Books(第1書庫)

『いつか猫になる日まで』(1980)

  by 新井素子 (96/09/23記)  どこまでもまっすぐに進んでいく主人公、もくず。 彼女は、その仲間である、あきらかな特殊技能を持つ5人の仲間達と比べて、 何も持っていないようにみえる。しかし彼女こそは・・・。  これを最初に読んだ頃は、迷ったとき、落ちこんだときに読む『元気の出る 話』でした。故に何年かは、もくずの誕生日=この話の始まる日=作者の新井 素子さんの誕生日である8月8日には、必ず読む、と言うようなことをやって いました。  そして、つい最近愛蔵版が出たので読んでみると、あいかわらず元気で、ど こまでもまっすぐ進んでいました。  さすがにあれから少々年をとった私にとって、照れる部分はあるにせよ、彼 女はまだまだ元気です。

「季節のお話」(1990)

  by 新井素子 (2005/09/25記) 待望の「季節のお話」(新井素子)をついに手に入れ、読む事が出来ました。 実はこの作品、1990年に刊行されたものの、その後廃刊。 私も油断していて手に入れる事が出来ず、ようやく15年越しで出逢う事が 出来ました。 この出会いを助けていただいた復刊ドットコム(http://www.fukkan.com)と そこに投票された人たちに、まずは感謝をしたいと思います。 さて、本編ですが、帯で吾妻ひでお氏が書かれている通り、「お話」ではなく これは「神話」ですな。 それも新井素子さん独特の「神話」 絵本ということでその色が消えてしまうかと思いきや、とんでもない。 まぎれも無い新井素子節全開の作品でした。 そして、これがまた古川タクさんの絵に見事にマッチしているのですな。 しかしホント、SFしてるよなぁ。

『チグリスとユーフラテス』(1999)

  by 新井素子 (99/02/14記)  繰り返しテーマとして掲げられる人生観。どんな逆境にあっても、例えその 事に完全な満足が出来ないとしても、ひたすら前に進むこと。それは決して悪 いことじゃないよ。って言うこと。それを甘く(ぬるいと言う意味での「甘く」 ではなく、本来の意味での「甘く」です。念のため)語ってくれるのが、新井 素子の魅力なのだろうなぁと再認識する事ができました。  そういう部分では、近ごろお気に入りの映画作家、アンドリューニコルにも 通じていて、「あ、だからニコルの描く話=映画って好きなんだ」と言うこと をも再認識する次第。ただし、アンドリューニコルはあくまでも男性的な視点 で、新井素子はあくまでも女性的な視点で、それに臨んではいるのだけれど。  そして、相変わらずの語り口のうまさ。「ひとめあなたに・・・」を髣髴と させる連作長編(?)的なキャラクタの描き方のうまさ。  そう、ルナ、灯、マリア、ダイアナ、朋美。すべての主人公たちに感情移入 させてくれる語り口のうまさ。  これからも、ずっとずっと、自分と同じテンポで、成長し、老いていくであ ろう素子さんとその新作を、いつまでも楽しみにしています。

「あした」(2000)

  by 新井素子 (2001/02/10記)  コールドスリープものと言えば、いろいろあるのだが、そのコールド スリープという技術が確率される過程のできごとを扱った作品というと、 わたし的には、もう梶尾真治の「美亜へ贈る真珠」に尽きてしまう。  とかく時間軸がらみの作品はセンチメンタルになりがちだが、この作 品のその度合は、その表現方法からして他を凌駕するものがある。  で、いやぁ、凄いよなぁとも思っている中でも、やはりこれはしょう がないのだろうなぁと思っていたのが、あくまでも男の視点から見た願 望であるということ。これって、たとえばあの「夏への扉」も、言って しまえばそうなんですよね。そこで作品を区別する気はないので、それ がペナルティになることはないのだけれど、それを言われるとなぁとい う部分ではある。  と、だいぶ長い前置きになってしまったが、この新井素子の「あした」 は、女性の視点から観た「美亜・・・」である。  やはりこちらでも、主人公は「時」から逃げたいばかりに実験台へと 志願する。「美亜・・・」の場合は、それがどういう結果に至るのかが形に なることがクライマックスとして描かれているのであるが、この「あした」 では、結末は描かれない。そこに至る過程での延々とした問答で、少し だけ光が見えたところでいきなり終わる。  これってまさに、男と女の感じ方の違いがそのまま反映されていると いう意味でも、対比させる事でまたいろいろな事が考えられる二重の楽 しみを持った作品といえよう。  で、その部分は置いといて新井素子作品としての「あした」 やはりこの人の作品を読むうえでの面白さのひとつは、「女性的なモノ ローグを視覚的に表現することのうまさ」なのだなぁとあらためて実感 した。  初期の一人称メインの頃ほど、それは顕著ではないのだが、SF大賞 を取った「チグリスとユーフラテス」にしても、この「あした」にして も、それが作品の魅力を保っていると言ってもいいのではないかと思う。 特に、この作品は短編ゆえ顕著に出ているようにも見受けられるのでは ないかとも思う。  これを読めることこそが、彼女の新しい作品に出会う時の楽しみなの だなぁとあらためて実感した次第でもあります。 kaname

