境界亭日乗「読書・言葉備忘録」
●2007(平成19)年8月〜●

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<12月11日(火)>
梁石日「終りなき始まり」(上下/朝日新聞社刊)

 9月に「夜を賭けて」のピカレスクロマンを胸躍らせつつ読んだが、この上下はブックオフで各巻950円で購入。在日の朝鮮語が出来ず日本語の詩を書いていた著者がデビュー小説を書くまでの自伝的小説。ここには「血と骨」や「夜を賭けて」などの圧倒される壮絶な生き様はないが、在日の人々の韓国、北朝鮮、総連などに縛られたつつ生きた文学青年の苦悩が描かれ、後半は20歳下の不倫相手、淳花(芥川賞を受賞後しばらくして亡くなった李良枝がモデル)の鎮魂歌の様相を呈してくる。
 物語は在日の人々が1980年の光州事件の報道に喧々囂々する新宿の酒場シーンから始まる。タクシー運転手の文忠明(著者モデル)は妻子持ちだが20歳下の淳花と熱愛中。文と淳花の激しく狂おしい性交が全編に展開される。やらやきゃ落ち着かぬ淳花の貪欲な性。第二章から改めて文忠明18歳の青春時代から物語が展開する。時は1953年の朝鮮戦争の休戦協定が締結されて1年も経っていない時代で、日本語しか出来ぬ文は在日とは何かを問われ続けて、その文学活動も常に組織も批判され、在日ゆえに満足な職にも就けない日々を送っている。在日同胞の仲間たちには朝鮮民主主義共和国への帰国して社会主義建設に参加を夢見る希望の光が見ているが、文は朝鮮語で詩は書けず、次第に組織と離れて行く。在日の前に人として詩を書きたい…。韓国の軍事クーデター、その裏で暗躍するアメリカの動き…。やがて文は結婚。オプセット印刷の会社を設立し、26名の従業員を抱える社長になるが、それもつかの間で倒産し大阪を出奔するはめになる。(ここより下巻)。東京でタクシー運転手を始めた文だが、ここからは在日が抱える諸問題より淳花との恋愛がテーマになってくる。感情が高まる、情緒が不安定になるとセックスせずにはいられなぬ淳花との激しいセックスシーンがやたらと眼に焼きつくばかり。最後は文は妻子を捨て淳花と同棲したものの、それが結果で別れることになる。文はタクシー運転手の小説(実際は「タクシードライバー日誌」)で作家デビューし、淳花は韓国留学したものの母国とはなじめぬ苦悩を描いた小説(実際は「由熙」)で芥川賞を受賞後、次作執筆中に37歳で急逝する所で終わっている。


<12月8日(土)>
かまびすしさ
 朝日新聞の小池百合子の記事の最後に女性記者がこう結んでいた。…「一兵卒」を気取る小池だが、身辺のかまびすしさはやまない。かまびすし・い:「喧し・い」。形シク うるさい、やかましい、さわがしい。「かまびすしい話声」「波の音常にかまびすしく」。[派生]:かまびすしさ(名)。

<11月8日(木)> 
川上音二郎・貞奴著「自伝 音二郎・貞奴」 (1984年、三一書房刊)
 ちょっと忙しくなってきたんで、以上3冊を斜め読み。これは昭和59年刊で、この時代にむろん音二郎も貞奴も生きてはいない。ここに収められているのは明治34年1月から3か月にわたって「中央新聞」に連載された「世界の檜舞台を踏みし川上と貞奴」(聞き書き)、明治41年の「演劇画報」掲載の「貞奴自叙伝」(これこ聞き書き)、明治36年9月から1ヶ月連載の「中央新聞」での「貞奴一夕話」などを掲載。本人が語る聞き書きだから数ある「貞奴、音二郎」本としては、本人の誇張を差し引いて、これが最も確かな資料でしょうか。
 中央新聞のはきっと二人を前にしての取材だったんだろう、途中で貞奴が自身の物語を語り出していて、それもまとめられている。米国、欧州の巡業逸話はここから膨らませただろう物語を読んでいるから新鮮味はなかったが、築地から神戸まで航海記述がえらく面白かった。
 艇長・二間半の屋根なしボート「日本丸」。ってことは約3.5m。堀江の太平洋を渡ったマーメイド号(5.8m)の約半分たらずのボートでよく航海したなぁと驚きです。記述によれば嵐の中で助かったのは艇にキールがあったためとあるから、ちょっとしたヨット風だったのかもしれない。それにしても、これだけで奇想天外なり…。「貞奴一夕話」は米国の俳優学校の詳細な授業視察や箇条書きで書かれた欧米婦人観察記も面白かった。それにしてもまぁ、なんたる表紙よ。
童門冬二著「川上貞奴〜物語と史蹟をたずねて」 (昭和59年、成美堂出版刊)
 参考書に杉本苑子、山口玲子の著作を参考にしたってんだから両著を読んだ方に読むまでもない本でしょう。歴史豆知識などがあって、そこに1900年のパリ万博に川上一座の他に人気を博した日本人グループがいて、それは新橋・烏森の芸妓一行だったとある。烏森の扇芳亭女将に率られた芸妓8人に、噺家・小勝、通訳兼マネージャー・奥宮建之そのた総勢15名が連日博覧会に出演する他、万博前五10ヶ月も欧州を旅巡業したと紹介されている。

