に1〜35号棟までほぼ完成。(この待ちの昔のくらし」より)
 また百人町一帯の都営住宅も同年より入居開始。

昭和25年6月25日<朝鮮戦争勃発で、米軍が射撃訓練開始。戸山高校、銃声で授業出来ず>
 戸山高校より明治通り西側に面した戸山ヶ原射撃場が米軍の射撃訓練に使われ、その銃声が近隣に轟いた。この場所は旧陸軍所轄のかつて東洋一を誇ったカマボコ型ドーム射撃場で、27年春頃から機関砲、拡声器からの号令などで授業もしばし中断の大騒音。翌28年、騒音はさらに激しさを増し、同年4月15日付「朝日新聞」も「都心にもあった基地」の大見出し。この騒音は同年7月、射撃訓練が埼玉県朝霞基地に移転され、戸山高校前の施設が廃止になるまで続いた。 ちなみに、同高校の校歌は昭和24年に完成。…雪にみがける富士の高嶺/緑に映ゆる戸山の森…


昭和29年(1954)
 都立戸山公園開園。

昭和31年(1956)<北島三郎、西大久保に下宿し、大家の娘・雅子さんと結婚>
 北島三郎は、西大久保「東京声専音楽学校」へ入学したもののクラシックの勉強に嫌気。渋谷で流しを始めると同時に、演歌師の事務所の近所に下宿。(以下、小西良太郎著「海鳴りの詩」より) 北島三郎は昭和31年の夏、西大久保の下宿で、大家さんの娘・雅子と会い、3年後の34年11月に結婚している。(略)西大久保の彼の部屋を訊ねた船村に、北島は雅子夫人を「親戚の者です」と苦しまぎれの紹介をしている。…昭和37年(1962)6月『ブンガチャ節』でデビューし、同年12月『なみだ船』でヒット。

昭和40年(1965)<松山まさる、百人町・水谷荘に入居>
 コロムビアより『新宿駅から』でデビュー。姉がよく上京して世話をしてくれていた。松山まさるは、平成16年(2004)にデビュー40周年スタートの五木ひろしデビュー時の芸名。自著「渾身の愛」に、こんな記述がある。…東京で歌手としてスタートを切った自分の面倒をみるために、姉も上京していっしょに暮らすようになった。(略)16歳で、西も東もわからない東京で、誰ひとり頼る人もなく、歌手としてスタートする自分を、姉は、放っておくことができなかった。

昭和41年(1966)4月<戸山荘・餘慶堂の鬼瓦発見>
 新宿区図書館職員が、戸山ハイツ在住者の一人に、尾張徳川家下屋敷の「三つ葉葵」入り鬼瓦を所有の聞き込み、古代瓦研究の権威O氏と共に現場に。それは三つの瓦で組み立てられ気品、豪奢に思わず息を飲んだとか。すでに同瓦は同じく戸山ハイツ在住だった東大名誉T教授H氏鑑定によって、戸山荘餘慶堂(荘内の代表的建築物で美術品や景色を鑑賞するサロン)瓦と断定されていたもの。新宿区が保存を、と所有者に寄贈を促すが手放すのを拒否。庭先に雨露にさらされたままとある。所有者は、ここの陸軍施設勤務時代に瓦を預かったとか。(「新宿回り舞台」より)




1998)7月18日<早大・新学生会館予定地で「龍門の滝」遺構発見>
 早稲田文学部新学生会館建築前に庭園遺跡の発掘調査が新宿区戸山遺跡調査会、新宿区立新宿歴史博物館によって行なわれ、この日、発見された遺構が公開された。これは庭園の北東部に位置していた「鳴鳳渓(めいほうけい)」と呼ばれた渓谷内の「龍門の滝」の滝壷にあたる部分。この「滝」は当時の日本画など数点に描かれているが、庭園のどの部分にあったのかは特定されていなかったという。今回の発見は位置の特定と、「江戸の粋を集めた」技術を明かす貴重なもの。「滝壷」を形成している「間知石(けんちいし)」は、非常に正確に正方形に切り取られ、かつノミを入れた跡も残さぬ当時の最高水準の石工技術が見てとれる。早稲田大学のサイトによると、この石組は名古屋市より「徳川園」に再現したいと譲渡依頼があり、約250トンの石が1999年9月に名古屋市に搬送されたとある。「徳川園」は2005年完成を目指して整備工事中。設計図にはちゃんと「龍門の滝」とあって安心した。完成したらぜひ見に行きたい。この遺構写真は「早稲田大学・広報の1998年の項で見ることが出来る。それは立派な石組みです。
※2004(H16)年1月26日、仕事で名古屋・御園座へ行った帰りに徳川園に寄ってみた。工事中で目隠しフェンスで囲まれていたが、工事車両出入り口から覗いたところ、「龍門の滝」周辺造園佳境。工事作業表には当月いっぱいで下池、上池の石組み、滝壷防水工事が完了となっていた。全体の主な工事が終わるのが3月で、秋にはオープンの予定とか。滝以外にも早稲田で出土の石があちこちで使われているような事を作業員が言っていた。ちなみに「龍門の滝」施工会社は竃{陣 052−933−5280とあった。

