挑戦と継承の時を経て…
月刊「カラオケファン」保存版インタビュー


構成・文:スクワットやま

3年前に自身のレコード会社、潟tァイブズエンタテインメントを旗揚げし、昨年が芸能生活 4周年。
そして今、“五木ひろし”になって35年目。名付け親・五木寛之と邂逅し W五木楽曲『ふりむけば日本海』をリリース。
シングルとアルバム、そして劇場公演と音楽イベント…すべてが語り継ぎたいハイクォリティー。
息苦しいまでに圧倒的な諸活動の秘密と今後の展望を語っていただいた。

ファイブズエンタテインメント設立は荒天のなかの船出だったが、
僕は遥か向こうの陽射しを見つめていた


… 今年で芸能生活41年目です。平成14年に潟tァイブズエンタテインメントを設立されました。その趣旨・背景からご説明ください。
五木 20世紀最後の2000年9月に“五木ひろし”生みの親のひとり、徳間康快社長が他界された。氏がミノルフォン社長就任とほぼ同時に五木ひろし『よこはま・たそがれ』がヒットしましたから、それこそ徳間社長はオヤジ代わりで約 30年間をともに歩いてきたワケです。徳間社長が亡くなる直前にお渡ししたCDが『山河』でした。社長は映画「敦煌」製作はじめ中国と深い関わりがありましたから、ある意味では中国・黄河を題材にした楽曲で、とても気に入ってくださった。しかし社長の告別式で『山河』を唄うことになろうとは思ってもいなかった。深い悲しみが続くなか、徳間ジャパンの会社体制も変わって、ここは自分でチャレンジすべき、と思ったんです。
… ファイブズ Eの旗揚げの席で船村徹先生が「荒天の中の船出は毅然としていい」と言った。
五木 音楽状況的にも僕の年齢からもこれは大冒険。荒波は当然で、本当に嵐の中の船出だった。しかし僕は心の奥では、荒天の遥か向こうの陽射しに向かって突き進んで行こう、と思う気持ちがあった。
… 文字通り“毅然”ですね。
五木 振り返ってみれば五木ひろしという歌手は常にチャレンジ、闘い続けてきたんです。平坦な道を望んだことがない。僕にとっての最大の挑戦は、昭和 54年の五木プロモーション設立ですが、今回はそれに次ぐ大チャレンジでした。
… その旗揚げに船村徹、阿久悠両先生が同席された。
五木 船出の少し前から日本を代表する作曲家、作詞家の両先生と組んだアルバム制作が進行していて、そこから新会社の第1弾シングル『傘ん中』が生まれた。
… その時に阿久さんは“歌謡曲の逆襲”と言い、プロデューサーの小西良太郎さんは“今こそ、若者たちに明け渡した座を返してもらう好機到来”と言っていた。
五木 “逆襲”という言葉がふさわしいかどうかは別にして、両先生と僕と小西さんそれぞれの思いが一つになっての挑戦でした。
… その声は時を移さず、あちらからこちらから噴出するように言われ出しました。
五木 船村先生、阿久先生はひと時代、ふた時代も時代を作って来ましたから、平成の今に大きな歌謡曲の波を…と願う気持ちが強くあるんだと思います。
… その三人がガップリ組んで、アルバム『翔 五木ひろし 55才のダンディズム』を作られた。
五木 この時代に受け入れられる作品を、という気持ちでの挑戦でした。歌は改めて言うまでもなく作詞家、作曲家、歌手、加えて編曲家それぞれに強い思いがなければいい歌は生まれません。
… ファイブズ設立にあたって、五木さんは“自ら作って自ら売る”という原点に立ち戻る、ともおっしゃった。実際、今も握手会を積極的に展開されています。
五木 ハハッ、本当は何もせずに売れれば一番いいんですよ(爆笑)。テレビで唄い、予算をド〜ンと投入した宣伝をし、あとはステージで一生懸命に唄っていて売れれば、それにこしたことはない。またそれが本来の姿でしょう。自らレコード店をまわり、握手会をしてというのは新人が名を売るためにやるキャンペーンで、僕も当初はそれをやってきた。でもいま再び僕がそれをやっているのは“歌手・五木ひろし”の意志ではなく、レコード会社を旗揚げした責任者・松山数夫(本名)の判断なんですよ。オーナーとしては会社のため、作家のため、歌手のためにぜひとも良い数字を出さなければいけませんから。
… それが結果になっています。
五木 第1弾シングル『傘ん中』のヒットは、ファイブズの旗揚げ記者発表直後でリリース前に亡くなったオフクロ(松山キクノさん・享年 83歳)の後押しもあったかと思っています。ファンの皆さんをはじめ多くの方々が気持ちをひとつして応援してくださった。生涯で最も悲しい別れであると同時に、オフクロが死して僕に大きな後押しをしてくれたと思っています。

