「東京市史稿」の遊園篇・第一巻〜三巻より「戸山荘」関連文献(その1)
わからぬ文はそのままに、旧かな・変形かな・合字などは活字がないため現代かなに直したりして掲載です。
転記しつつ、古文書(原本)ならぬ釈文(解読文)すら読みこなすに難儀なアタシのこと、
間違いもありますゆえ、正しくは「東京市史稿」をどうぞ。
「あぁ、そんな資料があるんだなぁ〜」とわかっていただくこと、及びアタシの勉強コーナーでもありますから、
閑をみてはメモ書きなどを加えてつつ収録です。
「古文書判読演習」など読みつつのスロースタディー(六十の手習い)でございます。


同書に以下の文献が納められていました。
「遊園」第一巻に和田戸山庭築造 寛文11年(1671)
「遊園」第二巻に将軍戸山荘遊観(和田戸山御成記・戸山の春)寛政5年三月(1793)/将軍戸山荘再遊寛政9年(1797)
「遊園」第三巻に戸山園図記 文化9年(1812)/戸山荘景勝 文政7年(1824)/将軍戸山荘立寄 弘化4年(1847)



<「遊園」第一巻>
是年寛文十一年 名古屋尾張国城主徳川光友権中納言和田戸山ニ別業ヲ賜ヒ、林泉ヲ築ク
和田戸山庭築造 尾張侯徳川光友別業ヲ和田戸山二賜フコトハ、尾張藩邸記、戸山御屋敷新道御屋敷共

寛文十一亥年御拝領
一、八萬五千拾八坪
御抱屋敷分
二、四萬六千弐百弐拾坪半 済松寺領祖心宗参寺地入合
…以下略(周辺地を拝領、買上げの記録が十三項続く)

和田戸山 高田の内なり、尾張黄門光友卿の御下屋敷となる。此所に一本松あり。其松を則野山の御庭にしつらはるゝ。東に天野山七面の明神ありつるか、其後みやうか澤の山より大久保まで御屋敷の搆に入て、天神と七面も、替地を下され他所へ移る。
庭園の築造ハ、純堂叢稿ニ據レバ、寛文十一年ニ著手シ、而後邸地ヲ添フニ従ヒ、次第ニ規模ヲ弘広シタル者ノ如シ。

