コンちゃんの…
<大島ツキンボ・ワールド>
「ハマちゃんの掲示板」に掲載されたコンちゃんの<ツキンボ>記述から生まれたコ−ナーです。
従って、このコーナーの著作権はコンちゃんに帰属します。



●元ツキンボ漁師「J」の海難物語●

 暗くなった黒潮の海の遥か向こう、天城の山々に橙のような夕陽が落ちようとしていた。伊豆半島の点在する町の灯りがポツリポツリと見え始め、沈みかけた陽の最後の光が、暗い海原にキラキラと一条の煌く揺れをつくっていた。
 元町港堤防先端の灯台の明かりが一段と増した。潮に曇ったガラス窓に囲まれた居酒屋の一画で、男達が焼酎のボトルを傾け始めていた。朝早くから動き出す島の、夜は早い。射し込む夕陽の光で煙草の煙りが黄色く霞む店奥で、常連客らがグラス片手に、昨日の野球や今日の競馬を島言葉で冗談をまじえつつ盛り上がっていた。
「お刺身おまかせで、あと、あしたばのごまあえと島たくわん。あっ、K子さん。くさやでなんかいいのあります?」
 ビールを冷蔵庫から勝手に出し、自分で栓を抜きながら注文をした。
 ほぼ毎週、伊豆大島に通い夕飯をこの店で済ませるために、いつのまにか常連客の隣のテーブルに案内してもらうようになっていた。肴をつまみながら最初のビールを空にした頃、厨房から店主のSさんが暖簾を手でよけてヌッと出てきた。日曜日の夜とあって観光客は少なく、厨房仕事をひと通り終えた主人はジョッキに生ビールをいれて話し相手のいない私の向かいの椅子に座ってくれた。Sさんには伊豆大島の魚、地理、風習をはじめ、いろんなことを教えてもらっていた。特に得難い知識は「ツキンボ」に関してだった。
 ツキンボを知らない人のために、ここで簡単に紹介しなければなるまい。
「突きん棒」と書けば少しはわかりやすいだろうか? 素潜りで海にはいって「銛」で魚を突く漁法を、島では「ツキンボ」と言っている。銛にもいろんなタイプがある。仕掛けは、たいていのものは銛の尻にある輪っか状のゴムチューブをひっぱって、銛棒の中程で強く握る。トリガー式のものは楽だが連射ができないため、握力が必要となるが手で握るものを使う人が多い。握った手を緩めるとゴムの戻ろうとする力で勢いよく銛が前に飛び出して目標の魚を突く。
 魚の種類にあわせて銛の長さ、銛先などを換える。大平洋沿岸の海では子どもの遊びになるほどポピュラーだが、もう漁としてはほとんど成り立ってはいないだろう。沖縄のそれも離島のドキュメント番組などでたまに見かける程度だ。残念だが水揚げの絶対量が少なく市場に出回らないために値がつかなければ廃れるのも当然なのかもしれない。
 次はどうやって魚を捕るかを説明しよう。銛先だけが数メートルも飛んでいくスピアフィッシングと違い、魚にギリギリまで近付くツキンボは、魚に気付かれると逃げられる。遠くの方からゆっくりと近付いて、ボーっとした魚や海草や虫を食べるのに夢中になっている魚を狙う。もちろんタンクを背負ってるわけではないので、海底を這うようにして長く潜ったり、海面からやっと見える魚を追って深く潜る身体能力も必要だ。子どもの頃から磯辺で鍛えれば、岩場の魚なら上手に突けるようになるだろう。せめてその程度になりたくて初級編のツキンボ技術やポイントをSさんから教えてもらっている。
 一度調子よく何枚もブダイやカワハギを突いたことがあって、冗談まじりに
「プロになれますかね?」
 と聞いたところ
「岩場で貝採りの途中じゃない限り、プロはそんなのは突かないだーよ」
 という。ではプロはなにを突くのか?
 プロというのは金を稼がなくてはプロといえない。少しでも金になる魚を突こうとするとヒラメなどの高級魚を狙うかカンパチ・ヒラマサなど大型魚のいる沖に出るのだ。沖でただ待っていても魚は来ない。どうするのか。カンパチ・ヒラマサが群泳する沖合いで水中深く潜って岩にしがみついて待つ。好奇心の強いカンパチ・ヒラマサが侵入者に気付いて近付いてくるまで海中でじっと辛抱する。そばまで来ると横に目のついてる魚はよく見ようとクルッと腹をみせる。素人なら的の真ん中を突いてしまうがそれでは魚が暴れて逃げられるし、なによりも商品価値が下がる。腹をみせた瞬間、神経の集まる後頭部を狙いに狙ってズバッと突くというのだ。書いているだけで息苦しくなる話だが、リュック・ベッソンもこの話を聞けば映画『ル・グラン・ブルー』で日本チームをあそこまで酷くは描かなかったはずだ。この勇ましい漁こそ究極のツキンボといえよう。
 ビールを焼酎に切り替えようと席を立ったら、とっぷりと陽が暮れていた。元町は大島では一番大きな街だ。目の前の新しい客船ターミナルは営業は終わっているものの防犯のため電灯がついているし街灯も島のどこよりも多い。しかし都会にくらべれば闇が圧倒していて、孤島の夜はどの灯りも蝋燭のようにたよりない。
 Sさんととりとめない話をしているところにドアが開き、一人の男が暗闇から現れ店に入ってきた。常連客のテーブルが満席のため、所在なげにSさんの隣に座った。引き締まった体躯と陽に焼けた顔、潮に洗われた白ッ茶けた髪で海の男とすぐに判る。男には見覚えがあった。
「これが前にも話したけんど、昔一緒によく潜ってたJちゃん。んでこの人は海が好きで週末にはクニから来てうちで晩飯を食ってくれんだ」
 Sさんが面通ししてくれる。Jちゃんと呼ばれる男は暫く沈黙した後、ビールをグイとあおり煙草に火をつけ、煙りをゆっくりと吐き出しながら尋ねた。
「海が好きって、なにをしてんの? ダイビング?」
「いえ、ツキンボです。といっても子供の遊び程度ですが」
「へー、なにを突いてんの?」
「ブダイやカワハギがやっとです。一度まぐれでハマフエフキを仕留めました」
「あのすばしっこいのをよく突けたな」
 Jちゃんは不思議な笑顔で答えた。『板子一枚下は地獄。』といわれる海に遊びで入っているのと生活のために入っているのは同じようで全然違う。どんな仕事も好きで始めても続けていくことが大変なのは経験者なら判る。ましてや身ひとつ、命を賭けた稼業は一回一回がどんなに重いことだろう。男の笑みには何年も海に入り続けた矜持と都会からきて遊びでツキンボをする物好きな人間に対する興味が交ざっていた。
 ツマミをすっかり食べ終え深酒を始めた私は、不躾にもツキンボに関する質問を矢継ぎ早にしていた。Jちゃんにも酔いが廻り始め、いやがることもなく答えてくれていたが、ふと真顔になって私に聴いた。
「トウシキってわかんずら?」
「ええ、南部の」
 前に大島南高校の生徒さんがそこの堤防から流されたニュースを思い出し、周りの空気が冷たくなった。島の人の中には恐い話が好きな人がいて大島にまつわるお化け話や脅し半分の話をそれまでに何度も聞いたことがあるが、それまではなんとなく聞き流していた。が、しかし今回はどうも様子が違う。
「あそこから泳いで沖に出たんだけど」
「船じゃなくてですか?」
 念のために聴いた。
「ああ、狙いはカンパチ・ヒラマサだけど行き帰りでも何かは突けるからな。」
 淡々と話し始めたJちゃんには父親がこれから海の男になろうとする子供を諭すような雰囲気があった。火力発電所の電圧が弱くなったのか一瞬灯りが暗くなった。
「沖に向かうとしばらく目印はなにもない深場なんだけど、それでもどんどん進んでいくと岩が底の方に見える沖合いに出るんだ。その岩を抱いてヒラマサを何本か突いての帰りのことだった」
 ピューという音とともにドアから海風が入ってきて思わず焼酎を置き海を見た。黒く大きいうねりが元町港の岸壁をゆっくりとなめていった。

