月刊「カラオケファン」
〜3月号(1月21日売り号)掲載〜
40周年の軌跡と円熟の展開
五木ひろし 俺の山河は…。

文:スクワットやま Squat Yama
第4回 不遇時代なくして今の五木なし…

[取材日記] 平成15年4月、事務所から要領を得ぬ電話が入った。
「これから新宿で取材して欲しいんです。社長(事務所スタッフは五木をこう呼ぶ)が浅草寺主催の講演をしますので…」
「はっ、浅草ではなくて新宿で?」
「そう、安田生命ホール」
 はてな?と首をかしげながら新宿西口の同ホールへ行けば、玄関に「浅草寺主催“仏教文化講座”講師・五木ひろし先生」の張り紙。会場はすでにいっぱいで、ロビーのモニター前にも椅子が並べられていた。
 五木は平成2年のシングル『心』発表会を浅草寺境内で開催したのを縁に、以来、家族とスタッフ全員での浅草寺初詣を欠かさず、それがまた縁で今回の講師に招かれた。ちなみに同講座は40年余の伝統あるもの。
 さて、五木の“公演”ではなく“講演”を聴いたことがおありだろうか。これがまた、えらく楽しいのだ。五木は講演冒頭で、こう語り出した。
「ここ新宿は、とても思い出深い街です。僕は昭和39年、オリンピックを秋に控えて東京が急成長する最中に上京しました。翌40年、松山まさるの名でデビューしますが、その曲が『新宿駅から』。当時の新宿は文化の情報発信基地として熱気が満ち溢れていた。でも僕の夢を託した曲はまったく売れず、その後“一条英一”に、“三谷謙”に芸名を変えたが、それでも芽が出ない。“三谷”は新宿西口に太平住宅という会社があって、その中にミノルフォン・レコードができ、同社長になられた遠藤実先生が命名して下さった芸名です。またこの時期に“背に腹は代えられぬ”で、クラブの弾き語りを始めましたが、その最初のお店も新宿。当時は8、9階建てのビルが最も高く、その一番高い所にしゃれたサパークラブがあって、そこで弾き語りを始めたんです」
[不遇時代の弾き語り] 五木は『新宿駅から』でデビューしたものの、同年8月に恩師・上原げんと先生の急逝もあって、以来5作品を立て続けにリリースするも泣かず飛ばず。
 昭和42年、19歳の彼はポリドールレコードに移籍し“一条英一”の名で3作品を発売するが、これまた不発。昭和44年、ミノルフォンに移籍し『雨のヨコハマ』リリース。
 コロムビア全国歌謡コンクール優勝からはや5年がたって、五木のバラ色だった夢は次第に色あせせていった。大塚駅近くの西巣鴨から新宿・百人町、板橋、四谷、そして東中野…と都会の片隅を流転。家賃も払えず、食事代にも困る生活のなかで、やがて彼はサパークラブの弾き語りに活路を見いだした。
 夢を見続けて来た純真な少年が、その夢が砕かれた後、都会の夜でしたたかに生きるすべを身に付けるのに時間はかからない。夜の街で生き抜くための厳しいまなざしも覚えたろう。新宿のお店に加えて銀座へも進出し、2軒の掛け持ちギター弾き語りで一ヶ月20万円あまりの収入を得た。
 そんなころの五木をよく知っている音楽仲間が一人いる。作曲・編曲家で名古屋フィルハーモニー交響楽団ポップス部門の音楽監督、常任指揮者のボブ佐久間がその人。彼は五木のファンクラブ誌の取材に、こう語っている。
「彼に初めて会ったのは、彼が“一条英一”のころ。すでに掛け持ちでクラブの弾き語りをしていて、銀座の仕事場から新宿のサパークラブに飛んでくる日々だった。彼が弾き語りを30分、僕がピアノ演奏を30分…。共にどん底時代だったが、彼は夢をあきらめてはいなくて、僕は人生に挫折していた。彼はずばぬけて歌がうまく、スター性もあって、ちょっと近寄りがたい存在だった。“これほどの人がどうして世に出ていないのだろうか”と不思議に思ったほどです」
 その後、ボブ佐久間はアメリカ留学。その間に五木は『よこはま・たそがれ』大ヒットとともに一気にビッグスターに上り詰めていった。彼らが再会したのは昭和53年の五木初のロサンゼルス公演だった。米国滞在中のボブが現地ミュージシャンを集め、タクトを振った。
 今も彼らは掛け替えのない音楽仲間。五木のオーケストレーション・アレンジはボブ佐久間の担当・指揮と決まっている。クラシック色濃いそんなステージで、彼らは折にふれ、ホステスたちの嬌声が届く薄暗い控え室で食べた“賄い飯”の思い出を語り合って会場を和ませる。また、これは決してステージでは語られないが、五木が今までに著した単行本には、当時の女性関係も隠さず告白されている。
 物心つくと同時に、夢見ることで成長してきた少年・五木にとって、この不遇だった約5年の日々は、今になって思えば必要不可欠な大人へのステップだったような気もする。またつらい時代に大きく横道にそれなかったは、言うまでもなく母の存在があったからに違いない。
 …ギター弾き語りを交えた講演の最後を、五木はこう締めくくった。
「55歳になった今、あらためてこう思います。若い時分に売れない試練の時代があったからこそ、今の僕がいるんだと思います。デビュー曲がいきなりヒットしていたら、僕は間違いなくテングになっていて、今ごろはテレビの“あの人は今”なぁ〜んて番組に出るようになっていただろうと思う。人は一人では生きられません。縁や出逢いによって巡り会った人々の支えをいただき、人生が開けていくのだと思います。そうして一歩づつステップを登ってきたから、当然のこと“感謝する心”も芽生えてきます…」
 今年、芸能生活40周年を迎えた彼は“感謝する心”に加え、新たな挑戦も展開しそうだ。

ITHUKI NOW
 芸能生活40周年の今年は、名古屋・御園座の正月公演から始まった。角川博の特別出演による“二人ひろし”「春や春 恋の弥次喜多」は、歌のショーを併せて大盛り上がりで、間もなく千穐秋です。そして2月からは「スーパーライブコンサート2004」の全国展開に突入。2部構成で1部が古賀メロディー、2部がオリジナル・ヒットナンバー。
 日程は以下の通り。<2月>10日・習志野文化ホール/14日・かぶら文化ホール/18日・八王子市民会館/23日・東京厚生年金会館/24日・春日部市民文化会館<3月>3日・群馬県民会館/8日・茨城県立文化センター/11日・神奈川県民ホール/19日・宇都宮市文化会館<4月>9日・新潟県民会館/10日・金沢市観光会館/15日・グリーンホール相模大野/20日・秋田県民会館/21日・岩手県民会館/23日・郡山市民文化センター/28日・千葉県文化会館。…コンサート・ツアーはまだまだ続きます。

キャプション:昭和44年、21歳でミノルフォンへ移籍し『雨のヨコハマ』をリリース。同曲のキャンペーンでは横浜の待を歩いた。



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