スーパーコミュニティーペーパー「島の新聞」

大島には幻のスーパー・コミュニティー・ペーパー「島の新聞」があった。
島滞在中の数日間、借りて読んだら感動に涙がポロポロ…。
帰京後、広尾の中央図書館にあると知って馳せ参じたが、似ても似つかぬ新聞だった…。

 大島にはスーパー・コミュニティー・ペーパー「島の新聞」があった。
 同紙に出会ったのは数年前で、元町港前の喫茶店「たかた」の本棚にあって、思わず店主に怪しい者じゃないからと一生懸命に説明し、島滞在の数日間貸してくださるよう説得した。
 読み出して編集者の情熱に感激の涙が止めどなく流れ、文字が霞んで読めなくなった。これぞ、本当のコミュニティペーパー金字塔と思った。週末大島暮し十年で、この発見が最大の歓びだったと違うかしら。
 島に行けば庭仕事があり、行く度に「たかた」から借りてむさぼり読む訳にもいかず、どうしたものかと思っていたら都立中央図書館に昭和48年から昭和52年分が所蔵されている事を知って思わず踊り出した。さっそく広尾・有栖川公園の中央図書館に馳せ参じたが、見事に期待を裏切られた。
「たかた」から借りて読んだ「島の新聞」と似ても似つかぬ内容だったのだ。大物政治家の原稿と行政ニュース中心で住民不在。どこかキナ臭い。選挙告示を載せぬ候補者がいて、島民に配布の新聞を無視するのかと恫喝する一方、島民より明かに一般向けの各島観光ガイド特集が広告収益の目玉とあって定期的に企画されている。加えて競合紙と観光ガイド企画がバッテングして妨害されたとの罵詈。あげくは退職した編集、営業マンが広告料を徴収していると顔写真入りの社告が載る。
 昭和48年2月の同紙にこんな記事が載っていた。
…伊豆七島の面積と人口からして、三つも新聞が発行されていることは日本でも珍しいことだ。(中略)。官公庁の広報紙みたいな役割をつとめている「南海タイムス」は四十年の歴史を有し、いまでは八丈住民の一環をなして捨てがたい存在であるが、「七島新聞」もまた真実の報道で住民の信用を保ち、復刊された「島の新聞」は創刊当初の編集の面影は見出されないが、七島住民の啓蒙紙としての役割を果たすべく大いなる構想があるらしい…
 ちなみに上記各紙の他に各町広報誌も発行されていて乱立甚だしい。また同文によると小生が感涙した「島の新聞」は復刊前の「島の新聞」だったと推測。
 そして復刊された「島の新聞」に事件が起こる…。昭和49年8月の島嶼会館完成に伴い「七島新聞」の編集室が同会館内に開設され、同紙は町村会、町村議会指定広報紙と銘打ち、「島の新聞」は同会館落成祝典の祝辞原稿が入手出来ないという事態が発生。ちなみに「島の新聞」の発行所在地はナンと東京都中野区。なんじゃコリャと思った。同紙はやがて廃刊に追い込まれ、目下は「七島新聞」のみが健在。さて“本当の”「島の新聞」は、やはり「たかた」へ行かなければ読めないのだろうか。


本当の「島の新聞」は、大正13年(1924)2月創刊で敗戦の1945年休刊。
編集主幹で記者は、大島共和国憲法を作った柳瀬善之助村長だった!