「ハッピー・バースディ」(2002)

  by 新井素子 (2002/09/28記) 書くことに淫する。 これを私が自覚したのはいつのことだったのだろう?  元々、学生時代に文章を書いてはいたものの、社会人となってか らの何年かは、そういったこととは無縁の生活をしていた。 それが、ある時職場の先輩に、私の書いたとあるファクスの原稿を みるなりこう言われた。 「ここに入っている『さて』って、確かに文章の流れからして 間違っていないな。」 入社してからの何年かは、たしかに定型文をベースにしていろいろ な文章を作っていたのだが、それがいつのまにか自分でも気がつか ないうちに、仕事のために作成した文章で遊び始めていた事に、そ の時気づいたのであった。 その後、時を置かずしてパソコンを購入し、パソコン通信まで始め てしまったのは、今思うと偶然ではないような気がする。  その学生時代に書いていた時のペンネームが水口要といい、現在 の私のハンドルネームの由来となっているのだが、それはひとまず おいといて、私も、この作品の主人公のうちのひとり、「あきら」 と同じく、文章を書くことに淫する人間である。これで、才能のか けらでもあれば、もう少し道を踏み外していたかもしれないが、こ の場所にある膨大な量となった文章とその中身を見れば判るように そういったものはかけらもない故に、なんとか道を外さずに生活を しているんじゃないかなと、ときどき思うこともある。 まぁ、人はそれを「悔し紛れのたわ言」というのかもしれないが。 それもさておき、主人公に感情移入する素地があった私としては、 一方で、少々複雑な思いも抱いていた。 この、新井素子の一連の作品、という言い方をするよりは、作家と しての真骨頂という言い方をしたほうがいいかな。 それは、閉塞へと向かうしかない状況に追い込まれたもしくは自分 を追い込んでしまった、主人公もしくは登場人物が、ある事をきっ かけに臨界点に達し、そしてそれをきっかけに次のステップへと成 長していく物語を書き続けている事にあると、私は思っている。 SF作家としての肩書きで通ってはいるが、それは登場人物たちを 追い込むための状況を象徴的に創りやすいからであって、その部分 においては、極端な事をいえば、フィリップ.K.ディックと同じ 類の作家であるとも言えるんじゃないかと密かに思っている。(あ くまでもその部分においてのみ。) 「臨界点」という意味で、もっとも判りやすい例でいえば、「あな たにここにいて欲しい」や「くますけと一緒に」であるが、多かれ 少なかれ、ほぼすべての中・長編がこの構成を取っている。(シリ ーズものの場合、最終的にはと注釈をつけなければならないものも あるが。) 逆に、一回だけ世界のほうが臨界点に達してしまったのが、「ひと めあなたに・・・」において主人公が出会う人たちであるが、この話 も長くなるのでここに置いとく。(^^) 話を戻して、今回の作品、「ハッピー・バースディ」は、たぶん初 めて、SF的な小道具・シチュエーションや連想させる物を一切使 わずに、同じカタルシスを書いた作品であった。 そして、これで、今までの作品群も、決してSFというジャンルの みで語られるものではなく、前記の形態のカタルシスを得意とする ストーリーテラーとして語られるべきであることが、証明された作 品でもあるように思う。ましてや、その文体においてのみ特徴があ る作家という、デビュー当初の世評に囚われるべきではないという ことはいうまでもないか。 今回、カタルシスを得るために使った題材は「作家」。 書くことに意味を見いだせないまま書いてきた作家が、書くことに 意義を見いだすまでの話、という見方もできる作品であり、その、 作家にとって一番精神状態の悪くなるようなシチュエーションを、 よく書くことを決意したと思う。 ただし、やはり本当に苦しかったためか、あまりにも身近な題材で あったためか、いつもなら見事に臨界点から脱出してくれるところ が、少々乗り切れないところがあった。そしてそこで乗り切れなか ったがために、もう一人の主人公の成長が唐突に思えてしまい、う まく行けばさらに楽しめる所で、やや第三者的な見方になってしま った。 話そのものが、文章の分量の割に、中編程度の手応えしかないほど にさらっと読めてしまうのも、今回は悪いほうに働いたような気が する。 久々の、しかも前の作品が非常に力のはいった作品であったがため の期待も乗っかった作品であったということもあるかもしれないが、 ちょっともったいない終わらせ方をしてしまったかなとも思う。 (けれども、それでもこの話の最後は大好きです。) ただまぁ、書いているほうも、かなり精神的にも悪かったであろう この作品も、何はともあれ終わり。 囚われることなく、さらに先へ先へと進んでいってほしいなと思っ ています。 なにか、偉そうな文章になってしまいました。(^^; kaname

