月刊「カラオケファン」
〜1月号(11月21日売り号)掲載〜
40周年の軌跡と円熟の展開
五木ひろし

文:スクワットやま Squat Yama
第2回 『りんご追分』からすべてが始まった

[取材日記] 平成15年3月14日「五木ひろし55歳ハッピーバースデー・コンサート<ともだち>」が横浜アリーナで開催された。
 五木は20代後半から、こう言っていた。
「さまざまな経験を積んだ50代にこそ、本当にいい歌が唄えるように思う。その真ん中の55歳が最も輝いた年になるだろう」
 25歳で『夜空』レコード大賞、27歳で『千曲川』ヒットの最中に“50代こそ!”の認識。恐るべしです。この日は、単なる誕生日コンサートではなく、彼が自らの歌手活動に大きな区切りをつけ、明日へのメッセージを発する特別なステージになるだろうと誰も思っており、1万2千名収容の巨大な長方形空間、横浜アリーナにはそんな期待と緊張感が充ちていた。
 一部は彼の親友で当コンサート実行委員長・堀内孝雄の司会・進行。お祝いに駆け付けたゲストはハロー!プロジェクトのメンバー21名はじめ演歌歌手、各界著名人の約50名。
 第二部は五木ひろしワンマンショー。自身の人生を振り返る構成で、スクリーンに子供のころの家族写真が映し出されると、彼はア・カペラで『りんご追分』を歌い出した。手にした紙包みの輪ゴムを弾きながら…。水を打ったような客席に、彼は静かに語り出した。
「子供の頃、母が入院したことがあるんです。病院に見舞いに行くとお菓子の紙袋があって、輪ゴムが巻かれていた。僕はそれをパチン・パチンと弾きながら、おふくろのために『りんご追分』を唄ったんです。それが僕の最初の弾き語りでした」
[少年時代]…それは、五木5歳の時。子供が歌をうたえるようになるのは3、4歳のころからだろう。時あたかも戦後歌謡曲が一気に花開いた時期で、幼児・五木はその波を貪欲に吸収しながら育っていた。
「それはきっと父の影響…。父は当時まだ珍しかった蓄音機を入手しており、家にいればSPレコードを聴いていた。私が蓄音機から流れる歌声に耳を澄ませていると、その姿が“かわいいい・かわいい”と繰り返し言っていた。覚えたての歌をうたえば歓ぶことしきりで、そんなことから歌をどんどん覚えていったのだと思う」
 28年前に書かれた五木の著書「涙と笑顔」には、そんな彼の姿を兄・弘志が紹介している。
「弟は4、5歳の頃から毎日、朝から晩まで歌を覚えていた。いつもギター代わりの輪ゴムを手で弾きながら…。やがて歌謡曲が春日八郎、三橋美智也、三波春夫、村田英雄さんの全盛期になって、これらの歌もほとんど覚えていった。まだ字が書けませんから姉や僕に歌詞を書かせる。一方、メロディーは一度聴いただけでしっかり覚えていました」
 五木も、こう思い出している。
「歌謡ショーがやってくると、母の手を引き朝早くから並んだもの。開場を待ちかねたように大人の間をすり抜け、決まったように最前列の席を獲った」
 さらに夢中になれば、こんな事態も…。
「菅原都々子さんのショーを観に行ったのですが、休憩時間になったとき、あの子が席にいない。心配して探しに行こうとしたら、客席がワーッと沸いたのでふと舞台を見ると、あの子が立っていた。それから、あの子は、なんと菅原さんの歌をうたいはじめたんです。もう場内は割れるような大歓声。親としては恥ずかしくて顔をあげていられませんでした」
 これは亡き母・キクノの思い出。ラジオ、蓄音機から、やがてテレビの時代になる。
「6歳の頃、僕の家にはまだテレビがなかったので、夕食が済むと、毎晩のように家を抜け出して親戚の家にテレビを見せてもらいに出掛けていました。あるとき、あまりにぼくの帰宅が遅いので迎えにいくと、手でタクトを振り振り、大声で歌いながら帰ってくる僕にに会った、と母が思い出話によく語っていた」
 そして舞台は美浜に移る…。
「8歳の時、美浜町のお祭り・半夏生で初めて多くの人前で歌ったんです。この時に唄ったのも『りんご追分』でした」
 美浜町は昭和29年に周辺四つの村が合併して町制施行されたばかり。そして今年が町制50周年。五木ひろしは美浜町誕生と同時に“町のスター”だったのだ。さて、五木少年は昭和32年に劇的な美空ひばり体験をする。
「小学四年生の時でした。美空ひばりさんが家の近くの久々子海岸に大川橋蔵さんと映画ロケでやって来た。そこは美しい海岸線で、東映京都撮影所から遠くもなく、ということで映画ロケ地によくなっていたんです。僕は朝早くからロケ現場に張り付いて、ひばりさんの一挙手一投足に目を凝らしていた。その時にふとひばりさんの視線がぴたりと私に向いて、ニコリとほほ笑んでくれた…ように思った。僕はうれしさのあまり、歓喜の声とともに波打ち際まで走り出し、頭から海へドボンと飛び込んだ」
 五木はこの頃からすでに歌手への夢を大きく膨らませていたに違いない。そして母の苦労を見て、是が非でも歌手になって母に楽をさせたいと決意を固めた。
 …母のために輪ゴムを弾きつつ『りんご追分』を歌ってから50年、美空ひばりさんが逝って15年…。五木ひろしは55歳の誕生日ステージの最後に、こうメッセージした。「もう僕の歌を聴いてほほ笑んでくれる母はいないけれども、これからの5年間は僕の最後の大勝負。歌手人生に悔いなし、と言えるまで燃焼したい…」

ITHUKI NOW 11月22日、五木ひろしは(社)日本音楽事業者協会主催の三宅島災害救援コンサート“Save THE MIYAKEJIMA PartV”(東京国際フォーラム・ホールA)に他12名の歌手と共に出演。同コンサートは今年で3回目。過去2回、各1,400万円の寄付と避難生活を余儀なくされている島民たちを慰労招待してきた。昨年の同コンサートに出演した折の五木の真情あふれた姿勢に感激した三宅島・長谷川村長の希望が、石原慎太郎都知事を通して伝えられ、今年5月31日に三宅島復興応援歌(チャリティー楽曲)『望郷の詩』(原案:長谷川鴻/作詞:阿久悠/作曲:五木ひろし)をリリース。 五木はすでに都民ひろばでの同曲発表会と9月の日生劇場コンサートに避難島民を招待しており、今回で三宅島島民とのふれあいは3回目。ハードスケジュールにあって、チャリティー活動を惜しまぬのは演歌・歌謡曲界のリーダーたる自覚があってのことだろう。なお今年の3枚目のシングル『逢えて…横浜』が好セールス中で、12月13日にラジオ日本・横浜本社1Fホールで同曲カラオケ大会が予定されている。

<昔の写真キャプション>昭和28年正月。輪ゴムを弾きながら『りんご追分』を歌っていた5歳の五木(前列右。左・兄、中央・母)



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