山口玲子著「女優貞奴」(1982年、新潮社刊)
 貞奴関係5冊目で、これはもう飛ばそうかなと思って読んだら、欧米巡業の様子は通り一遍だが、国内での音二郎・貞奴には実に丹念な調査があって読み飛ばせなくなってしまった。昭和21年12月7日、享年75歳で亡くなるまでが詳細にレポートされている。
※子供時分の貞奴はおきゃんで今は明治座、当時は土州様(上野国・こうずのくに、いまのほぼ群馬県)お屋敷跡で遊びまわっていた。
※浜田屋の所在地は、東京市日本橋住吉超19番で、現在の中央区日本橋人形町3丁目。げんざい、同地にはかつての浜田屋に代わって「玄治店・げんやだな浜田家」という割烹料理屋が建っている。明治の主、可免(貞奴の養母)から、その弟・清吉を経て、清吉夫人の弟であり
明治座専務の三田政吉に受け継がれ拡張されたものとある。
※浜田可免は、「
木遣の亀吉」と呼ばれ声、節、間の三拍子揃った木遣の名人だった。そして長谷川時雨の…強情で一国と、侠(きゃん)で通った女であり、29歳で後家になってからなおさらパリパリしていた侠妓だった…の説明をくわえている。
※川上座は明治28年に泉鏡花原作「義血侠血」を「
滝の白糸」と改題して上演(後に新派の代表的演目になる)とあった。この明治28年というのは、貞奴は音二郎と結婚した翌年で音二郎がノッている時期だった。なお同上演に対して鏡花の師・尾崎紅葉から「版権侵害」で訴えられ、音二郎は七新聞に謝罪広告を出稿。著作権が確立する前で立派な行為だったと書いている。
※明治36年の帰国後の「オセロ」公演に際して、音二郎は早稲田の
坪内逍遥を訪ねていて、脚本を頼んだのかもしれない…と書いている。結局、脚本は硯友社に属した江見水蔭が書いている。
※あたしにとってうれしかったのは、この「オセロ」上演に際して永井荷風と結婚した
新橋芸者・八重次が住月華(市川粂八)の弟子として参加している記述。ここは別コーナー「永井荷風」に全文引用させてもらった。荷風好きの方は「永井荷風」クリックをどうぞ。


<11月1日(木)> 今度は杉本苑子の「マダム貞奴」 (昭和50年、読売新聞社刊)
 今から32年前、昭和50年刊の小説。小説ってぇのはどこまでフィクションしていいんだろうか…。
 この小説は、貞奴を振って福沢諭吉の娘婿になった福沢桃介と音二郎の人生浮沈をシーソーゲームにして貞奴物語が展開されている。
 桃介にふられてヤケ気味に大川で泳いで溺れかかった貞奴を助けたのが音二郎…。
 貞奴と音二郎を結びつけ、死ぬまで二人を応援し続けたのが浜田屋の女将“ガチャさん”こと亀吉。
 米国、欧州を通しての音二郎と貞奴の情愛や献身ぶりが見ていたように書かれていて、この辺は小説ならではですね。
 パリでのロイ・フーラーをやりて婆にして音二郎の痛快な駆け引きあり、葭町の妹芸者・小照と二枚目・伊井容峰が夫婦になっていたももの、音二郎の浮気の腹いせに伊井と不義した結果、小照が自殺したなども創作だろう。
 音二郎亡きあと福沢桃介と一緒になった貞奴だが、それはあくまでも「マダム貞奴」のパトロンで身体に手も触れさせなかったと書いている。本当だろうか。
 そう、音二郎亡きあと、貞奴は新富座で喜多村緑郎、花柳章正太郎らと一座をしながら、泉鏡花原作「滝の白糸」に主演と書いてあった。山口玲子「女優貞奴」には「滝の白糸」上演は、音二郎亡き後、大正4年とあった。