「ブラック・キャットIV チェックメイト」(2004)

  by 新井素子 (2004/02/04記) ようやく、ですね。(^^) ホントお疲れさま。  第一作の文庫本刊行が1984年だから20年、しかも前作から 数えても10年ですものね。 ようやくこのシリーズを読み終えることができました。 実をいうと、一作目、最初読んだときにはあまり好きじゃありま せんでした。 当時の作品群からするとやや異質に思えたんですよね。 しかしそれも、この作品で解消されました。 このシリーズはここに降り立つためのものだったんだね。と。 しかも、この降り立ち方は...懐かしいなぁ。これだよなぁと思え るものでした。 このグズグズさ加減。 そして、そこに降り立たせたのが何よりも山崎ひろふみであった ということ。 私もだいぶ甘くなったなぁと思いつつも、懐かしくも新しい作品 への出会いに喜ばせて いただきました。 kaname

「グリーン・レクイエム/緑幻想」(2007)

  by 新井素子 (2007/12/08記) つい先日、ついに創元SF文庫から出た「グリーン・レクイエム/緑幻想」 を読みました。 創元といえば私にとっては早川と並んで、たぶん読書歴の大半がこの2社 であろうし、何よりも特別なもの。 特に好きな作家であり、その著作(特に長編)をほとんど読んでいる、ア ガサ・クリスティ、イアン・フレミング、レイモンド・チャンドラー、 そしてロジャー・ゼラズニィ。 (まぁゼラズニィの場合はこれにソノラマを加えなければならないが) ほとんどの作品は早川/創元だからなぁ。 今の私は早川と創元に育てられたと言っても過言ではない。(言い過ぎ?) そんな中、やはり好きな作家である新井素子は、「…絶句」で早川デビュー はしたものの(それが出ると知った時、思わず本屋で大喜びしてしまいま した(笑))、創元だけは…だったのですが、既発表作品とはいえようや くデビューを果たしてくれました。もうそれだけで嬉しい。 で、この「グリーン・レクイエム」とその続編「緑幻想」が初めて一冊に 収まったというこの作品。 「グリーン・レクイエム」は奇想天外ハードカバー・講談社の文庫とハー ドカバー・そしてやはり今年になって出た出版芸術社の作品集の中の一編 に続き計5冊目、「緑幻想」は講談社のハードカバーと文庫に続き計3冊 目の所有となります。(笑) まぁ知る人ぞ知る話でそのすべての「あとがき」が違うのでそれだけで集 めている人が多いというのも事実。 (たしか「ひとめあなたに…」だったかな?は、版を重ねて表紙イラスト が変わった際に「あとがき」も変わっていた…ような気もする。(笑)) さあて、本編にまだひと言も触れていないぞ。(笑) というわけで本編の感想。 まずは「グリーン・レクイエム」 (前述のように過大なフィルターは入っているのですが)この作品は 何度読んでも同じ気持ちにさせてくれる。 まぁ厳密にいえば最初に読んでからラジオドラマの際に羽田健太郎がこの 作品のテーマ曲を作り、今関あきよしが鳥居かほり主演で映画を作ったの で、そこからの追加はあったものの、羽田健太郎が鬼籍に入り、今関あき よしが別のところに入ったくらい時の経った今でも、不思議と登場人物と の年齢がどんどんかけ離れていった今でも登場人物たちに対する感情やイ メージが変わらないんだよなぁ。 特に自分と年齢の近いところで出会った作品は、どうしても時を経つに つれて「その作品を読んでいた頃の自分」を俯瞰で見ながらになってし まうにも関わらず。(この作品に対してはそれが無い。) 単に(この作品に対しては)今でも成長していないだけなのかもしれない が。(あ、そういえば「夏への扉」もそんな感じだわな。) それに対してその続編である「緑幻想」。 こちらのほうは思い切り俯瞰になっている。 それはもしかしたら作者である新井素子自身が、この作品を書いた時点で 登場人物たちに対して俯瞰で眺めるような年齢になってから書いたせいが あるのかもしない。 あとは、「グリーン…」のほうが登場人物たちが能動的に話を動かして いるような作品であったのに対し、この「緑幻想」の登場人物たちは 「動かされている」からなのかもしれない。 それがもたらす結末(真相)は、トリッキーであるにも関わらず他にも 似たような印象の作品が存在するからかもしれない。(そういうものを 知ってから読んだ作品であるからかもしれない。) どちらも、実は「ある情景」を書きたいが故に作り出されたであろう 作品にも関わらず、そのことに対してかたやいまだに純粋なまま接し、 かたやいろいろなものが付加されての接し方になるというのも面白い ものだな。 どちらの「ある情景」も、私にとっては好きである事に変わりはないのに。 さあて、自分でも何を言いたいのか分からなくなってしまったので、 ここらへんで書き逃げさせていただきます。(笑)

