大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”


永井荷風(ながい かふう)
明治12年(1879)12月3日東京生まれ〜昭和34年(1959)4月30日、79歳で没〜
「淫慾、蓄妾、放蕩亦愉快なりと…」晩年は鰥寡孤独で79歳で逝く。

 大田南畝調べの時のこと。加藤郁乎著「江戸の風流人」の大田南畝の項の書き出しが、こんなんでびっくりしてしまった。
 …蜀山人の才望また風流気を敬慕して止まぬ永井荷風だったが、周知のごとく、その『葷斎漫筆』は南畝を説き論ずるというより、敬々服々語って倦まぬ追慕の好文章と申してよろしかろう。(中略)…上戸と下戸との違いこそあれ、(下戸の)荷風は南畝の文事篇什(文事を纏めたもの)をまた行実ことごとくを大なり小なり真似しようとしたふしがある。蜀山人ならぬ荷風さんの戯号は小石川金富町をもじって「金阜散人」。

 ホホォ〜ッと思った。その『葷斎漫筆(くんさいまんぴつ)』は、荷風がいつ頃に書いたものなのだろうか、と思っていたら、これまた野口武彦著『蜀山残雨』に、それが紹介されていた。
 …大正14年(1925)に雑誌『苦楽』『女性』に連載した『葷斎漫筆』は全七十一ヶ条で、最初は題名通り漫然たる随筆で江戸の風物が残る麻布界隈を語り、館柳湾(たちりゅうわん)や林鶴梁(はやしかくりょう)など幕末の文人たちの足跡をたどっているが、途中から大田南畝の話題に移り、最期の四十ヶ条が蜀山人の小評伝になっている。(荷風全集第十五巻に収録。「葷斎漫筆」の次には荷風作の詳細「大田南畝年譜」が収められている。)

 あぁ、やっぱり荷風さんは大田南畝が好きだったんだ、と思った。で、今度は松本哉著「永井荷風ひとり暮し」を読んだら、なな・なんと!「弟・威三郎氏と母が移り住んだ旧淀橋区西大久保三丁目九番地」とあるじゃないか。そこはそう、アタシんチのマンションあたり。そう言えば牛込余丁町の断腸亭跡も近所。あぁ、85年ほど前に荷風さんは、この辺をウロウロしていたんだぁ〜、とにわかに永井荷風さんに興味を持ってしまった。…というワケで大田南畝の次のテーマは「永井荷風」さん。

 ここでのテーマは「隠居」だから、まっ、父・久一郎死去から荷風の足跡を追ってみましょう…と、当初書き出したが、後で「あめりか物語」を読んだらおもしろく、改めてそれ以前、青年・荷風さんに興味が沸いて来た。ってことでやはり生い立ちから荷風さんの足跡を追ってみることにした。谷崎潤一郎をひと通り読んで、その変態と粘着感に辟易するに比し、「あぁ、荷風さんはもっとさっぱりしていたよなぁ。大川で尻を洗うみたいにさぁ〜」と、改めて荷風さんが好きになって来たこともある。岩波書店刊「荷風全集」(全28巻)も入手したし、まっ、完結なしの飽きずにちょびちょびと更新で遊ぶことにした。

 荷風さんは明治12年(1879)12月3日、東京市小石川金富町45番地(伝通院前の安藤坂を北側に入った現・春日2‐20‐25辺りで、川口アパートの斜め前。四百五十坪の狐も出る屋敷だった)、永井久一郎・恆(つね)の長男として生れた。本名は壮吉。父・久一郎は尾張藩の富農永井家の長男。藩命によりプリンストン大学に留学後、文部省勤めから会計局長になり、退官して日本郵船株式会社に入社後は上海、横浜支局長を歴任。有能な明治の官吏(かんり)で、かつ東西の教養を兼ね備えた当時最高の知識人だった。一方、母の恆は久一郎が門生として寄寓した藩の儒者鷲津毅堂の次女。荷風さん4歳の時に次男・貞二郎が生れたため、しばらく母の実家、下谷竹町の鷲津家に預けられ、ここからお茶の水女子師範学校附属幼稚園に通った。6歳で小石川の実家に帰り、黒田小学校尋常科(現・区立五中)に入学。10歳、小石川竹早町東京府立尋常師範学校附属小学校高等科に進学。小石川の家のことは随筆「狐」(全集第四巻)に詳しく、また母の実家のことは「下谷叢話」(全集第十五巻)に詳しい。荷風さんは父の「同じく官吏」への期待を10代半ば辺りから次第に裏切って行く。まずは病弱で小田原の病院に転地療養、そして“放蕩”に浸り出す。

