7月4日のラジオ・キャンペーン同行取材から誌上再現レポート!
〜五木倶楽部会報75号掲載より〜

 五木さんは御園座終了後、一日の休みも取らずに『傘ん中』プロモーションの集中展開を開始。ラジオ出演は3日にニッポン放送「テリーとうえちゃんの…のってけラジオ」、FMネット番組「元気はつらつ歌謡曲」に出演。 そして翌4日のラジオ・キャンペーンに同行取材。以下。五木さんが各番組で語ったさまざまの誌上再現レポートです。

●文化放送「走れ歌謡曲」(7月10日深夜27時〜放送分の収録。パーソナリティーは小池可奈さん)
 小池さんはまず御園座の大太鼓演奏で見せた五木さんの背中のセクシーにドキッとしたと語り、御園座直前の訃報、公演中のゴルフコンペ出場、終演後の1日も休まずに第4回東京国際音楽祭「日韓ポップスコンサート」(国際フォーラム・ホールA)2日間出演、銀座三越屋上での新曲発表会、のど自慢(秋田)出演のハード・スケジュールを紹介しつつ、その闘う姿に感動していますとコメント。五木さんは、これに応えて…
「レコード会社を作って、スタッフ共々命懸け。休んでなんかいられないのです」
 そして、新曲については…
「船村徹、阿久悠両先生の初コンビ作が5曲上がって来た段階で聴かせていただき“コレだ!”と鳥肌が立ったのが『傘ん中』でした。最初にギターでメロディーを聴き、不思議な曲だなぁと感じて、その後でゾクゾクッと来たんです。両先生が今こそ大人の歌を!と果敢に火花を散らし合って、そこに僕も加わってのチャレンジです。日本調のファルセットをふんだんに採り入れた楽曲で、新しいけれども、どこか懐かしさもあり、詞も都会的でありながら、時代的な漂いもあります。三人が挑戦したアルバム『ダンディズム』は秋、または年明けに発売予定です」
 今後のスケジュールを訊ねられて…
「13日に札幌、25日に大阪キャンペーンを行ないます。札幌は『よこはま・たそがれ』の最初に火がついた地で、縁のある街です」

●文化放送「吉田照美・小俣雅子の…やる気MANMAN!」(生放送)
 吉田さんが新会社名にもなった“5”のこだわりについて質問。五木さんは…
「五木になってから5がラッキーナンバーで5年連続、第5回目などこだわって来ました。また15もラッキーナンバーで第15回の全日本歌謡選手権優勝で、第15回レコード大賞・大賞受賞です。そして来年は平成15年で55sai。そこに向けて大きく盛り上がるべく新会社設立です」
 と説明。恒例の突撃レポートは…
「昨夜は何を着て寝ましたか?」
「パジャマです」
「寝る前に何をしていましたか?」
「ケーブルテレビで洋画を観て、その後にゴルフチャンネルを観て…」
「最もモテたのは幾つの時ですか?」
「五木になる前の、銀座で弾き語りをしていた時かなぁ。皆さんにとても優しくしてもらいました(笑)」
「子供の頃の夏休みの遊びは?」
「家から自転車で10>分で海ですから、素潜りでサザエやアワビ採り…」
「今、一番会いたい人は?」
「織田信長。日本の歴史を一番大きく変えた人物です。残酷なこともやったが、頭は良かった。実際に会って、どんな人物だったか確かめてみたいから…」
 ここで『傘ん中』皿まわし。
「昭和に活躍して来た船村徹、阿久悠、小西良太郎の3氏が、平成の時代に新しい大人の歌を作って歌謡曲の歴史を切り拓きたいと取り組み、僕に白羽の矢を立ててくださった。これに歌手冥利を感じて挑戦しています」
 そしてお母様についても質問が及びます…
「歌手になりたいと思ったのは、オフクロに楽をさせたかったからで、芽が出ずに辛かった時代を支えてくれたのもオフクロでした。今回の新会社、新曲もオフクロがどこかで後押しをしてくれているように感じています」

