12月
注)ここにある文学作品は青空文庫のものがもとになってます。このHPはユタヲ一押しのページなので、みなさんぜひぜひ過去の作品を読み倒しましょう!!!
12月5日
「夢十夜」夏目漱石
実は、むかしむかし、まだ中学生だった頃にヤンジャンで読んだことがある。その頃は「ハッピー・ピープル」なんかも連載されていた。他には、「19(ナインティーン)」とか、「孔雀王」なんかの時代。その手の類の作品というか、コワ〜イマンガをよく描いていた作家のものだったと思う。「なんで、青年誌にこんなものが??」といぶかしく思ったことを覚えている。今にして思えば、青年誌だからこそ、なのだけれど、その当時の自分にとっては、異色の作品だったのである。
読んでみると「夢十夜」という作品は、ものすごく恐ろしいものなんだろうなぁ〜〜という気がした。というのも、作品で取り上げられていたのが、第三夜だったからである。主人公がおぶっている子どもというのが、AKIRAに出てくる赤子みたいになっていくコマなんかは、未だにはっきりと覚えていたりするくらい怖かったのを覚えている。
でも、なぜだか知らないけれど、この作品は好きだ。ものすごく短い作品なんだけれど、「夢ってそんな感じかも、、、。。」なんて思ったりすると、妙な親近感のようなものを感じたりもするのだ。
久しぶりに読み返してみても、やっぱり第三夜はチョットページをめくるのがためらわれた。「おまえだぁぁ〜〜〜!!!!」なんて言われたら、もう、たまんないんだろうな、、、、、。
「私の個人主義」夏目漱石
1999年ももうすぐ終わり、2000年を迎えようとしている今だからこそ、もう一度読み返してみる価値のある作品かな??と思った。
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『今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。』
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ふむふむ。この後に述べられている国家主義と個人主義に関する記述もなるほどなぁ〜〜、と思わされるものだった。夏目漱石はとても偉大な人物であることが、あらためてわかった。どういう頭の構造をしているのだろうか??? ←確か、東大病院には漱石の脳がホルマリン漬けだかなんだかで保存されているんだよね。良くも悪くも、さすが、東大。
う〜〜〜ん、お風呂に入っているときにいろいろと考えさせられそうな素晴らしい作品だった。
「舞姫」森鴎外
読みかけていたものを、やっと読み上げることができた。なんでこんなにも時間がかかってしまったのだろう???
それはさておき、高校でも大学受験でも古文をまともに学ばなかった報いを受けている気がする。漢字のボキャブラリーも足りないし、、、。でも、ボキャブラリーを調べるテストをやってみたら、けっこういい成績だったんだけどなぁ〜〜。(確か、桝添さんと同じぐらい。違ったかな?? ←週刊誌ネタなので曖昧。)
とにかく、こうした日本語らしい日本語を使える大人になりたいものだ。
「伽藍とバザール」(The Cathedral and the Bazaar) Eric S. Raymond 山形浩生 YAMAGATA Hiroo 訳 (山形さんのHPはこちら)
Linuxについて書かれたもの。面白かったのは、
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8. ベータテスタと共同開発者の基盤さえ十分大きければ、ほとんどすべての問題はすぐに見つけだされて、その直し方もだれかにはすぐわかるはず。
あるいはもっとくだけた表現だと、「目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない」。これをぼくはリーヌスの法則と呼んでる。
はじめにこの法則を書いたときは、どんな問題も「だれかには明白だ」という書き方をしていた。リーヌスはこれに異議を唱えて、問題を理解してそれをなおす人物は、必ずしもどころかふつうは、その問題を最初に記述する人間ではないと言った。「だれかが問題を見つける。そしてそれを理解するのはだれか別の人だよ。そして問題を見つけることのほうがむずかしいとぼくが述べたことは記録しておいてね」。でも肝心なのは、見つけるのもなおすのも、だいたいすごく短期間で起きるってことだ。
ここに、伽藍建築方式とバザール式のちがいの核心部分があるんだと思う。伽藍建設者的なプログラミングの見方では、バグや開発上の問題はややこしく、潜伏した深い現象だ。問題を全部ほじくりだしたと確信できるようになるには、少数の人が何ヶ月も専念してチェックしなきゃならない。だからリリースの間隔も開いてくるし、長く待たされたリリースが完璧じゃないときには、どうしても失望も大きくなる。
一方のバザール的見方だと、バグなんてほとんどは深刻な現象じゃないという前提にたつことになる――少なくとも、リリースを一つ残らず、千人の熱心な共同開発者が叩いてくれるような状況にさらされたら、どんなバグも早々に浮上してくると考える。よって、たくさんなおしてもらうためにリリースも増やすし、有益な副作用としては、ときどきヘマが出回っちゃっても、あんまり失うものは大きくないってわけ。
