頭に瓶を載せてトンデーロを踊る赤いスカートの黒人の女の子
カホンとたたく黒人のおじさんの絵
ペーニャ・ハラナ ロゴマーク

ムシカ・アフロペルアナって
どんな音楽?

 、ペーニャ・ハラナで演奏している音楽は、ペルーの海岸地方の音楽、ムシカ・ コステーニャと言われる音楽です。さらに細かく言うなれば、その音楽は大別し て二つの音楽に分類可能です。ムシカ・クリオーヤとムシカ・アフロペルアナです。

 

◆ムシカ・アフロペルアナとは?◆

<目次>
ペルーに黒人っているの? / ざくっとムシカ・アフロペルアーナ / ムシカ ・アフロペルアーナの種類

1:ペルーに黒人っているの?
ペルーというと、アンデス文化が有名で、黒人音楽とか言うと、「え?黒人なんているの?」と言われることが多い。しかし、ペルーは、植民地時代ラテンアメリカ随一のリマ副王領がおかれた地であり、中米パナマを経由して多くの黒人奴隷がその初期から輸入されてきた場所でした。先住民は、黒人を初めて見た衝撃から、黒人を模した音楽と踊りを数多く生み出していますが、現在の黒人たちは、アンデス山岳部にはほとんどみられず、海岸部に集住している集落がいくつかあるぐらいです。ペルーの黒人は、一時期は首都リマの人口の半数以上を占めたとも言われるが、ペルーの独立戦争や、チリと戦い大敗を喫した「太平洋戦争」などで若者が数多く前線に送られて戦死し、黒人人口は激減、文化も衰退の一途をたどったと言われます。現在、黒人の人口はペルーの総人口の1%にも満たない状況ですが、文化的な影響力は料理から音楽まで幅広い。特に黒人音楽は、1960年代以降、復興運動の中で盛り上がり、世界的な評価も受けたことにより、今ではなくてはならないペルーの中心的な音楽のひとつへと見事に成長したのです。

2:ざくっとムシカ・アフロペルアーナ
前節でも少しいいましたが、ペルーの黒人音楽は、19世紀末の戦争などによる人口の激減で一時期壊滅状態に陥っていました。20世紀に入ると、政府の文化政策や、アメリカの公民権運動などの影響をうけながら、ペルーでも黒人復権運動が始まります。その一環として、失われつつあったペルー黒人音楽を復興させるという試みが始まりました。その嚆矢となったのが、ポルフィリオ・バスケスという黒人の人で、1949年に
フェステホという音楽を復活させます。また、1960年代には、ニコメデス・サンタ・クルスがクマナナという楽団を作って古い黒人音楽を積極的に収集、演奏し、自らの作り始めます。こうした運動が徐々に拡がる中でフランスなどで高く評価された黒人音楽は、停滞していたクリオーヤ音楽などにも徐々に取り入れられ、クリオーヤ音楽と一体化しながらペルーの大衆音楽の表舞台に一挙に躍り出ることになりました。しかし、その反面、ノリの良いフェステホやランドーなどのみに脚光があたり、ゆったりとしたパナリビオや即興詩(デシマ)を歌うクマナナ、物売りの歌プレゴンなどは次第に演奏される機会を失っていってしまいました。

3:ムシカ・アフロペルアーナの種類
 ペルーの音楽のほとんどは、踊りと密接に結びついています。音楽、歌、踊りの三者が、どれも深く結びつき、大衆音楽として成長してきたと言えます。そのため、ほとんどの音楽には、それぞれの踊りがあります。また、踊りのつかない歌曲なども、全て音楽形式や歌の詩の形式が厳密に決められた枠の中で作られてきたものです。というと堅苦しく聞こえますが、そのパターン性こそが、大衆音楽の重要な要素であったとも言えます。現代では、失われたその特性を、ペルーの大衆音楽では、今なお色濃く持っていると言えるのです。
ではペルー黒人音楽の代表的な形式について見ていきたいと思います。

 

フェステホ・ Festejo
ペルー黒人音楽でもっとも演奏される代表的なリズムといえばこれ。4拍子と8分の6拍子がからまりあった複雑で元気なリズムにのせて、歌とコーラスが掛け合い、踊りが腰を震わせ激しく踊ります。1949年にポルフィリオ・バスケスによって復興されました。また、フェステホのリズム的な親戚の音楽として以下のものがあります。それぞれ踊りが異なったり、速さが違っていたり、悪魔のお面をつけて踊るものであったりというさまざまなバリエーションがあります。アルカトラスAlcatras/インガーInga/ソン・デ・ロス・ディアブロスSon de los diablos など

