(フィクション編)

『椿説弓張月』 日本古典文学大系60 曲亭馬琴著・後藤丹治 校注/岩波書店刊行/(上)昭和33年8月6日第1刷/定価650円、(下)昭和37年1月6日第1刷
 平成15年8月23日に高田馬場の古本店で上下2冊を600円で購入。(上)から(下)を出版するまでに4年が費やされているんですね。作者曲亭馬琴は本名を滝沢解(とくる)。明和4年(1767)、江戸深川生まれ。24歳の時、山東京伝の門下生となり、同著は文化4年(1807)に前篇を発刊し後篇・続篇・拾遺と続刊して、文化8年、残篇で完結。通計5篇、二十九冊の長篇。挿絵は葛飾北斎。為朝の事蹟を最も詳細に伝えた「保元物語」を元に、馬琴は為朝の人格の道義的な一側面を一層強化美化。「保元物語」では大島で討死するが、すぐれた武将為朝の末路としては甚だ悲惨で気の毒と思って、琉球に渡って大活躍させている。(上)は主に日本の物語で、(下)は琉球の物語。で、校注文で読むといっても江戸文学の、です。読破するに何年かかることやら。閑な時にポツリ・ポツリと読み進む積りです。

一九五二年日航機「撃墜」事件』 松本清張著/角川書店/定価1,400円
 これは平成14年秋に読了(島日記:平成14年10月26日からやや興奮気味に“もく星号”関連を連日記しています)。松本清張82歳で死去(平成4年8月)直前の4月30日初版発行の遺作。松本清張は昭和35年に「日本の黒い霧」の一編として「運命の『もく星』号」を書き、その8年後に氏の現代物小説で1番長い『風の息』を書き、死の直前に三度「もく星号」の謎に取り組んだのがこの書。巨匠の執拗きわまる探求心をもっても充たされなかった謎とは何か?。帯コピーに「昭和二十七年、日航機「もく星」号は伊豆大島の三原山に墜落した。直後、「全員救助」と米空軍は発表。誤報か策略か。多数の死亡者の中にダイヤ密売の美女。世を震撼させた事件の真相に迫る長篇小説」とあるが、この書で新たなナニを書こうとしていたかは未完?で、よくわからない…。後書きで氏は、「赤旗」掲載を定本とした文芸春秋社刊「風の息」に全面的に手を加えての改稿で、前書は破棄すると記しているのだが…。


風の息』 松本清張著/文芸春秋社刊の単行本、文春文庫(上・中・下)、さらには松本清張全集に収録
 本人が、死ぬ直前に同小説を破棄すると記した長篇小説。文中で、これは事実に根底を置いた“記録小説”です、と記しているが、事実部分と虚構部分の判別は難しく、これは困った、とんでもない“本”を読まされたというのが偽りならぬ感想。同小説の気になる部分を「H4年10月」の「島日記」に中途半端ながら記しています。


『鎮西八郎為朝』林房雄著/学習研究社/定価980円
 昭和44年2月10日初版の書き下ろし歴史シリーズの一冊。滝沢馬琴の「椿説弓張月」に材を取り、想像力を膨らませて豪快な英雄伝として描かれている。『保元物語』では大島で死んだことになっている為朝だが、ここでは「保元の乱」の前にも琉球に行っており、大島主となって伊東からの軍勢と闘ったのちに、再び琉球へ行くところで終わっている。巻末に作者と桑田忠親の対談解説が収録されている。

『鎮西八郎為朝』津村陽著/講談社文庫/定価580円
 林房雄の同題小説に比してより緻密、より大スケールで、これぞ英雄伝説の痛快長編エンターテインメントに仕上がっている。「椿説弓張月」を骨格に、大島脱出後の琉球制圧の過程も詳しく描かれて、再び平家に闘いを挑むため大和帰還へ旅立つところで終わっている。平成元年4月刊行で、平成4年11月に文庫化。津村陽の年譜付き。

