小早川秋声の作品集

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 戦時中、画家は画材のために絵を描いた、軍部の強制があったなどと言われているが、それは私(白石)が調査した限り間違っている。画材が豊富に購入できたわけではないが、申請することによってある程度入手することは出来た。 画家は戦時中でも自由に表現したし、軍部もそれを問題などしていない。陸軍から記録画を依頼された画家が、「わしはそんなもん描けんよ」と言うことはざらにあった。 それどころか、よろこんで「戦争記録画」のため、戦地に赴いた画家は多かったし、軍は彼等を佐官、将官待遇として厚遇した

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作品名:余燼

 

作品名:太原にて

 

作品名:万歳

 

作品名:寺内寿一閣下

 

作品名:いくさのはなし

 

作品名:突撃

 しっかりした陣地防御においては、少なくとも1個小隊30名がおむすび形の陣地を造る。縦深は約30m。第一線に2個分隊、第二線に1個分隊配置し、2名一組兵士の間隔を5mとすれば正面幅は35〜50m。

 敵が突撃を発起するぐらいだから第一線分隊のかなりのものが損害を受けているだろう。陣地配備兵力は手薄になっている。だからこの絵のように攻撃側が群がって前進することになる。

 第二線配置の防御側は逃げ出すものと射撃するものがいる。だから突撃の先頭よりもあとからついて突撃するものが狙われる。

「攻撃前進と突撃は先頭が損害が少なく、あとにつづく2番手の損害が多い」 なぜなら射撃において身構える時間が必要だから、あとから立ち上がる攻撃兵士が狙われるのだ。

解説 松村 劭様

 

作品名:浄魂

制作年1939年頃

製作技法:絹本着色、84×106

所蔵場所:京都霊山神社所蔵

山元春挙追悼作品展出品

 敵陣4〜500mの攻撃発起位置から横隊に散開して突撃発起位置まで攻撃前進する。この画は突撃発起位置に接近している場面であろう。兵士はヘトヘトである。敵軍は陣前に対する火力集中射撃を開始したようだ。だが前進を止めない。その動きがよく表現されている。

解説 松村 劭様

 

作品名:アイヌの女

「アイヌの女」 大正時代 177.5×361.8 個人蔵

 秋声は大正9年の厳冬期、北海道を2ヶ月、旅行しており、その直後に「蝦夷地の旅から」というスケッチ旅行記を出版している 「アイヌの女」も多分その旅行後に描かれたものだと考えられる、ほかにも「くままつり」と言う絵も残していて現存している、秋声は冬季のユングフラウやロッキーにも旅行していて、帰国後、当時の美術雑誌に絵と文を掲載している 戦時中、取材のために(彼は旅行自体好きなのだが)厳冬の満州をアンペラ一枚で軍用列車の床に座り、旅をしたり出来たのも、そのような経験があったから可能だったと言えよう 遺族の話によると、帰国後の秋声の手は凍傷の傷がひどかったという。

白石敬一

 

作品名:戦友を弔う

画集「聖戦画譜」より。

 

作品名:吹雪に立つ

画集「聖戦画譜」より。

 

作品名:虫の音

画集「聖戦画譜」より。

 

作品名:日本刀

制作年:1939年

製作技法:紙本、155×173

所蔵場所:日南町立美術館蔵

 この作品は、昭和14年「聖戦美術展」に出品された作品と言われているが、それは間違っている。当時の画集を見ると、日本刀の向きが違っている。(その作品は現在確認されていない) 画面左上の2色の色面は、多分、何らかの漢詩(藤田東湖の「正気歌」だと考えられる)が画かれていたのだが、戦後、時流に合わなくなったため、和紙で上から貼られたものだろう。

白石敬一

 

作品名:國之盾

制作年:1944年

製作技法:紙本、151×208

所蔵場所:日南町立美術館蔵

 この作品は、陸軍省より天覧のため依頼されたものであったが、受け取りを拒否されたという話が残っている。 作品を見に来た第16師団の師団長と部下が、この作品を見て、直立不動で敬礼したという話も残っている。 秋声の死後、遺族により京都霊山護国神社に奉納された。

白石敬一

 

作品名:出陣の前

補足説明:モデルは寺内大将閣下と思われます。

制作年:1944年

 製作技法:紙本 129×91

平安遷都1150年奉祝美術展出品作品

所蔵場所: 日南町立美術館蔵

 この絵にも、もう一点同じ構図の絵が現存する。 モデルは秋声と交友のあった寺内元帥だという。 絵の右下にあるリプトンのカンは秋声のもので、(茶道具を入れていた)戦後も秋声の自宅で見かけられたという。

白石敬一

 

作品名:戦いのあと

制作年:昭和10年代

 製作技法紙本 181×119

 

作品名:護国(御旗)

制作年:1934年

 製作技法:紙本 196×246

昭和11年文展出品作品