industriel, social, santé, ...   


テーマの理解に役立つ単語帳作成法」では専門用語の整理法を紹介しましたが、一般的な単語の中には、文脈次第で臨機応変に訳さなければならないものが沢山あります。専門用語以外は、全てそうだとも言えます。ここでは、文脈次第で全く異る訳語を当てなければならない度合の著しいものを、私自身の頭の整理も兼ねて順次解説していきます。

但し! 文脈は囲碁におけるシチョウのようなもので、どんな事情で以下にご紹介する訳し方では合わなくなるか、想像もつきません。そういう時に、「小林某なる通訳が HP にこう書いていたから」などと弁解してもクライアントには通じませんから、全てご自分の責任で参考になさって下さい。

1)industriel
仏和辞書では普通「産業, 工業」といった系統の語義が当ててあります。実際 industrie automobile 自動車産業、industrie aéonautique 航空機産業、等々であり、また les industriels がいわゆる「産業界」を指していることもあります。しかし最近のマスコミにおける用法を見る限り、
  1. secteur industriel 製造業
  2. implantation industrielle (外国への) 工場進出
  3. friche industrielle 工場跡地
  4. 映像コンテンツの制作側に対して、テレビやDVD録画機等の「メーカー側」を指すのに les industriels が使われる
といった具合で、「製造業, 工場」の方から攻めた方が良いようです。ちなみに les pays industrialisés と言えば、普通はいわゆる「先進国」を指します。

では、これでもう industriel には必ず対処できるかと思うと、さにあらず。2002年12月に Crédit Agricole が当時の Crédit Lyonnais に友好的 TOB を提案した際のル・モンド紙の記事に、projet industriel なる表現が使われていました。「単にバランスシートをつなぎ合わせるだけの projet financier ではなく、事業部門の統合から店舗の統廃合にも踏み込む」という趣旨かと思いますが、一言でどう訳せば良いか未だに分りません。 

更に2015年1月の France Culture で、Le Monde 紙の新本社ビル建設に際して印刷所をどうするかという質問に対し、同紙のトップが次のように答えていました:

On a depuis un moment une question qui se pose, qui est de la nécessité pour le Groupe Le Monde d'avoir son imprimerie. Vous le savez, il y a encore quelques dizaines d'années, il était de bon ton en France de considérer que son indépendence éditoriale était liée au fait de détenir son outil industriel...

outil industriel は単に imprimerie を繰り返さないための表現とも取れますが、敢えて訳せば印刷設備云々しか思い付きません。

2)social
この語を目にすると、つい「社会, 社会的」が口をついて出てしまいます。実際『小学館 ロベール 仏和大辞典』を見ても、語義のトップにそう書いてあります。しかし現代フランスの新聞・テレビ等における実際の用法を見る限り、「労使, 雇用」または「福祉, 社会保障」をまず思い浮べる方が良いように思われます。相変らず全て文脈次第ですが、幾つか例を挙げますと、
  1. problèmes sociaux 労使問題/雇用問題
  2. dialogues sociaux/relations sociales 労使対話/労使関係 (労務)
  3. conflits sociaux 労使紛争、労働争議、スト
  4. couverture, protection sociale 社会保障
  5. charges sociales 社会保険料の企業負担分
  6. logements sociaux [低所得層向けの] 低家賃住宅
  7. mesures sociales, traitements sociaux 雇用調整措置/福祉に関わる措置
  8. coût social [上記に関わるコスト]
  9. services sociaux 福祉サービス
  10. insertion sociale [失業者, 身体障害者等の] 社会復帰、就労支援
  11. politique sociale 労働政策/福祉政策
  12. dumping social 労働ダンピング
しかしこれでは、日本語の「社会現象, 社会問題」等を指したい場合に困るではないか、とフランス人も感じたらしく、sociétal という新語が大分前に出現しました (Petit Robert によれば 1972)。かと思えば最近は英語の影響か、responsabilité sociale de l'entreprise (企業の社会的責任) という使い方も出てきています。

3)santé
本来は「健康云々」ですが、最近は「医療云々」と訳すべき例が多く見られます 。
  1. système de santé 医療システム
  2. coût de la santé 医療コスト
  3. professionnels de la santé 医療従事者
  4. 面白いのが、医療保険制度の名称です。日本では公的なものは「健康保険」、フランスの公的制度は branche maladie de la sécurité sociale です。フランスから日本に移ると、上の三例では santé が「医療」になり、保険制度の場合は maladie が「健康」になる...
実は、santé には癪な思い出があります。フランスの医療関係者による講演会の後の質疑応答で、聴衆の日本人医師から「市民の健康管理や体力維持にフランスの医療機関はどう関わっているか」という趣旨の質問が出ました。これに対して講演者が、余りピンとこない答え方をした後で小声で呟くことに:« j'ai dit "santé", mais... »。あの時、こう言ってやるべきでした:「上に列挙したような表現はちゃんと『医療』を使って訳したのにこういう質問が出たのであって、これは日本の医療関係者のスタンスを表わしたものと受け取る必要があるのだ」。

4)finance/financier
a) 名詞 finance
  1. 複数:Ensemble des recettes et des dépenses de l'Etat; activité de l'Etat dans le domaine de l'argent; science régissant cette activité (Grand Robert).
     例えば les finances publiques 財政 (云々)
  2. 単数:Grandes affaires d'argent; activité bancaire, boursière (Grand Robert).
     例えば la finance [分野, 業界等の意味で] 金融
b) 形容詞 financier には、更に財務云々の意味もあります:
  1. directeur financier d'une entreprise 財務部長
  2. états financiers [企業会計上の] 財務諸表
  3. (但し同じ綴りの名詞として、企業の財務担当者, 金融投資家等の意味もあり)
c) 問題は形容詞の financier です。よくあることですが、仏語では一語なのに、日本語に訳すには「財政..., 金融..., 財務...」のどれかを選ばざるを得ない。しかも三つの意味は明確に異りますから、取り違えると訳を聞いている人に「えっ?」という顔をされることになる。「ファイナンシャル」などと誤魔化しても、このカタカナ語は英語の financial の意味を全部カバーしてくれるでしょうか... 結局、三つの意味の違いを充分認識しておいて、後は文脈の理解によるしかありません。


追伸。この項目でご紹介するケースは、日仏両語の間で言語による世界の切り取り方が大きく或いは微妙に異る典型的な例、とも言えます。だからこそ、文脈次第で当てるべき訳語が変ってくるわけです。そもそも世界とその中に起こる森羅万象は、語彙の全体によって無数の切れ目が入れられて初めて、人間にとって把握可能なものになる... というのは受け売りですが、こうした発想に興味のある方は、拙文「早期英語教育への疑問 」をご覧下さい。