<10月29日(月)> 小坂井澄「モルガンお雪」 (1975年、講談社刊)
 筆者は昭和36年新宿コマ劇場の越路吹雪の出世作ミュージカル「モルガンお雪」のプログラムに「晩年、カトリックの深い信仰に入り…」とあったことで、同じカトリック信者であったことから「お雪」に関心を抱いたそうで、「モルガンお雪」の信仰を中心にした評伝。昭和50年刊。
 「モルガンお雪」は戦後間もなく長田幹彦の小説が話題を呼び、越路吹雪の同ミュージカルは昭和26年に帝劇で初演。その前には関西歌舞伎の役者たちによって大阪歌舞伎座で舞台化とか。
 さて、同書より「モルガンお雪」の人生を短くまとめてみよう。
 「お雪」は明治14年、京都生まれ。父は刀剣商で商売に失敗し、長姉ウタと次女スミが芸妓で、三女ナオがお茶屋の仲居に。ユキは14歳で祇園に出た。舞妓には歳が行き過ぎていて“胡弓のお雪”で名をあげた。お雪は大学進学できなかった川上俊介の社会人の京大生活を応援。二人は起請誓紙を取り交わすが、そこに米国大富豪モルガン一族のひとりモルガンの求愛を受けた。モルガンの求愛を断るために「落籍金4万円」(当時で1億金)と言うが、これが富豪モルガンの恋心に火を注いだ。
 モルガンを焦らし続けて4年後、夢にみた俊介の京大卒業だったが、浪花銀行に就職した彼の気持ちは冷めていて、お雪はモルガンの妻になるのを決意する。明治37年に日本国籍を抜いてアメリカへ。アメリカのモルガン一族と馴染まず、お雪夫妻は日本に里帰り後にパリに定住。大正4年、米国帰国中のモルガンがパリに戻る途中で心臓麻痺で急死。
 遺産の利子所得で暮らし始めた「マダム、・ユキ」はフランス陸軍士官のタンダールと恋仲になる。マルセイユで暮し始めて「マダム・タンダール」。彼はカンボジア滞在中に取り組んでいたカンボジア・フランス辞書の編纂に没頭も、昭和6年に54歳で臓発作で急逝。
 35歳から50歳まで続いたタンダールとの生活を終えた彼女は次第にカトリックに傾倒しつつ、遺産を辞書出版へ基金をしたりの南仏ひとり暮らし…。
 パリ万博の翌年、昭和13年、30年振りに帰国。やがて開戦で米国からの送金を断たれた苦しい生活のなかで終戦。昭和28年に洗礼。またモルガン家からの遺産権も復活して安らかな晩年を送ったとさ。昭和38年5月18日、82歳で亡くなった。


<10月22日(月)> 津野海太郎著「滑稽な巨人」
 明治の作家たちの本を読んでいると「小説神髄」「当世書生気質」や「早稲田文学」、そして当時の演劇運動は避けられないワケだけれども、いまいち逍遥さんの姿がはっきりしなかったんだ。で、この評伝が詳細に紹介している。新幹線ん中の読書で恥ずかしいから表紙を裏返して読もうとしたら腰巻が出てきて「第22回新田次郎文学賞受賞」とあった。
 若い頃に「津野海太郎」の名刺をもらった記憶があって、それが何の取材だったか思い出せず、名刺をもらったことだけを覚えているという妙な記憶。きっと「黒テント」がらみ取材だった気がするが、なぜ「黒テント」に行ったのか思い出せぬ。

 さて同書は「当世書生気質」刊行直前の27歳の坪内逍遥が、岐阜出身ながら江戸通人ふうを気取って文机と煙草盆を前に片膝を立てて筆をもつポーズの写真解説から始まって、晩年の熱海・双柿舎での夫妻で枯葉を掻く写真で締められている。共にキメたポーズの滑稽さと、根津の遊郭・大八幡楼のセンを娶ったことをクローズアップして書かれているが、まぁ、あたしにとっては坪内逍遥の詳細についてはあんまり関心はなく、それよりも数々のエピソードが面白かった。
 まずは大久保余丁町の逍遥邸に設けた自宅劇場のこと。余丁町近くに在住のあたしは荷風さんの断腸亭跡はよく知っているが、逍遥邸はどこに、どんな感じに建っていたんだろうかという興味。ここに二階建の邸宅を建てたのが明治23年で、39年に自宅内に劇場を建設とかでフムフム…。
 第二は、音二郎一座のヨーロッパ公演に同行していた門下生ひとり土肥春曙から貞奴やミス・ダンカン、ミス・フラーなどの土産話を聞いていること。
 第三は、逍遥の「新舞踊劇論」の影響を受けた一人に
荷風さんの元妻・八重次のことが書かれていた点。こうである。…八重次という新橋の芸妓兼踊りの師匠だった藤間静枝も、日本の舞踊を歌舞伎と遊里から解放せよ、という逍遥のアジテーションにはげまされた者のひとりだった。彼女は逍遥の信頼する二世藤間勘右衛門の弟子だったが、大正六年、藤蔭会をおこして創作舞踊運動を開始する。洋画家の和田英作や田中良、地質学者で演出家の福地信也、作曲家の町田博三、逍遥の弟子で舞踊研究家の小寺融吉などがスタッフとして参加、その後援者のひとりだった永井荷風と結婚したことでも有名になる…。(略」)…こうした初期藤陰会の実験の背後には、藤蔭静枝の若い恋人で、当時はまだ慶応義塾大学の学生だった勝本清一郎がいた…。「オイオイッ」って感じですね。
 第四は、逍遥が大正十年二日午後に、陸軍戸山学校内広場で「熱海町の為のページェント」を上演とあって四度目の驚き。唐十郎もここで芝居をやっていて、著者・黒テントの津野海太郎にとってもこの辺の演劇運動がポイントなんでしょうね。その戸山ヶ原あたりのことはあたしのテーマでもありまして、えらい発見でございました。おっとと、熱海の梅園の辺りも、あたしには馴染みの場所で…。えぇ、長くなりましたので、この辺でお後がよろしいようで…。