「もいちどあなたにあいたいな」(2010)

  by 新井素子 (2010/01/24記) 新井素子の7年ぶりの長編小説「もいちどあなたにあいたいな」を読了。 7年ぶりにして執筆に8年間かけた、いやかかったこの作品は、どこを切っても間違い ない新井素子の作品であり、かつその苦悩が伺える作品でもありました。 と、本題に入る前に少し書いちゃお。 当然ながら今回もまずあと書きから読んでいたりします。 これはもう習慣というか儀式に近いかな。 他の作家ではまず絶対にやらない儀式。 まず近況が知りたいというのもあるけれど素子さんの場合あとがきもまた楽しみの ひとつだから。 そこで知った8年間の執筆期間。 さて本編に戻る。 これは、ここで描きたかった事は、確かに苦悩して当然だわな。 如何にして言いたいことを伝えるかを彼ら彼女たちで行うには大変だっただろうなあ。 いっそのこと本人に語らせたくなってしまった気持ちも良く判る。 けれども、それでも時間をかけてまで作品として書き上げたのはらしいというよりは それこそが彼女に他ならない。 気づいてしまった「これ」、書かずにはいられなかったんだろうなあ。 そしてキャラクターたちは分身。 どちらが欠けても成り立たない。 それが彼女の作品の魅力なんだろうなあと妄想する。 書くことを忘れてしまったんじゃないかとも思った。 書くことに淫することよりも幸せな状態にいるからなんだろうなとも思い、そこから 思考はどんどんずれてもいった。 たしかオタク系はあまり好きではなかったと思ったのに、どちらかといえばそちら系に 見える旦那と結婚したのは何故か昔から不思議だった。 なんてことを考えていたら、作品中にある意味答えが書かれていて少しびっくりした。 そして、その延長線上で、何故結婚物語や新婚物語がテレビドラマ化されたのかなんて ことも考えていたのだが、次回作、というか既に連載開始していた作品がその2作品の 続編だということも知り…。 まあそれはある意味彼女の状況が私の想像どおりなのだろうなあなどとも妄想する。 さて、今回も彼女の作風の代名詞のひとつである一人称で綴られてはいくが、章ごとに その語り手は違う。 これには見事に引っかけられた。 というよりは、語らせずにはいられなかったんだろうなあ。陽湖には。 ただそれは無意味ではなく、読み直すとそこかしこにヒントが散りばめられている。 否、違うな。 多分逆だ。 必要だからそこにいるのではなく、そこにいるから必要なものがそこかしこに存在する。 当然のことだ。 最も重要だと提示されていたにも関わらず、実は最も関係ない人だった大介。 ある意味この名前を過去に付けられたキャラクターそのままの扱いに実はなっていた のは偶然か、それとも私の勘違いか。 そして、主人公澪湖。 彼女に一人称で語らせつつ、その彼女に客観性を持たせるために存在する大介と陽湖が 自分語りに主眼を置いてしまい、進まない話。 話の唯一の牽引役である彼女は、その与えられた条件が故に枷が付けられてしまったのが 残念だった。 これが、若い頃の素子さんの作品だったら一人で縦横無尽に走り回っていたのだろうなあ。 で、和。 爆発によりその運命を背負ってしまった彼女は、彼女に限らずその誰もが悲劇だ。 ハインラインの「ヨブ」の…この話はやめておこう。 彼女は笑うしかないのだろうなあ。 一つのことだけを願って。