 「桑中喜語」(全集第十四巻。大正13年発表当初は題名「猥談」)にこう書いている。
…僕年甫(はじ)めて十八、家婢(かひ)に戲(たわむれ)る。柳樽に曰く「若旦那夜は拝んで晝叱り。」と蓋し實景なり。翌年獨芳原(吉原)の小格子に遊び、三年を出でざるに、東廓南品、甲駅、板橋、凡そ府内の岡場所にして知らざる処なきに至る。
 んまぁ、凄まじき淫蕩である。荷風さんのスーパースケベ人生がここから始まった。これでは父が望む官吏になれやしない。同年、第一高等学校入試に失敗。父の上海支店長赴任に従って一家も3ヶ月滞在。11月に母や弟と帰国し、高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学。まっ、今で言えば帰国子女枠を使って入学ってことですなぁ。荷風さんのこと、上海でも親の目を盗んで遊んで来たに違いない。
※「桑中」(そうちゅう)は桑の林(畑)の中のこと。「桑中の喜び」は男女の不義の愉しみ。出典は「詩経」。
※荷風さんの筆下ろし、小間使いともことは明治42年脱稿「祝盃」に詳しい。


 翌19歳、明治31年(1898)に原稿を書き出し、広津柳浪の門に入った。翌20歳、明治32年1月作「
おぼろ夜」は芸者の内輪話、3月作「烟鬼」(エンコイ)は上海の鴉片(あへん)中毒患者「烟鬼」の物語。荷風さん、そもそもからアウトロー文学だったのだ。すでに官吏を諦めて小説家を夢みたが、それでは勘当間違いなしで、青年・荷風さんは頭を絞って落語家・朝寝坊むらく(円朝の弟子)に弟子入り。三遊亭夢之助の名で席亭に出入りしていたのだが(この頃の思い出は随筆「雪の日」に詳しい)、同年秋に九段の富士本の楽屋にいるところを、永井家のお抱え車夫の細君に発見されて連れ戻された。それから4年後も明治36年9月、信濃丸で渡米の途につくまでに書いた小説26編は「荷風全集」一・二巻に亘って収められている。文庫などに収録されていない小説がほとんどですから、各編は「荷風ノート」で紹介。(←クリックをどうぞ)

 明治36年(1903)、官立学校に進学できなかった息子を、今度は商業界に立身の道を拓いてやろうとする父の命で、24歳の9月22日に信濃丸で渡米。アメリカのハイスクールで英語、仏語の勉強しつつ、父の思惑と違えて文学修業。渡米前のゾライズムから次第にモーパッサンへ傾倒。荷風さんは帰朝後に小難しく江戸志向を論じているが、38年4月に友人に宛てた手紙にこう書いていた。
「帰国したら下町あたりの意気は清元か歌沢のいける商家の娘でも女房にして向島か山谷あたりへ住みたいと思ってゐるのさ。(略) 日本婦人の美は江戸風にあると思う」。そして彼は娼婦イデスとなじみ「余は淫楽を欲して已まず、淫楽の中に一身の破滅をこひねがふのみ」。日本は日露戦争中だが無関心。この辺は「あめりか物語」「ふらんす物語」に詳しい。自然主義から次第に情緒重視、享楽主義を深め出していた。

