大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”


大田南畝(おおた なんぽ)
寛延2年(1749)3月3日、江戸は牛込生まれ〜文政6年(1823)、75歳で没
「人生の三楽は読書と好色と飲酒」と言い、半隠居を75歳の永眠まで貫く。

 平成16年1月6日の日記に、アタシはこんなことを記している。
 …狂言師で戯作者の四方赤良(よものあから)こと、杏花園(きょうかえん)こと、寝惚(ねぼけ)先生こと、山手馬鹿人(やまてのばかひと)こと、蜀山人(しょくさんじん)こと、太田南畝こと、牛込育ちの本名・大田覃(たん、ふかし)、通称・大田直次郎は「人生の三楽は読書と好色と飲酒」と言って75歳で死んだそうだ。
※さてその出典は…。

※永井荷風「断腸亭日乗」巻之十 大正15年正月二十二日、荷風さんは47歳で、「お富」にメロメロで十二日に「人間いくつになりても色慾は断ちがたきものと、つくづくわれながら呆れ果てたり」と書き、その十日後にこう書いていた。 
 …然りといえども淫欲もまた全く排除すること能(あた)わず。これまた人生楽事の一なればなり、独居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の楽しみもまた容易に廃すべからず。勉学のおもしろく、放蕩もまた更に愉快なりとは、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。蜀山人が「擁書漫筆」の叙に清人石龍天(广付き せきほうてん)の語を引き、人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、この外は落落として(落ちぶれ果てた様)すべてこれなき処。といひしもことわりなり。
 …出処はここだった。

 アタシが最初に大田南畝の名に出会ったのは「東京市史稿」の遊園篇の「戸山荘」関連文献でだった。享保20年(1735)の「戸山庭記」写本(寛政7年)著名に「杏花園(きょうかえん) 大田覃」があって、これが大田南畝だった。ちなみにその3年後、寛政10年(1798)8月に戸山荘二十五景を描いたのは谷文晁(たにぶんちょう)で、彼は文化五年の時に63歳の南畝を描き残している。で、さっそく、その最期を調べてみると以下の通りだった。

 …文政六年四月三日、お香という女性(妾か)と市村座に芝居見物に行き、三代目尾上菊五郎が南畝に挨拶に来た。彼に狂歌を送り、上機嫌で帰宅した。翌四日、気分があまり優れなかったが、それでも、酒を少し飲み、ヒラメで茶漬けを食べ詩と歌を残した。(中略) 六日午後、南畝は熟睡したまま死んだ。
なんとも羨ましい爺ではないか。75歳の死の三日前に連れだった「お香」さんとはどんな方だったのだろうか。
※永井荷風「擁書漫筆」には「お香」さんについてこう書かれていた。
 …南畝が晩年其家に蓄へたる持妾(じしょう)のいかなる人なりしかは今考へがたし。されど、戯作者花笠文京(幕末の戯作者・狂歌作家で、明治初期の戯作界の代表的作者・仮名垣魯文の師)が南畝の家に寄寓し其の妾と密通して逐(お)はれしことは、大槻如電(おおつきにょでん)撰する所の文京の碑文に識されたり。この碑は今猶向島なる梅若塚の境内に在れば、好事家の既に知るところなるべし。
 ははぁ〜、よっぽど好い女だったらしい。幸せな最期で逝った蜀山人は、どんな人でどんな人生を送ったのだろうか?


 大田南畝は江戸文人には珍しく山の手、牛込仲御徒町(現・新宿区中町、大久保通りの北町付近)生まれ。祖父の代から微禄の武士たちが住む一画に居続けて、南畝も56歳までここに住み、文化元年(1804)に小石川金剛坂(現・文京区小日向、永井荷風生誕地もこの辺)に移転。文化9年(1812)、ここから神田川を隔てた駿河台淡路坂に念願の拝領屋敷を得て、晩年の11年間をこの家で過ごす