シングルは結果を問われ、勝負する楽曲。
僕のキャリアを経た必然性から生まれ楽曲が多いように思う…


… 以来、シングルの好セールスが続いています。
五木 『傘ん中』は作詞大賞、『愛のメリークリスマス』はレコード大賞の企画賞。翌平成 15年の『北物語』までが船村・阿久先生の作品でした。この年は他に三宅島復興応援歌『望郷の詩』、鈴木淳先生の作曲生活 40周年でご指名をいただいた『逢えて…横浜』をリリース。
… 1年に3作。
五木 だからその年の“紅白”に何を唄うかでとても困ったんです。前年は阿久先生、船村先生に後押しをしていただきながら、紅白のテーマが家族愛で『おふくろの子守歌』を唄って、『傘ん中』が唄えなかったんです。ですから『北物語』をぜひ唄いたかったし、『望郷の詩』を唄って三宅島の皆様に紅白を通して応援したい気持ちもあったし。で、結局『逢えて…横浜』を唄いました。
… これまた記念曲でした。
五木 そう。鈴木先生の作曲家 40周年記念です。先生には僕の35周年の時に『再り会い』を作っていただきながら、紅白では『夜空』を唄っていますから、今回こそという思いもあっての『逢えて…横浜』でした。
… 紅白も選曲が難しい。
五木 この年代(キャリアの意を含んで)になってくると、シングルの一作一作の重要性が一段と増してきます。新人時代なら与えられた作品を素直に唄う…でいいんですが、自分で自分をプロデュースするようになってからは、僕の考えや作家との出会い、お付き合いから作品が生まれるワケですから。
… 昨年の紅白は『雪燃えて』でした。
五木 40周年記念曲は弦哲也さん作曲の『アカシア挽歌/雪燃えて』。弦さんとの付き合いも長い。同じ時期にデビューして、彼は途中から作曲家になられて、今や大変なヒットメーカーです。今までに彼の曲では『人生かくれんぼ』 『おしどり』 『べにばな』とすべてがヒットしている。家族ぐるみでハワイで遊んだりして、今では公私の“私”の方の付き合いが深まっている。だから彼に作品を頼む時は節目の年に組みたい、という思いがあって40周年記念曲はぜひ弦さんに、と決めていた。シングルは常にそういった僕の思いやお付き合いから生まれるケースが多く、偶然にできる楽曲なんていうのはないんですよ。
… その典型が、今年の W五木楽曲でもあります。
五木 そう。今年は“五木ひろし”になって35年で、名付け親の五木寛之先生と偶然のように出会って、二人で楽曲を作ることになった。そのシングルが『ふりむけば日本海』です。
… アルバム『五木寛之 &五木ひろし作品集』では五木先生の代表的な作詞曲、五木さんの代表的作曲作、そしてお二人で作られた楽曲で構成されています。改めてご自身の作曲をどうとらえているか、お教えください。
五木 僕は作曲できる歌手でありながら、最も作曲をしていない歌手なんです。だって、全部自分で作曲してもいいのに、実際はその多くを作曲家に委ねている。ここはプロの作曲家がいい、ここは僕がいい、という判断が常に強いられているワケだけれども、実はこの 20年で僕のシングルの作曲作は企画ものを抜きにすると、ほんの4、5曲じゃないのかなぁ。
… シングルは、それだけ特別だと言うことですね。
五木 そう。シングルを野球に例えれば、投手なら三振をとるボールを投げなきゃいけない、バッターならホームランを打たなければいけないワケです。常に勝負に勝つ宿命を負っている。常に結果が求められている。かつては大ヒットして大賞を獲る、などの重責を負っていた。シングルにはそんな厳しさがあります。