 
尾州公戸山御庭記
両臨堂
 以前は両面之御茶屋と唱候
延実三卯年出来(しゅったい)。此御茶屋より御殿御庭之間邊竹垣内、太田道灌屋敷跡之由申伝候。
道灌松
往昔太田道灌物見松にて、江戸中に見へ候由申伝候。其後枯候
付御伐(きら)御座候筈杣(そま)伐候節、血の如く成物出、杣(きこり)も怪我致候につき、伐り候義相止申候由。今に枯木其侭ニ御座候。右邊より元山邊、西御水門より御泉通り新御長屋邊まで、祖心尼拝領地候処、瑞龍院様に差上度由、霊仙院様に数年祖心願拠る、寛文七年末永代無年貢に御求御座候。右祖心比丘尼ハ、自證院様御兄弟にて、俗名おこなと申候。俗之節者御奉公相勤られず候得共、比丘尼にて御奉公勤られ、大猷(ユウ、人名:のり・みち)院様御出頭由御座候。
水神宮
右宮市ヶ谷より御引移御座候由。社之後より清水湧出、修仙谷之内に流れ、同所御茶屋前にて弐間余五、六間之地州ニ成、小舟等も御座候由。瑞龍院様御逝去の頃から水涸候由申伝候。
錦明山 已前者(イゼンハ)、天神山と唱申候
天神山并(ならびに)御拝殿鳥居、延寶七未年御取建御座候。右天神御大切
被レ遊候付、拝礼奉願候輩有之候得者、御前に奉伺候由。右天神御軸物、座像、上十一面観世音雲に乗りたり給ふ体の画に御座候。錦明山御座候躑躅者、おごは躑躅と相唱へ候由。瑞龍院様御聴させ被遊候由申伝候。右同所御茶屋、右出来之年限相知不申候。
修仙谷 已前ハ大谷と相唱申候業
元御数奇屋者元禄四未年出来、其後大破
て相成候て無御座候処、寛政五丑年御茶屋再御取建出来。
臨遥亭
元禄ニ巳年御取建御座候。右同所御額者、随龍院様御筆之由ニ御座候。御縁先ニ龍虎と名御座候。右之虎たりとは龍にて御座候。
竹御門
延寶六午年出来。右御門御額、随龍院様御筆之由御座候。
鳴鳳渓 已前ハ龍岡と相唱申候。
右御所橋、寛文十一寅年出来。
細田御在郷家
延寶元丑年出来。右御在卿屋敷前
田御座候付、如此相唱申候。
竈御在郷屋 右同断出来。
宇津屋地蔵堂 延寶五巳年御取建出来、御銅仏地蔵天一体御座候。
坂下御門 寛文十一亥年出来。
茯苓坂桜之御茶屋、黒木之御茶屋、菱屋御茶屋、ニ三囘三ヶ所御茶屋。
右御茶屋之方、延寶五巳年出来。御成之節、此所ニ御重御食籠御酒御菓子等飾り申候由伝へ候。
和田戸大明神 往昔和田戸山村之鎮守之由ニて、此辺氏神由申伝候。
和田戸明神神主宅 延寶五巳年出来。
達磨堂 延寶六午年出来。達磨像、御彩色、山田良斎細工之由伝へ候。
玉圓峯 以前者丸ヶ獄と相唱候。
御泉水御掘らせ御座候土、男女拾五歳以上之者、土を御運はせ被
遊給候節二、抓銭被下置(げちそうせんをせらう)、此御山出来いたしけり。是者大原邊之内百姓地ニて御座候、高田源兵衛村邊に代地被下候ニ付、御救ひニ右之通被仰付候由申伝へ候。
※大原辺りの百姓地を高田源兵衛村辺りに代地したため、彼等を助けるために男女15歳以上の者に給金を払って、御泉水を掘らせ、その土を運ばせてこの御山が出来た。
 琥珀橋 右橋長サ拾五間。   四ッ堂 元禄九年出来
 
傍花橋 延寶元丑年出来    随柳亭 同年出来。
 
吟凉橋 寛文十一亥年出来、土橋ニて御座候処、寛政年中欄千付御橋ニ相成申す候。
王子権現
右王子権現社并(ならびに)御拝殿延寶元丑年御取建御座候。王子権現の別当宗伝寺の地面御庭内に入候節、宗伝寺早稲田町中里へ引移申候由、鳥居ハ寛文十一年出来。

役之行者堂 寛文十一亥年御取建出来。
右行者堂有
之候笈螺貝ハ、鈴木三郎重家一所持○由ニ御座候と申伝へ候。但し行者彩色木像一体、前鬼後鬼木像弐体有之候。
文殊堂并仁王門
右堂者延寶五巳年御取建御座候。文殊菩薩一躰、外ニ御厨子入不動尊一躰有
之候。古来正九月護摩御祈祷候処、其後西山にて修行御座候。仁王門……院様より本壽院様に被遣候由。四ッ谷御下屋敷御座候、此処へ御引移被遊候由。
小庭山 山寺并鐘楼堂
延寶五巳年御取建出来、御銅仏阿弥陀如来一躰御座候。此所の御額ハ、瑞龍院様御筆之由。此所ニてニ季の彼岸御膳被
召上、この節御庭に罷出候者共に御土器にて仕度被下置候由申伝へ候。
六社 御庭内所々ニ有之候小宮、此所に御集させ御座候。
寛政五年丑年御取建出来。右者東より一、菊之宮、ニ稲荷、三、同断、四、同断、五、水神之宮、六、梅園稲荷にて御座候。
古道岐
鎌倉海道川越街道ニ御座候。


