●昭和32年の中1の遠足は、大島だった●

ロッジを建てる前の三つの思い出は…
三宅島小学生との文通、中学の大島遠足、そして
屁が青い炎で燃えて驚いた三宅の民宿


 いやはや、ひょんな事で古いアルバムをめくっていたら中学時代の伊豆大島遠足の写真が出て来てビックリした。
 ロッジを建てて10年、いやイヤ、40年余も忘れていた遥か昔むかしの懐かしき大島の思い出である。写真の裏には「伊豆大島にて」とだけあって年月は記されていなかったが、顔ぶれから察すれば中1で、昭和32年に間違いない。
  町史を見ると第1回椿まつり、小湧園ゴルフ場完成、波浮港大火の翌年で、台風22号で三原山の山津波で元町全壊55戸、三原山噴火で死者1名・重軽傷53名の被害が出た天変地異の前年ではないか。本当にこんな時に遠足に行ったのかよ、と驚いた。うろ覚えながら船は橘丸。船酔い予防に臍の上に梅干がいいと持参した。あの頃の泊まりの遠足は決まって自前のお米持参で、大島遠足にもお米を布袋に入れて持って行ったような気がする。まさか日帰りであるはずもなく、一体どこに泊まって、何を見たのだろうか…まったく覚えがない。
 考えるに同中学に独創性があるはずもなく、東京の中学校が遠足に大島へ行くのが流行りだったような気もする。とすれば、昔の大島集客のかなりの割合を遠足が担っていたのではないだろうか…。
 あぁ、ここでフと小学生時代に教師指導でクラス全員が三宅島の小学生と文通していたことも思い出した。ということは、いま東京で避難生活を余儀なくされている三宅島の同年代の方に、アッシと文通していた方がいるんだな、と思う。
 そしてもうひとつ思い出した。あれは昭和50年だったか、ヤマハの所属アーティストにチューインガムという姉妹デュオがいて、取材のオリコンのカメラマン、記者と三宅島に渡ったときのこと。どこで何をしたか覚えていないが、夜の民宿でカメラマン氏が電気を消し、ケツを突き出して団子虫風に丸まって、コンビのライターが合図に合わせてライターでケツに着火。瞬間、ブーッという屁の音と共にジーパンのケツまわりがボーッとそれは見事に青い火が灯って「ホラ、屁は燃えるんだゼ」に、腹が痛くなるほど笑いこけたことを思い出した。オリコンのカメラマン氏、今では取締役と聞く。
 ちょっと、歴史から脱線しちゃったナ、ま、いいか。

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