明日の大島を夢見る時がある。
これはアルバトロスのリクライニングシートに揺られながら見た白昼夢。

 20XX年5月、紫外線が強い。地球温暖化が進んでいた。カタマラン型の高速艇・あほうどり2世号の窓に、夏の陽射しかと思わせる陽光に輝く海が躍動していた。
 
竹芝桟橋出航から1時間、早くも緑に被われた島影が見えて来た。所要時間1時間半、随分と早くなったものだ。
 あほうどり2世号の疾走が、ズームレンズのように元町の街を大きくして行った。
 船内がにわかにざわめいた。白い漆喰とオレンジ色の屋根で統一された余りに美しい街並みに歓声が沸いたのだ。南仏かスペインか、いつかどこかで見た街の写真に似ていた。天高く聳えたヤシが風に揺らいでいた。おなじみの元町港待合室のユニークな建物も、白い漆喰壁にオレンジ色の屋根に変わっていた。そこから左に目を移せば「南島館」「かあちゃん」があった場所から浜の湯のあたりまでの海沿いに、しゃれたオープンカフェ風の店がズラッと並んでいた。赤いテントが張り出して、その下の白いテーブルで若者たちが楽しそうに寛ぎ、紺碧の海に白い航跡を描いて島に接近中のあほうどり2世号を見つめていた。
 船内の若者が一人、立ち上がって指差しつつ、仲間に説明をし始めた。
 「あの真ん中の店がさ、“かあちゃん”ってんだ。あのオープンカフェで夕飯食ったら、もう最高だぜ。夕陽がきれいでよぉ、ワイングラスを夕陽にかざしてみたら、夢のようだぜ」
 今では白髪が目立つ旧友で、長いあいだ大島町長の任にある元村から久し振りのEメールがあったのは数日前だった。
「島はすっかり変わったよ、ぜひ見て欲しいんだ」
 彼の意気揚揚のメッセージが書き込まれていた。
 島が変わった予感は、竹芝桟橋で乗船する時からあった。制服のキャプテンとクルーが笑顔で握手を求めつつ、こう言ったのだ。
「ようこそ大島へ。ごゆっくりとお楽しみ下さい」
 確か今までは“東海汽船をご利用くださいまして、ありがとうございます”なんて言っていたはず。大きな荷物を持ったダイバーたちには、クルーたちがかいがいしく笑顔で手助けしていた。「大島へようこそ」あちらこちらで元気な挨拶が飛び交っていた。
 考えてみて合点がいった。大島便に乗り込んだ時から、僕らは大島の客なのだ。東海汽船の前向きの意識変化があった。全席指定で着席後しばらくすると可愛い女性クルーが「ごゆっくり船旅を楽しんで下さい」とオシボリ、そして濃厚な明日葉茶をサービス。
「さぁ、グッと飲んで下さい。元気が湧いてきますから」
 お、おい、本当かよ、と思いつつもグッと飲み干した。閉じた瞼の奥で、昔の大島便が甦って来た。船室のスペース確保に熾烈な戦いを強いられたっけと。罵声叱咤が飛び交い、人を人とも思っていない難民船さながらの夜航便。
 今はあの夜航便はなく、朝と午後の高速艇、昼の普通船のみの運行。熱海からも高速艇がピストン運行していると聞く。また帰りの大島〜東京便には大島町とリンクしたディスクトップ・パソコンのシートが開放されて、島滞在中の感想や意見が打ち込め、大予算を計上しなくとも町に日々有益なデータが集められていると聞いた。
 さて、下船準備にポケットのチケットを取り出し、これまた驚いた。「大島共和国行き」とあるではないか。元村の「シャレだよ、シャレ…」と笑う悪戯っぽい笑顔が浮かんで来た。
 着岸作業に入ったあほうどり2世号のデッキから、目を細めないと眩しくて見渡せない白い漆喰壁の街並みを見て、アッと気が付いた。元村のヤツ“もうひとつの国”を演出したなと。そういえば、都バスのラッピング広告に「1時間30分、5500円で行ける…もうひとつの国でリフレッシュ」のコピーが踊っていたのを思い出した。
 「おお〜い、泉津」
 元村が、出迎えの人々の中で、手を振りながら叫んでいた。
 タラップを降りると、手を握りしめながら興奮気味にこう言った。
「とうとうやったゼ。集客に成功したんだ」
「…らしいな」
 賑やかな堤防を歩きながら、エキゾチックに生まれ変わった街を望む。
「それにしても、思いきった街の変貌だな。外国に来たみたいだよ。よっぽど金を使ったな」
「んにゃ、あれは今まであった建物の上から漆喰を塗っただけだから、大した金は使っちゃいない」
「オレンジ色の屋根は…」
「ありゃ、ペンキだ」
 思わずズッコケたが、こう言った。
「地中海都市とハワイのイメージがミックスされている感じで、なかなかいい」
「あぁ、せっかく姉妹島ハワイのイメージを使わぬ手はないと。漆喰とオレンジ色の屋根は、変身するに一番安上がりだからやってみた。やったら地中海風になって、ナポリと姉妹都市条約を結ぶことになったよ」