<10月10日(水)> レスリー・ダウナー「マダム貞奴〜世界に舞った芸者」(今年07年10月刊)
 著者のレスリー・ダウナーはイギリス生まれで、日本に約10年間滞在。「奥の細道」を旅して「芭蕉の道 ひとり旅」などの著作をもち、芸者衆と半年間生活を共にした体験ルポルタージュを発表などの作家。現在はニューヨークとロンドンを行ったり来たりとか。当時の欧米の貞奴インタビュー記事など丹念に調べて貞奴・音二郎、また音二郎亡き後の貞奴の一生を詳細に調べた異色かつ正統的伝記に仕上がっている。結果的に21世紀の今になって、貞奴の人物像をくっきりと浮かび上がらせることに成功している。
 うわぁ、ここでも「万朝報」黒岩涙香(蝮の周六)が出てきて、音次郎を叩いている。音二郎がフランスから帰国後にフランスの劇場をモデルに神田三崎町に日本最初の近代劇場・川上座を建て、国会議員に立候補した際に、借金漬けで河原乞食が何を言っているかとさんざん弾劾している。結局、音二郎は立候補を断念し川上座も手放して、ピストルを隠して黒岩涙香を狙うが見つけられず、「万朝報」社に乗り込んで机を打ち壊すなどの大立ち回りを演じている。これなんか1986年のビートたけしの「フライデー襲撃事件」と同じで面白いが、これは枝葉のエピソード。
 貞奴伝記関係の主な本は山口玲子「女優貞奴」、「自伝☆音次郎・貞奴」、杉本苑子「マダム貞奴」、童門冬二「川上貞奴」などがあって、これらと読み比べてみたくなってきます。
 また芸術座跡の新劇場「シアタークリエ」のこけら落とし公演(11月〜12月の2ヶ月公演)は三谷幸喜作、ユースケ・サンタマリア・常盤貴子主演で「恐れを知らぬ川上音二郎一座」。さゆりさんの3月明治座、5月新歌舞伎座公演が「奇想天外〜マダム貞奴オッペケペー人生」(作・演出は「劇団・桟敷童子」の東憲司)で貞奴ブームがおこりそうで実にタイムリーな出版なり。

<10月10日(水)> 物集高量「続・百歳は折り返し点」
 んまぁ、101歳で亡くなるまで現役だった新内の岡本文弥さんの本を読んだ後に、偶然にも106歳で亡くなった物集高量さんが101歳の時に書いた(27年前の昭和55年刊)同書を読むことになった。
 冒頭は31歳の中山千夏(あの人は今?)との対談で盛んにチンポコやらセックスの話をしてから本編?「自伝・あゝ青春」(明治32年〜39年)が始まっている。
 氏は明治12年(1879)、国文学者・物集高見の長男として誕生。回想では明治32以前の思い出も随所に描かれているが、自伝のメインは京都・三高から帝大(東大)卒業直後まで。東大卒が明治36年で24歳。この年に
本郷座で川上音次郎、貞奴の「ハムレット」を観ている
 東大卒業と同時に日本淑女女学校の校主になって女学生の菅清子と恋愛し、大森・森ヶ崎の鉱泉旅館にしけこんで乳首を吸うなど(なんでセックスしなかったんだろ。奥手だったのかもしれない))して「万朝報」や「二六新報」の餌食になって心中未遂を起こしている。山田美妙も浅草芸者・留女の爛れた生活で
「万朝報」の黒岩涙香の餌食になっていて、明治時代も「フライデー」みたいなのが活発だったんだなぁと面白い。101歳の時に書いた青春自伝だから、モテたり羽振りが良かったりした仲間達の晩年の凋落などもしっかり見届けていて、人生ままならぬと教えている。「栄枯盛衰」「塞翁が馬」「大吉は凶に還る」「昨日の綴れ、今日の錦」ってことだな。それから男は100歳になってもスケベだと教えている。物集さんは101歳で34人目の恋人と恋愛中とか。