そして、これがすべてだ。これだけで必要十分。もしリーヌスの法則がまちがってるなら、Linux カーネルほど複雑なシステム、Linux カーネルくらいみんながよってたかってハッキングしてるようなシステムは、どこかの時点でまずい相互作用や、発見できない「深い」バグのせいで崩壊してたはずなんだ。一方、もしリーヌスの法則が正しければ、これで Linux が相対的にバグが少ないことを十分説明できる。
そしてこれは、そんなに驚くべきことでもなかったのかもしれない。社会学者たちは何年も前に、同じくらいの専門家(あるいは同じくらい無知な人たち)の意見の平均は、そういう観察者の一人をランダムに選んで意見をきくよりも、予測精度がかなり高いことを発見している。これをかれらは「デルファイ効果」と呼んだ。どうやらリーヌスが示したのは、これが OS のデバッグにも適用できるってことみたいだ。つまりデルファイ効果は、OS カーネル級の複雑なものでも、開発上の複雑さをおさめることができるんだ。
Jeff Dutky <dutky@wam.umd.edu>は、リーヌスの法則は「デバッグは並列処理可能だ」と言い換えることもできると指摘してくれた。感謝したい。Jeff の知見では、デバッグするにはデバッガは開発コーディネータと多少のやりとりは必要だけれど、デバッガ同士では大した調整は必要ない。だから、開発者を加えることで発生する、幾何級数的な複雑性と管理コスト増大という問題には直面しないですむというわけだ。
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という部分の「デルファイ効果」についての記述。ふむふむ。プログラムについては、もちろん、よくわからないので触れないし、Linuxについても雑誌、ネットで見かけるぐらいで、実際に使ったことはないし、たぶん、しばらくは使うこともないと思う。ただ、「Microsoftだけ」という世界が変わってくれればいいかも、とは思う。
11月14日 「宗像教授伝奇考」第六巻 星野之宣
昨日、本屋に並んでいたので即買いする。星野さんの本は、高校生の時に「ヤマタイカ」という作品を読んで以来ず〜〜っとお気に入りである。(この本を薦めてくれたT氏は元気なのだろうか??)かなり前に「2001夜物語」という作品があったが、それがアニメ化されたのが確か小学校か中学校の頃だったったから、本当に長い間活躍されている作家さんである。復刻版で出版されているものには、初版が70年代のものまであるという、本当に長いキャリアを持っている方である。
作品の作り方としては、山のような資料を集められたのだろうなぁ〜〜と察するに難くない屋台骨に支えられ、作家としてのイマジネーションを膨らませるタイプ。ただ、すごいところは、それが閉じた世界に自己完結的にとどまるのではなく、エンターティメントになっている点。う〜〜〜ん、、、、。すごいなぁ〜〜。これぐらいの想像力があったらなぁ〜〜などと20代の中頃にさしかかった者として、つくづくそう思わざるをえない。(若かりし頃の、あの瑞々しかった感覚はどこへいったのだろう?????)
作風として、こういったものは大好きである。というか、今後はこのような作風か、もしくは、「オレたち、わかもの!!!!!」という肌の感覚、情熱を前面に押し出すアプローチかの二者択一しか残らないように思う。あとは、日記風のもの。でも、これは合わない人にしてみたら苦痛でしかないから、ニッチな市場に訴えるものでしかない。いわゆる、小劇場タイプ。
そういう意味でも、作りとしては正統派の作品だと思う。ただ、難点をあげるとすれば、膨大な資料を必要とする故に、「事実」と「作家性」の境目がわかりづらいところ。そのため、読者を選ぶと思われる。『モンスター』のとったベクトルとは異なるエンターティメントの方法論である。
今年の初めに北海道へ旅行した際に、地元の新聞を購入したら、星野先生が載っておられた。どうやら、北海道で暮らしていられるようだ。今回の作品にも蝦夷の話が出てくるが、北が蝦夷だとすれば、南は熊蘇である(もっと南へ下ればウチナンチュがいるけれど)。九州男児としては、こういったこれまで歴史の表舞台に登場しなかったような地域、人々にもスポットを当てているものは大歓迎である。
昨今の騒々しい世の中のトレンドにはとても辟易とさせられる。「国民の歴史」などというものはフィクションであり、現実には存在しない、というのが実感として根強いので、夢物語としての「国家」論には疑問を感じざるをえない。
そういえば、5巻では「もんじゅ」「ふげん」などの原発について取り上げられていた。先頃起こった東海村の事故などをみていると、「星野先生、予言されていたんですか!?」などと、つまらないことを考えてしまう、、、。それはともかくとして、このシリーズはとても楽しみにしている作品なので、サハリンへ渡った宗像教授がどのような「仮説」に到達するのか今後の展開に注目したい。
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