藤間静枝(八重次)さんのこと

荷風さんは大正元年(明治45年)の33歳の時にヨネさんと結婚していたが、
その3ヶ月後の父が脳溢血で倒れた際に、新橋芸者・八重次32歳と箱根にしけ込んでいた。
大正2年にヨネと離婚し、大正3年に八重次と再婚。しかし翌年に八重次は出奔した。
この時期の他の小説や評伝を読んでいると、あっちこっちで八重次さんが登場してきてうれしくなってきます。
そこで、ここは荷風本には表れない八重次のこと、いろいろです。


(その1) 林えり子著「岡本文弥新内一代記〜ぶんや泣き節くどき節」より
 こんな内容の箇所があって驚いた。…昭和9年に岡本文弥はそれまで無理と思われていた新内と舞踊を見事に融合した「新内舞踊」を成功させた。その相手が誰あろう舞踊家・藤蔭静枝で、荷風さんの元妻じゃありませんか。本名は内田ヤイ、明治13年生まれ。藤蔭静枝と岡本文弥による「新内舞踊」について、同小説に詳しく紹介されている。

(その2) 嵐山光三郎著「美妙、消えた。」より

 この本の「あとがき」にこんな事が書かれていた。…七冊の手写本「我楽多文庫」は最初は早稲田大学教授本間久雄氏の所有だったが、つぎに勝田清一郎氏の所蔵となった。勝田氏はマルキストとして知られ、蔵原惟人を通じて左翼運動に近づき日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)代表となった人である。(中略)。勝田氏は、山田順子との関係で世間に名をとどろかせた。順子は竹久夢二のモデルとして同棲したのち五十五歳の徳田秋声と同棲し、秋声はその顛末をせつせつと小説に書いた。順子は秋声にあきると若い慶大生のもとへ走り、半年間同棲した。その慶大生が勝田清一郎である。勝田氏は順子の前は日本舞踊師匠藤間静枝の若い愛人であった。

(その3) 津野海太郎著「滑稽な巨人」より
 坪内逍遥の評伝で第22回新田次郎文学賞受賞。そこにこんな記述があった。…坪内逍遥の「新舞踊劇論」の影響を受けた一人に八重次という新橋の芸妓兼踊りの師匠だった藤間静枝も「日本の舞踊を歌舞伎と遊里から解放せよ」という逍遥のアジテーションにはげまされた者のひとりだった。彼女は逍遥の信頼する二世藤間勘右衛門の弟子だったが、大正六年、藤蔭会をおこして創作舞踊運動を開始する。洋画家の和田英作や田中良、地質学者で演出家の福地信也、作曲家の町田博三、逍遥の弟子で舞踊研究家の小寺融吉などがスタッフとして参加、その後援者のひとりだった永井荷風と結婚したことでも有名になる…。(中略)。 …こうした初期藤蔭会の実験の背後には、藤蔭静枝の若い恋人で、当時はまだ慶応義塾大学の学生だった勝本清一郎がいた…。「オイオイッ」って感じですね。

(その4) 山口玲子著「女優貞奴」より
 川上音二郎・貞奴がアメリカ、そしてパリ万博をおはじめの欧州公演旅行から帰国後の明治36年(1903)の頃のこと。茅ヶ崎中村楼での「オセロ」公演に向けた稽古の記述にこんな箇所があった。「貞奴の初舞台」(『東京日日新聞』明治36・1・30)として …貞奴の出演も公表され、他に女優では守住月華(市川粂八)が内田静枝など弟子をつれて、川上一座に初参加した。粂八は、市川団十郎に入門し、一時破門されたが、「女役者の第一人者」或いは「最後の女役者」と言われ、ことに晩年に見せた「袖萩」の浜夕を、芸と年輪が相まって、他に見られぬ絶品だったと推賞する七世松本幸四郎は<舞台外の人としては洵にものやさしい謙遜家であるし、また、舞台の人としては実に大胆な、自信のある態度を示していました>(『読売新聞』大正2・7・25)と評した。依田学海から贈られた詩「絶芸女流天下無」「恰好美名呼月華」に因んで、新演劇に加わる時は守住月華を芸名にした。粂八に師事する内田静枝は23歳、侍女・糸子の役で初舞台を踏むことになった。川上一座の座付作家・花房柳外と一緒になったが、3年後に柳外が亡くなり、永井荷風と結婚する。しかし半年後に解消して、やがて日本舞踊の革新運動に乗り出し、藤間静樹と改名して晩年には藤蔭流宗家になった。

