月刊「カラオケファン」連載
〜2月号(12月21日発売号)〜
40周年軌跡と円熟の展開
五木ひろし 俺の山河は…。

文:スクワットやま Squat Yama
第15回 俺の山河…を求めたシルククロードの旅

[取材日記] …2年前の12月25日、五木ひろし恒例の東京プリンスホテル“クリスマス・ディナーショー”取材へ行く前に、筆者はシンセサイザーの喜多郎をコロムビアレコード役員室で取材していた。これは翌年2月よりNHKのシルクロード放映12夜に先立つ1月22日リリースの彼のアルバム『THE BEST OF SILKROAD』の取材だった。
「久し振り。あれから何年が経ったのだろう」
「20数年前でした…」
 しばしインタビュー前に昔話をした。喜多郎が「シルクロード」の音楽担当に決定したのは昭和55年で、筆者は当時、喜多郎プロモーション原稿を書きまくっていた。NHK特集「シルクロード」は同年から昭和56年に渡って放映され、シルクロードと喜多郎は見事に大ブレイクした。地球最期の秘境・シルクロードはポピュラーなスポットになり、20代だった喜多郎は、その後にグラミー賞を受賞して世界的アーティストになった。50代になった喜多郎は実にいい顔をしていて、当時はシンセサイザーのみだった『シルクロードのテーマ』が、アコースティックの温かさ満ちて20数年振りによみがえっていた。
 喜多郎取材を終えて、五木のディナーショー会場に駈けつけると、ステージ中央に「五木・孝雄+ハロー!プロジェクト聖歌隊」による『愛のメリークリスマス』ジャケットの大パネル。ボブ佐久間指揮で男女のコーラス隊、女性ストリングス、五木バンドという豪華編成だった。白タキシードで華麗に熱唱する五木を見つめつつ“あ・あっ”と思った。
 そう、五木もシルクロードを旅したことがあったじゃないかと…。あれは確か昭和58年。前年に阿久悠作詞の『愛しつづけるボレロ』『契り』『居酒屋』と連続ヒットの勢いの最中、五木の突然の辺境への長旅は世間をアッと驚かせたもの。五木ひろし著「心の旅立ち」(昭和59年12月、敬文堂刊)に旅立ちまでの経緯がこう書かれている。
[心の旅立ち]その長文を要約すると…
「五木ひろしなってから10年余、慌ただしく走り続けてきて、フと心の節目が欲しくなった。心の隙間に風が吹き出していたんです。もっと強い精神力が欲しかった。寺にこもって座禅を組んでみようか…、そう思い始めた折りにテレビ東京から“演歌の源流を求めてシルクロードの旅に出てみないか”と提案されて、僕は待っていましたとばかりに飛び付いたんです」
 昭和58年6月1日、五木は新歌舞伎座公演を終えたその足で大阪空港から中国・北京へ旅立った。北京市民と交流後に万里の長城へ。約2千年前に築かれた想像を絶する壮大な長城をひとり歩きながら、五木は早くも探し求めていたビジョンを掴んだと言う。
「悠久の歴史を実感して、僕は余りにちっぽけな存在だけれども、僕は僕の信じる道を歩んで自分の歴史を作って行けばそれでいいんだ、と気付いたんです」。
 簡単な答だが“人は結局そうして生きて行くより他にない”というひとつの達観。歌謡界の第一線をキープすべく果敢に闘う日々に、ともすれば見失ってしまう人の道。長城で“どう生きるべきか”を見つめ直した五木の心に早くも落ち着きが戻ってきたと言う。
 ここで得た答は後の…♪顧みて、恥じることない/足跡を山に のこしただろうか〜と歌う『山河』にピタリッと一致して、何やら因縁めいたものが感じられて興味深い。
 さて、五木はここからシルクロードの出発点、かつての長安(現・西安)、そして列車2泊でウイグル自治区の主都・ウルムチに旅を進めて遊牧の民と交流。今度は四輪駆動車で砂漠のオアシス・トルファンへ。
 五木の旅は三度仕切り直して行なわれている。二度目は日を改めて韓国へ。古賀政男が多感な幼・少年期に通った善隣高等学校(校庭の一画に記念碑が建っている)を訪ねたりして韓国音楽を聴きながら、さまざまに古賀メロディーを検証。そこから五木が引き出した答は改めて認識させられた『影を慕いて』の完成度の高さだったという。
 三度目はパキスタンのカラチからバスでペシャワールへ。アフガン難民キャンプの子供達と交流し、最後はシルクロードの終点・イスタンブール。彼はトルコ民謡に日本の“追分”との多くの共通点を聴き取って演歌の“コブシ”を考察している。
 五木の約一ヶ月、三回に分けてのシルクロードの旅はかくして終わった。当初はスケジュールを二ヶ月間空けて飯盒炊飯のテント生活まで覚悟した秘境・敦煌やブータンまでの冒険旅行だったというが、それでも五木の芸能生活40周年を振り返れば、これだけの長期休暇と辺境の長旅は余りに異例…。
 旅から戻った五木は『細雪』ヒットと共に、また過密スケジュールに呑み込まれて行ったが、彼が己の歴史をひたすら築こうとする姿勢は一段と真摯なものになったようだ。五木は帰国後、間もなくしてチェロ演奏に挑戦。彼の有名な多楽器演奏は実にここから始まっている。この旅が五木にもたらしたものは、かくも大きかった。
 五木が再び中国の大地に立ったのは、それから17年後。平成12年4月リリース『山河』プロモーション・ビデオの撮影だった。同年7月26日の成田発10時45分の北京行きANA905便で飛び立った五木は、ロケ地の黄河上流に向かった。あの時と同じく四輪駆動車で約700キロのドライブ。9時間の予定が18時間を要してやっと雄大な壷口瀑布に到着。黄河の大自然をバックに唄う『山河』プロモーション・ビデオは圧倒的な迫力で大反響を呼んだ。同曲は20世紀から21世紀への橋渡しとして1999年のNHK紅白歌合戦の大トリ曲として日本中の茶の間に感動を広げた。
 35歳でシルクロードに旅立って、今、芸能生活40周年の56歳。五木の“山河”は限りなく大きく築かれている…。


ITSUKI NOW  今年もあとわずか。五木の「紅白歌合戦」歌唱曲は『雪燃えて』になるのだろうか。同曲はすでにオーケストレーション、三味線フィーチャーなど多彩なバージョンで展開されているが…。
 さて最新リリースは12月22日発売のビデオ、DVD『五木ひろしスーパーライブコンサート2004in御園座』。これは8月25・26日の名古屋・御園座のライブ映像。一部「古賀メロディー」は平成15年9月の日生劇場・芸術選奨受賞ステージの再演。“何も足さない・何も引かない”ギターの調べと五木のボーカルだけが静謐な巨大空間に響き渡る真摯で冷徹なパフォーマンス。名曲継承はかくあるべき…の緊張感満ちた11曲収録。
 二部「ヒットアルバム」は芸能生活40周年ならではのぜいたくさでボブ佐久間指揮「名古屋レディースオーケストラ」演奏。最終曲『雪燃えて』はオーケストラ40名、津軽三味線95名、五木バンド11名の総勢146名という壮大な演奏と五木の大熱唱。  ビデオカセット、DVD同時リリースで各税込4200円。

メイン写真キャプション 1983年“演歌の源流を求めて”五木は秘境・シルクロードの旅に出た。写真はトルファン郊外(写真はファン倶楽部会報より) サブ写真キャプション ライブ収録された8月25・26日の御園座ステージ



HOMEに戻る