 堤防前ロータリーに出て見渡すと、オープンカフェ風の店がけっこうあって、どこも賑わっている。
 「お台場風だろ」
 と笑った。そう言えば、かつてお台題の東京ジョイポリスを視察に来た元村に付き合ったことがあった。たったこれだけかの面積と施設で、年間集客115万人と聞いた元村が一瞬、硬直したのを覚えている。2001年に箱根にオープンした藤田観光の温泉テーマパーク「ユネッサン」を見学した時も、集客90万に唸っていた元村がいた。
 港前のおなじみタコ焼きとサザエ壷焼きの店が、曲線を描く漆喰のカウンター風で可愛いデザインにリニューアルされていた。港前ロータリー広場に面した土産屋のオープンカフェには、リゾート・ファッションの老若男女で賑わっていた。
「若者が多いね」
「あぁ、この雰囲気が彼等を惹きつけた。夜もライトアップして遅くまで営業している」
「土産屋は」
「あぁ、ここを営業しているのは従来からの土産屋だよ。店の奥でちゃんと売っている」
 温暖化現象が進んでか、品種改良が進んだか、街の至るところに南国の花々が咲き誇っていた。ハイビスカス、ブーゲンビリア、妖艶なランの花…。
 元村の車に乗り込むと、彼はゆっくりと街を一周しながら説明を続けた。
「元町を、テーマパーク化したってわけだよ。と言ってもご覧の通り漆喰壁とオレンジ色の屋根にしただけだが…。で、この成功に影響されて、あちらこちらで漆喰壁とオレンジ屋根の家が増えて来た。島民全員に美観意識が広がって、民宿も儲かり出して南仏風ペンションに改築し出したところも多い」
 元村はゆっくり運転しながら、さらに続けた。
「このナイスヴューが人気の秘密さ。古くも新しくも、今はとにかくカッコ良くなきゃ、人を惹きつけることは出来ない。それとテレビ、映画の“フィルム・コミッション”を設けて積極展開しているから、今はテレビドラマ2本、映画1本のロケ隊も島に入っているよ」
「あぁ、そう言えばこの間の人気テレビドラマのロケ地、裏砂漠だったよなぁ」
「あれで、ツアー企画が1本出来て、1万人集客したよ。そう、離島ブームが昭和43年で来島者84万人だったが、彼等は沖縄、ハワイ、グァム、サイパンとどこにでも好きな島に行ける。どう頑張っても呼び戻せやしない。航空会社の価格破壊のサービスで期間限定ながら10,000円で羽田〜那覇便を出している。これじゃ勝てるわけがない。20世紀の最後の年の集客が30万人弱で、以後もさらに落ち込んだ。周囲9`の八重山諸島の竹富島が年間20万人で、それにも負けた。もう観光島であることを諦めた方がいい、そこまで追い詰められて、やっと島に新たな魅力を作らなきゃダメだと気が付いた」
「あれ、元村、電線がないね。以前は蜘蛛の巣みたいにあったが…」
「バカヤロウ、あんなもんは5年前に光ケーブル設置の時に一緒に地下に埋め込んだよ。それでなくともリス被害で修理が大変だったんだ。加えて光ケーブルは島の大テーマだった。ご存知の通り、高校を卒業した少年たちは進学するにも就職するにも島を出なきゃならなかったが、今や光ケーブル利用のインターネット授業で大学生になれる時代だ。どうしてもIT通信網を充実させたかった。一方、就職口もコンピュータ・ソフト企業の誘致に成功したり、観光事業の活況で島に残る若者が増えた」
 と言うよりむしろ逆に、島に働きに行く若者たちが多いと言う。
「温泉はどうした」
 温泉好きの私は、そうたずねた。
「そう、お前が好きだった浜の湯な、4倍の大きさになっているゾ。真っ白なデッキチェアーもズラッと並べてある。御神火温泉も営業順調だし、温泉をメインにしたリハビリ、ケアハウス施設も作った。露天風呂を売り物にした和風旅館もあの辺に幾つか出来て、ちょとした湯布院の雰囲気を漂わせている。老人たちの長期逗留も多いし、全国から温泉目当ての客がおおぜい来ている。そこにある企画書をちょっと見てくれ」
 元村は後部シートをあごで示した。「為朝ネットワークの拡充と推進」と書かれた題字が踊っていた。表紙をめくると“為朝ネットワーク趣旨”と記された太ゴチック体の文字が眼に飛び込んで来た。走り読みしてみると、こんな内容だった。
 …為朝伝説は全国各地にある。伊豆七島はもとより鎌倉、京都、岡山、そして九州統一の出発地だった豊後・湯布院をはじめとする九州各地、さらには奄美大島、鬼界島、徳之島、沖縄と分布している。大島観光協会では、まず最初に町起こしの成功モデル地区となった湯布院観光協会と提携し、町起こし事業のアイデア提携と協会所属の宿に泊まった領収書提示で宿泊代20%割引の相互協定を結んで集客に成功した。今後、奄美諸島と沖縄県との提携をはじめ全国の為朝伝説を有する地区と相互集客施策を拡充し、巨大な為朝ネットワークを構築して行く…
