NHK「スタジオパーク」五木さん、大いに語る

〜五木倶楽部会報79号掲載分より〜

番組のキャスター、上田早苗さんと小田切千さんの司会で、五木さんの最近の話題がクローズアップされ、五木さんが熱心なトークを展開。五木さんが語った部分のみ(著作権がありましょうから…)をピックアップして誌上再現です。(編集部)

●『逢えて…横浜』について…
 最近、プロ野球の横浜ベイスターズがちょっと調子が悪い。そんなベンチ風景などがニュースで映し出される時にバックミュージックで必ず流されるのが『よこはま・たそがれ』なんです。ですから、もっと素敵な横浜の歌を唄いたいなぁ〜と思っていて、鈴木淳先生の作曲生活40周年楽曲に「ぜひ、横浜テーマで、かつ黄昏ではない歌を」とお願いして出来た「(敢えて)逢えて…横浜」です。
●阿久悠さんとの出会い…
 五木ひろしになった当初の賞レースは、僕の闘う相手は、阿久悠さんの詞の世界だった。『よこはま・たそがれ』の時が尾崎紀世彦『また逢う日まで』で、それからジュリー、ピンクレディー、都はるみさんと…。憎っくき阿久悠(笑い)と初めて組んだのが昭和57年(1982)の『契り』(東映映画「大日本帝国」主題歌)で、この時には阿久悠さんの詞でアルバム(「激涙・ロードショー」)も制作。その中に『居酒屋』もあったんです。
●喉の手術もあった…
 『細雪』前のこと。初めての一ヶ月舞台後に喉を痛めてしまった。声が出なくなるというのは、こんなに辛いものかと初経験。約1年半、薬や治療でだましだまし持たせて…。その頃、秋田犬のヒーローが原因不明で急に声が出なくなって、僕に替わってくれた不思議…。手術後の第一作目が『長良川艶歌』でした。声が出なくなった怖さ、声が出るようになった歓びの両経験でした。
●船村徹、阿久悠さんとのトリオの意味…
 船村先生と最初の出会いは、五木ひろしになる前の「全日本歌謡選手権」の出場者と審査員の関係でした。10週、ずっと僕の歌を温かく聴いて下さった大恩ある先生です。しかしご縁がなく、平成2年に『心』をいただいた。その時はこれ1曲のみで、いつかシッカリ組み合ってみたいなぁ〜と思っていました。
 今回の出会いのそもそもは、船村先生が阿久悠さんの詞で曲を創ってみたいと言われ、これを阿久さんが快諾され、では誰に唄ってもらうかと言うことで、五木ひろしになったのです。これは僕にとって光栄なことです。この話をまとめて下さったのが小西良太郎さんです。小西さんとは上原げんと先生の37回忌のお世話をして下さって、そんなことから個人的にお付き合いをするようになっていたんです。
 私が50代、阿久悠さんが60代、船村先生が70代。それをいうと船村先生は、70という響きが良くないと怒るんですが…、僕が生まれた頃の『別れの一本杉』ヒットからずっと流行歌の先端を走り続けていて、お若い頃の歌創りの情熱が今も変わらない。「あぁ、先生をしてそうなのだから、僕はまだまだ…。これからじゃないか」と。僕が一番の若造ですから、大先輩とご一緒出来て身が引き締まり、新人に戻ったような気持ちにもなりました。
 五木ひろしになって33年目の出会い、55歳にしてしみじみと出会いの素晴らしさも識出来るんだと思います。三人で創った歌々から、大人の歌、日本の歌の良さを再認識していただければ…と思っています。
●小西良太郎さんからのお手紙…
 五木ひろしさんへ
 好きな歌を唄ってお金が稼げていい商売ですね、という人がいる。相手がファンならあなたはニコ二コ笑っている。しかし、れが同業の人だったら猛然と怒る。人に見えないところでは血が滲む位の努力をしなければ真っ当できない仕事だと、真っ赤になって怒る。不言実行。やたらに戦闘的タフな55歳。これこそ歌手の王道を行くの素顔だと僕はウットリしてしまうのです。船村徹、阿久悠、五木ひろしの組み合わせでアルバムを創った。男の美学と才能の格闘技みたいな仕事。それを手伝った僕は、ここ2年ほどずっと興奮状態が続いています。あなたの端正な芸が実は大変な力仕事だと知ってしまった僕は、もう倒れるで頑張るしかないと、裏方としての覚悟を決めています。小西良太郎
●隠居どころではない…と思う
 この仕事をしていると、高齢になってますます意気盛んな方々と出会います。昔は50、60代は隠居でしょうが、むしろ本当の仕事はこれから…と燃えている方が多い。元気で意欲に燃えていれば、何歳になっても頑張って行ける、また聴いて下さる皆さんがいる限り、唄い続けられるのでないか…、そう思っています(会場大拍手)。
●古賀メロディーについて…
 紅白歌合戦で『浜昼顔』を唄ったのは30年前、1974年です。寺山修司作詞、古賀政男作曲作を持っているのは唯一僕しかない、という誇りがあります。我々の時代は、古賀メロディーのアルバムを出すというのが大きな夢のひとつであり、またステータスだった。初めて古賀メロディーのアルバムを創らせていただき、そのご褒美に下さったのが『浜昼顔』です。当初は専属制時代でしたが、古賀先生自ら会社を説得されて他社の僕に『浜昼顔』を下さった。
 お蔭様で同曲は大ヒットし、古賀メロデーの長い歴史の中の後半期(4年後に亡くなった)に同曲を出せて、本当にうれしく思っています。
 11月18日がお誕生日で、来年が生誕一〇〇周年です。その先達を切って明日、日生劇場でコンサートを始めます。
 子供の頃は『影を慕いて』を弾きたくてギターを持つ人が多かったんです。僕もそのひとりでした。明日のステージでは僕もマンドリンに挑戦。難しいですが、とてもいい楽器だなぁ〜と思っています。
 アルバム、シングル共に古賀先生にご指導いただきながらレコーディング。優しいなかにも歌に人生を賭けている、そんな迫力をヒシと感じました。その意でも一生懸命に唄いたく思います。
●継承とチャレンジが僕の使命…
 昭和流行歌の原点を再認識するいい機会です。皆様にもじっくり聴いていただきたい。僕には新たな事へのチャレンジと、先輩方の歌を継承して行く二つの使命があるかに思っています。今はそれらが求められている“時”だと思います。50代っていいなぁ〜。素晴らしいなぁ〜、と思います。



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