大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”


谷崎潤一郎
明治19年(1886)7月24日、東京生れ〜昭和40年(1965)7月30日没、享年79歳
「きわめつけの変態発揮」で大谷崎へ。79歳没の納棺に、妻が性器にチュッ。

 大田南畝(蜀山人)さんを敬慕してやまぬ永井荷風さんがいて、荷風さんを「自分の芸術上の血族」と敬慕する谷崎潤一郎がいて、彼は荷風さんの激賞によって華々しく文壇にデビューした。
 潤ちゃんが荷風さんの「あめりか物語」を読んだのは24歳の時だった。強度の神経衰弱になって助川(現・日立)の笹沼別荘に転地療養中でのこと。「…私は将来若し文壇に出られることがあるとすれば、誰よりも先に此の人に認めて貰いたいと思い、或はそう云う日が来るであろうかと、夢のような空想に耽ったりした」と後に書いている。それから2年後、潤一郎26歳の時に荷風さんは「三田文学」誌上で潤ちゃんを激賞した。
 
 父の事業失敗からさまざまな人々から学費援助されつつ帝国大学に入学した潤ちゃんだったが、悪所にのめりこんだ。しょっちゅう淋病にかかっていて、友人に注意されると「稼ぐに追いつく淋病なし」と言い放った。大学1、2年の時には弟・精二への手紙に「2、3年前にわずらった梅毒が再燃して此の頃はコマカイ事を云う根気がない」とも書いている。これでは神経衰弱になるのも当然か。それでも25歳の時に第二次「新思潮」創刊の同人になって作品を発表。帝大は出席せずに加え授業料滞納で退学。そんな折の荷風さんの激賞だった。

 「雑誌(三田文学)が出るとすぐに近所の本屋へ駈け付けた。そして家へ帰る途々、神保町の電車通りを歩きながら読んだ。私は、雑誌を開けて持っている両手の手頸が可笑しい程ブルブル顫えるのを如何ともすることが出来なかった。ああ、つい二三年前、助川の海岸で夢想しつつあったことが今や実現されたではないか」

 ということで蜀山人〜荷風〜潤一郎…、これが決まりの系譜だな、と思った。っうワケで「不良隠居発掘」三人目目は変態・潤ちゃんを俎上にして遊ぶことにした。

 荷風さんが潤ちゃんを激賞したのが「刺青」(しせい)だった。こんな小説である。
 腕ききの若い刺青師・清吉の宿願は、光輝ある美女の肌に己の魂を刺り込む事だった。彼は料理屋の門口で待つ駕籠の簾かげから、真っ白な女の素足を見た。それは貴い肉の宝玉。この足こそ男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足と直感する。5年後、清吉はついにその足の娘に出会った。麻酔剤で寝かせると一気にその背に女郎蜘蛛を彫り込んだ。その美に「男と云う男は皆なお前の肥料になろう、帰る前にもう一度、その刺青を見せてくれ」と言えば、「お前さんは真先に私の肥料になったんだねぇ」と妖艶にささやいく娘がいた。

 ここで潤ちゃんは早々とフット・フェティシズム(=マゾヒズム)を表明だ。これは晩年の「風癲老人日記」まで貫かれて、77歳の老人は息子の嫁の颯子の足をなめることに恍惚となり、女の足の拓本をとって仏足石の下で埋葬されることを夢見るという変態…。さらに注目はこのフェチは幼少期に母の足によって芽生えた性癖で、母子相姦と女性崇拝嗜好も表しているから、えぇ、もう筋金入りの変態。22歳の一高時代に潤ちゃんは、友人・野村の病床を見舞うが43、4歳の彼の母の色白の色香に「(そんな母がいるなら)野村に妻など持たせる要はない」と言っている。一体なにを考えているんだ…。

 初めて大手雑誌「中央公論」より依頼されて発表したのが「秘密」だった。これは男が女に変装する快感を描いた小説。次に載ったのが「悪魔」。自堕落な生活から神経衰弱になった男(なぁ〜んだ、潤ちゃん自分のことじゃないか)が、許婚の男がいながらそのその男を軽蔑している従妹とのデカダンスな関係を描き、あぁ、ここ転記したくもない…。鼻風邪をひいた女のハンカチを犬のようにペロペロと舐めるショキングなシーンがあったりで、文字通り日本文学では前人未踏の領域に踏み込んだ作品。こりゃ〜もう、唯美や耽美主義を超えた悪魔主義。変態は文豪の母なのでしょうか。
 これには荷風さんも思わず唸って「谷崎はきわめつけの変態だ。自分はあそこまでは堕ちない」と批評したとか。ちなみに明治45年(大正元年)、潤ちゃん27歳の時の徴兵検査では脂肪過多症で不合格。あぁ、鳥肌が立つほどイヤな奴。何故こんな奴のことを書くことになってしまったんだろう。
 やがて彼はこう自己分析する。「初めは出来るだけ生活と芸術を一致させようと努めたが、やがて生活と芸術の間に見逃し難いギャップがあると感じ、せめて生活を芸術(変態)の為に有益に費消しようと企てた」で、なんと大正4年、数え年30歳で、石川千代20歳と「結婚」した。