 明治41年(1908)7月、帰朝し、大久保余丁町「来青閣」に入る。「あめりか物語」で作家と認められ、「ふらんす物語」発禁が逆に話題となって一躍人気作家になった荷風さんは、父が官吏の道を諦めたことで大手を振って作家稼業に精を出し始めます。明治43年、森鴎外と上田敏の推薦で慶応大学文学部主任格に就任。以来大正5年までの8年間をフランス語、フランス文学の教師を勤めることになった。時は日露戦争後で表現の自由はますます厳しく、幸徳秋水の不運な大逆事件に憤激(この辺は「花火」に書いている)し、いや、これ幸いとばかり花柳界に没頭するのであります。併せてその文学も江戸情緒、享楽主義を深めて入った。

 父が脳溢血で卒倒したのは大正元年(明治45年・1912)12月で、荷風33歳の時。この時、荷風さんはなんと!新橋芸者・八重次32歳と箱根にしけ込んでいたんです。彼はその三ヶ月前に結婚していて、新妻には内緒の遊び。翌1月、父死去。2月、妻ヨネを早くも離縁。10月、留学中の末弟・威三郎帰国。荷風は父の残した遺産、現在価値に換算すると1億4千万円を引き継ぐ。大正3年、情交深めていた八重次と再婚するも、翌年に八重次は出奔。


※ここでしばし脱線。八重次さん調べ。


 大正5年、慶應義塾大の教授を辞職。同年、威三郎は結婚するに当って、放蕩の兄と戸籍も住居も別にすべく、現在アタシが住むマンション辺りに新居を構える。大正6年、37歳の荷風はひとり暮しになった9月から「断腸亭日記」をつけ始める。翌7年、父が残した屋敷、遺品すべてを売り払って大金をひとり占めした(現在の金額で約7千万円を銀行に入れて、利子生活の体制を確保。※入江相政著「余丁町停留所」にこんな記述がある。…大正七年のこと。亡父は永井荷風から地所の半分の五百余坪を譲り受けた。私は小学六年生。当然ながら越してからのしばらくは、見るともなく、庭を散歩する荷風の姿を見たものだった。わざわざのぞいたわけではない。少し尾篭で恐縮だが、私の使う便所の窓から、自然化風のうちの庭が見えた。だから荷風が庭にたたずんだ姿を、一度だけ見たのである…。
 永井荷風はその後、築地2丁目に転居。三味線を習ったり、着物姿で暮すなど憧れの下町暮しだったが、下町のうっとうしさに耐えられず脱出。

 以上、33歳から40歳までの年譜を文学抜きに辿れば、まぁ、荷風さんはずいぶんと手前勝手なイヤな奴…の印象は拭えない。なお「断腸亭日記」の「断腸亭」は余丁町の父が建てた家の一画の6畳書院の名。荷風が好きだった断腸花=秋海裳(しゅうかいどう、ベゴニアに似た花)にちなむと同時に腸が弱かったことからの命名。この日記は死の前日、昭和34年「1959」まで実に42年間に亘って書きつづけられた。でね、荷風は女性とイタした日は、日記頭に「・」印をしてんですよぅ。

 37歳で書き出した日記には、自身を「病衰の老人」と位置付けて現実から逃避、「弧高」の風流文士を装っている。利子生活者で風流隠居を装っているから、平日のウォーキングも気侭に楽しんでいる。庭仕事、焚き火、執筆、曝書(本の虫干し)、文房清玩(凝った文具を楽しむこと)、散歩、そして江戸情緒は好きだが、下町の開けっぱなしの付き合いは嫌いで、子供が嫌いで、酒好きの女は好きだが酒のみ女にクダをまかれるのが一番嫌いで、女好きだが妻はうっとうしく、でも女遊びはやめられない日々。大正7年12月のお相手は「無毛美開 閨中欷歔(ききょ/すすり泣くこと)すること頗(すこぶる)妙」の芸妓八重福。大正8年、40歳で下町から麻布のお屋敷町、市兵衛町に木造洋館を購入し、翌9年に移転し「偏奇館」と命名。昭和20年(1945)の空襲で焼失する66歳までここに棲み続けます。

