●都心で島を想う編●

都会で島を想うは、愛しい人を想う気持ちに似て・・・テレビ、新聞に大島が出れば、それだけでもう大騒ぎ。
島の文献が揃った都・中央図書館に走ることもある。
都心で島を想うあの時、この時。


20世紀の最後に舞い込んだパーティのお誘いは、
写真家T氏が島のM夫妻に感謝する会。

 12月某日、東京・目白の邸宅の半地下は、曲線の多いイタリア風漆くいの壁に、テラコッタ・タイルの床暖房。中央の大テーブルには酒宴の準備が整っていた。オーナーはニューミュージックの巨匠たちを一手に撮っているカメラマンT氏。待つ間もなく氏に誘われて島のM夫妻がやって来た。T氏のファミリーや仕事仲間も参加して、まずは賑やかに乾杯。
 実はM夫妻、T氏のセッテングで新宿厚生会館の「さだまさしコンサート」を鑑賞して来たのだ。M氏自ら採った島の逸品、自然薯を楽屋に差し入れして来たという。私たちもお相伴に預かった。
 摺っただけで何も足さない自然薯に、醤油を少々かけて、蜜柑の果汁を搾りたらす。搗きたての餅のような粘っこさとと共に自然薯の香りがワッと口中に広がった。どこか森の匂いがした。
 当然のこと、島でのアーティスト撮影の思い出話で盛り上がった。あれは何年前だったか、帰京準備に追われているアッシのロッジの電話がいきなり鳴った。
 「HARUだけれど、今、島に着いたんだ。T氏がジープ貸してくれないかって」
 HARUはレコードメーカー中心に仕事をするデザイナー。アッシがコピー、HARUがデザインのコンビで某社の宣材(宣伝材料のチラシ、パンフ、POPなど)をいろいろと作って来た。
「俺が乗ってるのはジムニ―だぜ、それじゃ絵になんねぇだろう。ちょっと待ってな、心当たりを聞いてみるから」
 で、M氏のジープを撮影隊に借り与えて、私は慌ただしく島を後にした。あれは確か「ル・クルプ」の撮影だったか。その後、島でM夫妻を訪ねるたび、このあいだは裏砂漠で吉田拓郎を撮った、自宅倉庫でさだまさしを撮った、えらく美形のデビュー前の新人タレントが来た、伊勢正三を連れて勝手に上がり込んで酒を飲んでいた…と報告を受ける。撮影手助けのてんやわんやのエピソードで盛り上がる。M夫妻、知らぬ間にT氏のロケに欠かせない存在になっていて、彼等はすっかりお友達。T氏ファミリーも大島ぞっこんで仕事に関係なく足しげく島通い。とうとう息子の一人は借家を手に入れたほど。
 この調子だとニューミュージックの大物アーティスト全員が島で写真撮影ってことになりかねない。Tとアッシの出会いはHARUよりずっと以前からで、あれは確か中島みゆきデビューの頃。アッシはみゆきの「魔女の辞典」や因幡晃のゴースト、アルバムの帯コピーなど書いていて、T氏がアーティスト写真を撮っていた。永い付き合いで、アッシもT氏も歳を取ったが、初々しかったアーティストたちも皆、中年になった。
 この夜は、ビールとワイン飲みながらの大島談義、夜が明けるまでの大盛り上がり大会。慌ただしい年の瀬に、東京で自然薯付きの大島堪能の一夜でした。




頑張れ!三宅島。
フと本棚から12年前の“三宅島”ノンフィクション本を読み直したら、NLP闘争が再び甦ってきた。

 僚友ならぬ僚島が伊豆六島。島に行けぬ日にフと本棚の「ドキュメント三宅島」(亀井淳著)と「いま、三宅島」を再読。共に 12年前の出版でテーマはNLP基地建設計画反対の島民の闘いを記録したノンフィクション。両著とも1983年の大噴火後の島民が復興忙殺中に一部村議と土建業者によって、かねてからの議題「ジェット空港建設」に乗じて三宅島にNLP代替基地誘致をしようという陰謀が画策されたと記されている。以来、島民の政府自民党、防衛施設庁、第八機動隊、また島民同士の激しい闘いを生むのだが…。
 闘争の立て看板「爆音より小鳥のさえずりを」のコピー通り、三宅島で夜間のタッチ・アンド・ゴーが敢行されていれば、艦載機が上空を飛ぶ轟音に大島も免れなかったかもしらんと、三宅島民の闘いに感謝の念を新たにするより他にない。
 が21世紀を迎える今も、防衛白書では最終予定地が三宅島であることが強調されている。一方、島の村長選挙では反対派が候補者を擁立出来ず。現村長の長谷川鴻氏はNLP空港誘致派リーダーだった方で、村長は公約で「NLPは島民多数の意思を尊重し、現体制を承継する」と言っているが17年前の噴火をはるかに超える大被災を負って今後が気になる。
 三宅島の一日も早い避難解除と復興を願ってやまない。頑張れ、島魂!三宅島のHP「島魂」が立ち上がって間もなく、希望者にわがロッジを提供する旨をメールしたが、借り手の声は上がらなかった。何故なんだろうか。慣れぬ東京で暮すより同じ伊豆諸島で暮せば快適だろうと思ったのだが…。
 ちなみに入魂の著「いま、三宅島」を書いたのは、若い時代にわが事務所にいた早川登君。NLP問題に限らず離島が抱える諸問題への考察が深く勉強になった。後書きの冒頭で三宅島との出会いを、こんな風に記している。…最初は大島に行っていたが観光化された俗っぽさに嫌気がして三宅島に通うようになった。
 誰も言わぬが、三宅島にも別荘、ロッジをもって足しげく島通いしていた方も多かったろうに、彼等の悲しみにも思いが馳せる。再び…、一日も早く全島民が帰島出来ますよう、お祈り申し上げます。

※2003年の「島日記」3月5日で、都庁7回知事レセプションホールで行なわれた三宅島復興応援歌『望郷の詩』制作発表会を写真付き(五木ひろし・石原都知事・三宅島の長谷川村長)で紹介。同じく6月11日には都庁・都民ひろばで行なわれた同曲完成・発表会の模様を写真(上記3名の外に阿久悠、前田俊明、若草恵各氏出席)付きで紹介。また9月25日には11月22日に東京国際フォーラムで開催される(社)音事協主催の第3回目の三宅島災害救済コンサート(毎回1400万円寄付外)の記者発表を紹介。これらはカラオケ誌などで写真・原稿を露出。ちょっと応援出来たかな…。



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