 この結婚もふるっている。潤ちゃんは向島芸者で3歳年上で旦那持ちの伝法肌な姐さん・お初がお気に入りだったが、彼女に薦められて妹の千代と結婚。翌年春に長女・鮎子誕生。が、翌年には妻子を父と弟のいる家に預けっ放しで、創作のためと称して一人暮らしを開始。だが、ここにも裏があって千代の妹せい子に夢中で同棲生活を楽しんだ。せい子は後の「痴人の愛」のナオミのモデル。主人公は町のカフェのウエイトレスの卵の15歳のナオミと知り合い、彼女を自分好みの女に教育しようとするが、やがて妖婦的に成長したナオミの魅力に「四つン這い」となってひれ伏すなど立場が逆転する物語。潤ちゃんはこれまたのちの「細雪」を挙げるまでのなく異常な姉妹好きなんである。

 大正8年、父・倉五郎が病死。12月に潤ちゃん一家は小田原に移転。翌年、横浜に創設された大正活映株式会社の脚本部顧問に招聘された潤ちゃんは映画制作にのめり込んだ。第1作が「アマチュア倶楽部」。主演はナオミのモデルで妻の妹せい子で、芸名は葉山美千子。泉鏡花原作「葛飾砂子」(脚本は潤ちゃん)、「雛祭りの夜」(原作脚本・潤ちゃん)、「雨月物語」から潤ちゃん脚本で「蛇性の婬」。大正活映はこの4作目後に解散し、松竹に吸収された。潤ちゃんに岡田時彦と命名された俳優は、後に日活のスターになって活躍し、その子もまた潤ちゃんが芸名をつけた岡田茉莉子。さて、潤ちゃんが映画に夢中だったこの時期に「小田原事件」を起こしている。これは佐藤春夫への妻の譲渡問題のこじれ。妹にうつつを抜かしている潤ちゃんに冷たくされている千代さんに同情した親友・佐藤春夫に妻を譲って、自分はせい子と結婚すると決めた潤ちゃんだったが、春夫も千代がすっかりその気になったところで急に千代さんを手放すのがイヤになったか離婚中止を宣言。激怒した春夫は潤ちゃんと絶交。この騒動が「小田原事件」。その騒ぎ後の関東大震災で、潤ちゃん一家は関西に移住することになった。

 映画、そして関西移住で荷風さんとはずいぶん遠く離れた潤ちゃんだったが、関西移住後6年の「卍(まんじ)」「蓼喰う虫」あたりから作風が変わって来た。「卍」は女の同性愛と、そこに片方の女の亭主が介入する三角関係。潤ちゃん初の関西弁小説で古典的伝統的手法が採られている。「蓼喰う虫」はさらに古典思慕、伝統回帰を鮮明にしつつ離婚を考えている夫婦の物語で、妻に愛人がいて、夫は馴染みの混血娼婦ルイズに象徴される西洋趣味から次第に妻の父・老人によって文楽の古典世界へ、さらに人形のような妾と暮す伝統的な趣味生活に次第に惹き入れらていく。
 さて、そんな小説を書きつつ潤ちゃんは45歳、春夫君は39歳、千代さん35歳になって妻譲渡が昭和5年に成立。晴れて妻を春夫に譲って、潤ちゃっはおおっぴらにせい子と結婚と思いきや、「文芸春秋」社刊「婦人サロン」編集者で21歳下の古川丁未子と結婚。「僕は初めてほんとうの夫婦生活というものを知った。精神的にも肉体的にも合致した夫婦と云うものの有り難味が45歳の今日になって漸く僕に分かった」と言うその舌が乾かぬうちに、なんと潤ちゃんは船場のこいさん、根津松子に夢中になっていたんである。で、まだ丁未子さんと夫婦和合の歓びの最中に、恩人・荷風を「老境に及んでの鰥寡(かんか)孤独な生活ほどみじめなものはないだろう」と、ぬけぬけと『「つゆのあとさき」を読む』(昭和6年、46歳)で書いたそうな。荷風さんが「つゆのあとさき」を発表したのは52歳。これは荷風さん42歳の時の「雨瀟瀟」をも鑑みて書いたものとか。同書にはこう書かれていた。…孤独の境涯が、つまるところわたしの一生の結末であろう。(略)…わたしはもうこの先二度と妻を持ち妾を蓄え奴婢(ぬひ)を使い家畜を飼いなぞした装飾に富んだ生活を繰り返すことは出来ないであろう。(と書いているが荷風さんは49歳でお歌に待合を開業させ覗き穴を拵えて楽しんでいるんである) まっ、荷風さんも潤ちゃんもそれぞれ自分勝手に好色なのさっ。