 大田家は祖父の代から70俵5人扶持(現金収入は年に四十両に満たらず、家には常に借財があった)の貧しい下級幕臣・徒歩。少年時代は早熟で神童と呼ばれた。母・利世は教育ママだったらしい。15歳の元服と同時に内田賀邸の塾に入門。旗本次男、煙草屋の息子、与力、医者の息子…と家柄、年齢も多彩な人々が集った塾で、南畝は幅広く交友を広げた。同時に10代の頃から優れた漢詩文を多数発表。18歳で松崎観海に入門。しかし才を発揮しても微禄を受け継ぐしかない身。18歳にして「一杯一曲忘我憂」と詠っている。19歳で自著「寝惚先生文集」の序文を平賀源内に書いてもらって発表。これで一躍全国の文人に知られる存在になって、明和6年(1769)に「売飴土平伝」を鈴木春信の挿絵、風来山人の序文で発表。この年、最初の狂歌の会に参加。翌7年「明和十五番歌合」で南畝は四方赤人(よものあかひと、のちに赤良(あから)と名乗った。ちなみに最初の狂歌の会は現在の四谷須賀町。この一画は小島源之助(唐衣橘洲・からこうもきっしゅう)の家で集まったのは四方赤人、平秩東作(へずつとうさく)、元杢網(もとのもくあみ)、蛙面房懸水(あめんぼうかんすい)、坡柳の六人。
 明和8年、23歳で17歳の里与(りよ)と結婚(彼女は26年後、44歳で死去)。安永4年、初の散文小説で勝川春章(しゅんしょう)の口絵入り洒落本「甲駅新話」を発表。この舞台は吉原ではなく新宿。山手文人ならではである。当時の新宿は旅篭52軒、飯盛女150人で大繁盛。気取った中年男・谷粋と実直な若者・金七の遊女屋遊びの物語で、谷粋が冷たくあしらわれ、金七が大事にされる顛末が描かれている。

  なお、新宿・飯盛女の投げ込み寺と言われた成覚寺(じょうかくじ)は今も新宿2丁目にあり、猫の額ほどの墓地に彼女達の合葬碑、無縁塔、遊女らとの心中者を供養した旭地蔵があり、またその脇にはなんと!恋川春町のお墓もある。恋川春町は1744〜89年。小石川生まれの駿河小島藩江戸詰用人ですが、浮世絵師で狂歌師で黄表紙作家。狂歌名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。「鸚鵡返文武二道」が寛政の改革(松平定信)でとがめられ、藩に迷惑がかからぬよう45歳で自決したと言われている。大田南畝は恋川春町との交流もありますが、それは後述として、本題にもどりましょう。

 安永4年の7月、南畝は「評判茶臼芸」を、安永5年に洒落本「世説新語茶」、8年(1779)に浄瑠璃の漢訳「阿姑麻」、洒落本「深川新話」「粋町甲閨」を刊行。岡場所話を書くほどだからさんざん遊んだのだろう。またこの時期に狂歌会も盛ん。この年の12月18日に51歳で平賀源内が獄中死去。安永9年、軽井沢の宿場遊女を題材にした洒落本「軽井茶話 道中粋語録」、黄表紙「虚言八百万八伝」を刊行。翌天明元年(1781)に「菊寿草」、天明2年「岡目八目」を刊行。この「岡目八目」で山東京伝「手前勝手 御存知商売物」最上位で褒め、これで京伝の名は一気に広がった。同年12月、蔦谷重三郎に招かれて恋川春町(39)、南畝(34)、京伝(22)ら8名が吉原に登楼。狂歌集「通詩選笑知」「通詩選」を刊行し、まさに一世風靡。日々、招待遊行が盛んになり、京伝も引き立てた。

 さぁ、ここからが佳境だ。もうしばらく辛抱して読んで下さいませ。天明6年(1786)、老中田沼意が罷免され、代わって老中に就いたのが松平定信で寛政の改革が始まった。その年に南畝は吉原松葉屋の遊女・三保崎(みほざき/新造の位=上妓となる見込みのない遊女)との恋情が燃え上がり、ついには身請けして妾とし、「阿賤(おしず)」と名付け、自宅の棟つづき離れに引き取った。妻妾同居で「不良」が本格化(お賤は南畝の世話を8年したが病気がちで30歳で病死)。この間び改革粛清は進み、勘定組頭(実質の勘定奉行)・土山宗次郎が死刑。南畝は土山によって遊興と享楽の味をたっぷり楽しませてもらっていた関係上、自身の首も危うくなって来た。また山東京伝も洒落本が官憲の心証を害し、版元・蔦谷重三郎が財産半分没収、京伝は手鎖50日の処罰。南畝は狂歌作りをやめた。