カラオケナンバーになった『ふりむけば日本海』。
この秋から冬〜春が勝負どき。どこまでヒットするかは誰にもわからない。


… そして今『ふりむけば日本海』の好セールスが続いています。今後の展開を教えて下さい。
五木 この号が発行される頃には、もっと大きな数字になっているかと思います。すでにファイブズエンタテインメントになってからの最大のヒットになっています。
… 秋から年末にかけて、もうひとつ大きなヤマが来そうですね。
五木 来そうではなく、これからヤマを作らなければいけないんです。なぜって発売の3月から今まで、それほどのプロモーションもせずに来ていますから。 3月に発売した時には、もう冬は終わっていた。この曲の季節感は秋から冬、冬から春にかけてです。楽曲と季節感がピッタリのこれからが本当の勝負だと思っています。
… 今年はシングルはこの1作、と当初からおっしゃっていた。
五木 最初からその季節感がわかっていましたから『ふりむけば日本海』は 1年間唄うつもりでいました。しかもW五木楽曲です。五木先生も“Wならではの結果を出しましょう”という思い入れで詞を書いてくださった。ぜひ、その好意に応えた結果を出したいと思っています。
… それにしても“五木ひろし”になって 35年目に、五木先生との邂逅。偶然とは思えません。
五木 それが出会い、縁でしょう。先生も“五木ひろし”命名の時にではなく“これが本当の二人の出会い、これが僕と五木君とのスタートになればいい”とおっしゃってくださっています。だから、この曲は二人の集大成ではなく、むしろこれからなんだと…。またそうおっしゃる先生も凄いと思います。 70歳を超えていますがご自身の文学はもちろんのこと、歌謡曲にも意欲いっぱいです。
… アルバム『五木寛之 &五木ひろし作品集』にはW五木楽曲が4曲収められています。
五木 『ふりむけば日本海』が僕のメロディー先行、『哀しい癖』は詞先行、そして昨年の僕の芸能生活 40周年記念に書いてくださったのが『あなたに』、堀内孝雄さんのアルバム用に作っていただいたのが『だけど YOKOHAMA』です。
… 3月発売時の新曲発売記念と題された金沢・石川県立音楽堂コンサートホールでの先生との“トーク &ライヴ”で、歌がお互いに青年期を振り返るような原点なら、プロモーションもまたかつての歌謡曲がそうだったように、作家と歌手が手を携えてジックリ取り組んで売って行きましょうと約束した、とも語っていました。
五木 そう、主なプロモーションはその発売時の金沢のステージだけで、これからが本番なんです。何度も言いますが、秋から冬〜春までの季節が楽曲にピタリのシーズン。これから盛り上げます。
… カラオケ・ナンバーとしても浸透し始めています。
五木 面白いですねぇ。僕は最初、この歌は唄えない(カラオケできない)と思っていたんです。でもカラオケ誌のランキングをみますと、ずっと上位をキープしている。ところが僕は未だに皆さんが唄っているところを一度も見て、聴いていないんです。
… 先日、熊本での NHK「のど自慢」でも唄っていた方がいました。鐘が三つ鳴っていました。
五木 そうですってね。ですから、そうしたデータを見てビックリすると同時に大変に自信を強めたんです。実は先生の詞が出来た当初はもっとやさしい歌だったんですが、僕が音域の幅を広げたりして難しくしてしまった。だから、これは唄えないだろう、難しいだろうと思っていたら、なんのことはない、多くの皆さんが唄い出していると言うじゃありませんか。『アカシア挽歌』の方がはるかに唄い易いのに…。僕自身がビックリしています。
… どこまで伸びましょうか。
五木 今の音楽状況的には、レコード時代のヒット枚数と比べて約 1/3と言われているそうです。すると同曲は今30万枚ほどの数字ですから、もう当時のミリオンセラーに近いのだと思います。そう考えるとこの先、どう化けるかは読めませんね。「よこはま・たそがれ」も「おまえとふたり」も、当初はあれほど売れるとは誰も思わなかったもの。ヒット曲というものは、そういうものです。計算できないんです。またそれ以上は欲張ってはいけません。欲張り過ぎますと必ずしっぺ返しがきますからね(爆笑)。現状に体験満足しつつ、でも目標は限りなく高く持っていたいと思います(笑)。