 話を戻そう。この頃に潤ちゃんが書いたのが「盲目物語」。織田信長の妹、お市の方に侍る盲目の、これは高貴な婦人に拝跪(はいき)する女性崇拝の物語。潤ちゃんは後にちゃんと、盲目の按摩になった積りで松子を描いたと告白。松子さんは大阪では名の知れた藤永田造船所の永田一族で四人姉妹の二番目。夫の根津清太郎は船場の有名な綿布問屋の一人息子で「船場のボンボン」。遊蕩にふけり商売熱心でなく次第に衰退。潤ちゃんと老舗の御寮人・松子さんと逢瀬を重ねるようになる。そして発表されたのが「春琴抄」。さらに女性崇拝が極まって、美しくもわがままな盲目春琴にかしずく佐助が、顔面に火傷を負っ春琴に対して、自らも眼に針を突いて失明するというも物語。

 で、まぁ、名文の誉れ高い同小説だが、アタシが読んでみれば「なんでぇ〜、これは!」なんですね。句読点なし文章は若い時分に伊藤整・訳のジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』を読んで興奮した記憶があるが、これは「ブタだぁ〜」と思った。そんな折、松岡正剛の千夜千冊に「陰翳礼讃」はこんな書き出しだった。…若き日の中上健次が谷崎の小説をつかまえて「物語の豚」とあしざまに言っていたことがあった。これはさすがに中上の若書きで、その後はそういうことを言わなくなった。だいたい谷崎潤一郎は、業界では“大谷崎”などと言われて、長きにわたって超越的な扱いをうけてきた。谷崎もそのうえにふんぞりかえるところがあって…。まっ、こう書き出したってぇことは、当の松岡もどこかに「物語の豚」と思っているフシがあるんだろうなぁ。
 さらにこう書いている。…その谷崎がエッセイで「日本」を語るとダメなのだ。とくに、あまりにも有名になった『陰翳礼讚』ともなると、ぼくにはなかなか承知できなくなってくる。谷崎がエッセイが下手であるのではないが、随筆で日本のよさを伝えようとすると下手になる。で、潤ちゃんは「春琴抄後話」で…物語風から一層枯淡な随筆風に書いたと言ったいるから推して知るべし。吉田精一も戦時下の荷風さんと潤一郎の共通話題を両者がどう書いたか(荷風さんは「断腸亭日記」、潤一郎は「疎開日記」)を比較し、潤一郎は散文的で冗長、荷風さんは簡潔で詩情豊かと指摘している。まっ、アタシは文学は門外漢だから「これは名文だ」と賛辞惜しまぬ作家先生に遠慮することはなく、まぁ裸の王様じゃ〜ないが子供心の正直さで言えば「やっぱり、こりゃ〜ブタだぁ」。まぁ、そう言えば晩年の潤ちゃんの顔写真はブタに似ていなくもない。で、ここでは文学論を展開するつもりはないから、話しを続けよう。

 21歳下の妻・丁未子さんを得て肉体的に合致した夫婦とはこんなに素晴らしいものだったのか、と言った潤ちゃんだったが数年後、昭和8年には事実上離婚。早々と松子さんと同棲し出して昭和10年に結婚。潤ちゃん数え年50歳、松子さん17歳下の33歳。松子の妹二人を加えての生活が始まった。秋から「源氏物語」の現代語訳を開始し、同時に三姉妹の観察から「細雪」が生れた。またこの時期に特筆しておきたいのは松子さんの中絶だろう。潤ちゃんは最愛の松子さんの己の生命を宿しながら妊娠中絶を求めている。子を産めば「これまでのような芸術的な家庭は崩れ、創作熱は衰え、私は何もカ書けなくなってしまうかも知れない」と繰り返し解きあきらめさせた。