養老泉 以前者養老水と相唱候。
右御茶屋、貞享四卯年出来。門前貫井戸同年出来。此処瑞龍院様御歌ニ、
   山人の菊の白露積らし老を養う泉水の水

※瑞龍院:初代尾張義直の長男、二代光友。※これは紫色の大きな石をくりぬいた珍しい井戸で、横に茶屋が建っていた。
※現在の位置では戸山公園の学習院女子短期大学、都立心身障害者福祉センター下の人工瀧あたりではないだろうか。


御町屋高札文段者、随龍院御好之由申伝候。右段左之通、
  
制札
一、於
此町中、喧嘩口論無之時、番人ハ勿論、町人早々不出合、双方不分、奉行所に不届ル事。
一、此町中押買不了簡事。
一、竹木之枝裁利支丹堅停止之事。
一、落花狼藉いかにも苦事。
一、人馬之滞有てもなくても構なき事。

     年号  月  日
※現代文訳
一、この町中において、喧嘩口論なきとき、番人は勿論、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所に届けばからずこと。
一、この町中で押し買いは了簡およばざること。
一、竹木の枝、キリシタン堅く停止のこと。
一、落花狼藉、いかにも苦しきこと。
一、人馬の滞り、あってもなくても構わぬこと。


濯纓川
以前ハ大井川と相唱申候。此川前ニ者川幅広く砂利石之河原にて御座候処、今ハ小川にて御座候。右河原之内除ハ、攝津国小田之蛙御放シ被
遊候処、夫より外之蛙音を留申候よし申伝候。
※攝津国小田は岡山県小田郡か。中納言経通の歌に「折りにあへば是もさすがにあはれなり 小田の蛙の夕暮の声」がある。また「後鳥羽院御集」には「いぐしたつるいほしろ小田の浮草になくや蛙の声もすみけり」がある。
※さて、それほどに有名な攝津国小田の蛙の鳴き声は、どんなだったのでしょうか?今でも戸山公園、戸山ハイツには新宿だというのに、けっこう蛇も蛙もいます。

※東戸山小学校・校歌に「♪玉の泉の涌き出るところ…」とある。ちなみに女房と愚息共に同小学校出身で、女房の記憶だと、大久保通り沿いに校舎があって、35号棟辺りに講堂。校庭が今の約倍の広さで、北端に「上の御泉水」一部が残されたのか大きな池があって、その中にコンコンと涌き出る「玉の泉」があったという。戸山ハイツが現在の高層鉄筋建物になった頃に、この涌水は止まったと言う。


★この文献、まだまだ続きます。興味あるところから少しづつ加えて行きます。





<「遊園」第二巻>
享保二十年乙卯三月、名古屋尾張国城主徳川宗春権中納言の臣久世舎善、戸山庭記ヲ作ル。
戸山庭記  享保二十年三月末(1735)尾張藩臣久世舎善戸山御庭記有り。