<10月1日(月)> 嵐山光三郎「美妙、消えた。」

 6月末に読了「悪党芭蕉」に続く嵐山の小説。山田美妙(びみょう)こと山田武太郎の幼児期から亡くなるまでを竹馬の友・尾崎紅葉との交流を軸に描いた物語。
 物語とは言え二人を探る現在の筆者が随所に顔を出して、小説を読むようにはいかぬのは「悪党芭蕉」と同じだ。
 美妙と紅葉の幼時期が詳細に語られた後、明治18年の坪内逍遥「小説神髄」刊の前年、彼らは東大予備門で再び一緒になり、丸岡九華や石橋思案らと手書き回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊し、硯友社を立ち上げる。
 ここから美妙は2冊の単行本を出して天狗になった。祖母と母の扶養に稿料を稼ぎ出さなければならない美妙は次第に硯友社から疎遠になって作家活動を活発化させた。
 20歳で「読売新聞」に言文一致体の小説「武蔵野」を発表して売れっ子作家。時代は二葉亭四迷と美妙の感となる。一方、尾崎紅葉も「二人比丘尼・色懺悔」などで人気作家になる。
 金まわりの良くなった美妙は黒塗りの人力車を作った。奥手だった彼は浅草芸者・留女(とめ)を落籍して待合をやらせてどっぷりと性に溺れる。荷風さんと同じく日記にいたした日に「宝一」「宝二」と書き残し、一ヶ月に20回も…。精力を使いきって筆力も低下して行く。
 一方、読売新聞に入社して紅葉も羽振りが良くなって牛込北町41番地に転移した。嵐山はそこが大田南畝(蜀山人)の屋敷跡と書いている。金がもっと欲しい美妙は明治26年に1年2ヶ月を費やして「日本大辞典」も書き上げた。だが
「万朝報」の黒岩涙香が美妙と留女の爛れた生活を暴く…
 物語はこの辺から美妙の凋落へ展開するのだが、明治の言文一致体が完成する辺りの事情がわかって面白く、紅葉が…
「言文一致?あれは誰でも出来る。講談や落語を速記したならば、あっぱれ一部の好著作となる」
 と嘘ぶくあたりも面白い。もっとおもしろかったのは「あとがき」で嵐山がこう書いている部分だ。
 …七冊の手写本「我楽多文庫」は最初は早稲田大学教授本間久雄氏の所有だったが、つぎに勝田清一郎氏の所蔵となった。勝田氏はマルキストとして知られ、蔵原惟人を通じて左翼運動に近づき日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)代表となった人である「。(略)。勝田氏は、山田順子との関係で世間に名をとどろかせた。順子は竹久夢二のモデルとして同棲したのち五十五歳の徳田秋声と同棲し、秋声はその顛末をせつせつと小説に書いた。順子は秋声にあきると若い慶大生のもとへ走り、半年間同棲した。その慶大生が勝田清一郎である。勝田氏は順子の前は日本舞踊師匠藤間静枝の若い愛人であった。 …これには本当にたまげた。ほんとかいなぁ。
※山田順子は長編「流るるままに」他を書いた秋田出身の美人作家。後に銀座でバー「ジュンコ」のマダム。
※徳田秋声が、山田順子のことを書いたのは「仮装人物」
※藤間静枝は、永井荷風さんの二度目の結婚相手。芸者・八重次のこと。


<9月22日(土)> 梁石日(ヤン・ソギル)「夜を賭けて」
 ヤンさんの小説はいつも戦慄を覚えつつ読む。9年前1998年の「血と骨」も新刊が出た時にドキドキしながら読んだ。
 この本はその4年前の1994年刊行で、1997年に文庫化。この夏に古本市で400円で購入。やらなきゃいけない仕事があんのに、先方の後手後手仕切りにイラついてた時に、これを読んでいた。
 梁石日の小説は韓国のメジャー曲に通じている。明るく書かれているんだが、そこには想像を絶する悲惨で壮絶な生活が満ちている。物語はB29の猛爆で破壊されたアジア最大の大阪造兵廠跡で繰り広げられた屑鉄を掘り起こす朝鮮人集落のアパッチ族と警察隊との死闘がピカレスクロマン風に展開。
 そう言えば、あたしの住んでいる新大久保にも大正時代にアパッチ族が跋扈していたことがあった。
 と言ってもこっちは陸軍用地に潜り込んだ「戸山ヶ原アパッチゴルファー」で遊びの世界。
 そして今の新大久保はコリアンタウン化している。その賑わいも在日コリアンの終戦直後の大変な苦闘、長崎の大村収容所の悲劇などがあってのこと。
 「夜を賭けて」は山本太郎主演で韓国に五億円の巨大オープンセットを作って映画化されとか。レンタルビデオで観ましょうか。「血と骨」はビートたけし主演で映画化されていて、確かテレビでも放映されたと覚えている。