 童門冬二の小説「沼と河の間に」は、南畝が狂歌から遠ざかる保身の道を取って仲間からひんしゅくを買うシーンから物語をスタートさせている。寛政元年(1789)、北尾政美画で「鸚鵡返武士二道」を出した恋川春町は、松平定信に召喚され、病気を理由に出頭せず、塁が藩主に及ぶのをおそれて自決したらしい…。新宿2丁目の成覚寺の粗末な墓が胸を打ちます。そして南畝はなんと!44歳(寛政4年)にして猛勉強し、第2回学問吟味に応募したが不合格(狂歌他で文名を高め、土山の庇護にあった南畝に反感を時つ者の反対で不合格になったとも言われている。また巷に
「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も寝られず」
 の狂歌が南畝による作との評判がたって、これが災いしたとの説も…)。

 童門の小説では、のちに「東海道中膝栗毛」を書く十返舎十九、のにち「南総里見八犬伝」を書く勧善懲悪志向の曲亭馬琴の両青年と保身転向した南畝の三つ巴文学論争を展開させている。

 だが南畝は諦めない。病弱なお賎を文学仲間の住職(お寺)に預けて勉学に励み、寛政6年(1794)の二回目の学問吟味に再挑戦し、年少の受験者に混じって白髪まじりの46歳で見事にトップ合格。遠山の金さんの父・遠山金四郎景晋(かげみち)、後に北方探検家として有名になる近藤重蔵も合格。(※近藤重蔵は退役後に身分不相応な邸宅を建て、公家の娘を妾にしたことから不遜だとお咎めを受ける。また57歳の時に別荘の隣家との境界争いから長男・富蔵が殺傷事件を起こす。そう、八丈島流刑で有名なあの近藤重蔵である)

 この前年、寛政5年(1793)6月にお賎は亡くなった。「お賎」と卑しい名を付けた南畝だったが、身まかってから毎年その祥月命日に供養の書会を欠かさない。お賎の法名は「晴雲妙閑信女」。南畝が詠んだ狂歌は「雲となり雨となりしも夢うつつきのふはけふの水無月の空」。お賎が亡くなって10年後、南畝55歳の日記「細推日記」にもその供養書会を牛込薬王寺町の浄栄寺で催していることが書かれている。おっと、その供養書会には次ぎの妾、島田「お香」も列席している。「お香」は南畝の優しさにホロリとしたに違いない。「あたしはそんな南畝にずっと添って行こう」と…。
 またここで記すべきは、彼は学問吟味の試験から合格御礼までの詳細を記した「斜場窓稿」を刊行していること。しかし、合格はしたものの南畝の四番組徒歩の仕事は相変わらずだった。合格から2年後、母が73歳で亡くなった寛政8年にやっと支配勘定に昇進。祖父の代から続いた微禄もやっと30俵加増。そして突然の松平定信の罷免。また巷にこんな狂歌が流行った。

「白河の あまり清きに耐え(棲み)かねて 濁れるものと田沼恋しき」

 これまた南畝の作と思われた。支配勘定なら大阪の銅座詰という出世コースになかなか乗れない。翌々年、妻・里与が44歳で死去。南畝は俗っぽいと思いつつも「日本中の孝子節婦を将軍が表彰する」という案を提出し、「孝行奇特者取調御用」に任命される。寛政12年、これをまとめた「孝義録」50巻を刊行。従来の漢文による公文書ではなく、和文でかつ文学的な編集で、文人ならではの才を発揮した。これが認められて寛政13年(享和元年)、53歳でやっと大阪銅座出役になった。学問吟味の合格から7年の精励を続けて、やっと大阪出張で出世の道が広がった。大阪でてきぱきと仕事を片付ける切れ者公務員。午後2時が退庁時間で、ここからが文人タイム。見聞と人脈を広げで、ここで「銅」の異名を「蜀山居士(しょくさんこじ)」ということから「蜀山人」なる号を思いつく。この時期に20数年前に「雨月物語」を書いた上田秋成を訪問などし、1年で江戸へ呼び戻される。

 加藤郁乎「江戸の風流人」は南畝55歳、享和3年(1803)のほぼ1年間にわたって書かれた日記「細推物理」から油の乗りきった風流第一人の横顔または素顔をうかがっているが、これは小石川・金剛寺坂に移る牛込最期の年…。仕事が済んだ夜、再び連日のように華やかに社交を復活させた日記に、あの「お香」さんが登場なんです。同日記刊の三村竹清翁はこう注記していると紹介。…「お香は南畝の旧知島田氏の娘」。南畝研究者・玉林晴朗氏も「年齢の点から考えてお香(幸女)は島田美與(王篇付)子の姉に当ると断定された」を紹介している。南畝の菩提寺・小石川白山の本念寺過去帳を披閲された玉林氏は「幸女は南畝の妾であり、兼女は南畝と幸女との間に生れた娘であるの違いないと断定。ははぁ〜、「お香」さんの素性がわかったっちゃった。

