●東海汽船の歴史のお勉強●

その1.創設は明治22年(1891)。最初は御蔵島航路から…。
     大島航路は明治39年(1906)からで、年間96回就航。


 大島にとって東海汽船の存在は余りに大きい。定期航路の他に系列企業による島内バス、ホテル経営があって、島は同社の存在抜きには語れない。しかしながら、東海汽船の概要は余り知られてはいない。島通いの仲間内には同社の株を持っている者が何人かいて、株運用に企業動向を勉強している。しかし株に無縁のアタシには、東海汽船の知識は皆無だった。これじゃ〜いけないと気付いてさっそく勉強した。
 同社は明治22年11月に、既存の4社が合併して東京湾汽船会社として創設された。伊豆七島航路の最初は明治24(1891)4月開始の御蔵島航路だった。これは江戸時代から櫛の材料として開かれたいた航路の復活で、印材としてのツゲの輸送が年に数回行われた程度。これに端を発した七島航路の歴史を辿ってみると、明治31年(1898)に下田〜新島航路が開始。明治33年(1900)5月に東京〜御蔵島航路を月1回とし、新島と三宅島に寄港。8月に通信大臣より郵便物輸送命令を受けて東京〜三宅島〜御蔵島航路が開始。
 大島航路の開始は、相陽汽船買収によって明治39年(1906)からだった。翌年5月、東京府の命令航路として八丈島を除く六島の航路が確立。大島へは年間96回以上と定められた。大島への初航路は同年(1907)6月1日。八丈島航路は同島有志代表と明治43年(1910)に毎月1回の航海契約が結ばれて、大正元年(1926)に三宅島寄港八丈島定期航路の命令を受け、ここに伊豆七島全航路が確立した。
 西条八十と画家の坂本繁二郎、和田三造が明治40年、幸田露伴が明治45年、藤森茂吉が大正2年、土田耕平が大正4年、徳富蘇峰が昭和3年、生宮沢賢治と徳田秋声が昭和4年…と多くの文化人がこの時期に霊岸島の東京湾汽船他で島を訪ねている。




その2.昭和初期…クルクルと変わった資本系列…。昭和3年の『波浮の港』ヒットで
     最初の大島ブームで盛り上がる。東海汽船の社名になったのは昭和17年だった。


 昭和2年( 1927)の金融恐慌で、創業以来40年間の大株主だった渡辺一族が渡辺銀行の倒産で総退陣。12月、第7代社長に中島久万吉、常務に林甚之丞が就任した。
 中島は坂本龍馬の海援隊若手三羽烏に一人で、後に自由党結成にあたって副総裁、さらには初代衆議院議長を務めた中村信行の長男。青年時代に吉田茂らと共に耕余塾に学び、昭和7年の内藤実内閣で商工大臣を務めた人物だが、東京湾汽船社長就任の前年に現在の東京急行池上線の前身、池上電気鉄道の社長にも就任している。東海汽船に川崎財閥の資本が注入されたと思われる。
 また林甚之丞は昭和10年に第8代社長に就任するが、その後の昭和19年には日本鋼管鉱業を設立して社長になった大事業家。新たな経営陣は従来の貨主客従運行から客主貨従路線に変更。
 昭和3年、野口雨情作詞、中山晋平作曲『波浮の港』(唄:佐藤千夜子・藤原義江)の大ヒットによる最初の大島ブームが湧き上がって経営を立ち直し、翌4年4月、東京〜波浮港の日航を開始。天皇陛下も大島行幸し、三原山登山をされた。昭和6年夏、観光施策で三原山に蒙古産ラクダ2頭、満州産ロバ11頭を連れて来てブームはさらに盛り上がった。
 昭和8年、大型客船・葵丸が東京〜大島〜下田航路に就航。昭和6年の東京〜大島〜下田航路の乗船客は8万3千人、翌年12万8千人、翌翌年18万9千人、9年には21万2千人と年々増加。
 昭和10年6月、橘丸も同航路に参加した。同社はこの勢いにのって、同年に泉津に大島自然動物公園(3年後に東京市に寄付)、岡田に大島観光ホテル他を開業。
 しかし昭和12年の日中戦争の戦時統制モードに突入し、インフレも併せて再び経営が逼迫。社長も東武鉄道専務・吉田傳治、篠本鼎、小田桐忠治と変わった。
 昭和15年、岡田桟橋完成。昭和17年、社名が現在の東海汽船鰍ノ改称
された。
 永井荷風の昭和19年4月脱稿の「来訪者」に、こんな箇所がある。…越前掘なら八丁堀の川一筋むかうで、わけはないから行って見たよ。電車通を大川の方へ、川沿の倉庫について曲って行くと、突當りは大島へ行く汽船の乗り場だ。片側にさびれきった宿屋が、それでも四五軒つづいてゐる。