<9月16日(日)>田勢康弘「島倉千代子という人生」
 池袋西武リブロ古本市でドバッと買ったなかの一冊。あたしはひょんな流れで歌謡曲(演歌)の仕事をしている。
 長い間「い」さんと「さ」さんの仕事専任で、他の歌謡曲歌手の事はまったく知らなかった。
 これもひょんな事でカラオケ某誌の助っ人ライターとしてインタビュー記者もするようになった。
 気付けば4年程で、まぁほとんどのベテラン歌手に取材していて、年に1度の新曲毎の取材で一人の歌手に3,4回はお話を伺っている。
 併せてまたまたひょんな流れで別某誌で「い」さん、「さ」さんの各2年24回連載で計4年間携わることにもなった。
 そんなワケで古本漁り中に歌謡曲歌手の本があると自然に手がでる。島倉千代子さんには3回インタビューしていて、この本にも手が伸びた。
 手が伸びた理由は他にもあって、書いているのがなんと「TVタックル」などに登場の現・早大大学院教授で日経コラムニストの田勢康弘ってぇから驚いた。仕事がら多くの政治家と会っているだろう氏が「この人こそ、私が書くべき人物だと思って書いた」と書いている。
 島倉千代子をどう書いたのだろうか…。あたしは不謹慎ながら最終章から遡って読んで、前から読んで真ん中で読了という変な読み方をしたが、氏は少年時代にファンクラブに入って夢中になっていたと言う。島倉千代子には結婚、離婚、慕った眼科医の手形裏書で膨れた上がった巨額借金、やくざの介入、細木数子、乳癌…とまさに「人生いろいろ」で書くネタにはこと欠かないのだろう、何冊もの人生本が出ているが、まぁ島倉本を代表する本と言っていいだろう。で、どう書いたかってぇと、暗い部分はあっさりと書いて、ファンの域を出ぬ「タレント本」として書き上げられていた。
 歌手と著者の関係では、都はるみと本人が言う「都はるみ広報部長・有田芳生」が有名だ。都はるみが「サンデープロジェクト」で美空ひばり追悼トークの際に、オヤジが韓国人で日本レコード大賞がとれぬと週刊誌に書かれた際にひばりからの励ましに支えられたなどと告白し、また美空ひばり本葬の際の北島三郎の弔辞にかみつくなど本心を晒していて(歌手引退中のこと)、両者共にタブーなしの突っ込んだ取材で、いわゆるタレント本の域を超えて書かれたのが「歌屋」だった。一方、現役のトップ歌手として走っている最中の歌手の場合は、プロモーションの一環としての本になろうからどう書くかが難しい。人気凋落の女性タレントは写真集で脱いだり、衝撃告白などして本のヒットを得ようとするが、トップ歌手はそこまでする必要はない。ではどう芯を食った本にするか。答えは・・・。


<9月12日(水)>
森まゆみ「長生きも芸のうち 岡本文弥百歳」
岡本文弥「百歳現役」
 林えり子はフィクションも混じった小説仕立てだが、
 こちらは聞き書きに徹しているからデータ的には間違いない。
 例えば、林は文弥と「飛行機」の悲恋を小説仕立てで盛り上げているが、
 森版ではこうだ。「いっしょに床に入ったのは二、三度しかない…」。
 「芸のこころがまえ」では…こんなことを言っている。
 「いろんな言葉がありますから、それを心の奥において、
 その人物がどんな場所で、どんな感じでというか、
 頭において出せばまぁ、それにふさわしい声がまぁ出ます」
 これは石川さゆりさん、香西かおりさんも同じ事を言っている。
 「浄瑠璃は歌と言葉と両方で成り立ってますから、
 声だけきれいでも言葉がなってないと客を酔わすことができない。美しいだけの声は飽きがきます。
 声はそう良くないけどあの人は修行したからねぇと、その年限の味がつくと捨てがたいものがあります」
 邦楽には辛口のコメントが続く。
 「いまの邦楽は立派な会場を借り、よそゆきにまじめくさって演っている」
 「小唄のおさらい会などでも三味線が何十人もならんだりしてますね。三味線は一人の芸だと思いますが…」
 歌謡曲歌手についてもいろいろしゃべっているが、さしさわりがあんでここでは紹介しない。
 「チャリ物といって弥次喜多のような滑稽なものは上調子を入れない。明鳥や蘭蝶のような遊女の心中ものは
 端物といって上調子を入れるが、そういう決まり事がラジオが始まって破られたんです」
 ※なげき:(「くどき」と呼ばれる歌う部分のこと。「語り」と区別されれ。
 ※二挺三味線:太夫の語りを弾くのが地の三味線で、情緒を深めるためにツレ弾き風に弾くのが上調子。
 ※新内浄瑠璃は遊女の苦労、悲惨さと楼主や遣り手の非道・悪道を語っていて、反抗の芸なんです。

