吉田うどんの歴史

1、富士吉田市は、富士山の麓で標高の高さに起因する冷涼な気候に加え、溶岩流や火山灰土といった稲作に適さない環境にあった。厳しい環境であるために、食生活も豊かとはいえず、明治以前は麦を使った粒食、粉食が中心であった。この地方はうどん文化の基盤となる粉食文化が古くから根付いていた。

 一般の家庭では、「にごみ(ほうとう)」が常食とされており、「うどん」は貴重な食べ物として盆や正月、結婚式やお祝いといった普段とは違う晴れがましい日(晴れの日)に食べられてきた。今日でも、富士吉田ではよく宴会の終わりに必ずといってよいほどうどんが出て、その宴を閉じるといった風習があり、典型的ななごりといえる。


2、富士吉田市内の上吉田地区は古くから富士山吉田口登山道の玄関口として栄えてきた。富士講など富士参詣客が多く集まるこの地区に農家が自宅を昼時だけ開放してうどんを供したのが始まりといわれる。今でもその名残で看板になる暖簾もかかってないような店が見られる。

 昭和初期に紺屋町と呼ばれ、織物市が立ち、東京や大阪・名古屋などから織物の買い付けに来る問屋の人や近隣からの織物を売りに来る人たちのために食事の場としてうどん屋が繁盛したとされ、その周辺の町化の進化とともに町場のうどん屋が増えてきたのである。

 また織物業が盛んになっていった戦後、自宅で織物の機械を動かしている女性に代わり主人がうどんを打っていたという姿もみられたとか。すなわち、この地域は養蚕や機織が産業の中枢を占めており、機織の主役は女性で、寒冷地のため、男性の仕事は行商くらいで、そのため、男性たちは家にいる間は機織の女性達のための昼食としてうどんを打っていたという。