(ノンフィクション編)

『消え失せた沙漠』 坂口安吾(定本 坂口安吾全集 第9巻)昭和45年2月、冬樹社刊
 これは昭和26年7月1日発行の『文藝春秋』第29巻第9号に「安吾の新日本地理・大島の巻」として発表されたもので、題名から伺える通り昭和25・26年の三原山噴火直後のルポ。まずは、その噴火で火口から噴き出した溶岩が外輪山まで広がって、それまであった広大な沙漠の半分が埋め尽くした驚き、噴火の驚異が延々と語られます。そのなかで、筆者が十年前に楽しんだ外輪山から間伏方向に砂丘が四百米ぐらい垂れ下がった地に、スキー回転競技式の曲線型にレールをしいてオモチャの自動車ですべり降りる施設の体験談を語り、ここに溶岩を落下させる計画も完了ともレポートしています。(アンコ二人が手を振り振り滑降の、あの有名?な三原山滑走台の写真は、そのことだったかと改めて知った) さて、筆者はこの新たな溶岩原を歩いて火口へ行くのを濃い霧のために断念し、湯場を見物に行きます。ここで働く中学時代の同級生に声をかけられ、彼がアンコの情にほだされ、天下の大事を忘却して島に居ついた「タメトモ」さんだと知ります。文はその後、伊東からの漁船チャーター便を語り、次第に大島の風習のモトを探る文になっていきます。風習が色濃く残る野増村に足を伸ばし、沖縄に似た部分が多いのでは、と判断し、最後に大島にはその土地の限定の中へ旅人を限定する力…本当の「旅」を感じるものがあると結論します。

 なお、同巻収録の「湯の町エレジー」で三原山自殺についても記しており、これは「大島歴史探偵団」の三原山自殺の項の文末で紹介…。

『ストロベリー・ロード』石川好著/文春文庫/定価上下計で900円
 大宅壮一ノンフィクション受賞作。なぜここにアメリカ・キャリフォーニ農場の日本青年記が登場かというと、冒頭第一章が「アメリカまでの道」で、石川少年の波浮に駐留した米軍沿岸警備隊の思い出がみずみずしい感性で描かれているからだ。米軍キャンプから歩いて5分もかからぬ地で生まれた石川少年は、米兵とオンリーの様を見、基地に忍び込んで薬きょうを拾い、キャンプのコックとして働き出した15歳年上の長兄がもたらす米国文化に目を輝かしている。約20年もの間、島の一画を占拠していた駐留軍の記録が少ないなかで、とても貴重です。アタシもほぼ同年代、東京は板橋生まれで幼児のころに、姉と散った桜の花びらを針で刺し重ねて花輪を作る作業に没頭していたところに、ジープから下りた米兵がもの珍しそうに眺めつつ、チョコレートをくれた記憶がある。東京にいた駐留軍は10年もいなかったが、島の米兵たちがいなくなったのは何時頃だったのか?


『いま、三宅島』早川登著/三一書房/定価1500円
 三宅島のNLP基地建設計画に反対する“島いくさ”と苦悩する島の現実をルポルター ジュ。三部構成で第一部は1983(昭和58年)12月、2ヶ月前の噴火で復興に追われていた島民を無視し、米空母艦載機夜間発着訓練(NLP)を含む空港整備の意見書が村会議に提出された発端から、その後の激しい闘争経緯が詳しくレポートされ、第二部では過疎の島の宿命が、そして第三部で今後のNLPの行方が記されている。NLP問題の資料、年譜がていねいな作業でまとめられていて、貴重な記録になっている。また第二部はNLPに限らず離島の宿命を考えさせるレポート。1988年6月刊行。著者・早川とは若き頃、共に仕事をした仲。彼は大島合宿で自動車免許を取得とかで、島に遊びに来た際、合宿当時を懐かしがっていた。また彼をジムニーに乗せ、三原山・裏砂漠の最奥の幻の池まで行ったことがある。