<9月2日(日)>
林えり子「岡本文弥新内一代記 ぶんや泣き節くどき節」

 1日の五木さん新歌舞伎座初日取材の新幹線往復で一気に読了した。物語をダイジェスト…。
 江戸は赤坂の芸道楽、万年青(おもと)職人の井上円蔵に三女「とら」が生まれた。
 「とら」は煉瓦職人・源次郎と結婚し、明治28年に井上猛一を産んだ。源次郎が満洲に渡り、「とら」は新内流し…。
 猛一が「文学世界」などの投稿で才能開花の一方、母も新内・鶴賀若吉の名で稽古所の看板をあげた。
 猛一は早大退学後、文学誌編集者から編集長へ。併せて母について新内の稽古も開始した。
 彼は共立女子校卒の多慶子と結婚。二人は「おとぎの世界」に小説を発表し始めた。
 多慶子の姉が産んだ子、ちえ子を育てる一方、母の稽古場には美少女・せつ子が頭角を現していた。
 ちえ子が病死後、多慶子は童話作家として歩み出し、猛一は編集者をやめてプロの新内芸人になった。
 彼は誘われて3代目で絶えていた岡本派の新内を再興。母、せつ子共々岡本派で次第に人気を不動にする。
 関東大震災の翌年に多慶子が死去。その夏から猛一は岡本文弥と芸名を改めた。
 文弥は新内流しの金沢で、西の郭の光月楼の養女で芸者「飛行機」と深間になって犀川大橋に部屋を借りた。
 しかし芸人と芸者の恋は許されるわけもなく、別れた文弥は次第に「新内界の鬼才」と人気者になるが、
 「飛行機」はクスリ漬けになって金沢を追われた。
 文弥は次々に新作の新内を発表。プロレタリア演芸大会などで左翼新内で大人気。
 文弥は6歳上で二人の子持ち未亡人・タカと結婚。文弥の相三味線を務めたのがタカの子・まさ子。
 母の秘蔵子・せつ子は結婚後に芸人をやめてい、まさ子は東京音楽大学長唄科をやめて文弥の上調子を担当が、
まさ子が急死し、続いて父・源次郎も死去。
 
昭和9年、文弥はそれまで無理といわれていた新内舞踊を藤蔭静枝と組んで成功を収めるが、この静枝が荷風の妻だった芸者・八重次ってぇから面白い。
荷風関連本にはそれほど書かれていない静枝のその後が詳しく紹介で、その部分は後で荷風コーナーで紹介しましょ。 
…物語はここまで半分だが、ここから2行で要約。
戦後に「飛行機」と再会。タカと離婚して後に西川流や常盤津の名取・しず子と結構。昭和43年の紫綬褒章を受賞。
大阪の弟子んとこと東京のちゃんぽん暮らしを経て、大阪の女性と別れて、また谷中のしず子と生活する88歳の所で終わっている。
この本は昭和58年刊で、岡本文弥は平成8年10月101歳で死去。
岡本文弥著「谷中寺町・私の四季」「芸渡世」、遺句集「残ンの色香」「岡本文弥の手紙」があり、
森まゆみ著「長生きも芸のうち〜岡本文弥百歳」などがある。むろん新内のCDもありましょう。あたしの楽しみはこれからだ。
いや、待てよ。新宿図書館で検索したら上記とは別に6点がヒット。ふふふっ、楽しくなってきました。今年いっぱい岡本文弥でいきましょうかねぇ。


<8月30日(木)>
悠玄亭玉介「幇間の遺言」
 タイトル通り亡くなる直前の“最後の幇間”の聞き書き本。
玉介は明治40年生まれで、落語、常盤津、日舞を経て幇間に。平成6年没。
ここでは読んで面白かった言葉を辞書風に挙げてみる。
結界:扇子を自分の前に置くこと。あなたは上、あたしは下。「下座に下りまして」てぇこと。
修羅場:お座敷のこと。歌手ならステージ、あたしらは取材現場かなぁ。
提灯屋の字:上手いけれども死んでいる字
幇間は「間」で商売:その「間」が難しい。
幇間の三大関門:お客様、お茶屋の女将さん、芸者さん。三者にヨイショ。
坊主頭:たいこもちの坊主頭は座敷であたしには色気なんかありませんよってぇ印なんだ。
ターサン:花柳界はお客様の本名を知られないように田中さんはターサンで通す。
小間物屋:ゲロ。…を吐かぬ飲み方は薬のように一気飲み。芸者は帯にアラリメを忍ばせる。
義理がけ:友達仲間が仕事に呼んでくれること。
玉抜き:花魁が男のテクにはまって他の見世に移ること。
おはきもの:客に帰ってもらうこと。
隅田川の三つの名前:水神から吾妻橋までが宮戸川、吾妻橋から永代橋までが墨田川、そこから佃までが大川。
金は汚く儲けて、きれいに使え:ってさ。
幇間がお客様と話しちゃいけない話題:政治と宗教。
弁当持ち:奥さん同伴のこと。
だるま:羽織のこと。寄席で脱いだ羽織を引っ張ってもらえないと「天ぷら」。いつまでもしゃべってなきゃいけねぇ。
与太郎は下手(客席から見て左側):与太郎がしゃべる時は首が上がって、番頭が叱る時は首が下がる。
ハクい、セコい:セコはクソのこと。「セコをふかす」はクソをすること。あたしは忙しかったんでこの本はセコをふかす時にのみ読んだ。
金ちゃん:客のこと。甘金、ドサ金、セコ金。
人間の顔には上に耳が二つで下に口がひとつ:よく人に話を聞きなさいって戒め言葉。
舌たらず:お客様が言うことを知っていても知らないふりをすることで、これは幇間のポリシー。最近多いのは「女の切返し」で嫌だねぇ。
下ざらえ、本ざらえ、ツボ合わせ:本ざらえは通し稽古、ランスルーだな。
手金をうつ:女にヨイショするってぇこと。いい女とみたら手当たり次第に手金をうっておくのが玉介流。