 ブルーの壮大なグラデーションの中に黒い人影がポツンと見えた。だんだんと浮き上がってくる泡とともにゆっくりと人影も上がってきた。どれほど深く潜っていたのだろう、ウエットスーツ姿の漁師だとわかるのに時間がかかった。身長の倍以上もある細く長い棒の先には今し方、突いたばかりの魚が必死に動いていた。逃げないように銛先をしっかり掴みながら海面に近付いてきた。
「プシュー!」
 勢いよくシュノーケルの先から海水が吹き出された。酸素を求める肺が大きく膨らんだ。腰から長く延びるロープをたぐりよせブイの先に獲物を通す。すでに何本かのカンパチがロープに括られていた。漁としては充分だ、もう帰ろう。とそのとき胸騒ぎがした。いつもと雰囲気がちがう。まずい、潮に流されたのか?
 ふと獲物に目をやるとまだ息のある大きなカンパチが無意識にゆっくりと泳いでいた。Jは獲物にかなり沖まで連れていかれてしまったのだ。ふと顔をあげると伊豆大島の島全体が目に入った。もうそれは島影といっていい風景だった。
 早く戻らなければ、Jはフィンを力強く動かした。まだなんとかなるだろう。快晴で波は穏やかだ。こんなに流されたのは初めてだが、似たようなことは二度三度ではない。たまに島の方向を確かめながら、体力を無駄にしないため潮流に逆らわずに黙々と泳ぐ姿には慌てた様子はなかった。シュノーケリングで泳ぐと海の底をみながら進むことになる。目標がない深海を漂うのは気持ちのいいものではない。いったいどれだけ自分が進んでいるのか判らなくなる時がある。見なれた岩が見つからないか目を凝らしながら泳いだ。ふと水眼の隅に大型の魚影が見えた気がした。もうツキンボはよそう。今は陸に帰ることが先決だ。
 Jはフィンを動かし続けた。しばらく泳いでいたところまた先程の魚影が見えた。ただの魚だろうか? 嫌な予感がした。突きん棒は銛で魚の頭部を刺すため大型の魚ほど大量の血液が海中に流れ出る。その血の匂いは海の食物連鎖の頂点に立つものを呼んでしまっていた。嫌な予感は的中した。ハッキリと視界に入ってきた魚影は菱形の獰猛そうなスタイルをしていた。
 鮫だ!
 大型の鮫がJの周りをうろうろしている。
1匹? 2匹?
 いや濃いブルーの奥の方にはまだ何匹かいた。いつのまにか群れになっていた鮫の中心に自分がいるのが、いやでもわかった。必死になって泳げば鮫を刺激する。かといってこのままでは潮に流される。疲労もたまってきた。そして最悪なことに日暮れが近付いてきた。
「万事休す。」
 Jは思った。
 陽は沈んだ。西の空に少し残った明るさも消えようとしていた。それでも陸に帰るんだという思いだけが身体を動かしていた。かすかに船のディーゼルエンジンの音がきこえた。遮る物がない海ではかなり遠くの音が聴こえる。海面から顔を上げ見回したが背の高い自動車運搬船の船影が彼方に小さく見えるだけだった。群青色の空に星が輝き始めた。夕から夜への変化がこんなに速いとは思わなかった。とにかく戻るんだ。フィンを動かしながら自分を勇気づけるものの闇が無情にも空と海を支配し始めた。ブルーのグラデーションだった海ははいつのまにかタールのように真っ黒になり、身体にまとわりつくように感じられた。
「ガシャン!」
 業務用冷蔵庫の製氷機の音で我にかえった。常連客はいつのまにか帰っていて客は我々だけ った。そのテーブルにSさんの奥さんのK子さんも加わっていた。
 この話は何度も聞いているだろうに夫妻は黙ってJちゃんに聞き入っている。何度聞いても恐い話には黙るしかないのだろう。やっとSさんが口を開いた。
「オレも何度か鮫に会ったことがあんだけど、あれは魚の群れの最後に付いてることがあるんだ。オレが思うに用心棒みたいな役をしてんだろうか、群れの魚に食いつくわけでもなく、たぶん弱った魚がいたらそれを食べるくらいで、ただ後ろにくっ付いてるんだ。一回、鮫にかまわず群れの魚を突いたことがあったっけな。図鑑で見る限りホオジロザメだと思うんだけど、なにすんだって感じで大きいのが近付いてきて、あんまり気味悪いからツキンボの先で鼻先をチョンと小突いたら逃げてったな。」
 いやー、まいった、まいったという感じで短く刈り込まれた頭をさすりながらSさんは焼酎の明日葉汁割りを飲んだ。ホオジロがそこにいるのにツキンボするなんて!こっちがまいってしまって島たくわんを口にくわえたままでいると
「さすがにJちゃんほどの目に会ったことはないなあ。まあ続けてけーろ。」
 Sさんに促されてJちゃんはまた話し始めようと吸っていた煙草を揉み消した。私は島たくわんを急いで呑み込んで耳をすませた。