『ドキュメント三宅島』亀井淳著・森住卓写真/大月書店/定価1300円
 同じく三宅島のNLP問題と闘争のルポルタージュ。噴火から村議会の抜き打ち決議、島いくさ、第八機動隊との闘い…と経緯を追うドキュメント仕立ての構成。1988年1月刊。

『南の島から日本が見える』立松和平、ジャック・T・モイヤー/岩波書店/定価1800円
 まずカバー挿画がいい。田中一村の「アダンの木」が使われている。何年前だろうか、滅多に絵画展など行かぬが、田中一村の絵に魅せられてワクワクしながら足を運び、感動した覚えがある。さて内容は、第1部が「ぼくらが島民になった日」で、それぞれが島に魅せられた経緯が語られている。立松が与那国島の援農隊に加わって三ヶ月働いた体験を記し、モイヤーさんが三宅島との出会いを記している。ここから国は絶対的概念ではなく、黒潮の流れが生むエコロジーが大切だと対論する。第2部は「ぼくらが島で見てきたこと聞いてきたこと」では、リゾート開発で古来からの島の文化、生活、自然が崩壊させられる様が語られている。第3部「南の島から日本が見える」では、地球という“島”の在り方も、島から学べと語り合っている。1995年刊。
※平成16年(2004)1月11日、朝刊にモイヤーさん(74)が避難先の北区・自宅アパートで自殺の報が載っていた。全島避難から4年経過している。合掌。

『中村彝 運命の図像』米倉守著/日動出版/定価2600円
 図書館で借りて読んだ。37歳で早逝した洋画家・中村彝の評伝。浜の湯がある長根浜公園に像があるが、その人生に特別の興味を持たなかったが、偶然に手にして貪り読んだ。冒頭章は「大島行」。新宿・中村屋の相馬愛蔵の妻、黒光への恋に苦悶し喀血死した彫刻家・碌山「荻原守衛」と同じく、彼もまた黒光に恋し、娘・俊子の裸像を描きつつ、次第に俊子との結婚を夢みるも黒光に拒絶されての大島行。筆者は大正3年12月からの大島暮しを「死ぬため」ではなく「再生のため」だろうと滞在百日余を追う。第2章は生いたち。水戸の幼年期から、軍人の長兄勤務地・戸山ヶ原周辺を転々としつつ牛込北町・愛日小学校〜早稲田中学へ。画家としての芽生えから画学生生活を丹念に追って紹介。碌山が黒光を想って両膝着き、両手後ろで天見上げる有名な全身裸像「女」創作過程の詳細を、さらに中村が俊子をモデルにした作品群から、あの「エロシェンコ氏の像」を描き、大正13年のクリスマス・イブに喀血死するまでを描いている。(昭和58年刊)

『壱岐島コミューン伝説』 松本健一著/河出書房新社/定価1800円
 伊豆大島には敗戦翌年の1946年初め、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書によって、島が行政上、日本から切り離され、これは大変だと島の有力者らが独立を想定しての暫定憲法を模索。主権在民のそれは素晴らしいる憲法をもって「幻の伊豆大島共和国」を準備した歴史があります。
 「島はつねにクニを形成する可能性を内在させている」と自著の中で熱く語っているのが、松本健一「壱岐島コミューン伝説」。日本海の離島・壱岐島民が、島が内在するクニ形成の可能性を具現すべく、すっくと立ちあがったのは慶応4年=明治元年のこと。壱岐出身で、幕末の京都で鈴木遺音の門下生となって尊王思想を固め、孝明天皇の侍講から鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争の彰仁親王の参謀となった中沼了三の影響を受けた島民が、王政復古宣言の勢いに乗じて徳川支配の松江藩郡代を追放し、島民自治に乗り出した81日間の事件を堀り探っています。なお氏には「孤島コンミューン論」(1972年、現代評論社刊)もある。




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