 ことし享保二十年卯の弥生の末つ頃、名に高き戸山の御館へ花見の御ゆふの御供にまかりて、御庭の景色もあらまし見侍(はべ)りしに、聞しにまさる事のみ多かりき。只いたづらにのみ見んもいと口惜く、又日此他事なういひむつひし友にもかたり聞せはやと思ふ心から、懐中にてはな紙のはしに書付侍りぬ。寔(まこと)に大海の一滴なるべしや。せはしき中にそこそこ見もらしたる所書落したる所も多かるべし。まつ御殿づくりのさまいかめしく、いとめでたくいみしき事いふはさらなり。爰(ここ)に餘慶亭と御額かかりたる御殿あり。景色一しほ勝れたり。又富士見の御殿ともいふよし。西南を正面にうけ、かけ造りにて、前に御しき舞台あり。御座所よりむかひて富士山きと見えたり。見わたしたるかぎり、大きな松の木立しけりあひたるを、枝をため葉をならへぬるにや、中くほにいと平かに作りなして、むかふさまに富士をのせたるかと見ゆ。そのたくみなすさま、筆にも及びがたく、言葉にものべがたし。白扇倒懸東海天よいうか。○る石川丈山も、此所にては白扇直懸戸山松とやいひなまし。まことに積善の餘慶亭なり。
 千代も猶栄へん君か庭の面の松のはごしにみゆるふしの根
それより御庭に入る。入口に大きなり御門あり。左の脇に茯苓(ぶくりょう)山とて小き山有。むかし茯苓(松の根に生える薬用の菌)の出たるよし。坂あり、茯苓坂といふ。両脇一、二町か間御茶屋あり、町屋つくりなり、東海道のうちにてかやうなる所もありける様に覚ゆ。中程の右かわに和田戸明神と額を打たる社あり。神前の体いとたうとくみゆ。鳥居の前に川口屋と書たる飴箱にあめなどをかざりて、上に大きなる傘さしかけて売る体あり。貴賎群集の参詣も有へき心地そし侍る。神前にぬかづきて、
 あふくそよ此神垣に幾春も猶いく千代も君か栄へを
ゆけは程なく御泉水みゆる。渺々(びょうびょう)たる事湖水のごとし。こなたの岸に小船二、三艘つなぎてあり。大きなる橋あり。幅五、六尺、長さ四十間ほどもあるべし。むこうの橋詰に唐つくりにて、しき瓦の堂あり。水神堂のよし。名は四ッ堂という。州崎干潟の体。名にきく志賀唐崎の浦にもかくやおぼえ侍りぬ。御茶屋あり。御縁先に養老水とて井あり。堀ぬきにて、中よりわき出る水のそこらこぼれ流れいと清くして、誠に齢の延へき心地なり。老をやしなふ薬井の水とかや。貴詠も思ひ出られぬ。石爛松古是一年と聞にし仙境にいたれるやと、階前の風景に、
 境離
世俗縁。更怪至神仙。水接遠天浄。雲埋老樹連。
 莓苔封
路滑。芳草映階鮮。若不武陵客居。誰遊古洞邊。
 仙境もかくやはあらん花の宴
坂をのぼれが大原野なり。南北三、四町、東西十二、三町もあるべし。平らかにて芝野なり。北の方に作り松の竝木みゆる。これなん高田馬場の邊より諸人みはやしていふ戸山の松なり。此木たち近くみめくりても遠くみなれし景色もたかはす。坂の上に大きなる御茶屋あり。景色いへはさらなり。
 ことばさもけふはわすれてあかす猶あそふ戸山の松か。木のもとかく口すさみつつ、かのつくり松のほとりへゆけば、御物みあり。高田の馬場目の下に、ゆき々の人もみゆる。それより東の方へ道あり。鎌倉海道と云よし。きせるくはへて歩けるさまいかにも道中のていなり。杉檜の大木おのれかほにしけりあひて、深山のごとし。其中に連理(一本の木の枝が他の木の枝とくっついて、木目が同じになってしまっていること。夫婦や男女の深いちぎりのたとえとして使う。〜の枝)の木あり。二本の木の枝連り合て、何れの枝とも見わかす。まず臨遥亭と額うちたる御茶屋あり。御数奇屋作りなり。御額は亞相公瑞龍院様御筆のよし。穴八幡目白の台小石川邊眼前にみへ、遥に筑波山などもみゆる。遠望まことに臨遥亭なり。民のかまども賑ひにけるとの御製もひ出けれは、
 目も遥に民のかもとの長閑さを煙にしるき庭の数々
とあだ口の出を任せにいひもてゆけば、龍門の瀧へ出る。二丈(約6メートル)計の瀧なり。かの湖水の落口也。夏の景色はさぞと思ひやりてすきぬ。此さきに谷の御数奇屋といふあり。御破損あるゆへみす。先はきり島山にて。目のおよぶほどはきり島なり。かたへの松にときという鳥の巣に居けるを見て、
 所から巣ごもる鳥の大やうさ
程なく天神山なり。松梅の大木茂りたる中に、天満宮の御社あり。宮居ものふるく神さひて、いとたうとく覚へぬ
 ちり失ぬ松も木ふかくよふこ鳥
此間に両面の御茶屋といふあり。言語道断なるけしきなり。それよりにつ坂とて九折の坂あり。中程に地蔵堂あり。是より彼湖水みゆる。いかさまにつ坂峠より大井川をみける心地そし侍る。急なる坂にて、気色もよろし。坂を下りて左の方へゆけば、鬼の岩屋といふ洞あり。鬼の形木にて作りてあり。
 鬼も人も心やわらく花見哉