この新聞は、国立国会図書館にも所蔵されていない幻の新聞

 インターネットで大島「大和館」のHPをみていたら、「女将の雑談」に雑誌「望星」掲載のフリーライター岡村青氏による「幻の平和憲法『大島大誓言』の背景を探る/五十三日間の「大島共和国」独立構想」が転載されており、そこにこんな文章を発見した。
 …1946年1月に就任したばかりの柳瀬村長は奔走する。柳瀬村長はもともとジャーナリストだった。『島の新聞』を発行し、記者と同時に編集主幹であったのだ。同紙は1924(大正13)年2月の創刊で、毎月5の日発行のタブロイド版。敗戦の1945年2月、598号をもって休刊となるまで続いた…。
 この原稿には、日本国の主権から離れた大島が、独立のための大島暫定憲法を作る過程が詳しくレポートされているが、ここでのテーマは「島の新聞」。同紙に肉薄するには、やはり島に行って調べる他にない。さらに未練っぽく国立国会図書館をインターネットで調べていたら、同館は各図書館にデータ提供するサービス事業が定められ、一方、中央図書館のネットに「レファレンス」なる受付があるではないか。レファレンスは「必要な資料や情報を必要な人に的確に案内すること」で、都立図書館の重要なサービスのひとつです…とある。そこでさっそく1924年創刊で1945年休刊した「島の新聞」の調査を依頼(7月6日)した。約1週間後の7月14日、メールで以下の通り報告があった。
 …は、国立国会図書館も所蔵していないようです。大学図書館、東京都区市町村立図書館の総合目録も調査いたしましたが、確認できませんでした。ホームページを検索エンジンで調査したところ、関連するページがありました。既にご存知かもしれませんが、参考に挙げておきます。(以下にナント、このページのアドレスが紹介されているではないか) 大島町立図書館に電話で問い合わせましたが役所、図書館ともに所蔵していないとのことです。島でも入手したいと努力しているそうですが、現在は個人しか所有していないようです。以上
 で憧れの「島の新聞」があった元町「たかた」は、今は大島に似合わぬ?ジャズの店に変わってしまっていて、そのジャズの店をうんぬんしている大島観光系サイトの掲示版があって、メールを送ってみたら以下の返事をいただいた。
 …メールいただき、えらく「島の新聞」に感激していた客がいて、嫌だったのですが数日貸したことを思い出しました…。店の名は変わってもあの書架は健在です。是非何時かまたお立ち寄りください。
 で、店の名は元町港前のみやげ屋「たかた売店」の2階で「Zen」。皆さんも是非訪ねて下さい。4ビートに身体揺すりながら国立国会図書館にもない貴重な貴重な「島の新聞」を大事に大事に閲覧して下さい。


上記を記して1年半後の平成14年(2002)10月、…つ・ついに我が机上に「島の新聞」復刻全5冊有り。
全冊コピーして返却だが、まずは入手経緯と「島の新聞」全貌をご紹介…


