★森サカエ★
〜ソングブック1月号掲載より〜

昨年リリースの40周年記念曲『北窓』が今…静かなる人気。

森サカエ プロフィール
1940年、東京生まれ。横須賀駐留軍キャンプのクラブシンガーとして活躍後、「日劇ミュージックホール」や「クラブ・リキ」で大活躍。1960年のレコードデビューから『湖畔の宿』はじめのヒット曲多数。デキシーランドジャズ、スタンダードジャズのステージは今も天下一品。昨年、芸能生活40周年で、現在は日本歌手協会の常任理事としても活躍中。

懐かしき40年前の思い出…クラブ・リキで唄っていたらミコが来てねぇ。

 森サカエさんの『北窓』は昨年8月19日に、日本コロムビアからデビュー40周年記念曲としてリリースされた楽曲。作詞:水木れいじ、作曲:船村徹、編曲:若草恵。
作家陣から“演歌”と思いきや、越路吹雪さん彷彿のシャンソン風の楽曲ではありませんか。越路さんを想ったのは、その歌唱がたっぷりと年季の入った方ならでは出せる滋味に富んでいたからに他ならない。したたかに経験を積んで来た方だけが出せるのであろう味わい深いヴォーカリズム、人生の味が満ちた『北窓』です。
 ソングブック前号を持って森さんにお会いすると
「あらっ、ミコの次ぎが私ってわけ」
 と微笑んだ。弘田三枝子さんも40周年。共に米軍キャンプで活躍したキャリアを有している。
「私の方が七つ歳上でねぇ、私はもう与田輝夫とシックスレモンズのシンガーとして、力道山経営の“クラブ・リキ”で唄っていて、そこに小デブのチビちゃんで凄く上手い子がいるのだけど、ちょっと聴いてみない…で、唄ったのがミコだった。凄いパンチがあってねぇ」
 1960年、森サカエさんはコロムビアから『アフリカの星のボレロ』でレコード・デビューし、弘田三枝子さんは翌61年に『子供ぢゃないの』でデビュー。この時、森さんは20歳で、ミコは14歳。
「私のデビューが遅かったのは、しっかりステージ・シンガーしていたから…」
 米軍キャンプ、日劇ミュージックホール、そしてクラブ・リキでのキャリアを積んだ後のデビュー。
「そもそもから話して下さいって?そりゃぁ、無理ですよ。何時間、いや何日かかるか分かりゃしないもの…」
 下町気質のオバ様である。
「美空ひばりさんが好きで、真似してよく唄っていました。で、三番目の姉がエディ・タウンゼントの女房ですから、彼がいつも聴いているFENを、英語が分からないものの“あぁ、いいメロディーだなぁ”と思って、カタカナで書き取って唄い出していたのです。そのうちに“デキシーキングス”の園田憲一さんと知り合ったり、水島早苗さんに教わったり…」
 水島さんからは内弟子になるよう請われたが、森さんのご両親が夫婦漫才師で、娘も漫才師…が望みで断念。通い弟子でレッスンを受けたと言います。ちなみに森さんの二番目のお兄さんは後の三遊亭小円馬師匠。
「えぇ、上の姉も漫才をしていましたから、私、歌を唄っていなかったら今もドツキ漫才していましたよ」(笑い)
 僅かな話で、ドッと著名人の羅列。ちょっとお勉強コーナーを下欄に設けましたので、そちらをご参照下さい。

『北窓』リリースには船村徹ご夫妻の友情と厳しい励ましがあって… 

 さて、ジャズ一途の森サカエさんがシャンソン風『北窓』リリースの何故?を伺ってみますと…
「私は芸能生活20周年から5年毎にバースデーコンサートをやって来まして、その都度、船村徹先生よりオリジナル曲をいただいているのです。30周年の時にいただいたのがエディ・タウンゼントの記念曲『愛の足跡』(星野哲郎作詞)、35周年の時も同じコンビで『空』をいただきました。えぇ、演歌かとお思いでしょうが、違うんですよ」
 そして今回の『北窓』…
「船村先生がこうおっしゃるんです。“お前の声はちょっとスゴ過ぎる、ジャズの世界では通用するかもしれないが、自分の足許…日本の歌にもっと注目しなくてはいけない。ジャズを唄う時とは別の声、歌唱で、しかも君でなければ出ない大人の人生の味を…そんな歌を作るから”とおっしゃって、出来た曲です」
 ジャズ・ヴォーカルでファルセットなしを貫いて来た森さんだが、船山先生はお構いなし。先生の奥様も美空ひばりさんの例を持ち出して、歌の幅を広げるにファルセットが必要です、と怒りつけるように励ましてくれたとか。
「親友で、良きアドバイザーの奥様の指導です。そして「演歌巡礼」はじめで船山先生のソウルフルな歌唱に感服している私ですから、もうおっしゃる通りに頑張るより他にありません」 ご本人も苦労された『北窓』に、カラオケ・チャレンジする方へのアドバイス。
「シャンソンですから、詞を大切に語る気持ちで唄って下さい。これは船村先生がいつもおっしゃる言葉で…“ピアニッシモでも詞がハッキリ聴き取れるように唄う”のが肝心。そしてこれは私の持論で、唄っている時に絵がワーッと浮かぶように唄えたらいいと思います」
 そこが難しい、と言えば…
「しっかり詞を読み込み、語るように何度も唄ってみてご覧なさい。詞の情景が浮かんで来て自然にどう唄うべきかも分かって来るはずです。歌はそう言うものなのだから…」
 大ベテランの重みあるアドバイス。そして今、(社)日本歌手協会の常任理事としても大活躍中で、かつてはジャズ畑のみの森さんだったが田端義夫さん、二葉あき子さん…と歌謡曲や演歌の大御所たちとの交流も活発化。そこで出て来るのが「演歌も歌って下さい」の要請。
「なのに、私はどうしてもダメなのです。演歌はコブシに情感が出るところが良いのであって、私はそのコブシが出来ませんから演歌は唄えないのです。でもねぇ、そんな私もお風呂に入っていて唸るのは演歌で『テネシー・ワルツ』な『ダニー・ボーイ』ではないんですよ」(笑)

