●五木さん、浅草寺「仏教文化講座」で1時間の講演●
〜会報原稿の(中略)を加えたサイト・ヴァージョン版〜

 明治座初日も間近の4月25日、五木さんは新宿西口・安田生命ホールにいた。浅草寺主催「仏教文化講座」1時間の講演。会場は450名収容を超え、ロビーのモニター前もズラッと椅子が並べられて即席客席に…。講演タイトルは「55」。55年間の半生を振り返りつつ、自らの歌手生活とそこから掴んだ人生の真髄を時にギター弾き語りを交えつつ、おおいに語ってくれました。誌面の関係上、ダイジェスト誌上再構成でどうぞ…。(編集部)
※ここではサイト・ヴァージョンとして(中略)を復活させた完全版で収録です。

 ご住職からご紹介いただきました五木ひろしでございます。“五木先生”と紹介されますとテレてしまいます。先生は作家の五木寛之さんにお任せし、私は“五木ひろし”で結構です(笑い)。
 公演は得意ですが、講演は滅多にありませんから、とても緊張しています。女房も心配しまして、家を出る時に“ちゃんとお話するんですよぅ〜”と(会場爆笑)。
 今までの講演で最も緊張しましたのが、子供達が通っている学校の「お父さんの会」でした。これは同校で大々的に行われている会で、毎年、父兄の中から選ばれた方の講演が目玉企画になっている。“あぁ、いつかは私の番がまわって来るなぁ〜”と心配していましたら(笑い)、とうとう2年前に指名されてしまった。歌手・五木ひろしの客席はほとんど女性ですが、ここは全員がお父様方。しかも子供たちが日頃お世話になっている先生方も、前列にズラリッと座っていらっしゃる。普段の(音楽の)ステージは、私にスポットライトが当っていても客席は真っ暗なんですが、講演は客席も明るくて皆様の表情がよく見えます。これまた緊張させられます。というワケで、今、ちょっとアガリ気味です。

 さて、ここは新宿ですが、私にとって新宿は思い出深い街です。昭和39年の東京オリンピックの年、東京が急発展する最中に私は上京しました。翌40年、松山まさるの名でデビュー。その曲が『新宿駅から』でした。新宿から故郷・信州を想う少年の心情を歌った楽曲で、当時の新宿は文化の発信都市として熱気に充ちて、一種、新宿ブームだったと思います。しかし、夢を託したデビューは、残念ながらうまく行きませんでした。僕はその後“一条英一”となり、さらに“三谷謙”に芸名を変えましたが、それでも芽が出ない。“三谷謙”は、新宿西口にタイヘイ住宅という会社がありまして、その中にミノルフォン・レコードが出来て、同社長になられた遠藤実先生が命名して下さった名です。またこの時期に“背に腹は代えられぬ”でクラブの弾き語りも始めましたが、その最初のお店も新宿でした。当時の新宿は8、9階建てのビルが最も高くて、その一番高い所にしゃれたサパークラブがあって、そこで弾き語りを始めています。
 最近では、つい先日、初めて都庁にうかがいまして記者発表を致しました。これは噴火で避難生活を余儀なくされています三宅島の方々、同島復興への応援歌・制作発表会を石原都知事、三宅島・長谷川村長と共に行ったのですが、まぁ、都庁の立派なこと。建物が雲を突く高さなら、石原慎太郎さんも小泉総理大臣より偉いのではないかと思われる風格でした。(笑い)