<8月18日(土)>
斉藤潤「東京の島」
(光文社新書)
 大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島。そして小笠原諸島と硫黄島、沖ノ島の訪島記。
 1島約1テーマの物足りなさはあるが、
この本の要は著者のすべての島をまわったってぇことの達成感共有だろうな。
 大島編では裏砂漠の異景(あたしの造語:この世のものとは思えぬ景色。写真はあたしの撮影)をクローズアップ。
 思えばあたしの大島ロッジ暮らしは約16年に及ぶ。
 当初は週末大島暮しで、今は年間数回暮しになったが、
だからといって島のすべてを知っているかと言えば、知らないことだらけだ。
 大島以外の伊豆諸島体験は、昭和50(1975)年か51年に
ヤマハの姉妹デュオ、チューインガムのキャンペーンで三宅島に行っただけ。
 今ではかなり偉いポストにいるんだろうO社カメラマンが、部屋の明かりを消させて尻を丸め、
合図に合わせた同僚記者のライター着火で見事に屁に引火。
ジーパンのまわりがボゥ〜と明るくなって、それは感動的にきれいで、またあれほど腹が痛くなるほど笑ったこともない。
その記憶が鮮明で、三宅島のどこを歩いたのか思い出せない…。


<8月17日(金)>
岩崎信也「江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?」
(光文社新書)
 あたしは蕎麦好きで、ここ数年間のブランチ(1日2食)は毎日欠かさず昆布と梅干し入り「かけ蕎麦」だ。
 で、とうとう蕎麦の本を読んでしまった。
 江戸(前)文化のほとんどが、上方の影響を受けていた元禄以後に発達していて、
化政期(文化・文政時代)に「うどん」から「蕎麦」全盛になった…と書いてあった。
 江戸前料理、江戸音曲もみんなそうだな。
 同書ではそうした詳しい経緯、品書き(メニュー)のいろいろ、食べ方、
さらには明治・昭和への変化など膨大な資料をひもときつつ
入念に「江戸そば」を解明している。
こんなにいい本が昔ではなく今になって(今年5月新刊)出ているんですねぇ。
 下の写真の手製ベンチで仰向けになって読んでいるってぇと、
天井下の白ペンキを塗った部分の汚れが気になってしょうがねぇ。
ここのベランダは建て増しで、白ペンキは自分たちで塗ったんだが、
クモの巣とかホコリとかで薄汚れてきて、いつかはきれいにと思って10年余…。
ついに意を決して雑巾がけをした。
ひと拭き毎にグレイの天井が白くなって気持ちいいことよ。
白い蕎麦「さらしな」(ソバの実の中心部のみ)でもなく、玄ソバの殻をはずさずそのまま製粉の挽きぐるみ「田舎そば」でもなく、
日々食うのはその中間の「並そば」が良くて、天井も「並そば」ほどの色になったってぇことでしょうかねぇ。


<8月17日(金)>
川本三郎「東京の空の下、今日も町歩き」
 この著者の本を最初に読んだのは読売文学賞受賞の「荷風と東京〜断腸亭日乗私注」だった。
 次に「大正幻影」(平成3年度サントリー学芸賞受賞)を読んで、同書で3冊目。
 3冊とも同じ版画家によるカバーイラストもいい。
 さて散歩好き・荷風さんから、
 大正期の作家陣(佐藤春夫、永井荷風、谷崎潤一郎、芥川龍之介など)を隅田川風景から求めた評論集。
 そして今度は東京周縁の街に足をのばした散歩随筆。
 散歩の楽しみ、さらに果てしなく…といった感じだ。
 青梅、蒲田、八王子、羽村、板橋、赤羽、亀戸、調布、町屋などなど…。
 あたしはお盆休みの島暮らしでこのベランダの自作ベンチに寝っ転がって、
潮風に吹かれながら同書他全3冊を読んだ。
※同書の冒頭が「青梅」で、9月4日のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」で本に書かれていることとおんなじ映像だった。映像で見ると「なぁ〜んだ」と思ってしまった。



<8月9日(木)>

きょう長崎原爆の日 そして 8月15日正午の玉音放送の一部…

 加之(しかしのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しき)ニ無辜(むこ:罪のない民)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真二測ルへカラサルニ至ル而(しか)モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如ク(かくのごとく)ムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保(ほ)シ(責任を負う)皇祖皇宗ノ神霊二謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言(ポツダム宣言)ニ応セシムルニ至レル所以(ゆえん)ナリ (半藤一利「日本のいちばん長い日」より) ( )は私が…。


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