『波浮の平六』来栖良夫作・北島新平画/ほるぷ出版/定価1236円
 小学校高学年・中学生向けの“ほるぷ創作文庫”だが、どうしてどうして大人が読んでも読み応え充分の秋広平六伝記である。江戸中期、上総・市宿村の二十歳の平六が、禁令を破って山村を飛び出し、櫛やカンザシを商う「伊勢屋」から下田の回船問屋「島屋吉右衛門」での修行を経て、やがて千両予算の掘割一式引受人となり波浮港を開港。さらに波浮港村の名主となって開拓するまでがいきいきと描かれた物語 。初版は1981年(昭和56年)2月で、手許にあるのは9版で1989年8月発行本。

『黄金海流』阿部龍太郎著/新潮社/定価1700円
 これは面白い!『鎮西八郎為朝』が馬琴の「椿説弓張月」の現代リニューアル版で、『波浮の平六』が資料から描いた伝記だが、これは豊富な資料をもとに、オリジナリティーに満ちた本格歴史サスペンス小説。時代小説はかく書くべきの見事な着想、構成、筆力でお見事と唸らせます。抜け荷船の遭難、前科者が収容された石川島の人足寄場、黒頭巾の刺客に襲われる秋広平六、幕府内の不穏な動き…。波浮の築港工事を軸に江戸、下田、大島がなす三角地帯に展開する海と剣のサスペンス。1991年11月刊行。
 この歴史小説で面白いのは『波浮の平六』に唯一の格闘シーンがあって、これは島問屋・七島物産のひとりじめにゆさぶりをかけるべく、御蔵島のツゲだけでも下田の島屋吉右衛門と江戸の伊勢屋庄次郎に取り扱い許可をいただこうと伊豆代官・江川のお添え書きを受けようと平六が旅立ったところで四、五人の男たちが襲いかかるのである。平六は匕首かざして襲う敵を「お前さんらは、島問屋にいくらかにぎらせられたかい、船乗りの喧嘩をみせてやるぜ」とやっつけるのだが、『黄金海流』では冒頭で平六が黒頭巾の疾風組に襲われ、主人公の剣客たちがこれを救うシーンから波浮築港にからんだサスペンスが始まる仕組み。阿部龍太郎氏は来栖良夫の『波浮の平六』を読んだにちがいなく、この格闘シーンが物語のヒントのひとつになったな、と思わせるのであります。あるいは未だ読んではいないが海老名雄二著『秋広平六』にも同様シーンがあるのだろうか…。
※石川島の人足寄場:これは鬼平こと、長谷川平蔵が、幕府に建言し、犯罪者の厚生施設ともいうべき同所の設置を要望して設けられたもの。実在の人物・長谷川平蔵と石川島の人足寄場については、池波正太郎「鬼平犯科帳」3の著者あとがきに詳しく記されている。

『海賊丸漂着異聞』満坂太郎著/東京創元社/定価1400円
 第7回鮎川哲也賞受賞作。文久3年(1863年)4月、アメリカの商船バイキング号が御蔵島に漂着した。この事実から虚構を膨らませての小説。船長の怪死、流人牢に閉じ込められた弥助の逃亡、そして続く殺人…。何と、謎を解くのはジョン万次郎…。1996年9月刊行

『流人』真木洋三著/文芸春秋/定価1200円
 八丈島で53年間に及ぶ流人生活を送り、膨大な「八丈実記」を記した近藤富蔵の物語。物語は明治13年、76歳になった富蔵が赦免になって東京行きの帆船・長戸丸に乗り込むところから始まる。父は蝦夷地巡検の威名を馳せた幕府直参の旗本、近藤重蔵。流人になったいきさつ(父の土地の境界線のいざこざから、隣家の七名を惨殺)が綴られたのち、文明開花の東京にとまどう様子や、父の墓参りに琵琶湖畔の大溝へ、さらに大阪の弟を訪ねる旅が描かれる。その後、琵琶湖周辺の高島郡三十三ヶ所めぐりから、西国三十三ヶ所の巡礼への長い旅を経て、再び東京に戻った富蔵は、八丈島で余生を送るべく島に戻る決意を固める。島に帰る船賃を稼ぐために、宇喜多秀家の子孫の宇喜多安一家に滞在し、家系の整理などをして再び八丈島に戻り、八十三歳で生涯を閉じまでの数奇な人生が、ていねいな文章で綴られている。昭和58年10月刊行。