その先に瀬戸の御かま屋あり。焼物作りか。家あり。古釜あり。古跡なり。御泉水の岸に山吹の今を盛と咲みだれ露ふくみたるさま。井手の玉川もかくこそと思ひやられて、
 影みへて下ゆく水も匂ふらし咲色ふかき池のやまふき
その先は百日紅の林なり。それより琉球のやし咲出たる先に御舞台あり。夫よりしはらくゆけは、田舎めきたる御茶屋あり。流あり。大久保天神の下より流れ来るよし。橋あり。田家あり、山田の体なり。此所にてはじめて蛙の声をきき侍りき。むかし攝津国小田の蛙をはなさせ給ふよし。それより外の蛙音をやめて鳴ぬとそ。思はさりき名所の蛙をきき侍る事と、しばし立とまりて、
 めつらしな此山里に名もたかき小田のかはつの雨をまつ声
其先に御祈祷所あり。前に護摩堂あり。正五、九月は、光松山放生会寺の来りて執行のよし。御馳走所とて御座敷もみゆる。それより大木をひ繁りたる中に、さも更々しき寺あり。大門に西南山と額をうてり。此地深山幽谷なり。猿抱
子去青嶂後、鳥含英落碧岩前と答へたる巫山の山岳にもをさ〃劣るへきかあは。門内に幾年を重ぬらん物ふりたるいてうの木あり。唐国のけたものもいと快く熟睡たるさま、四睡の御心にや有けん。本堂は九間四面なり。紫摩金の光りあさやかなる阿弥陀の像おはします。内陣の様なと事しけゝれはのこしぬ。何れも丸木作りにて、大木のしゃれたるをもて心の行かきり工みに作りなしたるとみゆ。寺号は世外寺といふ。花鳥の色音も世の外の様に思われ、かの澤庵和尚の、
 人けなきかきねのしとゝ声さひて浮世の外の春の庵かな
とよみ給ひけん、あるは又燃
松煮石髄、對月語禅心といへる語も、かゝる禅林にて云けるにや。回廊つゝきにて庫裏あり、鐘楼堂の鐘もさしわたし三尺計の大鐘なり。かやうの蘭若のあるべきとは思ひよらざりし。
 是はさて実世外寺の藤つゝし
門外に観音堂あり。その内に弁才天鎮座なり。伽藍にて彫たる也。名香にてや有けん。匂ひ四方に薫す。その先に五重の塔あり。文珠堂あり。御学問所と書付あり。御亭もあり。其邊に隠里の御茶屋とてあり。いかにも山家めきたる所なり。是も浮世の外と思へはとあそはされつる亞相公の御詠歌、則御筆にて額前方はありけるよし。其先は草花の畑なり。一、二町計と覚ゆ。是より道中体にして、五十三次となんいへる御町屋あり。七、八町もつゝくへし。両かは町屋なり。思ひ思ひの店つきにて、色々買物などかざりたる様、興ありてまたおかし。所々に茶屋あり。本陣らしき家居もあり。東海道の體をうつさせ給ふとみゆ。湖水のむかふに梅の園みゆる。あなたこなたへ曲りたる橋もみえ、月雪ともにみまほしき所なり。此御町屋の台に人麿のやしろ有、尊像もあり。誠に此御神にて和歌を守らせ給ふ故に、敷島の道に心をよするうすき人あかめたうとみ奉る。つくづくと夏の景色を詠めやれは、湖水の面に明石の浦ともいふべき所ありて、島かくれゆくとの神詠も符節を合せたるかことくなり。此所より四、五町ゆけは、阿弥陀か洞といふ、弥陀堂あり。奥の院より其先にちいさき庵あり。廬山寺と額有。蘭省花時錦帳下、廬山雨夜草庵中といへる詩も、思ひ出侍りぬ。其下に土橋あり。虎渓の橋ともいふべきにや。みぬもろこしの気色も思ひやられける所なり。かの淵明に誘れて覚えす橋を過て笑し人々の心を思ひつづけ侍りて、
 手を打た笑をうつせ若楓
其先に行者堂と書付たる堂あり。ゑんの優婆塞の像あり。いかさますせうにみゆ。さためて名のある作にても有りけん。かねの御嶽も思ひやらるるさま也。像のかたへに笈とほらの貝あり。鈴木三郎は負たる笈(おい)のよし。古き品なり。次に翆柳亭といへる御茶屋あり。湖水の端なり。是も絶景の所なり。それより一、二町すきて、神明の御やしろあり。鳥居水中にあり、物ふりて神さひたる様、たうとき宮居なり。此所より山里の御数奇屋へ行道あり。此節夕陽に及しまま、夕けしきを御覧とて又大原野の末へ御立帰也。荻薄の一面にはへたる所をゆけは、湖水のむかふに紅葉の林みゆる。弁慶岩とて大きな楠岩の有、かたべに御腰掛あり。雪月花の眺望も此所にきはまりぬへし。日も西山にかたふき、入日湖水にうつりたる様、画工も及ふへきやは。御供の老若も思ひ思ひにうちちりて遊ひけるのとけさ、一時千金の暮色なり。
 慣吟買島立囘(まわ・る カイ)
頭。雲払長空晩興幽。水色山光堪書処。一望千里意悠々。
 のとけしな末野を広み諸人の袖うちつれて遊ふ夕はへ
かくなん口つさみける内に、御泉水に夕月のうつりしかは、
 あかすみん此池水に幾千代も月と花とのふかき色香を
まことにかかる御庭のけしきを終日みめくり、詩を賦(みつぎ)し和歌を詠し俳句をまうけ詠みを我物にする事、偏に当君の御恵広くゆたかにいまそかれはなりと、忝(かたじけな)さは養老の泉も及ふへきにやと存しつつけまつりて、
 かたしけな此山の井の千代かけてくむともつきし君かめくみは