その3.戦後の復興…、昭和22年、あけぼの丸が大島〜下田線
     に就航。昭和26年に藤田系列企業となる。

 東京湾汽船が戦争中に失った船舶は16隻。戦後、大島にも米軍が駐留した。
 石川好著「ストロベリーロード」には波浮港近くに沿岸警備隊のキャンプがあって二十人の米兵がいて、少年の目から見た記憶が記されているが、またこうも書かれている。
「…二十人近くものアメリカ兵が突然やってきて、島の一部を占有し、二十年以上も生活していたというに、彼らがいつごろ島に上陸し、去っていったのか、島の人びとが正確に覚えていないというのは、どうしたことなのだろうか。この稿を書きはじめる直前に僕は島に行き、何人かの島民に尋ねてみたが、みな記憶があいまいなのだ」。(ぜひ調べてみたい)
 東海汽船の資料には昭和20年10月、大島観光ホテル、米軍により接収、と記されている。
 昭和22年、戦後新造客船の第1号・あけぼの丸が大島〜下田線に就航。昭和23年3月、ホテル業、飲食業、旅客あっせん業を目的として、全額出資にて東海観光鰍設立。同月、大島観光ホテル、米軍の接収解除で東海観光に経営を委託。7月、大島開発鰍吸収合併し、大島島内の陸運をすべて経営(乗合と貸切のバス、ハイヤー、貨物トラック)。
 昭和26年1月、取締会長に小川栄一が就任。この日をもって、東海汽船が今日の藤田系列企業になったと思われる。6月、大島観光ホテルを直営。東京〜大島〜伊東線を熱海まで延航。昭和27年10月、元村桟橋完成。昭和28年、会長に五島慶太、社長に小川栄一が就任。7月、竹芝桟橋船客待合所竣工。




その4.藤田観光は明治2年の藤田伝三郎位商社からスタートして鉱山業で成功。
     藤田組は同和鉱業と藤田鉱業に別れ、藤田鉱業は藤田興行〜藤田観光となって、
     昭和33年に同和鉱業褐n列となる。 

 東海汽船が藤田系列企業となって、ここでし切り直しで藤田観光のお勉強です。
 同社は明治2年に藤田伝三郎翁が創業した藤田伝三郎商社から始まって、藤田組に改称。明治17年に小阪鉱山の払い下げを受けて鉱山業に本格的に取り組み、花岡、柵原など日本の代表的鉱山を経営。また岡山県児島湾湾の干拓事業なども請け負い、大正初期には三井、三菱と肩を並べる巨大企業になった。伝三郎の死後、藤田組社長になった平太郎は父の「機関銀行はつくらない」という方針を無視して藤田銀行を設立。昭和初期の金融恐慌で銀行は整理、日本銀行から9千万の融資にたよる身となる。
 藤田一族は鉱山事業から手を引き、昭和18年、国策会社帝国鉱業開発に吸収される。
 昭和20年12月、鞄。田組は同和鉱業鰍ニ改称。旧藤田組の事業の小阪他四主力鉱山を同和鉱業が、それ以外の鉱山と干拓事業を藤田鉱業鰍ェ引き継ぎ、藤田鉱業の常務に就任したのが小川栄一。同氏は昭和23年、藤田鉱業から藤田興行に改称時に社長就任しており、藤田一族の不動産資源を次々に観光施設化。藤田家の箱根の別荘は箱根小湧園(昭和23年開業)に、目白の邸宅を椿山荘(昭和27年開業)して成功。東海汽船会長に就任したのはその最中の昭和26年だった。
 小川栄一は、昭和30年に藤田興行の観光部門を分離・独立させて藤田観光鰍設立。町史によると、昭和31年6月、大島観光ホテルにゴルフ場完成あり、東海汽船史によると昭和32年、大島観光ホテルを中心として、新館の建設、水源の開発、ゴルフ場、野球場の整備を行い観光客受入体制を図った、とある。
 野球場とは、町史の同年4月、マイアミ球場完成とあり、このことか。同球場では翌年2月に「毎日オリオンズ」が冬季キャンプを実施している。
 なお、藤田興行鰍ヘ昭和32年に同和鉱業鰍ノ合併され、藤田観光もその資本系列に入った。昭和33年10月、大島観光ホテルは大島小湧園と改称して直営化。しかし現在は手放され閉鎖されている。




その5.昭和40年、大島温泉ホテル開業。元町の大火と不況で経営危機に陥るが、
     突然の離島ブームで盛り上がる。昭和48年の来島者84万人を記録・・・。

 昭和24年に吸収合併した大島開発が裏砂漠でボーリングしていた温泉発掘が、昭和34年に成功。昭和39年、東汽観光鰍設し、発掘した温泉を利用してホテルを建設、運営。翌40年4月、大島温泉ホテルとして開業。
 しかし、この年は不況と年初の元町の大火、天候不順の悪条件が重なって観光客激減。系列の東京湾高速船梶A東汽観光鰍ヘ窮地に追い込まれりが、次第に高度成長が安定すると同時に、降って沸いたような離島ブームが到来して持ち直す。昭和42年、はまゆう丸が熱海〜大島航路に就航。昭和43年の観光客輸送員数は170万7千人で前年比40万6千人の増。翌年は198万5千人を超えるブームで賑わった。9月、小笠原海運鰍設立。10月、かとれあ丸による東京〜大島の日航を開始。この年の観光客輸送員数は実に211万9千人。創立80周年記念式典が盛大に行われた。
 離島ブームは昭和48年頃がピークで、さるびあ丸も就航。この年の大島の来島者は史上初の84万人を記録。あとは次第に減少の道を辿ることになる。それから実に28年後の今、やっと物資を運ぶような大量輸送から質の変換を迎えつつあるようだが…。

中途半端なところで終わったが、現在の状況は「週末大島暮し」の「アクセス編」をご参照下さい。2002年3月で竹芝桟橋〜大島の夜行便が休日、繁忙期を除いて廃止され、1時間45分の超高速船に切り替わっている。

※参考文献:「東海汽船80年のあゆみ」「藤田観光のあゆみ」「大島町史・30年のあゆみ」
        砂川幸雄著「藤田伝三郎の雄渾なる生涯」 石川好「ストロベリー・ロード」

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