大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”


永井荷風 VS 谷崎潤一郎
どちらの晩年が幸せだった?楽しかった?…かの考察

<独身、妻帯論争>
 川本三郎「荷風と東京」にこんな箇所があった。
 …「中央公論」荷風担当の編集者、佐藤観次郎「文壇えんま帖〜編集長の手記」に、戦後、数年ぶりに会った荷風が以前にも劣らず元気横溢していて、七十歳を超えた老人と思えなかったと書いている。そして荷風はこう答えたという。
「家庭をもたないことが、却って若返りでしょうね。妻や子供をもつことは、わずらはしさが加わるだけで、この方が、余程気楽ですよ…」
 さらに荷風は、家庭のある谷崎潤一郎と独身の自分を対比させ、次のように語ったという。
「先日銀座を一緒に歩いた時ですが、谷崎君には、あの銀座裏などには、少しも興味がないらしい。勿論昼間でしたが、ダンスホールや、いかがわしい所にも…谷崎君は、もう孫まで出来ているので、矢張り所帯じみてしまうのですね。すっかりおぢいさんになっている。私より随分若いのに…あれを思うと、家庭をもつと、人間、年老いてゆくんですよ。周囲がそうさせてしまうのですよ。これが、私は恐れるのですよ。矢張り家庭を持たずに、妻も子もなくって、これだけはしやわせだと思っています。私は、その点だけは、よくやってきたと時に考えます。こんな時代に、子供や孫などもったら、本当に苦労が多くて、一寸、死にきれませんからね…」

 独身生活の自由、気軽さを謳歌する荷風さんだが、実は独身の寂しさに常に襲われている。麻布・偏奇館移居の翌年、まだまだ若い42歳の大正10年(1921)、「新小説」に発表した「『雨瀟瀟』でこう告白している。
「成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまるところわたしの一生の結末であろう。(略) わたしはもうこの先二度と妻を持ち妾を蓄え奴婢(ぬひ)を使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥縁先には金魚を飼いなぞした装飾に富んだ生活を繰り返すことは出来ないであろう。(略) 親切に世話してくれる女もあらばと思うこともあったが、(略) 孤独を嘆ずる寂寥悲哀の思いはかえって尽きせぬ詩興の泉となっていたからである。わたしは好んで寂寥を追い悲愁を求めんとする傾きさえあった。(略) 詩興湧き起れば孤独の生涯もさらに寂寥ではない。(略) しかし詩興はもとより神秘不可思議のもの。招いて来たらず叫んで応えるものでもない。されば孤独のわびしさを忘れようとしてひたすら詩興の救いを求めても詩興さらに湧き来たらぬ時憂傷の情ここにはじめて惨憺の極みに到るのである。詩人平素独り味わい誇るところのかの追憶夢想の情とても詩興なければいたずらに女々しき愚痴となり悔恨の種となるに過ぎまい。」
 そして昭和5年(1930)2月、51歳の荷風さんは…
「余去秋以来情慾殆(ほとんど)消滅し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女(小星)の言ふところも推察すれば決して無理ならず。余一時はこの女こそわがために死に水を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき…」
 荷風がこう書いた年の8月、谷崎から谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫連名の「千代さんを佐藤春夫に譲る」挨拶状を受け取っている。潤一郎は妻を離縁した翌年、昭和6年(1931)の46歳、21歳も下の古川丁未子と結婚していて…
「初めてほんとうの夫婦生活というものを知った。精神的にも肉体的のも合致した夫婦と云うものの有り難味が、四十六歳の今日になって漸く僕に分った訳だ」
 と有頂天になっった。その最中、同年の「改造」11月号に「『つゆのあとさき』(荷風さん、52歳の昭和6年出版)を読む」を発表。で、腹を抱えて笑っちゃうんである。こう書いている。
「『雨瀟瀟』を読んだ時は、氏の孤独陰惨な境涯をお察しして思わず慄然とした。(中略) ひとたび創作熱が衰え、芸術的感興が枯渇してしまったら、老境に及んでの鰥寡(かんか)孤独な生活ほどみじめなものはないであろう」
 と、まぁ言いたい放題。そして『つゆのあとあき』については…
「若い時分には享楽主義だの耽美派だのといっても、早くも肉体の秋が訪れる年齢になれば、自ら芸術に対するその人の態度にも変化が生じないではいない。思うに荷風氏は、長い間心境索落たる孤独地獄の泥沼に落ち込んで、苦しく味気ないやもめ暮らしの月日を送りつつあるうちに、いつか青年時代の詩や夢や覇気や情熱やを擦り減らしてしまって、次第に人生を冷眼に見るようになられたのであろう。享楽主義者が享楽に疲れるようになれば、大概はニヒリストになるのが落ちであるが、氏もかくの如くにすてその当然の経路を辿られたかと思われる」
 調子に乗った潤ちゃんは、しまいには恩師・荷風さんをこう切り捨てている。
「作家が老境に入るに従って自然と懐古趣味に傾き…(中略)…彼らは江戸文学の狭い範囲にのみ跼蹐(きょくせき)して、室町、慶長、元禄頃の上方文学の広い領域へ眼を付けようとしないのであろう…」
 潤ちゃんは、この数年後だったら“なぜ「源氏物語”などの古典に眼を付けようとしないのであろう」と言い放ったに違いない。