“心から歌が好き”それを具現しているのが僕のアルバム。
当然ながらあれもこれもとリリースが多くなってくる。


… 音楽好き、唄うのが好きな五木さんにとっては、そうした責任、制約、結果から解放されて思い切り歌を楽しみたい、謳歌したい・・・
五木 …のがアルバムです。アルバム『五木寛之 &五木ひろし作品集』のライナーノーツには、五木先生もそこを書かれています。
(編集部が抜粋)
音の細部にとことんこだわって時間的、経済的配慮を無視しているかのような
集中力と粘り具合を見せる彼の情熱に、私はあらためて驚嘆させられた。
ここまで徹底的に自分の歌に磨きをかけていく努力は、
たんに仕事に誠実を求める職人気質だけでは生まれてこないだろう。
一種、求道的とさえもいえるその努力ぶりに、なるほど、この人はこうして
現在の地位をみずからの手で掴みとってきたのか、とうなずかざるをえなかった。


… ファイブズ設立後の主なアルバムは『翔』に続き『永遠の古賀メロディを歌う』、 40周年記念の『オリジナル「新宿駅から」40年』 『日本の歌・歌謡史40』 『おんなの絵本』。そして『哀愁の吉田メロディを歌う』 『永遠の道標〜美空ひばりを歌う』、そしてW五木アルバム。どれもが凄いクォリティーで貴重な作品です。
五木 僕のアルバムはね、昔から充実しているんですよ(笑い)。と言うのも、僕のアルバムの位置付けを簡単に言えば“自由”。つまり心から歌が好きで、あれをこれを唄いたい、こう表現してみたい、という気持ちが湧き上がってアルバムを作っているんです。だからオリジナルで新しい歌に挑戦するも、名曲継承も歌好きだからこそです。結果的に僕はシングルよりアルバムの数が遥かに多いんです。
… とても多いです(笑い)。
五木 新しい歌を幅広い作家の方々と展開するアルバムもあれば、一人の作曲家一人の作詞家と組む場合も、名曲継承もある。そういうことを若いころからずっとやってきたんです。
… ファイブズ設立から充実、というワケでもない。
五木 以前のレコード会社所属時には、会社が売れて儲かると思えば、その要請を受けて年間 8枚ものアルバムを出したこともあるんです。
… ゲッ、8枚と!
五木 シングル 2枚、アルバム8枚の時があったが、それはちょっとやり過ぎだった(爆笑)。しかしファイブズになってからは、完璧にセルフ・プロデュースです。 W五木アルバムの五木先生のライナーノーツ通り、採算度外視で音楽に徹底的に取り組んでいる面があります。これは自分の会社、自身が責任者だからこそ出来るワガママだと思いますね。単なる一アーティストだったら、ぜいたく過ぎてとてもできないでしょう。

