●約35年間…人目を避けて生き続けたツキノワグマ物語●

 この愛すべき熊公が最初に話題になったのは昭和11年5月17日早朝のこと。同月24日発行「島の新聞」の1面を大々的に飾った報道から当時を再現すると…。
 17日朝、園丁が熊園のコンクリート壁に立てかけ忘れた梯子を伝って牝牡の3歳熊脱走を発見。通報を受けた警察、消防団が懸命に捜索するが同日は発見出来ず。
 翌18日に再び大捜索を開始し、公園付近で牝熊捕獲に成功する。一方牡熊は同日寄る10時頃、公園から3里も離れた外輪山御神火茶屋隣接のラクダ小屋でラクダと同衾。
 19日明け方、命からがらに逃げ出した番人の急報で、警察署長以下、島を挙げての大捜索。熊の捜索中に人間の白骨死体も発見したりの大騒動に発展。熊はまず野増村アジコ付近に出没。同村乗馬組合員の一行6人が乗った馬が突如棒立ちになり、何事と思えば熊公は樹の下で雨宿り中。遠藤政治君(23)が印半纏を熊公にかぶせて大格闘を展開するが、熊は林奥に姿を消した。そして午後2時半、熊公は野増村小学校近くに出没したが、同夜は結局発見出来ず。
 20日正午、野増村の吉村かよ(76)ばあさんが草刈中に大いびきの熊を発見。岩田巡査部長指揮下、消防団員30名が千波岬海岸絶壁に追い詰め、遂に何十もの網包みで捕獲に成功。野増から泉津へ沿道群集の歓声に送られて無事に熊園にご帰還となった。一緒に逃げた牝熊はじめ他の5頭と楽しげに遊び出したとさ…。

 そして
昭和11年10月4日の「島の新聞」に、「熊公行方不明」の記事…
 泉津村動物公園を脱走した仔熊二頭はどこに潜入したか、園の人達や大島猟友会の連中が鉄砲を持って雨の中を探しまわっているにもかかわらず姿を発見出来なかったが、2日昼頃、元村薬師堂付近の畑で甘藷を食べていた一頭を野増村の農婦が見かけたが、密林のなかに姿をくらませた。同夜9時頃、御神火茶屋に現れ居間の窓を叩き、飼犬もふるえる様に大島署に急報するも、その後、姿をくらました、と報じられている。

 昭和12年1月17日「島の新聞」に、こんな記事が載っていた。
 去る10月、日本1の熊狩り名人と折り紙をつけられた岐阜県保安課や荻原署の推薦を受けた同県の奥田邦義(34)が、熊3頭を生け捕ったとし、県と東京湾汽船から旅費や日当を受け取っていたが、
生け捕ったは真っ赤な嘘と判明して豚箱入りになったと名古屋の新聞に報じられている、と掲載。

 
昭和12年4月25日「島の新聞」に…「熊吉さん、熊に仰天 千ヶ崎に生息か」の記事がある。
 岡田村字小堀の熊吉さん(45)が、22日の朝、千ヶ崎へ蕗採りに行くと、竹薮の中から真っ黒い怪物が飛び出して付近の山林の中へ逃げ込んだので仰天。これは昨年9月に脱走した熊ではと大島署に通報。捜索したが熊の糞便は発見されたが姿を発見するに至らず、とある。付近には熊の棲むような自然の洞穴が数多くあり、アシタボや小鳥等を食い荒らした跡が残っていたので付近に棲息しているものと、引き続き捜査している、と書かれていた。

 そして昭和30年(1955年)12月26日の朝日新聞・夕刊にこんな記事があった。
タイトルは「大グマ出没 伊豆大島で」以下全文です。
「最近、伊豆大島に四十貫はあろうという大グマが出没し、地元大島署は全力をあげて生捕りを計画中」との報告が、26日警視庁に飛びこんだ。それによると、最初は十一月二日、大島町岡田大島灯台付近の海岸を大グマが散歩しているという届出が続々とあり、続いて今月十一日、三原山の中腹で農業・机佐吉さんほか一名が、杉の木の皮を食っているところを見たという。大島自然動物公園の小栗園長の話では、昭和十一年にこの動物園で子グマ三頭の脱走事件があり、うち二頭は捕ったが、行方不明となった一頭が以来二十年近く育ちに育って大グマとなったものという結論。
 それから13年後の昭和43年(1968年)10月10日の朝刊に、こんな記事が載った。
 見出しは「畑荒しのクマついに射止める」。以下、全文。
…伊豆大島新開地区で落花生畑を荒しまわっていた月の輪グマが9日夕方、ついに退治された。大島猟友会の白井与喜男さん(34)ら三人が新開十四農業岡村哲男さん(33)方の畑に張込み、落花生を掘出したクマを一斉射撃、射止めた。
 さて、同一のツキノワグマだったのだろうか。だとしたら約35歳。
 HP「Black Bears in Tokyo」(奥多摩ツキノワグマ研究グループ)の山崎氏にアドバイスを求めてみた。
「島の閉鎖環境では、残り1頭では繁殖は不可能。射殺された当該個体は同一グマなのでしょうね。ツキノワグマの寿命に関しての信頼できるデータはまだ公表されていませんが、私の調査地域(奥多摩)では、捕獲個体(学術・狩猟両方)の最高齢は19歳程度です。動物園では一般に野生固体よりも長寿になりますので、島のような温暖で暮しやすい環境であれば、35歳まで生きる可能性もあると思います」
 とのこと。
 
だとすれば、これは記録的な大長寿ではないか。狭い島の中で、子熊から老熊に至るまでの人目を避けての孤独な一生だったに違いなく、その哀愁満ちた“熊生”に思いが馳せる。
 その長寿を思えば、きっと食う物(主な食べ物は草木類、ドングリ、昆虫など)が潤沢だったのかもしれないし、冬眠する場もあったのだろう。狭い動物園の中で仲間と過ごしたほうが幸せだったのだろうか、いや、人目を避けながらも管理されることなく、自然の中で生きた方が良かったのだろうと思う。陽だまりのなかで淋し気に眠り、寝返る姿が浮かんで来る。寂しかっただろう、食い物にありつけぬ日もあっただろう…。
 最後は射殺されてしまったが、したたかに生き抜いた“熊生”に拍手!

※大島町総合センターに「ツキノワグマ」の剥製が飾ってあった。寄贈者の名に沖縄とあって、さてどんな謂われを有した剥製なのだろうかと気になった。知っている方は教えて下さい。

※2002年(H14)10月5日ヤフーのニュースに「クマの環太が老衰死」の記事があり、読んでみたら彼は推定年齢30歳以上で、人間なら90歳を超えるとあった。環太は里山の民家・納屋で10年前に捕獲され、自然破壊を考えるシンボルとして島根県金城町で飼育されていた。大島のツキノワグマ、35歳の長寿、ありえますねぇ。



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