 さて、偏奇館に移転した荷風さんは「荷風と東京」によると“庭仕事に熱中した”と2章に亘ってその詳細が紹介されている。「おぉ、ヘルマン・ヘッセ」の晩年みたいじゃないか、と思ったんだ。ガーディニング・ブームの折り、ヘッセの庭に関する記述を集めた「庭仕事の愉しみ」が出てベストセラーになったこともあり、毎日のように庭や草木、掃葉と焚き火について書かれているならば、それら抜粋で「荷風のガーディニング」とでもすればベストセラーじゃん、と思った次第。で、2章の最後で腹ぁ〜抱えて笑っちゃった。大正11年に森鴎外夫人が偏奇館を訪ねた時の言葉を娘さんがこう紹介…。
「その御宅の荒れていること、雑草がもう背よりも高く茂ってて、まるでお化け屋敷のようだった」
 昭和3年、近所の山形ホテルで小説を書いていた尾崎士郎もこう書いている。
「荷風邸の二階の窓は、いつも戸がぎっしりとしめられて、まるで化け物屋敷みたいに無気味な印象をただよわせていた」。
 フン、何が庭仕事好きだ。庭の草木を思い、枯れた風情人を装っていただけじゃん。それらを書きはすれど、その実態はこの有り様。連日連夜遊里通いして、気に入ると次々に身請けして(新橋の花屋の米田みよ、富士見町の鈴竜、待合を持たせた関根歌、神楽坂照武蔵の中村ふさ、山路さん子…)、そして嫌になれば手切金と弁護士で…。
 こんな方に庭仕事はとてもじゃないが出来ませ〜ん。えぇ、よくいるんですよ。言うこと書くことと実際は違うって人が。荷風さんもその一人なんでしょうね。

 大正11年、44歳の頃から荷風は探墓散歩に凝っている。川本三郎「荷風と東京」に大正11年から昭和18年の間の主な探墓45回の一覧表が載っている。昭和11年に「ぼく東綺譚」の「作後贅言」の結びもこうである。
…晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃(はら)いに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。

 親の財産を独り占めして金利生活者になった荷風さんだったが、積極的に株取引もし、さらに昭和2年に起こった文学全集の「円本ブーム」でまた大金を懐にする。大正14年に1万円だった貯金が2万5千円に膨らんだ。で、お金が増えればやることはお馴染み女漁り。
 大正15年1月の「断腸亭日乗」。…淫慾も亦(また)全(まった)く排除すこと能わず。是亦人生楽事の一なればなり。独居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の楽しみも亦容易に廃すべからず。勉学もおもしろく、放蕩の亦更に愉快なりとては、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。…いい気なもんである。