社会参加の音楽イベントは若いころから。
自分ひとりで、音仲間と、そして今は国家と一緒に…とスケールアップ。

… 同じことが公演やイベントについても言えますね。
五木 アルバムもコンサートも若いころから一貫したポリシーでやってきています。一昨年の日生劇場「古賀政男の不朽の名作を歌う」で初めて認めていただいて芸術選奨文部科学大臣賞をいただきましたが、ずっとやってきているんです。『よこはま・たそがれ』の発売が 3月で、その年の 11月に『股旅歌謡アルバム/流転』もリリースしていますし。
… ですが今は、芸能生活 40年余の存在感、重みが違います。
五木 古賀先生の生誕百年でもありまして、思いもかけなかったご褒美です。
… グリーンアース・イン・ ASOなど社会性を有したイベントも多くなってきたようです。
五木 これも、そうしたイベントと僕のキャリアとのバランスが良くなってきたってことだと思うんです。同じことは 24年も前“五木ひろし10周年”の1億円チャリティー・コンサートをはじめに、さまざまとやってきているんです。 14年前にはそれこそ採算度外視でアジア音楽祭を上海で開催したし、9 年前には日本武道館でチャリティー・コンサートを3年続けました。これは「21世紀の会」の名称で、音楽仲間やファンの皆さんに応援いただいて 21世紀の子供達に今できることをしていこう、という音楽イベントでした。
… 阪神淡路大震災直後から今年の神戸を含めて計 12回も兵庫県内を訪ねて、支援応援のチャリティー・コンサートもなさっている。
五木 そうしたボランティ活動は枚挙にキリがないんです。でもそれらすべては誰に強制されたわけでもなく、自分がやりたかったからやってきただけ…。「グリーンアース 21」ではありませんが、植えてきた苗木が今、少しずついい形に育ってきて、今の僕の年齢に似合ってきたのだと思います。
… 「グリーンアース 21」は環境省、農林水産省など国もバックアップした体制です。
五木 ですから苗木が育ってきたってことです。若かったころは自分一人で、やがて大勢の音楽仲間が集うようになり、今は国も一緒に、と輪の規模が大きくなっているんです。でもこれを別の角度からみれば、僕のゴールが近づいてきたってこと。
… エェッ、ゴールですか?
五木 歌手は一代、永遠ではなく必ず終わりがくるもの。終りが近づいてきた、ゴールを見えてきた、そこで発揮できるパワーもあるんです。若さと鮮度で出せるパワーがあれば、 50代半ばのパワーもある。
… しかし50半ばは未だ“小僧っ子”とおっしゃる先輩方もいる。
五木 船村徹先生、五木寛之先生をはじめまだまだお元気で、意欲に燃えていらっしゃいます。
… だから、ゴールに近づいたなどと言わず(笑い)、円熟の年代と言って下さいよ。
五木 年齢的に、いろんな意味でバランスが整ってきたってことだと思います。だから「グリーンアース 21」で実行委員長の肩書きでやっても、当然の年代になってきた。僕の歳でしたら会社なら社長、会長ですものね。でも、似合うということは恐いことでもあります。なんだか偉くなって終りが近づいてきたのではないかと(爆笑)。もう大ヒットが出せなくなってきたのではないかと。
… と言いつつ、五木さんは決して諦めていません。
五木 ウン、僕は今でもチャレンジしていますからね。肩書きも似合いつつ、でも誰よりもレコードも売りたいと(笑い)。その両方あるのが今の五木ひろしです。
… ですから握手会もキャンペーンも精力的に展開されています。同時に設立された会社は、まだまだ若い。これからでしょう。

ファイブズエンタテインメントに多くの有望な歌手たちが集うようになるのが理想。
それが今後の大テーマです。


五木 ファイブズエンタテインメントを旗揚げしたときも、僕は「これは五木ひろしのためだけの会社ではありません」と言っています。いずれは、ここから多くのアーティストを出して行きたい。そのためにも、まず五木ひろしがよりしっかりしなければいけない。で、計画通りシングルもリリース毎に上回ってきています。右肩上がりです。
… 五木さんには歌謡曲・演歌状況を活性化させるリーダーシップを発揮していただかなければいいけません。ということで、ファイブズのこれからをご紹介ください。
五木 設立して 3年。当初からファイブズエンタテインメントから多くのアーティストが育ち、大きな会社になって行く…を理想と思い、またそれも課せられた責任と思っています。しかし目下は五木ひろしがすべての会社で、自分が頑張って・頑張って、その経緯のなかに良い出会いがあって、そこからファイブズのアーティストの輪が広がって行けば、それが理想だと思っています。僕は僕の歌手人生を闘ってきた男ですから、他の人を育てるということには、ものすごく慎重なんです。その人の人生を預かることですから、それだけ誠実に真剣に応えてあげなければいけない。気持ちがあっても安易にはなかなかできません。しかし、いずれは着手しなければならないでしょう。これからの何年かで、なにかいい形を作っていきたいと思っています。
… ありがとうございました。




「五木ひろし」目次に戻る              HOMEに戻る