平成13年(2001)2月1日<江戸末期より生き続けた大けやき伐採される>
 かつての戸山ヶ原、百人町4丁目の戸山団地に江戸末期からの長寿・巨木のけやきが、住民の反対運動(「大けやきを守る会」と「戸山団地の大けやきを考える会」)にもかかわらず伐採される。この大けやきの推定樹齢は200年、全長17メートル、周囲5メートルだった。


※以上、少しづつ加筆して行きます。
<参考資料>
「東京市史稿」の遊園篇全7巻中、1〜3巻に戸山荘関連資料10篇が収録。全コピー保存。内容は以下…。

 寛文11年(1671) 和田戸山庭築造
 享保20年(1735) 戸山庭記
 寛政5年(1793)  将軍戸山荘遊観
 寛政9年(1797)  将軍戸山荘再遊
 寛政10年(1798) 将軍戸山荘観楓
 文化9年(1812)  戸山園図記
 文政7年(1824)  戸山荘景勝
 弘化4年(1847) 将軍戸山荘立寄
 …など。今後、閑をみてサイトオンして行きます。

小寺武久著「尾張藩江戸下屋敷の謎〜虚構の町をもつ大名庭園」(中公新書)
新宿区立新宿歴史博物館編集「尾張徳川家戸山屋敷への招待」(平成4年度企画展図録)
永井荷風「日和下駄」(大正4年発表、中央公論「日本の文学 永井荷風」収録)
戸川秋骨「人物肖像集」(坪内祐三編/みすず書房)
西條嫩子著「父 西條八十」(中央公論社/昭和50年(1975))刊)
吉川潮著「流行歌 西條八十物語」(新潮社/平成16年(2004年)9月刊)
国友温太著「新宿回り舞台〜歴史余話」(自主出版)
「新宿区史」(新宿区役所、昭和30年刊)
野田宇太郎著「改稿東京文学散歩」(山と渓谷社)
井上勝純著「ゴルフ、その神秘な起源」(三集出版)
米倉守著「中村彝・運命の図像」(  )
東京日日新聞(大正13年1月6日)
木村梢著「東京山の手昔がたり」
地域誌「この町の昔のくらし」(新宿三○○年若松地区委員会編集)
酒巻寿(聞き書き・尾崎左永子)「おてんば歳時記」(草思社刊)※余丁町の御屋敷のお嬢さんの山の手暮らし
高田馬場共栄会発行・編集「小滝橋から早稲田まで」(昭和59年刊)
新宿300年大久保地区委員会広報部編「わがまち大久保」(平成10年刊)
海老澤了之介「新編若葉の梢」(同刊行会、昭和33年刊)
芳賀善次郎著「新宿の散歩道」(三交社 昭和47年刊)
「百人町三丁目遺跡V」(新宿区遺跡調査会編集、平成8年刊)
「描かれた新宿」(新宿歴史博物館刊 平成2年)
今井金吾著「半七は実在した」(河出書房新社、1989年刊)

地域誌「このまちに暮して」若松地域センター運営委員会・広報部、平成9年刊)
府立四中・都立戸山高百年史(昭和63年3月刊)
清水義範著「尾張春風伝」(上下、幻冬社、1997刊)
濱田煕著「記憶画 戸山ヶ原 今はむかし…」(再販1993年 自主出版)



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