月刊「カラオケファン」連載
〜11月号(8月21日売り号)掲載〜
40周年の軌跡と円熟の展開
五木ひろし 俺の山河は…。

文:スクワットやま  Squat Yame
第11回 ラスベガスで学んだもの
 

[取材日記]…五木ひろしの取材を始めるずっと昔、今から約27年前のこと。筆者はヤマハ音楽振興会の仕事をしていて、第7回世界歌謡祭グランプリのサンディー『グッド・バイ・モーニング』と、佐々木幸男『君は風』のデビュー曲パンフのコピーを書き、前年デビューの因幡晃や中島みゆきの宣材を作り、ポプコンに登場の世良公則&ツイスト『あんたのバラード』に興奮していた。それは1970年代後半で、なぜかその頃の青年・五木ひろしの写真が我が家のアルバムにある。すでに退色してセピア色になった写真の裏に、こう記されている。
「8月 ラスベガス ヒルトン 楽屋にて」
 写真は筆者の連れ合いの従姉妹で、今も在米の“ヤコちゃん”が白のサマードレスで、五木にやさしく肩に手をかけられてほほえんでいる。この写真が撮られた時から約20年後に筆者が五木の追っかけ取材をすることになり、また今、27年まえのこの写真について書き出すとは、いささか奇なものである。
 写真裏に年度の記入はないが五木のラスベガス「ヒルトンホテル」のショーは昭和51年(76)から53年(78)の3年間で、共に8月に開催されているから、この写真はその3年のいずれかの年のヒルトンに間違いない。
 五木は、この3年間のラスベガス・ヒルトンのショーについて、自ら語ることは滅多にないが、ホテルの年末ディナーショーなどのトークでふと語り出すこともある。
「ラスベガスのショーはディナーショー・スタイルに近く、僕はその頃から東京プリンスホテルでディナーショーを始めているんです。この“鳳凰の間”が出来た年で、それまではジャズやシャンソン歌手のディナーショーはありましたが、歌謡曲歌手では僕が最初だったと思います」
 五木の最近の年末ディナーショーはボブ佐久間の指揮でオーケストレーションされた贅沢なステージが多いが、そもそもがラスベガス仕込みだったのだ。そして五木は通常のコンサートにもショービジネスの本場から貪欲に吸収した数々のアイデア、新技術を積極的に採り入れていった。舞台美術のアイデア、コンピュータ駆使の照明や音響、8ビートからクラシック、さらにダンサーと絡む激しいパフォーマンス後に一転!日舞の艶っぽい日本情緒を…とエンターテインメントの巾を一気に広げ、深めていった。
「司会者抜きのワンマンショーのスタイルもこの時期から始めています」
 今思えば、日本を代表するエンターテイナー・五木を形成した貴重なキャリアとなったラスベガス公演だが、なぜかいいことばかりでもなかったようなのである。五木ひろしになって20周年の平成3年に出版された2冊の自著「渾身の愛」「ふたつの影法師」にも、最も華やか話題に違いなかろう3年間のラスベガス公演についての記述は少なく、むしろ苦渋を垣間見せている。

[3年間のラスベガスショー]…五木は『よこはま・たそがれ』から毎年末の各賞受賞を続け、3年目に『夜空』で日本レコード大賞・大賞受賞。そして5年目に『千曲川』で紅白歌合戦のトリを飾った。“賞男”の異名をとるまでに上り詰めた彼のスタッフは、次のターゲットを躊躇なく世界に求めた。
 当時の所属事務所はキックボクシングの野口プロ。日本チャンプになったら次は世界チャンプへ!そう考えるのがボクシングの世界の定石だろう。野口社長はアメリカのボクシング界にも人脈があって、ヒルトンホテルのステージ・プロデューサーへ話が持ち込まれた。そこはフランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、トム・ジョーンズ…など世界の超一流エンターテイナーが出演するアメリカ・ショービジネスの殿堂。五木は20曲中10曲は英語詞で、ロックやジャズへと芸巾を広げ、世界チャンプを目指して果敢に挑戦した。
 だが世界チャンプへの道は、スポーツと歌手では余りにも事情が違っていた。スポーツは勝負次第だが、歌手はファンがあってこそ。『よこはま・たそがれ』から5年、その破竹の勢いを支えたファンたちは“手の届かない世界に飛び立って行った”五木から去り始め大ヒット曲が出ない、コンサート会場にも空席が目立ち出した。日本の音楽業界も五木が土俵を世界に変えたことに反発した。結果的に音楽祭では受賞するものの日本レコード大賞は連続落選。
 その時のショックを五木は「ふたつの影法師」で綴っている。その長文から同夜のシーンを再現してみると…。
 …昭和51年11月19日、帝国劇場の日本レコード大賞発表会場。大賞候補25名の中からまず10名の候補者発表へ。五木は“賞男”とまで呼ばれた勢いに加え、ラスベガス公演成功という新たな実績をもって受賞の自信に満ちていた。が、最後の10人目になっても五木の名は呼ばれなかった。顔面蒼白になった五木をマスコミの無情なカメラが取り囲んだ。選にもれた歌手たちが次々に会場を去るなか、五木は失意のまま華やかなステージを見つめていた。なぜ?という問いと悔しさが胸の奥で渦巻くのを秘めて…。
 同夜、冷静さを取り戻した五木は“僕らはどこかでボタンをかけ違ったのではないだろうか”と思った。同時に“こんなことで負けてたまるもんか。僕はいつだって苦境に立たされる度に闘志を燃やして乗り越えて来たじゃないか。さぁ、諦めずに再挑戦だ”と拳をグッと握りしめた…という。
●…今、芸能生活40周年。その想いをマスコミに訊ねられる度に、五木は決まってこう応えている。
「五木ひろしになるまでの6年間だけじゃなく、五木になってからも幾つも壁がありました。僕にはきっと平坦な道は合っていないのでしょう。壁に向かう度に闘志を沸かせてぶつかって来た。それが僕の40周年です」

ITHUKI NOW 本誌発行から間もなく五木の芸能生活40周年記念「明治座9月公演」が開幕。9月1日〜26日で、演目は山本周五郎原作「雨あがる」。16年前の昭和63年に明治座で初演以来、名古屋や大阪などで再演を重ね“五木の珠玉舞台”とまで評された芝居。しみじみとした夫婦の情愛を軸に、貧しいながらも心優しい人々がお互いを信じ合う姿の展開で感動をよぶ役者・五木の真骨頂発揮作。11月は大阪・新歌舞伎座公演でお芝居なしの「歌・舞・奏スペシャル」。6月23日リリースの40周年記念アルバム『五木ひろしオリジナル40 新宿駅から40年』と『五木ひろしが歌う!日本の歌・歌謡史40』から選曲のライブ・パフォーマンスが予定されている。また初日の9月1日は、オリジナルアルバム『おんなの絵本』発売。昨年は船村徹・阿久悠とガップリ組んだ『翔〜五木ひろし55才のダンディズム』で大人の男のエッセイ的文学的楽曲が中心だったが、今度はタイトル通り女性向きで作家陣も多彩、ポピュラリティー満ちた作品群になりそう。

<メインフォト・キャプション>今はセピア色に退色した昭和51〜53年のラスベガス・ヒルトンの楽屋スナップ。世界チャンプを目指していた青年・五木ひろし…
<サブフォト・キャプション>明治座9月公演チラシは五木の珠玉舞台、山本周五郎原作「雨あがる」



Enka「扉」に戻る