その珠玉ヴォーカルが至福の時をもたらすスタンダード・ジャズ集のアルバム

 ジャズのスタンダード・ナンバーが出たところで、どうしても紹介したいのが『北窓』とほぼ同時期に日本クラウンからリリースされたアルバム『芸能生活40周年記念〜慕情』。
 ざっと紹介すると『テネシー・ワルツ』『ハッシャ・バイ』『ジャニー・ギター』『ダニー・ボーイ』『トゥ・ヤング』『センチメンタル・ジャーニー』から『慕情』まで全15曲のスタンダード・ジャズが、鳥肌立つ“かっこいい”ヴォーカルで収められているのです。ジャズに“粋”の表現はおかしいのかも知れませんが、こう唄ったら大向こうも唸る…間違いなしの、それは磨き込まれた珠玉ヴォーカル集。参加ミュージシャンも老練(失礼)、年季の入った超一流どころで気持ち良いこと。かつて力道山もゾッコンだったと言う、森さんの真骨頂発揮アルバム。皆様、ぜひ聴いて下さい。至福のひとときを手に入れることになるでしょう。
 そこで、良き時代を振り返っていただくと…
「えぇ、あの頃のミュージシャンは何時だってステージに上がるのにタキシードだった。次第にTシャツとジーンズで平気でステージに上がるようになって、やがて長髪になって…、ワケが分かんなくなっちゃった。そのうちにカラオケブームが来て、ジャズ・ミュージシャンたちもカラオケの仕事をバンバンするようになって、皆が自分で唄う楽しみをすっかり覚えて、クラブやキャバレーなど生演奏のフルバンドを聴く楽しみを忘れちゃったものですから、今度はミュージシャンの仕事がなくなった。飲んで深夜タクシーなんかで帰りますと、運転手さんが“オイ、久し振りだなぁ、あそこのバンドでトロンボーン吹いていた俺だよ”って。道路工事で赤ランプ振っていたのがサックス奏者だったりしてねぇ…」
 と40年間のアッという間の物語。この辺は、森さんでなければ聞けぬお話…。
 さて、最後に最近の活動について…
「はい、依頼があれば何でも唄ってやろうと思っているんですぅ。知らない歌でも、そのために真剣になって覚える…。そう、ボケ防止の脳みそ活性化には、これが一番だから。先日も8年前に有馬さんは亡くなりましたが、今も活躍中の“有馬徹とノーチェ・クバーナ”の演奏会に呼ばれまして、ラテンを4曲歌いました。ラテン語難しいものですから2曲の歌詞が入り乱れちゃっった」
 スゥイング・ジャズもデキシーランド・ジャズも奥が深く勉強にキリがなく、時に『北窓』のように私に合った歌謡曲があるならば、声が続く限り唄い続けます、とおっしゃって下さった。
 船村徹先生と奥様がご親友で、さて、これからどんな曲を歌うように薦められるか、大いに楽しみなところです。


※エディ・タウンゼント
 1914年、ハワイで米国人と日本人の母の間に生まれ、14歳でボクシングを始め、26歳でトレーナーになる。1962年、力道山に請われて来日。藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹と6人の日本人チャンプを育てた。1988年、73歳で死去。
※園田憲一>
 
デキシーランドジャズの大御所でトロンボーン奏者。1960年に「デキシーキングス」を結成。
※三遊亭小円馬
 昭和30年代はテレビ演芸番組の黄金時代で「お笑い七福神」「お笑いタッグマッチ」などで活躍した、落語家タレントの草分け的存在。1999年、73歳で死去。
※FEN
 Far East Network。戦後、外国(アメリカ)の音楽が唯一聴けた駐留軍の短波放送。同ステーションから流れる音楽で育ったミュージシャンは実に多い。今は東京、岩国、三沢、佐世保、沖縄と基地のある地区でのみ受信可能。

●『北窓』はコロムビアから昨年 8月にリリース。カップリング『人生が映画なら』は作詞:水木れいじ/作・編曲:蔦将包
●アルバム『慕情・森サカエ』は昨年、日本クラウンよりリリース。CRCO−20253 \2,500



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