●東郷青児18歳の約1年間の大島滞在●

 東郷青児は、大正・昭和の洋画家で、二科会会長を務めた画壇の重鎮。 1897年鹿児島生まれで、1978年80歳で亡くなっている。
 生前の昭和48年(1973)2月18日の朝日新聞の全面企画「ふるさと今昔」で伊豆大島を取り上げ、氏の「
月夜に狂女の唄・つい誘われて」のエッセーが発表されている。著作権があろうから全文は紹介出来ないが、大体の内容を紹介。
 …18歳の時に、藤森成吉の「波」に感動し、中村ツネの椿咲く島の風景などに刺激された結果、伊豆大島に1年近く滞在した(大正4年頃だろう)。青踏社同人の原田皐月女子の若きツバメだった千葉医専の学生が大島で療養生活をしていて、ひんぱんに手紙をよこしたせいでもある。当時の大島はまったく忘れられた孤島で、東京・霊岸島から月2回、静岡県伊東からポンポン船の郵便舟が週1回通うくらいのものだった。無論、電気、ガス、水道などあるはずもなく、食物はもっぱらイモと魚。船のなかで乗り合わせた三崎の七という漁師の、元村海岸にある彼の離れを1ヵ月食事付き5円で借りることになった。離れとは、島でいう隠居所のこと。到着したその夜のこと、女の切々と哀愁を含んだ唄声を聞いた。私を見てにっこり笑う。走り寄ると逃げる。宿のおばさんに話すと、あの子は内地から来た学生さんに捨てられて気が狂い、内地の学生さんを見ると誘いの唄を聞かせに来るという。そんな大島が好きで1年近くも滞在してしまった…。
 と、こんな内容。また同エッセー下に、大島第3中学校長肩書きの藤井正二氏が、大島紹介文を載せている。それによると大正時代までは「
大島名物西の風に牛の糞」とからかわれていた。冬の名物西の風も、昔に比べて近年ははるかに吹かなくなったし、ホルスタイン牛を盛んに飼って日本一を争った乳量も衰退し、いまや牛糞に変わって三原砂漠の約百頭の馬の糞が多くなった。「画家として大成を期するならば、いっぺんは大島を描かなければダメだ」といわれた明治、大正、昭和初期から、今はテレビの怪獣とスーパーマンの活躍のロケ地として、全国の少年たちの目を奪っている、と記している。
 なお東郷青児は大島滞在の翌年、「パラソルさせる女」で二科展に鮮烈なデヴューを飾っている。アララギ派の土田耕平、文中の藤村成吉しかり、島に長期滞在した芸術家は後に名を成している。島好きのすべての方にも幸あれ…とあやかりたいものである。


藤森成吉:大正2年に大島を訪れ、その経験をもとに処女作「波」を発表し、後に「若き日の悩み」と改題。いずれ同小説はブックガイドで…。
中村ツネ:洋画家。元町・長根浜公園に記念碑が建立されている。
原田(安田)皐月:「元始、女性は太陽であった」と高らかに宣言した平塚雷鳥主催の雑誌「青踏社」の論客。同誌に「獄中の女より男に」を発表している。
霊岸島:ちょっと不気味な地名ですよね。ここは現在の中央区新川一、二丁目。江戸の城下町が開拓される前までは沼地だったが、ここに霊岸寺が出来、さらに明暦3年の江戸大火で市内の町々が集団移住して来て発展した。明治時代からは湾内海運の発祥地となり、当時はここから大島行きの船が出ていた。



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