 文化元年(1804)、長崎奉行所詰を命じられ、激務をこなす。折りからロシアから国書を携えたレザーノフ一行が長崎に来ていて日露会談の末席に南畝も座している。 文化2年11月、長崎から帰った南畝は2年前の56歳、文化元年(1804)に小石川金剛坂上に移転していた新居、号して遷喬楼(せんきょうろう)が文運再興にふさわしい詩会や酒宴の場となって、またまた華やかな文人社交の連夜となる。ちなみに文化3年(1806)8月13日から19日まで連夜・月見の宴。これも朝9時から午後2時の公務をちゃんと勤めた後、アフターツゥー・ライフ。58歳とは思えぬ充実で、その交際圏は大名から旗本、商家の主、文人、歌舞伎役者と広がって、まさに江戸社交界、江戸の人気文化人になっていった。

 そして文化5年(1808)61歳で、南畝は生涯最後の出張旅行に出かける。滞在地は多摩川一帯。仕事は水害復旧工事の現場監督。これら経験から「調布日記」「向丘閑話」「玉川余波」「玉川砂利」「玉川披抄」を刊行。文化6年(1809)、南畝の歯は上が三つ、下が二つ残るばかり。老いが忍び寄ってきていたが、4月3日に江戸に戻るとまた文化人としての生活が待っていた。将軍が徳川家斉になって文芸振興を計ったことも彼の人気に追い風にのった。南畝の盛名はまさに絶頂へ。文化9年(1812)、息子・定吉33歳がやっと支配勘定見習として出仕。南畝は御徒組に32年、勘定所に17年勤務して64歳、やっと隠居の見通しが立つ。同年7月、金剛坂から神田川を隔てた駿河台淡路坂に念願の拝領屋敷を得る。彼は晩年の11年間をこの家で過ごすことになる。一方、息子は人気文化人を父に持つ定めか、精神を病んで期待された勤務を辞めるはめになって南畝の隠居は夢となる。

 文政元年(1818)、70歳の南畝は2月の登城途中に神田橋でつまずいて転倒。8月10日に吐血し、生涯の総決算、自著の出版に取りかかる。旧作から百首を選んだ「蜀山百首」、文政3年に狂詩「杏園詩集」、「杏園詩集続編」。
 文政6年、75歳にして連日勤務。4月3日、市村座に芝居を観に出かけた。演題は狂言「浮世柄比翼稲妻」。主役は三代尾上菊五郎。南畝は挨拶に来た菊五郎に狂歌を書いて与えたりして上機嫌だった。4月4日、気分優れずも夕方には回復し、ヒラメの茶漬を食べ、狂詩を一首作って床に就いた。深い眠りのまま、二度と眼を覚まさなかった。

あぁ、南畝さん75歳の最期まで隠居できぬまま、もう一つの人生をも謳歌した「半隠居」の生涯。お手本です。



※谷文晁は天保11年(1763〜1840)12月14日没で、享年78歳だった。写生に才を発揮した(南画、文人画)の彼はどんな人で、どんな晩年だったのだろうか?