久世氏舎善戸山御館の御供にまかりて、御庭の佳景素聞をおとろかしけるを、唯にやみなんもほるなく、書ととめ、且和歌を詠し、俳句をまうけて、彼是一冊となれりけるを、袖して来リて予に跋せよと云ふ。誠にみぬ西湖の十景もくわしく書つらぬれは見る心ちなんし侍る。ましてまのあたり見奉りて書顕しける、見ぬ人の為には亀鑑ともいふへしや。彼書に跋を記さむ事は我何をかいはん、ひとへに闇中の瓦礫なるへしと辞し侍れと、ゆるさす。よりてもつて其志感する所を東笹子南窓下に筆をとる事になりぬ。

 戸山御庭記、得藩中秘本之。
 時寛政七年乙卯葉月十六夜雨中採筆畢
         杏花園 太田覃

※写本した太田覃は、かの太田南畝(なんぽ)。下級武士でありながら狂歌師、戯作者として名声を博す。別号・四方赤良(よものあから)、蜀山人、そしてこの杏花園。しかし松平定信による「寛政の改革」で、それまでの狂歌界と絶縁し、幕府の人材登用試験に46歳、白髪で受験して合格。昼は能史(のうり)、夜は蜀山人の人生を歩み出した。この写本はその翌年のもの。寛政10年(1798)8月に戸山荘二十五景を描いた谷文晁(たにぶんちょう)とも交遊があった。小寺武久著「尾張藩江戸下屋敷の謎」に、「蜀山人太田南畝と戸山荘」の項があるが、寛政の改革と南畝、谷文晁と南畝などにはあまり触れられていない。この辺は面白いテーマになりそう…。



何年かかるか、閑をみてコツコツ・コツコツ転載・現代訳をして行きます。七、八篇あるんですよぅ〜。

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