『秀家』赤木駿介著・富士見書房/定価1800円
 大島の流人第一号が為朝なら、八丈島の流人第一号が宇喜多秀家だった。関が原の役で徳川家康と真っ 向から対立して敗退し、息子や従者ら13名で慶長11年(1606)、34歳で遠島に。84歳で没するまで50年間の八丈島暮しだった。同書は全9章。秀家の武将としての苦悩の日々が8章にわたって描かれ、最終章で家臣が八丈から赦免で戻ってきた大工に、秀家の島での暮し振りを聞くところで終わっている。平成8年6月刊行。

『豪姫夢幻』中村彰彦著/角川書店/定価2000円
 宇喜多秀家を読んだら、妻・豪姫の物語も読まねばなるまい。豪姫は前田利家の娘で、秀吉の養女となり、やがて宇喜多秀家に嫁ぐ。栄華を極めた秀吉時代の後、秀家の関が原敗戦後に辛い人生を余儀なくされる。洗礼名はマリア。八丈島に流された秀家父子一行13名のために父・利家に頼んで米や味噌醤油を送り続けるなど安否を気遣う後生が描かれている。平成11年8月刊行。

※これは資料編に紹介すべきだろうが
「板橋区史 通史編下巻」に「浮田一族の板橋移住」の項がある。新政府の恩赦で流罪が解かれ、八丈島から内地への帰還(何と実に260余年)後の一族のその後が、ここに紹介されている。簡単にその後を要約すると、次ぎの通り…。明治2年2月、行政官から加賀藩に預ける旨の布達が出され、浮田一族の内地帰還は加賀藩によってすすめられた。幕末期における浮田家の家系は20家ほどになっていて、内地に帰還したのはそのうちの8家75人。藩は板橋の加賀藩下屋敷をいったん政府に上知し、その後に相当の代価で藩に払い下げてもらって、ここに加賀藩の藩士と浮田一族を帰農させ、土地を開墾させる計画を立て、明治5年に旧下屋敷の敷地の一部、2万坪を一族8家に割り振った。その後、開墾生活の厳しさに帰島願いを出す家族が続出したものの、板橋の地に残る道を選んだ浮田孫九郎ら6名は、明治11年6月に開墾地の10年間税金免除、明治33年には浮田久三郎が水車の営業権を取得などで生活を築き上げて行った…とある。

『火山の休暇』三島由紀夫著・新潮文庫「岬にての物語」収録/定価514円
 昭和24年発表の短編。25歳の作家・菊田次郎が、思索の一人旅で大島の小湧園ホテル(小説では、ただ島のホテルとだけあるが…)に宿泊する。朝、ホテルの前庭を見下ろすと、数頭の馬が芝草を食べていた(未だゴルフ場はなかったのである)。入れかわり立ちかわり外人客がいて(ははぁ〜ん、この頃は外人客中心だったんだ)、馬は彼等への貸馬だった。次郎も栗毛の1頭をかりて乗馬散歩に出かける (乗馬が上客の主なレジャーだったんだな)。多くの観光客は三原山に馬を向けるが、彼はAIRPORTと黄いろく塗られた矢印方向へ、やがて早風岬の燈台へ通ずる小径に入って(地形を想像して下さい)、燈台下の広場に出た。O港(岡田港)を出て伊豆半島突端のS港(下田港)へむかう定期船を眺める。ここで昨夜の東京港からの船旅の回想・・・、ホテルへ帰るとボオイ、フロント、ポータアの秘密結社みたいな親愛の微笑が気になった。そして誰もが「山にお登りになりませんか」と聞いて来る。夕陽の美しさに誘われて、彼は庭から延びる小径に歩み出す。放牧の山羊が十匹あまり(ハハーン、山羊がいたんだ)、乳ヶ崎の彼方の潮流がぶつかり合う海峡が望まれる所まで出て、夕陽に見いる(きれいだもんな)。ホテルに帰ると、猟から帰った外人が銃を肩に吊ったまま入日を眺めていた(猟が出来たんだ)。ボオイが次郎を見つけて、ホッとする。「三原山で自殺しようと思う方は大抵一人でいらっしゃるもんですから」。それにしても、火山は休んでいるのに、次々と自殺者が船に乗って、はるばる東京からこの島まで来て、噴火口に身を投ずるのは何故であろう、と次郎は思う…。
 と、まぁ、文学的表現と思索を無視して、当時の小湧園の様子を伺う部分だけの不謹慎な抜粋紹介です。