★この項の参考書籍
●野口武彦「蜀山残雨〜大田南畝と江戸文明」(新潮社・2003年12月20日刊 ※詳細な評伝です。お薦め致します)
●小池正胤(まさたね)著「反骨者 大田南畝と山東京伝」(教育出版)
●森岡久元「南畝の恋〜享和三年江戸のあけくれ〜」(澪標・19996月25日刊)※「お香」さんに詳しい。
●田中優子「江戸はネットワーク」(平凡社) 「江戸の意気」(求龍堂)
●童門冬二「沼と河の間で〜小説 大田蜀山人」(毎日新聞社)
●加藤郁乎「江戸の風流人」の「大田南畝の項」(小沢書店)
●荷風全集・第十五巻「葷斎漫筆(くんさいまんぴつ)」「大田南畝年譜」(岩波書店)
★他に…
●「大田南畝全集」(岩波書店刊・全20巻・別巻1、各巻6700円ほど)があるが、アタシにはそれを読む時間も学力も体力も財力もねぇ〜。
●明治時代には鶴見吐香「蜀山人」
●大正時代には永井荷風「葷斎漫筆(くんさいまんぴつ)」(※加藤郁乎は「江戸の風流人」で「荷風は、半醒半酔の風流家南畝の文事篇什また行実ことごとくを大なり小なり真似しようとしたふしがある」…と記している。おもしれぇ〜。)
●昭和時代には石川淳「江戸人の発想法について」
 などがある。
●おぉ〜、おおかたを書いたところで、楽しい江戸小説を思い出しっちゃった。あれは確か宇江佐真理…。読んだら捨てるが主義のアタシだが、本棚を探したらまだあった・あった。「春風ぞ吹く 代書屋五郎太参る」(新調文庫)。
 うだつのあがらぬ小普請、25歳の五郎太が茶屋で代書屋のアルバイトをしながら学問吟味に合格し、幼なじみの紀乃と祝言をあげるのを目標にがんばる姿をほほえましく描いた物語。で、その終盤に蜀山人が登場する。学問吟味の試験を控えた五郎太が代書屋にいると、フラリと入って来た
七十歳前後のご隠居と中年女「お香」。二人は芝居見物帰りで、予定していた京橋の小間物屋へ行くのをやめて手紙ですますことにした。京屋は山東京伝が興した店で、京伝亡きあと弟が店主をしていて、今日は京伝の月命日…。老人は手紙を託したあと、「学問吟味を受けようとする者は匂いでわかる。わたしも昔は受けて、その時の仔細を冊子に纏めたものがある。進呈しよう」と言う。老人はむろん蜀山人。冊子は「科場窓稿」。で、五郎太は京伝の弟の返信を金剛寺坂の蜀山人宅に届けに行くのである。ちなみに作者は「お香」をこう描いている。…さほど目立つ美人ではないが、立ち居振舞いがきれいな女である。裾短に着付けた着物に更紗の前垂れの裾をひょいと帯に挟んでいる「お香」の様子は粋であった。…ははぁ〜、小説ってぇのはいいね。想像勝手で「お香」がいきいきと浮んで来る。
●小池正胤の同著に黒川清治著「入相の鐘」に
南畝の長男・定吉と馬琴の長男・宗伯が友人としてお互いに父を語る小説あり…と紹介されているが、これは直木賞作家の「星川清司」の間違い。いけませんよ、こんな間違いを犯しゃ。ヘヘッ、ちなみにアタシの親父も「定吉だぁ〜」。33歳でやっとにして支配勘定見習になるが、人気文化人・蜀山人の息子で精神を病んだ定吉。さて「入相の鐘」はどんな小説なんでしょうか?
●さらに「大田南畝」を新宿図書館で検索したら31件。都立図書館では全集を含めて59件。人生三楽の一つ、隠居読書の楽しみが広がりました。

●「お香」さんについて… 森岡久元「南畝の恋」より
 南畝の「和文の会」に19歳で門人になった和文と漢詩文を学ぶ才媛がいた。御徒の島田順蔵の娘・美与子で、22歳で死した。美与子生前のころ、日暮れになると南畝宅に妹を迎えにきていた二つ上の姉が「お香」だった。器量よしのうえに芸事好きの「お香」は、18歳の時に嫁いだがその芸事好きがわざわして離縁となり島田の家に戻っていた。美与子没後、「お香」は南畝宅での書会、詩会に三味線をひくなど宴席をたすけるようになっていた。そんなころ、南畝の狂歌仲間の馬蘭亭(山道高彦)は酒宴となれば決まって柳橋芸者「お益」(22〜23歳)を連れて来た。南畝は彼女の三味線が気に入っていた。南畝は自宅の集会で「お香」に「お益」をひきあわせている。この時、「お香」は26歳。二人は明朝の掃除のために南畝宅に泊まっている。南畝は妾「お賎」を亡くして10年後、妻・里与を亡くして5年後の55歳だった。5年前に徒から支配勘定に登用されて、役高も30俵がついて百俵5人扶持で7人の部下をもつようになっていた。そんな南畝に馬蘭亭は「お香」を妾に迎えるようすすめるが、南畝は「お益」に夢中だった。享和3年12月、南畝は祖父から3代、ほぼ百年も住み続けた市ヶ谷の中御徒町のあばらやから、小日向金杉水道町、金剛寺の急坂をのぼった地に移転した。その際に南畝は「島田お香」を妾に迎える決意をし、1年余の長崎奉行所詰めに旅立った。江戸に戻った南畝は「お香」を小妻(妾・側室)として家に入れ、「お香」は晩年の南畝の支えとなり、彼の死をみとり、寛永7年に没。南畝との間に娘をもうけたとも云われる。



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