 昭和2年、48歳の荷風さんが見つけたのは富士見町の芸妓で20歳を越えたばかりの「お歌さん」(関根歌)。千円で身請け。昭和3年2月5日のの日記には「薄暮お歌夕餉の惣菜を携え来ること毎夜の如し」と記し、彼女がいかに素晴らしいかを延々と延べて「ここに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし」とまとめている。
 荷風さんはお歌さんを当初は今まで居た芸妓屋と同じ町内、麹町に間借りさせていたが(市ヶ谷見付内一口坂に間借をましゐたりお歌…なな・なんだぁ、一口坂と。昔、ここにポニーキャニオンの社屋があった)、ややして偏奇館近くの現在の日比谷線「神谷町」近くに移転させ、その二階家を「壷中庵」(近くに壷屋という菓子の老舗あり)と命名。
「雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて(昼間でも暗くなっていて)、尽きせぬ戯れのやりつづけも、誰憚らぬこのかくれ家こそ、実に世上の人に窺ひ知らざる壷中の天地なれと、独り喜悦の笑みをもたらす主人は、そもそも何人ぞや。昭和の卯のとしも秋の末つ方、ここに自らこの記ををつくる荷風散人なりけらし」
 イヤらしいったらありゃ〜しない。日乗に“壷中庵記”あり。で、昭和4年には「幾世」という待合まで持たせている。50歳の荷風さんは客用の押入に自らノゾキ穴を開けて他人様の睦事をさんざ見ていたとか。ノゾキの趣味もあったんですね。
 「ここに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし。人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如く心地にもたとうべし」
 との記すほどお歌さんに夢見ごちだった荷風さんだが、この夢心地もそう長くは続かなかった。昭和5年2月14日の日記に…
「番街の小星(しょうせい・お歌さんのこと)昨夜突然待合を売払ひ再び左褄取る(芸者になる)身になりたしと申出 (略)…余去秋以来情欲殆消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず。余一時はこの女こそわがために死水を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき」
 と書いている。荷風さん、漢詩より「楽天年老いて風疾を得、妾を放たんとす…」をあげて自らをなぐさめている。この時、52歳。もう勃つのもままなり、なのでした。でも慾はあるから、懲りずに流行の銀座のカフェー通いも盛ん。


 明治から大正にかけて荷風は深川・本所をよく歩いていたが、深川が商業、工業都市としての活況を呈してくると大正11年頃から“第二の深川” “もうひとつの隅田川”を求めて砂町、荒川放水路方面に足を伸ばし、しばらく間を空けて昭和6、7年に足繁く放水路に通い出している。スケッチもよくしていて、この散歩に気合が入っている感じもする。昭和6年12月、52歳、船掘橋から東岸堤防を川沿いに下って、あたりが暗くなるころに旧葛西橋に辿り着く。老眼鏡をかけて「葛西橋」の文字を確認。翌7年、深川から放水路散歩がさらに活発化。5年ほど間をあけて再び再訪し、早、開発で野趣が失われつつあるのを嘆いている。

 昭和11年1月、57歳。政江という使用人に手をつけたかして突然出奔されて、荷風さんは憮然と「余が帰朝以来馴染みを重ねたる女を左に列挙すべし」と玄人(芸妓、私娼)ばかり16名を記す。「そのほか臨時のもの挙ぐるにいとまなし」と書き添えることも忘れなかった。★ そして2月、こう書いている。…芸術の制作慾は肉慾と同じきものの如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ芸術の慾もまたさめ行くは当然の事ならむ。余去年の六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。その頃渡辺美代とよべる二十四、五の女に月々五十円与へ置きしが、この女世に稀なる淫婦にてその情夫と共にわが家にも来り、また余が指定する待合にも夫婦にて出掛け秘戯を演じて見せしこともたびたびなりき。初めのほど三、四度は物めづらしく淫情を挑発せらるることありしが、それにも飽きていつか逢ふことも打絶えたり。去月二十四日のわが家に連れ来りし女とは、身上ばなしの哀れなるにやや興味を牽きしが、これ恐らくはわが生涯にて閨中の快楽をほしいままにせし最終の女なるべし。色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てここに終焉の時をしるし置かむとす記して遺書草案を買いている。

 また同年夏はベルリン・オリンピック。ラジオ中継に国民的熱狂を呈していたが、荷風さんは我関せず。「前畑がんばれ」のあった8月11日、日記には「晴。曝書」のみ。だんだんと荷風さん、恰好よくなってくるんです。ちなみにアタシも東京オリンピックの時、巷の熱狂を避けるように友と伊豆へ貧乏旅行に旅立ったから、その気持ち、よくわかります。荷風さんも青年時代のアタシも「非国民」。

 荷風さんの浅草通いは、昭和12年末頃から。昭和13年、荷風が脚本を書いた歌曲「葛飾情話」をオペラ館で上演。昭和14年には自身の小説を脚本した「すみだ川」を上演。昭和19年、戦火の類焼を防ぐために同館は取り壊された。