 極限状態になりつつあるJの耳にまたエンジンの音が聴こえた。幻聴かもしれないが藁にすがる想いで顔を上げた。遠くに船の照明が見えた。今度は小型船のようだ。こっちに向かっているのだろうか。もう助けを呼ぶしかない。Jは力の限り叫ぼうとしたが声にならなかった。海の中に何時間もいたせいで脱水症状がおきているのか、何度か試みてやっと声が出るようになった。エンジン音に掻き消されてしまうだろうかと不安がおこるが叫ぶしかない。エンジン音がまた少しだけ大きくなった気がした。見付けてくれるのをJは祈った。
 トウシキ沖は大型船舶の航路になっている。しかし大海原で人一人は芥子粒のようなもの。タンカーでは絶対気がつかない。たまたまエンジンの不調で帰港が遅くなった波浮の漁船がなるべく流されないように沿岸よりを通ったという偶然が重なって、Jに遭遇したのだ。後に船長はエンジンの不調がなければそんな時間にそんなルートは通らないと話したという。
「おーい!」
 大声で助けを呼びながら突きん棒を精一杯振り回した。もう船はすぐそこだ。漁船の船長も気付いてくれたようだ。
 助かるぞ!
 Jは確信した。
 夢中で船に這い上がった時のことはあまり記憶がなかった。ただ助かった後すぐに船から海をみたJは改めてゾッとした。数匹の鮫たちが船のまわりをすごい勢いで回っているのだ。せっかくの獲物を取り逃がしたせいなのか。いや、グルグル回るのは鮫のアタックのサインだ。ブイにつけた獲物を海の中に置き去りにしていたのを忘れていた。まずいこのままではまた海に引きずり込まれる!
 大慌てでウエイト・ベルトのバックルを緩めた。腰から外れたロープが漁船のデッキを走っていく。ロープの先を目で追うと白眼をむいた鮫達が大きな顎で魚に喰らいついてきた。あと少しでも遅れていたら自分も喰われていたのかと思うと震えがきてJはデッキにへたり込んだ。修羅場に凍り付いていた船長は港に向かって慌てて船の舵を切った。ふりかえると鮫は重なりあって獲物を奪い合っていた。
 船のスピードが落ちてきて波浮に着岸するのがわかった。放心状態だったJが顔をあげた。港の灯りがやけに眩しく感じられた。もらった煙草に火をつけ、煙りを大きく吸い込んだ時、やっと生きのびた歓びがJに湧きあがった。