「島の温泉地区開発は湯布院環境デザイン会議のメンバーにアドバイスしてもらった。いま湯布院映画祭、ゆふいん音楽祭の大島版も準備中だ」
「グッドアイデア!」
 私は思わず叫んだ。
「そう、為朝鍋じゃ、人は呼べない」
「あぁ、昔、一生懸命やったが、ありゃセコかったなぁ」
「この壮大なアイデアが浮かんだキッカケは?」
「あれは何時だったか…、津村陽の『鎮西八郎為朝』を読み返していたら、こんな箇所があって想わず膝を打ったんだ。保元の乱後の逃亡中にはぐれた為朝の家来の紀平次、悪七別当、八平二がやっと大島に辿りつき、為朝が紀平治を温泉に誘うシーンでな、為朝がこう言うんだ。“どうじゃ、よき湯であろうが。由布院(由布院町と湯平村が合併して、現在の湯布院になった)を思いださぬか”とな。ここでひらめいたんだよ、調べてみたら湯布院は人口12,000名。大島とほぼ同じ規模で、共に温泉を有する観光地。話しはトントン拍子に提携が進んだ」
「そこから“為朝ネットワーク”に広がった」
「800年以上も崇めて来たんだ。そろそろ為朝さんに出ばっていただこうと思ってね」
 為朝ばりに豪快に笑う元村の背後にっ、身の丈七尺二寸(2メートル18センチ)の鎮西八郎為朝の幻が浮かんでいた。ハワイにナポリ、大島共和国、さらには日本縦断の為朝ネットワーク。苦境に立たされた男のアイデアは為朝伝説さながら破天荒だ。
 私は、これまた大好きなゴルフについて質問してみた。
「閉鎖されたゴルフ場はどうなったの」
「あぁ、今はコースもホテルも町営だよ。アメリカのパブリックコース並みに2千円にしたらドッと客が押し寄せた。ホテルの宿泊料も5千円にして、今じゃゴルフ好きの拠点。“1週間の集中合宿・税込6万円でシングルを目指せ”のキャッチコピーで、ホテルは順番待ち状態。島民のシングルは無料とし、教えを請われたら積極的にコーチするを条件にしたら、島民ゴルファーもシングル目指して熱くなっちゃってなぁ…」
 街は変わっても、元村の様にならぬスイングは相変わらずだろう、と思うと笑いがこみ上げてきた。車は港周辺を一周し、彼が経営する店の駐車場に入った。ここでも都道向きにオープンカフェ風のリニューアル。
「島に来て、部屋に閉じこもることはない。どうだい、この潮風と陽光。原宿の明治通り沿いのカフェより廃ガスもはるかに少ない」
 と笑いながら、テーブルに誘った。まずは生ビールで乾杯。
「ここで問題だったのは道路向いの美観。そこで漆喰の壁にプランタを作って花が絶えないようにした。それでこのテーブルに座って、より目が楽しくなった。むろん、壁と花の管理は当店の負担で、町からの補助金も出た」
 美観推進補助金制度を作ったと言う。
「さぁ、いろいろ聞かせてもらおうか…」
 私は腰を落ち着ける覚悟で、そう訊ねた。航路の改善、元町の街並み改造、温泉、ゴルフ場、ITの充実、為朝ネットワーク…他にもさまざまな改革があったに違いない。
「うん、見学してもらうのは明日にして、まずは変化の概要から説明しよう」
 彼は店のスタッフに命じて、テーブルの上にドカッと資料を積み上げた。
「さぁ、どれから説明しようか」
 観光離島ならではのユニークな地方自治基本条例として全国から注目されている“大島共和国町作り基本条例”、八丈島に遅れをとったものの地熱と風力発電の収益書、循環型リサイクル・システム報告書、牧場跡地に出来た不登校生徒の自主運営によるビッレジ報告書…目に着くだけで、これだけの小冊子タイトルが読み取れた。元村はそれらの中からブ厚い企画書を取り上げて、まずこれから説明しようと語り出した。表紙には「波浮アドベンチャー施設/年間150万集客計画」とあった。
「元町のテーマパーク化は建物の変貌だけ。そして湯布院との為朝ネットワーク」
「それだけで…」
「年間150万の集客を達成した。で、あと150万を求めたのがこの計画だ。スタッフには海洋学者、自然保護運動家、漁業組合員、東京ディズニーランド・シーのスタッフに加わってもらった。まずは……」
 あぁ、今夜は徹夜の説明会になりそうだと、思った時…激しく肩を揺さぶられて、目が覚めた。
「お客さん、大島ですよ。起きて下さい、さぁ、さっさと降りて降りて…」
 邪険な船員の言葉に目を覚ました。
 目の前にはいつもの灰色の元町の街が広がっていた。