 さて、私は来年がプロデビュー40周年で、今年の3月14日に55歳になりました。私の「55」へのこだわりは、ファンの皆さんなら耳にタコですが、今日は初めて私の話を聞かれる方々がほとんどですから、お話させていただきます。
 私は30代前半から、早々と目標を50代に定めて走り続けて来ました。さまざまな人生経験を積み重ねた上、50代が歌手として最も充実し、輝ける年代だろうと思ったからです。以来、私には50代が憧れの年代で、さらにその真ん中、55歳が最も輝ける歳…と、目標を定めて来ました。桜に例えるなら、55歳が満開の最も華やかな状況になるのではないかと…。そんな僕の永年の気持ちを友人たちも分かってくれて、3月14日の誕生日に横浜アリーナでバースデー・コンサートを開いてくれました。約50名の友達がゲスト出演して下さり、1万2千名のファンが祝って下さった。3月14日は、2月14日のバレンタインデーでいただいたチョコレートのお返しをするホワイトデーなんですね。私がお返しをしなきゃならない日なのに、また誕生日を祝っていただく、そんなうれしい日になっています(笑い)。
 私は五木ひろしになった時に「さぁ、5を目標に頑張るゾ」と自分に言い聞かせました。レコード大賞、歌謡大賞、そしてNHKの紅白歌合戦に5回連続受賞・出場する、と有言実行すべく自分にプレッシャーをかけました。そのお陰で5回連続・歌唱賞、5回連続・放送音楽賞、5年連続・紅白出場を果し、しかも5回目の紅白でトリを務める栄誉までいただきました。
 以来、5は私のこだわりのラッキーナンバーになりました。車のナンバーも5、電話番号も5、ホテルも5の部屋に泊まる…(笑い)。振り返ってみますと、私の節目のほとんどが5がらみになっています。私が上京してプロデビューのキッカケになったのが第15回コロムビア全国歌謡コンクール優勝でしたし、昭和48年に最初のレコード大賞を『夜空』で受賞しましたのが第15回レコード大賞、今はもうなくなりましたが歌謡大賞ですが、その第15回目に『長良川艶歌』で大賞受賞でした。55歳は5が二つで、その年は平成5年。2003年の2と3で5です(会場爆笑)。あぁ、そうだと気づいたのがニューヨーク・ジャイアンツで頑張っている松井選手の背番号が55。今年は55の当り年です(笑い)…。
 私が産まれたのが昭和23年で、2と3で5。いわゆる団塊の世代ですが、今55歳で頑張っていらっしゃる方が非常に多い。あぁ、そう言えば今年で結婚して15年です(笑い)。当時、女房は女優をやっていまして、その名が和由布子です。五木と和が結婚するんだから五つの和(輪)で、家族は5人がいいなぁ〜と思っていて、今、子供が3人の5人家族です。あぁ、人間というのは、そう願っていれば、そういう風にいつかはなって行くんだなぁ〜と思っています。

 話が長くなりました。…こんなにも長い時間、ギターなしでよくお話が出来たなぁ〜、と自分でも感心しています(笑い/ここでギターとマイク・セッティングがされ、五木さんはギターを抱えながら講演を続けます)。
 こうしてギターを持ちますと、やっぱり落ち着きますね。
…昨年、母が83歳で他界しました。間もなく1年が経ちますが、私にとって母は大きな大きな存在でした。私は4人兄姉の一番下で、父が母と子供たちを置いて、家を出て行ったのは、私が小学5年の時でした。
 それまでも母と父はいざこざが絶えず、そんな姿を何度も見ていまして、その日、母が働きに出ている時に、父は僕に「元気でいろよぉ〜」と言い残して、出て行ってしまった。夕方、オフクロに「お父さん、出て行ったよ」と言いいましたが、母は別段驚いた素振りも見せなかったと記憶していますが、以来、母は一家の柱として朝から晩まで働いて・働いて…と大変な苦労をすることになります。上の兄姉はもうずいぶん大きくなっていましたが、それでも育ち盛りです。 小さな田舎町ですから、校外授業があったりしますと、よく作業着姿の母を見かけたものです。そんな母の姿を見て、一日も早くプロ歌手になって母に楽をさせたい、という思いを次第に固めて行きました。
 でも僕の歌好きは、オヤジの影響でした。父は流行に敏感でおしゃれでした。レコードもいっぱい買って来て、家でよく聴いていた。それを子供なりに聴きながら、知らずうちに歌好きになっていたんです。僕が最初に唄った歌謡曲が、美空ひばりさんの『りんご追分』です。聴いて下さい…

 
ギター弾き語りで『りんご追分』

 この歌は僕が生まれた昭和23年の作品です。今は若い人たちの歌、洋楽っぽい歌が主流ですが、20年ほど前まではいわゆる歌謡曲が全盛でした。今日ここにお越しの皆様方も、そういう時代に歌に親しんで来られたのでしょうから、当時のヒット曲にそれぞれの思い出があるかと思います。それら当時の曲に比し、今の若者たちの歌はとても覚えにくくなっています。詞が長く言葉数が多い。メロディーも複雑で、気軽に口ずさみ難くなっている。また今のカラオケは、モニターに歌詞が出て来ますから、歌詞を覚える必要がない。歌謡曲全盛期の詞は言葉が少なく、覚え易かった。しかも深い意味を持った美しい日本語が厳選されていたように思います。ですから詞の世界に想像する楽しさもあったように思います。
 さきほどお話しました僕のデビュー曲を聴いて下さい。こんな歌でした。