ランドー・ Lando'
ランドーは、男女の骨盤を打ち合わせるなど性交のパントマイムを含む踊りで、16世紀に黒人が奴隷として輸入された際に持ち込まれたアンゴラの結婚式の音楽ルンドゥが起源とも言われます。。このルンドゥは、大衆化の過程でサンバランドー(Zambalando)/ランドーと名称を変えて行くが、太平洋戦争の時期に断絶し、ニコメデス・サンタ・クルスによるSamba Maratoの録音によって復興された。一節によると、18世紀末にはここからサマクエカが誕生し、また北部地方でもトンデーロが生まれたという説もある。

 

マリネラ ・Marinera (上記の絵はマリネラノルテーニャを踊っている図です。)
サマクエカから発展した音楽。当初はチリやボリビア同様クエカと呼ばれ、さらにチリで大流行していたため、一時期チレナChilena(チリ風)と呼ばれていたが、チリとの戦争に負けたあと、屈辱的な名前を国民的な音楽にはつけておれぬと、戦争で活躍した水兵にちなんでマリネラと改名された。ペルー国内でマリネラと呼ばれる音楽にもさまざまなバリエーションがあり、黒人色が強く優雅なリメーニャ(リマ風)、スピード感があり踊りの洗練されたノルテーニャ(北部風)、ゆったりとしたアレキペーニャ(アレキーパ風)や山岳部の先住民の色濃いセラーナ(山岳部風)などがある。特にマリネラ・リメーニャ、マリネラ・ノルテーニャ、マリネラ・プネーニャ(プーノ風)が有名である。ちなみにマリネラ・ノルテーニャでは、女性は裸足で踊ります.

サマクエカ・ Zamacueca
両手に白と赤の大きなハンカチを持ち、明るい8分の6系のリズムに合わせて踊られる踊り。18世紀末に誕生したサマクエカは、チリをへてボリビア、アルゼンチンでも大流行し、チリ、ボリビアではクエカcueca、アルゼンチンではサンバzambaと名前を変え、リズムも演奏の主体である白人的なテイストを加味されて各地で土着化して行った。クエカやサンバになると、手に持つハンカチは普通の大きさの白い一枚だけになる。ペルーでもサマクエカからマリネラが誕生するが、サマクエカはやはりずば抜けて黒くて、かわいらしい音楽である。要所要所で「サマ!! サマ!! サマクエッカ!!」と叫ばれる。

トンデーロ・ Tondero
一見マリネラに非常によく似ているが、もっとなめらかな独特の味わいがある。ランドーから生まれたという説もあるペルー北部、ランバイェケ県のサーニャ村で生まれたが、現在はペルー北部のピウラ県などが代表的なトンデーロの踊られる地域となっている。
トンデーロがマリネラと決定的にちがうのは、手にハンカチを持つだけでなく、もともと頭にチチャの入った壺や瓢箪をのせて踊ったということである。そのこ
とは、この音楽が庶民の音楽が起源であったことをも思い起こさせてくれる。トンデーロの低音部がなり始めると、それだけで心が躍る音楽である。踊りは、同様に男女のペアで裸足で踊られる。トップページのハンカチをもって踊っている女性は、トンデーロを踊っています。

プレゴン・ Pregon
ここから徐々にマニアックな音楽の説明になってきます(苦笑)。プレゴンというのは、物売りの人たちの呼び声から発達した音楽で、リマの下層階級で発達した音楽です。その担い手のほとんどは黒人だったと言われています。果物屋、水屋、チチャ屋、タマル(蒸かしトウモロコシ)屋、ドーナツ屋など、さまざまな物売りたちの呼び声が、歌に発展していったことを考えると微笑ましいです。日本にある「焼き芋〜♪」や「竿〜竹〜♪」もペルー人からみれば、立派なプレゴンかもしれませんねぇ。

クマナナ ・Cumanana/  デシマ・ Decima
ペルーには、ヨーロッパの古い詩を即興で歌う吟遊詩人の伝統が深く残っています。その詩の形式がデシマと呼ばれる10行詩の形式で、複雑な韻を踏みながら即興で歌われるものです。現在、ほとんど歌われることのなくなったデシマですが、黒人の間ではまだデシミスタが残っており、若者たちも有名なデシマを覚えりしてことあるごとに語ったりしています。このデシマにギターの伴奏をつけて歌ったものが、クマナナやソカボンと呼ばれています。

その他にも、パナリビオ、ダンサ(ハバネラ)なども演奏されています。

 
ラフガイド・アフロペルー
ペルー黒人音楽の代表的な歌手とレパートリーを紹介したCD
 
  ペルーネグロ
黒人音楽復興期から活躍した
伝説のグループ
 
  スサナ・バカ
ラテングラミー賞で一躍有名となった黒人歌手。 超推薦盤!!!
 もっとアフロペルアナ! 

ペルーの黒人の町 サーニャ
Nuevo!!



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