 煙草の煙りがゆっくりと我々の周りを漂っていた。
 話し終えたJちゃんもSさん夫妻も私も体の力がぬけたようにテーブルを囲んでいる。本人が目の前にいて話しているのだから助かったと判ってるのに手に汗が滲んでしまっていた。Jちゃんにかける言葉も思いつかず話をしてもらったことにただ礼を言って時計を見ると、もう深夜に近い時間だった。Sさん夫妻に迷惑にならないように勘定をすませて店を出た。
 ドアを開けると元町港の岸壁にまた黒く大きいうねりが寄せていた。やっと高くなった月が青い光で波を照らしていた。
 その後、このJちゃんの災難は心に刻まれたものの、相変わらずツキンボは下手ながら続けた。私の生活にも変化があり、あまり島に行けなくなってきた頃、仕事仲間が大島で事件があったの知ってる?と聞いてきた。2日前の朝日新聞に載ってたよと教えてくれた。気になり島仲間のYさんにすぐにメールして確認をした。Yさんがすかさず返信してくれた内容は次の通りだ。
 伊豆大島の和泉浜で貝採りをしていた元町の男性が行方不明になった。いっしょに潜っていた兄が先に海から上がり待っていたところ、なかなか帰ってこないので通りかかったパトロール中の警官に救助を求めた。捜索したところ海中から所持品とウェットスーツの一部が見つかったものの男性は発見はされなかった。関係者によると付近ではここ数日、複数の鮫が目撃されていた。その後、男性の遺体は見つかっていない。

※この話は直接Jさんから聞いたものを再現小説風にまとめたものです。記憶の許す限り忠実に再現したつもりですが、物語の進行上、時系列になっていないところや脚色は御容赦ください。最後の船に上がったところ、Jさんの名誉のためにいうと獲物は引き上げていたはずです。まさに命を懸けて捕った魚を易々と鮫に齧らせないと思うんで。ただ鮫がグルグルまわってたというのは本当で、Jさんはそこを強調していたんでハリウッド映画によくある2段仕掛けに脚色しました。
 あと、私は大島の生まれでないため方言がいまいち不安です。ネイティブの方がこれをみておかしいところはご指摘くださると幸いです。



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