歌集『青杉』土田耕平/短歌新聞社刊/定価667円
 伊豆大島にて詠める、と但し書きがあって、258首が収録されている。土田耕平(1895<明治28年>〜1940<昭和15年>)はアララギ派歌人で、同書は大正11年、古今書院刊の初版復刻版。耕平は長野県・上諏訪町生まれで、大正4年の21歳の秋に療養のために大島元村に居を移し、27歳までの島滞在中に見た自然、孤独な生活を詠んだ歌を『青杉』で発表。解説では11歳の時に父を、18歳で母を失い、さらに不眠症に陥り、禅家の修行僧のような戒律的な簡素な生活を好み、ここから澄みと冴えを湛えた歌風を生み出した、と記されている。島木赤彦は『青杉』を評して「著者の齢は、未だ三十歳に満たない。年若くして異常の境まで澄みきったことは現世にあって稀有であらう。況してその澄み入った境地には、恐らく前人未到と思われる所がある」と語っている。静寂な茫々とした島にあって病を養いながら清澄で精緻の世界、枯淡幽寂の世界を詠出していった。この幽寂な光りは文学遺産としていつまでも光り続けるであろう、と紹介されている。以下、数首を紹介…。
 風しげく椿の藪を吹き揺する葉がくれの花葉おもての花
   (葉がくれの花 葉おもての花…語呂が好きです)
 仰ぎ見る夜空しづけししみじみと月の面より光り流れ来
   (眠れぬ夜に、焼酎片手に一人ベランダに立って月を友にしばし佇んでみましょう)
 あかあかと囲炉裏火燃ゆれこもり居の今日も日暮れて凪の音
   (ストーブの燃ゆる火を見つめつつ、何度もつぶやいてみたい歌です)
 一家に一冊、ぜひどうぞ。


『東京独立共和国』水木楊著/文芸春秋/定価\2,000
 1946年(昭和21年)に独立を想定した暫定憲法を作った大島である。幻に終わった伊豆大島共和国を踏まえ、思わず飛びつき貪り読んだのが「東京独立共和国」。時は20XX年か、東京の自立を公約にして東京都知事となったKが、ついに「東京共和国」宣言をした。東京の在住者と企業が納めている国税と地方税合計から、東京都の財政支出を差し引くと20兆円の黒字が出るはずだが、この差額はみな国に貢いで地方交付税や補助金となって、湯水のように地方に流れている。地方には目を見張るような公共施設が続々と建ち、非課税所帯も圧倒的に多く、不況に関係なくジャブジャブと税金を使っている。代議士の一票格差も大きく、地方選出の政治家の声が不当に大きい。すでに首都が中部地区に移転した今、堪忍袋の緒の切れた東京都が自立宣言したのだ。住民投票で圧倒的賛成を得て、一部自衛隊と警察庁をもって、日本国に対峙した。周辺各県知事も同調した。体たらくな政治家と官僚が仕切る日本国にホトホト愛想がつきていたからだ。沖縄の琉球共和国化を決める住民投票が、大勢を決めるポイントになって、共和国側と日本国側の激しい攻防戦が展開され、遂に琉球共和国宣言が出るに至って、各県も続々と独立を決定。日本はそれまでの全体主義と画一化から脱却し、それぞれの郷土色を取り戻した完全な連邦組織に生まれ変わった。そして伊豆諸島、台湾、シンガポール、インドネシア、オーストラリアを結んだ「黒潮共同体」へと膨らんで行く…という物語。1999年刊。