 
弾き語り『新宿駅から』

 松山まさる、一条英一、三谷謙…、そして僕は最後の大勝負に賭けました。それがアマチュアもプロも一緒に競う全日本歌謡選手権への挑戦でした。これを10週勝ち抜いて山口洋子さん、平尾昌晃さんに認めていただき、僕は五木ひろしになって『よこはま・たそがれ』で大ヒットすることになります。

 
弾き語り『よこはま・たそがれ』

 売れると同時に、余りに変る周りの姿にビックリさせられたものです。売れない時のキャンペーンは実に冷たいものでした。名刺を出してもポ〜ンなら、店頭で一生懸命に唄っても“この子は何をしているんだろう”みたいな顔で皆さんが素通りして行く。レコード1枚を買っていただくのが、いかに大変かということを身に染みて感じたものです。
 しかし『よこはま・たそがれ』がヒットしますと状況は一変です。唄えば、ワッと人が集まる。無関心だった方が「イヤァ〜、絶対に君は行けると思っていたよ」と僕をズッと応援していたかのように言い出す…(笑い)。
 同曲は昭和46年3月発売ですが、毎週・毎週ランキングが上がって、7月上旬に遂に売上ナンバーワンに駆け上りました。で、その年の紅白歌合戦に初出場を果しますが、その時の僕の給料は5万円でした。
 今、55歳になって、改めてこう思うのです。若い時分に試練を体験し、売れない時代に大勢の先輩方を見て勉強して来たからこそ、今があるのだと。デビュー曲がヒットしていましたら、間違いなくテングになっていて、今頃は「あの人は今」なぁ〜んてことになっていただろうと思います(笑い)。
 昭和40年10月、僕の人生を決める全日本歌謡選手権に出会いますが、その年の始めに、僕は川崎大師に上京後初めての初詣をしています。以来、お礼も含めて毎年、川崎大師の初詣を欠かしませんでしたが、時には数万人の雑踏に何時間も揉まれて、やっと最前列に辿り着く…そんな体験もしています。浅草寺さんとの出会いは、五木ひろしになって20周年、平成2年『心』の発表会に境内をお借りしたのが縁で、以来、家族やスタッフ全員で浅草寺で初詣をするようになり、かれこれ10年です。
 お参りはお願いするばかりでなく、感謝する心も肝心かと思います。若い頃は自分が頑張れば、それで結果がついて来ると思っていました。しかし結婚し、子供が生まれ、歳を重ねますと、人は一人じゃ生きられない、人の支えをいただき、また縁や出会によって人生も拓けて行くんだと思うようになって来ました。ここから感謝の心が芽生えます。
 昨年はオフクロが他界した年ですが、この厳しい状況下に自分のレコード会社を設立しました。もう一度新人になったつもりで原点から頑張ろう、そんな思いに阿久悠さん、船村徹さんが私に曲を創って下さいました。両先生による『傘ん中』を聴いて下さい。

 
弾き語り『傘ん中』

 人と人の出会い、縁を歌った楽曲です。今、世の中は厳しい状況にあります。日本も不安定ですし、世界も戦争や病気の不安を抱えています。こうした辛く厳しい時代こそ、縁や出会いから育まれる触れ合い、愛が大切になって来ます。その意もこめて3月に横浜アリーナで開催しましたバースデー・コンサートのタイトルを「ともだち」とし、約50名の友に祝っていただきました。
 僕を支えてくれる友がいて、僕を応援して下さるファンの方々がいて、そして最も大切な家族がいます。これらの誰もが僕との絆で結ばれた大切な方々ですが、最後に家族について語ってみたいと思います。
 僕は家族で共通した夢、趣味を持とう、と務めています。そのひとつが音楽です。子供たちは小さい時からピアノ教室に通っていまして、家族全員がピアノを弾きます。で、明後日がピアノの発表会です。一昨年から親子演奏が始まっていて、今度は長男のピアノと私のフルート合奏です。明治座の稽古と同時にこれも練習しなければなりません(笑い)。
 私共家族はスポーツも共通の趣味として楽しんでいます。今年のお正月は家族でスキー旅行に行きました。ゴルフも子供たちは小さい頃からやっていまして、今では長男がそれなりのプレイをします。こうした子供たちの成長、子供たちとのふれあいの歓びが、私の明日への大きな励み、エネルギーです。55歳の五木ひろしは、そうしてますますパワーフルに、これからも頑張って充実した50代にしたく思っています。
 本日は、まとまりのない話になってしまいましたが、55歳の半生をお話させていただきました。皆様とは劇場、コンサート会場でまたお会いしたく思っております。ありがとうございました。


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