 昭和16年12月8日、日米開戦。荷風さん、馬耳東風。時代に背を向け女給小説「浮沈」執筆に専念。同小説終盤で作中人物・越智の家でさだ子が一夜をともにするそうだが、越智の家が市ヶ谷左内坂だと。ははぁ、読んでみましょう。アタシも左内坂時代があるんですぅ。本題に戻って、荷風さんは戦時下も戦況に徹底無視。いや、それどころか…今日の軍人政府の為すところは秦の始皇の政治に似たり。(中略) 斯(か)くして日本の国歌は滅亡するなるべし。と日記に記し、寝食を忘れて小説執筆。こんどは愛欲生活が主題の「問わずがたり」を書いているんです。反骨精神の真骨頂発揮です。

半藤一利著「荷風さんと“昭和”を歩く」は激動昭和史と日乗の比較だが、鮎川信夫「戦中の断腸亭日乗」をこう引用している 。「どんな人の日記でも、初期戦勝期にはそれに対するよろこびの念をもらした文章がある。武者小路実篤や高村光太郎はむろんのこと、谷崎潤一郎や志賀直哉だってそんな文章がある。ところが荷風に限っては一切ない。爪の垢ほどもない。いま読むと、戦争に奔走していた九十九パーセントの日本人のほうが異常であって、それを徹底的に冷眼視している荷風がまともに見える…」。

 昭和20年、空襲で偏奇館焼失。兵庫県明石から岡山へと逃げ、ここで疎開中の谷崎潤一郎に会った直後に終戦。熱海にしばらくいて、昭和21年、66歳で千葉県市川市に移転。

 市川では四度居を変えている。はじめは市内菅野の借家、次いで菅野の知人宅(京成電鉄京成八幡駅近く。フランス文学者小西茂也宅)に約2年、次いで菅野の一戸建て、昭和23年、69歳の時に市内八幡に新居を建てた。昭和34年に亡くなくなるまでこの家だった。で、小西氏宅に居た時は氏から立ち退きを申し立てられている。その理由は八畳間に古新聞を敷き古七輪を据えた危険で乱雑な生活だった。小西著「同居人荷風」から興味深い以下を紹介。
…冬は部屋のなかで火を熾すので火事の心配を常にせねばならぬのが玉に疵なりと。
…若い連中は“のぞき”や女道楽に金を使わぬから秀れた情痴小説が書けぬ。自分は待合を歌女に出させた折り、隣室からのぞき見せり。
…部屋があまりに乱雑なるゆえお部屋を掃除す。洗顔中なりし先生、慌てて部屋に戻り金を蔵いありし所へ行きて、掃除中の女房の前にて金勘定を始めたりと。
…僕は風呂屋へ行くと必ず女湯の方をのぞいてくる。老人だから怪しまれぬ。これも年寄りの一徳、近頃の女の風呂場での大胆なポーズには驚くと申されたり。/…先生の話はすべて金と女に落つ。
 さらに「鴎外荷風万太郎」という本に収録の小島政二郎「永井荷風」一文には、不眠症の荷風が自分より30歳も若い小西夫妻の夜の楽しみを覗き見した…いや、覗き見することをやめなかったからだ、を紹介し、この二年前に発表されている荷風氏の小説「問わずがたり」の第六節を見よ、とある。(同棲していた辰子の娘・雪江20歳と女中・松子の同性愛を障子に穴を開けてのぞき見する場面のことだろう)

 昭和23年1月、再び浅草通いを開始。おりしも「ストリップ」が爆発的人気だった。戦前のオペラ館で知り合った女性がいたことなどで、荷風は毎日のように男子禁制のロック座の楽屋に入り込む。その頃の荷風の恰好は黒のベレー帽、背広の紺足袋、下駄ばき、晴れていても蝙蝠傘を持って、大事そうに買物籠を提げていた。昭和24年には荷風原作の寸劇が大都劇場、ロック座のストリップ合間に演じられている。