※この稿は、常に未完。気が向いたら続けます。なお文中の固有名詞はあくまでもフィクション。ご了承下さい。でもネ、本当は観光客の少ないひっそりした島が好きなんですけどネ。


※2002年(平成14年)4月に東京〜大島間1時間45分のジェットフォイル・3艇(愛、夢、虹号)が就航した。時速80km。滑走状態になると船酔いを起こすそれとは違って、新幹線の振動にも似たブルルルッと言う揺れで船酔いの心配もなくなった。ゴールデンウィークや3連休などには竹芝から臨発便を含め1日5便も出るようになった。「20XX・大島」で記した高速艇就航は、早くも達成された。とは言え佐渡汽船の中古艇で、機関故障も多い。2003年(H15)のゴールデンウィークでは島に送り込んだはいいが、帰りのラッシュ時に故障艇続出でえれぇ〜ことになった。また、滑走時は多少の波でも大丈夫だが、着水すると軽量・小型艇が災いして木の葉状態になって接岸できない弱みもある。同年11月後半の3連休では、天候不順が続いた年には珍しく、それは見事なまでの秋晴れだったが、波のためにジェット艇就航はならずだった。この日は若い友人達がゴルフだ、サーフィンだ、バーベキューだと楽しみにして竹芝に集ったが、荷物を担いですごすごと退散せざるを得なかった。アクセス、まだまだ理想には程遠い…。