『島焼け』高田宏著/新潮社刊/定価¥1,500
 八丈島から69キロメートルの青ヶ島が大噴火したのは天明5(1785)年だった。黒潮分流の急流があって渡航が難しく、203名が八丈島に避難したものの、その後の救助船が出せず、島に残された130名が死んだ。物語は、脱出時に18歳だっだ次郎作が、50歳で名主を継いで68歳(50年後)で241名を還住させる「起し返し」達成までの苦闘が描かれている。
 八丈島に避難した203名は、流人にも情けがあつい「情け島八丈」の配慮で八重根の浜に近い岡を与えられ、環住まで自活の協同生活を開始した。次郎作は救助船に乗り込む時の凄惨さにショックを受け、青ヶ島衆から一人離れて、流人の夫に捨てられた母娘と共に過ごした。名主七太夫は江戸から援助穀物を島に運ぶ船で遭難死。その3年後、20歳になった三九郎が名主になって「起し返し」に情熱を注いだが、青ヶ島に船を出すこと10回のうち往復できたのはその半分で、あとは難破したり漂流したりの失敗続きで、ついには自身も漂流後に死亡した。名主が多吉に替わって、青ヶ島は再び16年間無人島となり、二百名いた人口も半分に減っていた。この間、次郎作は島の流人から学問を学んでいて書き役に成長していたが、八丈島避難後に生まれた子たちは20代の青年に達していて、青ヶ島に還住する意識も薄らいでいた。名主・多吉の隠居後に白羽の矢が立ったのが50歳になった次郎作で、彼は過去の失敗例から慎重な計画のもと、まず20人、その妻子18人、翌年に牛2頭と14人と着々と住民と生活基盤を整えて、全島民の還住、さらには幕府の検地を済ませ、85歳で生を終えるまでがドラマチックに描かれている。
 同書を読みながら、何度も調査隊を送り込みながらも、その火山性ガスゆえに帰島のメドがたたずにいらだつ三宅島の人々の辛さに想いがはせたことは言うまでもない。1997年9月20日刊。
※この小説は、柳田國男全集−1(ちくま文庫)に収められている「青ヶ島還往記」(初出:昭和8年8月〜10月「島」)がベースかも…。この小説の柱ともいうべき史実が詳しく記されている。

『黒潮に吼える男』上野登史郎著/三彩社刊/定価\800
 牛込柳町のビックオフで100円で購入。八丈島出身の自民党きっての硬骨漢・衆議院議員、菊池義郎の伝記小説。今から29年前の昭和47年刊で「謹呈 菊池義郎」の毛筆、落款入り。本人は明治23年生まれだから82歳の時のもの(存命なら今111歳)。物語は彼の出生から国会議員になるまでが、明治時代の政治(大熊重信などとの交流)や文化(島村抱月や須磨子などとの交流)、そして島の様子がイキイキと描かれていて面白い。島抜けしてからの一徹な苦学生活、普通選挙実施や元老廃止などの演説運動、さらには議員になってからの私学振興議員連盟を作ったり、国会図書館などを作ったりと紹介されている。インタ−ネット で「菊池義郎」を検索したが、インターネットはこの辺に弱いらしく資料らしきものが出てこなかった。いずれにせよ、この本だけでは満足な把握は出来ず、いずれは図書館に行った際にでも調べてみたいと思っています。

『おじゃれ女八丈島』 荒馬間著/河出書房新社刊/定価\760
 物語の説明が面倒ですので、カバー裏の文を紹介…八丈島流人の悲願、島抜け。史実に唯一残る吉原遊女・花鳥の島抜け成功譚を、丹念な実地調査と無類の想像力で、鮮やかに甦らせた新時代ミステリー!浮き彫りにされる江戸の風俗、八丈島に人情、流人たちの過酷な日常を背景に、花鳥の背負う謎と秘密はますます深まって行く…。その謎解きが終盤でちょっと無理が重なり重なって、ちょっと残念な仕上がりです。筆者は1997年11月没。1988年5月に単行本、1998年に文庫化。


                                      
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