 荷風さんもまた言っていることとやってることは別で、昭和11年(1936)57歳で、29歳の帰朝からこれまでの馴染を重ねた女を日記に列挙。その数、実に16名。ほとんどが囲って、飽きれば手を切る繰り返し。最後の女は「渡辺美代」で、昭和9年暮から10年秋まで毎月五十円を与えた24歳の女で、これがスケベな荷風さんならでは…。彼女は夫婦二人づれで荷風さんい秘戯を見せる関係なのである。荷風さん、こう日記に書いている。
「芸術の制作慾は肉慾と同じきものの如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ芸術の慾もまたさめ行くは当然の事ならむ。余去年六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。その頃渡辺美代とよべる二十四、五の女に月々五十円与へ置きしが、この女世に稀なる淫婦にてその情夫と共にわが家にも来り、また余が指定する待合にも夫婦にて出掛け秘戯を演じて見せしこともたびたびなりき」
 荷風さん、こんなことを書いて「色慾消磨そ尽くせば人の最後は遠からざるなり…と、同夜、遺言をしたためている。それでも好色やめがたく、「玉の井」に通う出すのもその後のこと。

<晩年の作家論>
 荷風を深く敬した石川淳は、荷風の死後直後、「新潮」(昭和34年7月)に痛烈・過酷な批評文「負荷落日」を発表した。趣旨は、戦後の荷風作でいいのは「葛飾土産」までで、それ以後は読むに堪えぬ。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手がとどかないうちに、どうすればこうまで力がおとろえたか」という内容だそうだ。
 川本三郎は、そうなった要因をこう挙げている。昭和20年3月15日の東京大空襲(荷風66歳)で、精神的自立を支えていた偏奇館という城を失ったため。その後に新興出版社相手に「売文」で糊口をしのぎ出したため。戦後に生れた“大衆社会”が“市井の人”でありたかった荷風を「みられる人」にしたため。だが、戦後の荷風は「余生をなんとか静かにやり過ごすしかないと諦めるしかなかった」ためでもあって、その老後は作家としてより老人として幸福だったのではないだろうか、と書いている。(雑誌「東京人」の特集・荷風と東京の戦後」)
 一方、谷崎潤一郎は戦争中に大長編「細雪」を書き、大仕事「源氏物語」に取り組んだ。さらに晩年には「鍵」や「瘋癲老人日記」でエロジジイの真骨頂を発揮。ユリイカ「特集・谷崎潤一郎」で「舌と耳の作家、谷崎潤一郎」と題した座談会で島田雅彦はこう言っている。
「谷崎は身体が思うにまかせなくなっても、楽しみはまだまだあるのだということを教えてくれるんです(笑)。勃たなくてのよいのだ、というところまで女体にはまるというのも、高度に知的な作業ですから、万人に開かれているとは思わないけど、勃たなくても人生捨てたものではない、と思わせてくれるのは圧倒的にすばらしいですね」
 そして座談会は谷崎の変態性で盛り上がって行く。渡部直己は…
「谷崎はどうしたって、聴覚と触覚および味覚の人なのであって、孔の開きまくった耳と、いつでも撫でさすっている手、なんでも舐める舌という、つまり「劣等感覚」に殉じた人なんです(笑)」


<二人の最期>
 永井荷風が亡くなったのは昭和34年(1959)4月30日、79歳だった。その2年前に新築した京成電車・八幡駅のすぐ北、八幡小学校裏手の自宅六畳間。荷風はいつも通り近所の食堂「大黒家」でカツ丼一杯を平らげ、日本酒一合を呑んだ。真夜中。急に気分が悪くなって胃から血を吐き、窒息で急逝。翌朝、家事手伝いの老婦が掃除にやってきて死んでいるのを発見された。哀しいことに、臨終の写真が昭和34年5月17日号(10日売り)に掲載された。(毎日新聞社「昭和史全記録」1989刊の628頁にも掲載) 居間から発見された現金二十八万円、定期預金八百万円、普通預金二千万円の通帳は、威三郎氏の名義で三菱銀行八幡支店に預けられたという。棺は市川署から葬儀社に手配した二千五百円の質素なものだったという。遺体をきよめた小問勝二氏は左腕に「こうの命」の刺青を見た。32歳の荷風が新橋芸者・豊松(吉野こう)と互いに彫りあった刺青だった。「落ちる葉は残らず落ちて昼の月…荷風」。合掌。

 一方、谷崎潤一郎が亡くなったのは昭和40年(1965)7月30日、荷風さんと同じく79歳だった。同年1月に東京医科歯科大学附属病院に入院し、4月に退院。7月に再発し30日に腎不全から心不全を併発し、自宅で逝去。彼の評伝などにはない、こんな驚くべき臨終レポートが、読売新聞大阪のサイト「黛まどかの恋ものがたり〜臨終の接吻」(2003.11)があった。
…その時、松子は息を引きとったばかりの夫・谷崎潤一郎の性器にそっと口づけをしたという。谷崎潤一郎の臨終に立ち合った医師井出隆夫氏が、私の父に密かに語った話である。昭和40年7月30日、文豪谷崎潤一郎は最愛の人松子に看取(みと)れれながら、湯河原の自宅・湘碧山房で眠るように逝った。井出医師は湯河原における谷崎の主治医で、絶筆「七十九歳の春」にも実名で登場し、絶対的な信頼を寄せられていた。湯河原は私のふるさとであり、井出氏が私の父の知人であったことから、後にこの秘話を知ることになったわけである。(中略)…井出医師はこう付け加えたという。「あんなに美しい接吻を見たことはありませんでした…」。最愛の人の口づけを受けて谷崎はあの世へと旅立っていったのだった。



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