※2003年11月21日の朝日新聞にこんな記事を見っけた。「公道カフェ柔軟に 政府 道路利用規制 緩和案」 公道にもっとオープンカフェを…。経済財政諮問会議(議長・小泉首相)は21日夕、道路や河川などの公共施設を民間業者が利用しやすくするための規制緩和策を打ち出す。政府の地域再生本部が年内に策定する「地域再生基本方針」に盛り込む方針。実現すれがパリなど欧米の都市のように歩道や道路を利用したカフェが増えるかもしれない。

※2003年11月18日にNHK「プロジェクトX 湯布院 癒しの里の百年戦争」が放映された。世帯数約3500の無名の農村を人気の保養地に育て上げた人々の物語。あのナレーション風に5、6行でまとめれば…。そこは貧しい農村だった。昭和46年、宿の主人たちがドイツの温泉地を視察した。そこで彼等は町創りには百年の構想が必要と教えられた。彼等は寒村の緑と静けさを守りつつ、心安まる保養地創りに情熱を懸けはじめた。最大の危機はバブル期のリゾート開発だった。彼等は独自の条例案をもって緑と静けさ、豊かな自然を守り抜いた。

※上記に同じような成功例を、アタシは2003年1月7日の「島日記」に文春12月号/無名人国記を引用紹介している。…かつて「西日本一貧乏な町」といわれた綾町(宮崎県)は、いまやシーガイアをはるかに凌駕する年間百二十万人もの観光客が訪れる町に変貌した。 …平成元年にオープンした「手作りほんものセンター」は、青空市場が発展したものだった。ここで綾町で採れた有機農作物や手作りの民芸品が買える。それもキュウリ五本で百円といったように、首をかしげるほど安いのである。しかし、このセンター建設を提案したときも議会から大反対があった。「こんな小さな町で、いくら売れるとおもっているのか」 当時は綾町を訪れる観光客などめずらしい時代だから無理もなかったが、いまでは年間三億五千万円の売り上げがあるというから、郷田の目算通りである。(文春12月号/無名人国記より) 

※大島と牧場の間に出来た農産物即売場「ぶらっとハウス」もオープンと同時に島民にしっかり定着しているようです。アタシらのような週末組にとっても大人気スポットになっている。島滞在中は、朝9時オープンを見計らって「ぶらっとハウス」通いをしている。おちおちしていると、早朝に民宿経営者などが買いあさって残り物だけになってしまうからだ。有機野菜の安くて旨い新鮮な野菜がいろいろ出ていて実に楽しい。アタシはここで東京では絶対に手に入らない自然薯、花オクラ、ウコッケイの卵を、そして旨い野菜、ソフトクリームを楽しませていただいている。


※一方、元町漁港のそばに「魚市場」もオープンしたが、魚は干物しかなく、あとはイセエビとサザエ、トトコブシ、アワビだけ。観光パンフなどには港に朝市が…と掲載されているが干物屋さんが1軒出ているだけ。島で新鮮な魚が手に入らないのである。結果は大島は「ぶらっとハウス」の野菜が安くて旨くて、新鮮な魚は手に入らなぁ〜いのである。高速艇の就航したことだし、島へ行ったら新鮮魚を安く土産に持ち帰えられるも集客ポイントだと思うが、こりゃ〜ダメそうです。




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