●大島ゴルフコース●

大島ゴルフコースは、第1次ゴルフブーム以前の昭和31年オープン。
このコースには、貴重な歴史が埋まっているような気がするのだが…

 大島ゴルフコ―スのオープンは昭和31年(1956)6月。と言えば石原裕次郎が「太陽の季節」でデビューし、経済白書が「もはや戦後ではない」と言った神武景気の年。島では日没からの送電が改善され、毎朝2時間の送電が開始された年。
 ゴルフの歴史から見れば、戦後の第一次ゴルフブーム昭和33年(1958)〜昭和37年(1962)の直前。ちなみにこのブームは昭和32年(1957)に日本で初のカナダ・カップが行われ、日本が団体優勝(中村寅吉・小野光一)と個人優勝(中村寅吉)の快挙を遂げたことによるブームで、それまでのゴルフコースといえば全国で未だ115前後。ここからも分るように、一般人がゴルフに興じる時代前にオープンしたのが大島コースだった。大島暮し物語「遊び」のコーナーで記したように、大島コースは日本初のゴルフコース「神戸ゴルフ倶楽部」(写真は同倶楽部の絵葉書より)と似た雰囲気を漂わせている。共に自然の地を強引に重機で整地などせず、元の地形を活かされている。
 戦前の日本のゴルフ黎明期は貴族、実業化、海外生活を送ったエリート商社マン、またはキャディーから腕を上げ人々が中心で、そうした流れを汲むよほどのゴルフ好きの財力豊かな人がコースを作ったに違いない。
 むろん、これにも例外があって東京都新宿のわが街にも例外の最たる「戸山ヶ原アパッチゴルファー」とよばれる戦前ゴルファーたちがいた。同地は尾張侯の下屋敷から明治時代に陸軍用地となって陸軍戸山学校、幼年学校等が設けられた地。近所に在住の洋服仕立商の鳥羽老人が健康維持のために、洋服生地のカタログでみたゴルフとやらをやってみたいと、同地に早朝もぐり込んで真似事を開始した。そこに洋行帰りの同好の士が加わったりで、遂には大正13年(1924)に「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」が発足。会員も80名に膨れて全員揃っての初練習。それまで黙認していた錬兵場当局だが、ここまでおおぴっらにやられてゴルフ厳禁の令を出さずにいられない。結局締め出されたアッパチゴルファーたちは、後にホームコース獲得に乗り出すのだが、話しが脱線したので当時のいきさつを詳しく紹介する大正13年1月6日の「東京日日新聞」コピー(右の写真)を紹介することで省略。
 さて、大島コースです。コースを作ったのは貴族か実業界系か、戸山ヶ原アパッチゴルファーに代表される庶民系か。そしてもう一つの可能性として考えられるのが、大島に駐留していた米兵たちじゃないだろうか…と。東海汽船の資料によると昭和20年10月に、大島観光ホテルが米軍に接収されたとある。もし米兵のなかにゴルフ好きがいたら、ホテルから海に向っての、あの1番ホールの地に立てばクラブを振る衝動が抑えられぬはずもなく、さらに想像を逞しくすれば、平和な島に駐留してもさしてやることもなく暇をもてあそんでいた米兵たちがティーグラウンドとグリーンだけのコースを1番、2番、3番と作って楽しんでいたのではないだろうか…。
 そんなコースの残跡を見て、藤田観光幹部がゴルフ場の整備に乗り出したと想像する。果たして本当のところはどうだったのだろうか。
 大島ゴルフコースを有する大島小湧園はつい最近まで藤田観光の経営だったが、2000年に藤田観光から離れ、12月にはついに閉鎖に追い込まれている。
 歴史ある大島ゴルフコースの復活を願ってやまない人々は多いはず。今後の進展に注目したい。

※昭和6年8月26日号の「島の新聞」には「元村行幸通へ大島ベビーゴルフ場開設、大島名勝めぐりの十八ホール好評、特に夜間はとても涼しいので千客萬来」の記事があった。そして3年後の昭和9年6月1日の「島の新聞」に黒潮生なる方の、島の将来への提言に「ゴルフリンクス、競馬場、水・陸上競技場、野球練習場、庭球コート等各種競技場及び剣・柔道、拳闘、レスリング等の道場等を集約した一大スポーツ大国の建設を」の記事があった。 ここからも大島はとんでもない「ゴルフ先進島」だったことが伺える。

※大正15年(1926)生まれの高田勘次郎さんが、平成15年(2003)12月に思い出調べをして下さった(米駐留軍接収時に「大島観光ホテル」にボーイとして働いていた友人を訪ねて…)。それによると、この接収は“米軍将校の保養”目的だったそうです。管理は駐留軍将兵で2、30名ほど。保養に来た米兵は常時、5、60名ほどだったと言います。また同時期より波浮港近くに駐留の沿岸警備隊員は、同ホテルに遊びに来ることはあっても、軍事的なつながりはなかったそうです。接収期間は約2年ほどで、すでに小さい規模ながらゴルフコースはあったそうです。
 三島由紀夫「火山の休暇」(ブックガイドを参照下さい)発表は昭和24年(1949)で、これを読みますと日本人も宿泊しているワケですから、これは返還後でしょうがここにはゴルフコースの記述はありません。“…彼はヴェランダの硝子戸から、静かな、端麗すぎる風景を総括している遠い燈台の孤影を見た。庭の芝生がけば立ってそよいでいる。朝凪は果てて、風が出て来たのである”とあり、この“芝生”がゴルフコースだったのでしょうか?
 またこれによれば昭和24年は返還後で、昭和27年(1952)の「もく星」号撃墜時には同ホテルに米軍は居ず、三原山の事故現場に駈け付けた米兵は波浮の通信隊のようです、と教えて下さった。
 資料によると、ゴルフコースのオープンは昭和31年(1956)で、高田氏によれば昭和33年の毎日オリオンズ(現ロッテ)が大島観光ホテルに宿泊し、近くの「マイアミ球場」で冬季キャンプをした時には、すでにゴルフコースは現代の形になっていた、というのはうなずけます。
 またおもしろいエピソードとして、同ホテル雇傭に応募した青年達は、当日「運動靴」を履いて行った者はハウスボーイに、「地下足袋」を履いて行った者は将兵の乗る馬の手入れや便所の掃除ボーイに決まったとか。高田氏の弟さんは「地下足袋」組だったので1ヵ月で仕事を辞めたそうです。




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