月刊「カラオケファン」
〜2月号(12月21日売り号)掲載〜
40周年の軌跡と円熟の展開
五木ひろし 俺の山河は…。

文:スクワットやま Squat Yama
第3回 チャンスは思いのほか早く…

[取材日記] 平成11年10月4日、新高輪プリンスホテル“飛天”で「五木ひろし芸能生活35周年パーティー」が華やかに開催された。その15日後のこと…。
 埼玉県小川町・町民会館コンサートを取材せよ、の緊急指令が事務所から入った。小川町を地図で確認し、池袋から東武東上線に飛び乗った。車窓の町並みは瞬く間に消え、枯葉舞う淋しげな奥武蔵の自然が延々と続いた。
 あぁ、どこまで走ったら小川町に着くのだろうか、と不安を覚えた頃に「アッ!」と気が付いた。“35年前、16歳の五木少年も、そんな不安を胸に車窓の景色を眺めていたに違いない”と。
 やがて、外秩父の山々にひっそり抱かれた小川町に到着した。町民会館を尋ね歩く。会館ロビーの扉を開けると、欅の枯葉が舞い込んで、フッと見上げた柱の手作りチラシが目に飛び込んで来た。セピア色の小川小学校講堂写真に、こんな文章が添えられていた。
「小川町が歌手・五木ひろしの原点 …昭和39年にレコード会社のオーディション“歌うミス・ミスター平凡コロムビア全国コンクール”の予選会が埼玉県小川町(会場は小川小学校講堂)で行なわれた。上京したばかりの五木は、友達の付き合いで出場し、見事に決勝進出を果たし、なぜか埼玉県代表として決勝大会の日比谷公会堂のステージに立ち、グランプを獲得した」
 五木は同年春、NHKテレビ「家族に乾杯」(司会・笑福亭鶴瓶)で小川町を訪ねていた。そのひょうひょうとした風情で、五木が遠慮がちに見知らぬ農家に顔を出す。「ゲェッ!」と腰を抜かさんばかりに驚いた小川町の方々。
 その時に「近いうちに小川町でコンサートをしましょうね」と語って、当日はその約束を果たすステージだったのだ。開演前の五木の楽屋には、春に訪ねたご家族の皆様が次々に訪れて、再会を喜び合っていた。オープニングはギター弾き語りで『ふるさと』。そして五木は、同コンサート開催の経緯を観客にこう説明した。
「ギター弾き語りが僕の歌手活動の原点なら、ここ小川町が僕のプロ歌手の原点です。35年前の決勝大会で唄った『初恋ながし』を改めて唄ってみたいと思います」
[上原げんと門下生時代」 五木ひろしは福井の美浜町・弥美小から耳中学(現・美浜中)へ進学。
「中1年の時から、全校生の前で唄っていましたから、僕のプロ歌手志望は先生や友達には周知のことで、皆さんからとても親身な応援をいただきました」
 夢をはちきれんばかりに育んだ中学時代を終えた翌日、彼は京都の関西音楽学院に入るべく故郷を後にした。旅立つ彼に、背を向けたままだった母の告白…。
「辛くて、駅まで見送るなんてとても出来ませんでした。歌手への夢が簡単に叶うわけもなく、そうとも知らずに冷たい世間に出て行く息子が不憫で、身を切られるような思いでした」
 だが少年・五木の夢は膨らみっぱなし。前年、堀江青年がマーメイド号で太平洋横断。橋幸夫・吉永小百合『いつでも夢を』がヒット。この年は坂本九の『上を向いて歩こう』が『スキヤキ』のタイトルで全米チャートを駆け上り、舟木一夫『高校三年生』もヒット。
 少年たちは、眩いほどにバラ色の未来を信じて疑わなかった。“さぁ、夢に向かって走り出すがいい”とヒーロー、ヒロインたちが微笑んでいるようだった。
 五木が入学した関西音楽学院は田宮二郎、森光子、青山和子、都はるみも学んだ名門。彼は同学院で一年間学んだ後、はやる気持ちに押されるように、
(近衛十四郎さんの)知人に紹介された(スカウトされて)上原げんと先生の門下生になるべく、昭和39年5月に上京。そこに近衛さんのご子息・松方弘樹さんもいらして同門になった。
 五木ひろしが、冒頭に記した埼玉県小川町で開催された第15回コロムビア全国歌謡コンクールの埼玉地区予選に出場したのは、その数ヵ月後のこと。上原門下の先輩4人に誘われて出場し、思いがけずに1位。全国1万人応募から全国24地区代表32名の一人となって、決勝大会の出場権を得た。五木は、当時を思い出してファン倶楽部誌に、こう語っている。
「本当に軽い運だめしのつもりでした。それがなんと優勝してしまった。先生に怒られるのを覚悟で“実は…”と打ち明けたところ、上原げんと先生は驚きながらも喜んでくれ、その日から本格的なレッスンが始まりました。そして9月8日の日比谷公会堂での全国決勝大会に埼玉県代表として出場。このとき僕が課題曲の中から選んだのは、中尾渉さんの『初恋ながし』でした。そしてここでもまさかの優勝…。“第15回コロムビア全国歌謡コンクール”のチャンピオンになって、前年優勝の都はるみちゃんから王冠を戴きました」
 同年12月、コロムビアと専属契約。翌年6月、17歳になった五木は「松山まさる」の芸名で『新宿駅から』(上原げんと作曲)でデビューが決定。故郷・美浜を後にして2年足らず。早々と夢を実現した彼は、華やかなスポットライトを浴びる自身の姿をまばゆく浮かばせ、こみ上げて来る笑みを押えることが出来なかった。
「チャンスは思いのほか早かった。これも実力のうち…」
 と、思っても無理はない。だが、それが試練の始まりだったとは誰が知ろう…。

ITHUKI NOW 
 55歳の大晦日も間近。連続33回目のNHK「紅白歌合戦」出場後に迎える平成16年は“芸能生活40周年”。その幕は1月3日初日の名古屋・御園座“初正月公演”から開きます。同劇場連続20回出演記念。演目は「春や春 恋の弥次喜多」。角川博の特別出演で“二人ひろし”の抱腹絶倒・初夢珍道中。
 五木ひろしの芝居キャリアは30年余。当初から「歌手がファンサービスでやる芝居はしない」と決め、本格的に取り組んで来た。長谷川一夫に二枚目演技を、島田正吾にリアルな芝居、三木のり平に大衆演劇の楽しさを教えられている。ここ最近の五木の芝居は「暗く厳しいご時勢だから、せめて劇場ではパッと楽しく…」と楽しい演目が選ばれている。
 初春演目は20年前、芸能生活20周年の新橋演舞場で小野田勇作・三木のり平演出で初演されたもの。ここ最近の五木の芝居は、その軽妙な三枚目芸が磨かれ、絶妙珠玉の笑いが展開されて高評価が続いている。歌番組やコンサートでは観ることの出来ない「役者・五木ひろし」もぜひお楽しみいただきたい。

<昔の写真キャプション>昭和39年9月8日、日比谷公会堂で第15回コロムビア全国歌謡コンクール・全国決勝大会でチャンピオンの栄冠を手にした16歳の五木ひろし。



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