●TBSラジオ「平尾昌晃マイソングマイウェイ」(7月28日放送分を収録)
 収録前に平尾さんは五木さんに心のこもったお悔やみ。番組でも…
「お母様が50代で元気だった頃に、節目節目にお会いして来ましたから、僕も思い出が尽きません。それにしても改めて芸人は辛いなぁと思いました。でも、名古屋にいたから良かったワケで…」
「えぇ、他の地に居たら、お通夜にも行けなかった。最後の最後まで僕のことを考えてくれたんだなぁ、と思っています」
 とシンミリしたムードに。平尾さんが思い出を振り払うように…
「さぁ、21世紀最後の紅白歌合戦大トリの歌、『山河』を聴かせて下さい」
 五木さんは狭いスタジオに持ち込まれたキーボードの演奏で、座ったままで大熱唱。間近で唄われる『山河』の大迫力に、ゾクゾクっと鳥肌でした。五木さんは…
「秋に東京で開催される日中国交30周年の音楽イベントに出演予定ですが、その際には『山河』ワンコーラスを中国語で唄えるように勉強したく思っています」
 ここで御園座の話題に…
「2時間45分のステージでしたが、いろいろ気を遣うお芝居がありませんでしたから疲れないんです」「で、そんなに忙しいのにテレビを点ければ大河ドラマにも出ている」(爆笑)
「2日間で5本分を撮ったんです。朝10から深夜までの収録で、途中で衣装替えは出来ますが、頭(カツラ)はずっとそのままで、これが辛いの辛いの…」(笑い)
「今日はひばりさんの歌も唄っていただきます。ひばりさんの思い出は…」
「子供の頃、オフクロが入院していた病院で他の皆さんにも聴かせようと『りんご追分』を唄って回ったことがあります。プロになって、ひばりさんのお宅に誘われるようになってからのこと、ひばりさんが“あんたが女でなくて良かったワ。家のカー君は私とひろしの歌しか聴かないのよ”と言って下さって、あぁ、認めて下さったんだなぁ、と思ったことがありました」
 ここで『ひばりの佐渡情話』を情感たっぷに大熱唱。
「いいなぁ〜。ちゃんと“ひろしの佐渡情話”になっている」と平尾さんが言えば…
「いえ、意識は“ひばりさん”で唄っています。いつも唄う前は、ファルセットが上手で出せるだろうか…と心配します。出だしの♪佐渡の〜だけで4小節もあるんですから凄い曲ですねぇ」
 そして船村先生が、同曲から40年後に創ったのが『傘ん中』…。
「日本調のファルセット曲です。僕にどこまで出来るか挑んで来たような楽曲ですから、最初のキーより半音上げて挑戦しています。僕にとって初めての高音域です。アマチュアの皆様には“さのさ”でも唄う気分で挑戦していただければ、と思っています」

●ラジオ日本「夏木ゆたかの演歌いちばん」(生放送)
 夏木さんも、まず五木さんにお母様のお悔やみ。五木さんは…
「仕事(公演)があったからこそ、悲しさに耐えられたのだと思っています。耐えているうちに、オフクロは僕の心の中にいると思えて落ち着いて来た。さぁ、一生懸命に頑張らなくちゃと…」
「でも、ずいぶん親孝行なさいました」に…
「いや、本当の親孝行はこれからだと思っています。母を亡くして(子ではなくなって)、これからが本当の男として歩みです。母はその姿も見ていると思いますから、心配させるワケには行きません。母は最後まで僕の仕事の心配をして“今年の紅白は大丈夫なのかぁ”と。母にとって僕は幾つになっても子供だったんです」
 そして、夏木さんは…
「銀座・三越は新人歌手のキャンペーンの原点の場です。五木さんは王道にいながら原点から挑戦している姿は実に格好いいです」に
「僕は昭和54年の『蝉時雨』の時に、握手と色紙プレゼントで2万枚売った記録があるんです。今は、その時の心境と同じです。スタッフも原点に戻って再スタートと思って頑張ってくれています」
 また夏木さんは、デビュー時に苦労するのと最初からヒットでは、歌手とってどちらが良いのでしょうかと質問。
「人生は長いから、最後が良ければいいんじゃないかなぁと思う。歌は努力しても売れない時は売れない難しさもあります。だから歌手は詞が出来、曲が出来、オケが出来、唄入れして…この一ヶ月が一番楽しいんです。商品になってしまうと、後は闘いが待っているワケですから。例え幸運のも1位になればなったで、今度は順位が下がって行く怖さが始まります。歌手はいつになっても、喜んで悲しんでの繰り返しなんです」
 『傘ん中』皿まわしが済んで…
「船村先生は全日本歌謡選手権の時にずっと審査員をなさっていて、今まで『心』をいただいていますが、今回が本当の出会い、再会です。人は頑張って一生懸命に生きていれば、こうしてまた素敵な出会い、縁が巡って来るんだと思います。船村、阿久両先生と僕の出会いから、成熟した大人の歌文化の風が起こせたらいいなぁと思っています」

●ラジオ日本「田島善男の演歌です すぺしゃる」(収録)
 新会社設立について質問されて…
「本当に今の演歌・歌謡曲状況はダメなのだろうか?リスクは負うだろうが、自分で確かめてみたかった。いいタイミングで船村・阿久両巨匠の作品と出会って、いい流れ、いい風が吹いて来たと思っています」
 飽くなきチャレンジ魂を問われて…
「僕らはベビーブーマー世代ですから、幾つになっても闘いの世代です。しかし今は皆さん、元気と自信を亡くしちゃった。僕ら3人のチャレンジが、同世代の皆さんに元気づけになればいいなぁ、と思っています」
 そして、お母様のこと…
「今は僕の心の中に母がいる気持ちですから、心強く思っています」
「お優しかったんでしょうねぇ」に…
「いや、優しくはなかった。厳しかったんです。いつも怒られ続けて来ました。僕が小学5年の時に父が家を出て行きましたから、女手ひとつで育ててくれてたんです。そんな母から僕が学んだことは、苦しくてもネを上げない、甘えないと云う事でした。また母は僕が売れ出してからも“あーしてくれ、こーしてくれ”は一度も言ったことがなく、最後まで自分に厳しい人でした」
 五木さんのキャンペーンは、この後も札幌、大阪…と続きました。多くの人々に感動を与えた番組出演だったように思われます。


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