 昭和27年、文化勲章を受賞。「人に何といわれようとも、ぼくはひとり暮しがいちばんいい。ぼくはひとり暮しをするように生れそなわっているのかも知れないな。ぼくのような生活をしている文学者は、江戸時代にもいなかったし、フランスにだって例はあまりない…」

 昭和29年4月 大金の入ったバッグ(永井壮吉名義で残高1600万円の通帳と文化勲章賞金50万円の通帳)を総武線の電車内に置き忘れる。拾い届けてくれた米兵に謝礼5千円。

 昭和30年、75歳からストリップ嬢との付き合いも散歩も身体がいうことを効かず「アリゾナ」や「飯田屋」で食事後は映画館で時を過ごすようになる。

 昭和34年(1959)4月30日、79歳。2年前に新築した京成電車・八幡駅のすぐ北、八幡小学校裏手の自宅六畳間。荷風はいつも通り近所の食堂「大黒家」でカツ丼一杯を平らげ、日本酒一合を呑んだ。真夜中。急に気分が悪くなって胃から血を吐き、窒息で急逝。翌朝、家事手伝いの老婦が掃除にやってきて死んでいるのを発見された。哀しいことに、臨終の写真が昭和34年5月17日号(10日売り)に掲載された。(毎日新聞社「昭和史全記録」1989刊の628頁にも掲載) 居間から発見された現金二十八万円、定期預金八百万円、普通預金二千万円の通帳は、威三郎氏の名義で三菱銀行八幡支店に預けられたという。棺は市川署から葬儀社に手配した二千五百円の質素なものだったという。遺体をきよめた小問勝二氏は左腕に「こうの命」の刺青を見た。32歳の荷風が新橋芸者・豊松(吉野こう)と互いに彫りあった刺青だった。「落ちる葉は残らず落ちて昼の月…荷風」。合掌。


参考本
加藤郁乎著「江戸の風流人」の「大田南畝」の項(小沢書店刊)
野口武彦著「蜀山残雨」(新潮社刊)
松本哉著「永井荷風ひとり暮し」(三省堂刊)
松本哉著「荷風極楽」(三省堂刊)
川本三郎著「荷風と東京 『断腸亭日記』私注」(都市出版刊、読売文学書受賞作)
吉野俊彦著「鴎外・啄木・荷風 隠された闘い」(ネスコ)
吉野俊彦著「断腸亭の経済学」(NHK出版刊)
末永芳晴著「永井荷風の見たあめりか」(中央公論社)
半藤一利著「荷風さんと“昭和”を歩く」プレジデント社
江藤淳著「荷風散策〜紅茶のあとさき〜」(新潮社刊)
小門勝二著「永井荷風の生涯」(冬樹社)
小門勝二「散人 荷風歓楽」(河出書房新社・昭和37年12月刊)

国文学「解釈と鑑賞」〜特集・永井荷風を読む(至文堂・平成14年12月号)
ユリイカ「特集・永井荷風」(1997年3月号)
雑誌「東京人〜特集・荷風と東京の戦後」
吉田精一「永井荷風」(新潮社・昭和46年刊)

日本文学研究大成「永井荷風」(国書刊行会・昭和63年刊)
菅野昭正著「永井荷風巡歴」(岩波書店刊)
入江相政著「余丁町停留所」(人文書院、昭和56年第2刷発行)
林えり子「岡本文弥新内一代記〜ぶんや泣き節くどき節」(昭和58年刊、朝日新聞社)

永井荷風著…

岩波書店「荷風全集」全ニ十八巻(昭和39年9月刊)
「ぼく東綺譚」(昭和12年、東京大阪朝日新聞夕刊掲載/新潮文庫)
筑摩書房刊「現代日本文学大系 永井荷風集」(二)
中央公論社刊「日本の文学 永井荷風」(一)(二)
岩波文庫「すみだ川・新橋夜話」 「つゆのあとさき」 「断腸亭日乗」(上・下)


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