 ここでこの時期、戦時下に書かれた彼の代表作「細雪」について記さねばならないだろう。井上靖はこう書いている。「いかなる時勢(戦乱)になろうと、自分は自分であり、自分は自分のものしか書かないという、そういう自分の本質的なものを大切にする態度を貫いて(略)、もうこの世には現われぬかも知れない美しいものを、これこそ純日本的と言える美しいものを、異常な情熱をもって拾い集めていたのである」。執筆は終戦間際から戦後の混乱期。アタシが生まれた頃である。



 「鍵」と「風癲老人日記」を読んだ。あぁ、この恐ろしく読みにくい「カタカナ混じり文よ」である。若いい時分に何度か手にした同小説だが、カタカナにまどろっこしく何度も数頁に投げ出した、と記憶する。で、とうとう読み切りました。率直な感想を言えば「鍵」(主人公は56歳)は思わせぶりなエロ小説みたいで面白かったが、「風癲老人日記」まで行くとその風癲老人性(77歳)にちょっと付いていけなかった。「盲目物語」は老盲人の後述風文体でひらがな他用文で、あぁ、この作家はやはりジェイムズ・ジョイスみたいにいろんな文体実験をしているな、と思わせた。文庫本の解説の井上靖は「流麗な古典的文体」と絶賛しているが、アタシはちっとも流麗だという気がしなかったし、内容的にも何も胸を打つものがなかった。これは「吉野葛」も然り。

 そんなワケで名文どころかかなり読み難い潤ちゃんの小説だが、ここでは文学論、文体論を展開するつもりはなく、その不良の様を探ってみようという料簡なんだから、そこんとこを中心にいろいろと資料から探って行こうと思う。



 読売新聞大阪のサイトで、「黛まどかの恋ものがたり〜臨終の接吻」(2003.11)にこんな驚くべき文を発見した。
…その時、松子は息を引きとったばかりの夫・谷崎潤一郎の性器にそっと口づけをしたという。谷崎潤一郎の臨終に立ち合った医師井出隆夫氏が、私の父に密かに語った話である。昭和40年7月30日、文豪谷崎潤一郎は最愛の人松子に看取(みと)れれながら、湯河原の自宅・湘碧山房で眠るように逝った。井出医師は湯河原における谷崎の主治医で、絶筆「七十九歳の春」にも実名で登場し、絶対的な信頼を寄せられていた。湯河原は私のふるさとであり、井出氏が私の父の知人であったことから、後にこの秘話を知ることになったわけである。(中略)…井出医師はこう付け加えたという。「あんなに美しい接吻を見たことはありませんでした…」。最愛の人の口づけを受けて谷崎はあの世へと旅立っていったのだった。

 うっひゃ〜!思い切りのけぞってしまったです。蜀山人も荷風さんも佐藤春夫(潤ちゃんの奥さんをもらった)も…想像だにできなかっただろう潤一郎さんの幸せな最期である。まっ、以上をイントロに書き出してみましょうかねぇ。






<参考本>
野村尚吾「伝記 谷崎潤一郎」(六興出版、昭和47年刊)
大谷晃一「仮面の谷崎潤一郎」(創元社、昭和59年刊)
谷崎松子「倚松庵の夢」(中央公論社、昭和42年刊)
「鑑賞日本現代文学G谷崎潤一郎」(角川書店、昭和57年初版)
雑誌「国文学〜生誕百年 谷崎潤一郎特集」(学灯社、昭和60年8月20日発行)
雑誌「国文学 解釈と鑑賞 谷崎潤一郎 耽美の構図」(至文堂、昭和51年10月号)
雑誌「国文学 谷崎潤一郎 いま、問い直す」(樂燈社、平成10年5月刊)
雑誌「ユリイカ 特集・谷崎潤一郎」(青土社、2003年5月刊)
嵐山光三郎「ざぶん」「追悼の達人」

サイト:読売新聞大阪「黛まどかの恋ものがたり」
朝日新聞:平成16年6月から毎金曜掲載 辻原登「私の谷崎潤一郎」

<谷崎潤一郎著作>
谷崎潤一郎の文庫本「痴人の愛」「春琴抄」「猫と庄造と二人のおんな」「吉野葛・盲目物語」「卍(まんじ)」「少将滋幹の母」「細雪」(上・中・下)「鍵・風癲老人日記」(以上、新潮文庫) 「文章読本」(中公文庫) 「谷崎潤一郎随筆集」(岩波文庫)



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