(その5) 森まゆみ「大正美人伝 林きむ子の生涯」
 森まゆみ「大正美人伝 林きむ子の生涯」を読んでいたら、きむ子が舞踊のよきライバルとして藤蔭静枝がいた…ということで、藤蔭について数頁を要して紹介していた。そこに(…静枝は荷風と別れたあと、6歳上の和田英作、19歳下の勝本清一郎、21歳下の村上和義らとつきあっている。このことは斉藤憐著「昭和不良伝」で知った)とあった。

(その6) 斎藤憐著「昭和不良伝 越境する女たち篇」収録「荷風を捨てた女」で藤蔭静枝の全貌がわかった!
 同書には藤蔭静枝、石垣綾子、森三千代、佐藤千枝子、岡田嘉子の評伝が収められている。冒頭章が「永井荷風を捨てた女 藤蔭静枝」である。著者は黒テント(演劇センター)の自由劇場(俳優座養成所卒業生)系メンバーの劇作家。著者は永井荷風関連本の他、主に「藤蔭静樹ー藤蔭会五十年史」と瀬戸内晴美編「恋と芸術への情念」に収められた松原一江の「藤蔭静枝」を参考資料に静枝の出自から藤蔭会・家元となって亡くなるまで詳しく(約60頁)紹介されている。またそれを書くに引用・参考文献のリストも掲載されている。時系列で彼女の足跡を記しておこう。

明治13年 新潟市古町の寿司屋の次女として生まれる。本名は内田ヤイ。
       近所の6,70人もの芸妓を抱えた庄内屋の養女になって、女主人・佐藤さとに可愛がられる。
       5歳から三味線と踊りを仕込まれ、9歳で新潟随一の市川登根に師事。
       12歳で庄内屋の人気舞妓になる。
       19歳で上京。
明治32年 20歳で女役者・市川九女八に弟子入り。市川が懇意にしていた依田学海、佐々木信綱も師にする。
明治35年 欧州から帰国した川上音二郎一座の明治座「オセロ」に貞奴の鞘音夫人の侍女役で出演。
       藤間流の家元勘右衛門(松本幸四郎)に入門。
明治43年 6年の修行を経て藤間流の名取りとなり、藤間静枝になる。帰郷しないことに怒った義母から仕送りを止められ、
       新橋の芸者屋沢海屋から元巴家八重次として芸者に出る。
明治43年 永井荷風と会う。荷風32歳、八重次31歳。
大正3年3月 永井荷風と結婚。大正4年2月、荷風を捨てて家出。
大正6年 東京美術学校・教授の和田英作の後援で「藤蔭会」第一回公演を実施。
       回を重ねるに従って新進の芸術家を次々にスタッフに迎えて、従来の日舞から脱却。
大正10年 藤蔭会は新舞踊団体として宣言。童謡舞踊、新民謡運動をスタート。
大正12年 麹町に藤蔭会本部を設ける。弟子に内田きん子、ゆう子など。水谷八重子、岡田嘉子らも藤蔭会に出演。
       中山晋平や佐藤千夜子、岡田嘉子らと童謡運動で全国を巡業。「てるてる坊主」や「波浮の湊」を踊る。
       この頃、「三田文学」編集担当の慶大生・勝本清一郎を口説く落とす。藤蔭43歳、勝本25歳。
昭和2年 勝本は「三田文学」に静枝との情交を11月から「昌作・康子」「肉体の距離」と題した小説などに発表。
昭和3年 築地小劇場の舞台を制作した欧州帰りの美術家・村山和義にあって女の手管で口説き落とす。藤蔭48歳、村山27歳。
      同年、藤蔭は渡欧。
昭和6年 革新的舞踊を次々発表の藤蔭に藤間流に抗議されて藤間姓を返上し藤蔭流家元を名乗る。
      左翼系芸術家の取り締まりが厳しくなり、次第に日本は戦火にまみれ出す。藤蔭も革新舞踊から転向。
昭和28年 第1回舞踊芸術賞受賞。
昭和34年4月 永井荷風死去。
昭和35年 紫綬褒章・受章。
昭和39年 舞踊家として初めての文化功労者に指定。
昭和40年 勲四等宝冠章を受章。
昭和41年 86歳で死去。


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