 平成14年4月、大島支庁長に就任された後藤氏が弊サイトを読んで下さって、疑問だらけの各項に気を遣って下さっていたんです。で、10月3日に早稲田・穴八幡の青空古本市で八丈島「南海タイムス」の縮刷版昭和6年から26年までの(1)(2)を入手したことで、大島の「島の新聞」もちゃんとした保存縮刷版を作っておかないと散逸しちゃうゾ、と「島日記」に記したところ「同新聞も復刻版が出ていて、町議会の白井議長さんよりお借りしていますから、コピー許可をいただいたらどうですか」のメールを下さった。間髪開けずの10月12日、さっそく後藤支庁長を公舎に訪ね、白井議長宅に誘われてみると「おぉ〜、確か昔むかし、伺ったことがあるお宅じゃないか」と。あの頃、白井議長は「浜の湯」常連で(未だ御神火温泉の出来る前のこと)、夕陽眺めつつ親しく裸談義をさせていただき、ぶしつけながら円形テーブル状の電線ケーブル巻く「アレ」をいただきに伺ったことを思い出した。白井議長も「なんでぇ、おめぇ〜かよ」で、「東京へ持ち帰ってコピーすんなり、じっくり読み込むなりしていいよ」とおっしゃって下さった。
 さて経緯はこんなところで、次ぎに「島の新聞」復刻版を詳しく紹介してみましょう。
 発行日は昭和60年(1985)8月1日で、「伊豆大島志考刊行会」(大島町教育委員会内)発行。全5冊で縮刷版(A4版とB5版の中間、194センチ×267センチ版で326頁の2部構成)とタブロイド版4冊。年代順に紹介すれば…
(1)縮刷版・前編:大正13年(1924)12月26日の創刊号から欠号があるものの昭和2年(1927)8月26日発行の68号までに「大島畜産時報」の6号と7号が加えられています。ちなみに創刊の大正13年(1924)は関東大震災の翌年で、ラジオ放送が始まる前年。発行・編集人の柳瀬善之助氏による「創刊に際して」と題された全文は以下の通り…
 「島の新聞」は、島を結合して一家のやうな交(つ)き合ひを為らしめ、相互の力に依ってお互を善導し啓発して、風俗を淳厚(真心があって手厚い)にし幸福の生活に到達させたい目的を以って生まれ出たのであります。「島の新聞」は如上(以上述べた通り)の目的を達するために紙上に記載する事項は島の出来事を主眼とするのであります。「島の新聞」は種種のことを批評し又主義をするが、併し自ら特種の主義主張を以て立つのではありません。島全体を中心としてこれに種種なる材料を提供する、換言すれば民衆と民衆との間に立って仲介をなす機関であり、又島庁村役場学技其他諸団体の当局と村民との間に立って仲つぎする機関であります。然しながら無論「島の新聞」は決して当局のみの機関ではありません。私共は島の人達の利益とする所に向って進むのであって其の利益に反するものならば、如何なるものであろうとも私共の眼中にはないのであります。さらばとてまた誤りたる民衆の味方でもなく、只正義の道に従って進むものであります。不肖を始め「島の新聞」に従事するものは勿論過ちもありませう。だが責任の重大なるを思へば出来るだけ誤りなきを努めて居りますが此責任を果すには私共のみの努力では出来ません。先輩諸兄有志諸君読者諸君の援助により相より相助けなければ私共はこの「島の新聞」の天職を全ふすることが出来ません。即ち島をよりよく進めて行くことが不可能となります。目的が達せられぬのであります。私共は出来るだけの努力を以って奮闘するつもりであります。どうか私共の立場に同情されて島文化発達の為に切に御支援をお願ひします。
(2) 縮刷版前編に続くのがタブロイド版の昭和2年9月6日号(第69号)〜昭和9年(1934)1月26日号(第249号)までの564頁。
(3) 続いてタブロイド版の昭和9年2月16日号〜昭和10(1935)年8月16日までの394頁。
(4) タブロイド版の昭和10年10月〜昭和13年(1938)8月25日までの474頁。
(5) ここで、冒頭の縮刷版の後編へ続きます。後編は昭和13年(1938)9月25日発行の第492号から昭和20年(1945)2月1日発行の第598号まで(8月15日の終戦半年前)が収められています。
(6) そして戦後の昭和34年(1959)2月(第1号)から昭和39年(1964)11月5日号(第179号)の334頁へと連なります。このタブロイド版は編集・発行人共に「島の新聞」の柳瀬善之助氏ですがタイトルは『大島新報』に変更されていて、「発刊のことば」として氏はこう記しています。…戦前「島の新聞」が20数年間にわたり、島の皆様に愛読されて参りました。(中略)。今一度是非「島の新聞」を再刊するようにと皆様の強いご要望が久しくありましたので…新しく「大島新報」を発刊いたすことになりました。昭和39年11月の最終号(?)の巻末には『海の旅』と題された「島の新聞」の付録グラフ紙、昭和11年1月から6月、月1回発行が収められています。

 昭和60年に「伊豆大島志考刊行会」によって発行というのも、ちょっと驚きです。と言うのも、立木猛治著「大島志考」が同会によって刊行されたのは昭和36年4月のこと。「島の新聞」復刻版発行のために、25年を経て同会が再び甦ったとは考えにくく、ひょっとしてこの再結成の本当の目的は「大島志考」復刊にあったのではないだろうか?と言う気もします。新たな「謎」です。そして第ニの「謎」は、「島の新聞」復刻版が数部ということはなく、きっと数百部〜千部は発行されたに違いなく、他に誰が所蔵しているのでしょうか。
 というワケで平成14(2202)年10月30日、早稲田・学生街のコピー屋で全5冊、しっかりした製本仕上げで本物と変わらぬコピーが、新大久保のアタシの家にあるんですよぅ〜。

 さて、貴重な新聞を机上にして、サイトでどう料理しましょうかねぇ、今後のお・た・の・し・み…です。




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