「死神の精度」(2005)

by 伊坂幸太郎 (2007/06/21記) 伊坂幸太郎の連作短編、「死神の精度」を読みました。 まず、一作目の「死神の精度」。 実のところをいえば、最近の国内の人気のある作家の作品は ことごとく語り口が趣味に合わなくて駄目な人が多いので 今回も初めて読む伊坂幸太郎ということで恐る恐る読み始めた のだが、久々に当たりな人であった。 一人称であることも、乾いた語り口で語られるユーモアに 溢れる作品である事も、ファンタジーであることも、大いに 心惹かれた要因かもしれない。 もっとも、このすべてが当てはまっていても嫌いを通り 越して憎むべき作家が多い事も事実なのだけれど。 まぁそれらに足りないのは自らが作り出したキャラクタに 対する愛情だったり自分の作り出した物語に対する自惚れ であったりするのだが、またそれは別の話。 まぁそんなわけで、この作品だけでえらく惹き付けられてしまった。 落ちに対するファンタジー度はやや大きすぎるような気は するのだけれど、一作目ということでこれは後に伏線と しても使える余韻を残しており、序章としてはOKかな。 そして二作目の「死神と藤田」。 趣向としてはどんぴしゃりな題材。 これだけで一本の映画に出来そうな話だな。 設定とキャラクターがすべてうまく廻っていて、「よし!」 という想いにかられました。 続いてはまたちょっと毛色が変わった「吹雪に死神」。 おお、こう来たかという感じ。 個人的には、「オリエント急行殺人事件」から始まり、 「そして誰もいなくなった」「ABC殺人事件」ときて 「カーテン」「ゼロ時間へ」といったアガサ・クリスティの 反則技と言われたもののオンパレードといった感じでした。 もっとも、推理小説に死神が出てくる時点でこの上なく 反則であるというのを逆手に取っているのがまた良いのだが。 大いに誤読を楽しませていただきました。 あ、「スタイルズ荘の怪事件」もあったか。(誤読) ストライクゾーンどまんなかを一歩間違うと嫌みに なりそうな寸前で落としてくれていました。 で、4作目の「恋愛で死神」。 これが一番ツボにはまったかもしれない。 …と書くと、私の趣向が判ってしまうくらいツボにはまった 作品。 萩原のキャラクタ設定が際どいところを付いているのだけれど、 良い方に転がる匙加減があったりしてまた見事。 (感情の)ヤバいところを突いてきて最後あっさりと切って しまうところがまた魅力的。 これもまた映画的だよなぁ。 「旅路を死神」は文字通り死神とのロードムービー。 この前観たテレビドラマの「セクシーボイスアンド ロボ」の中の一話とイメージとだいぶ被るところが あったがまぁ題材として似たような部分があったので これはしょうがないか。(細かいネタと触媒となる 主人公側のキャラクタ設定の方向性は違ったりして いるのだが、話を引っ張るキャラクタがある意味 近いと言うか…そんなに近くもないか…。) まぁある意味「死神…」シリーズそのものの雰囲気が 「セクシー…」と近いものがあると言えばあるか。 そして最後が「死神対老女」 ある意味予想していたところもあったが、そう来たか と言う部分が好きだな。 連作短編の締めくくりとして奇麗な終わり方を していました。

「ウォーレスの人魚」(1997)

by 岩井俊二 (98/03/01記)  年を経るにつれ、人間というものは、つくづく生き物に過ぎないのだな、と 思うことがよくあるようになってきた。  そんなことを考え始めていた矢先にこの本を読む機会が出来た。  出版されることがわかった時点からすっと読みたかった本ではあるのだが、 この機会で読んだというのも、また何かの因縁かもしれない。そんなことを感 じさせてしまう本である。  映像作家としての岩井俊二ももちろんそうなのだが、小説家岩井俊二もまた 想像力を心地好く刺激してくれる作家である。そしてその方法は、読んでいる ものが良く知っている、もしくは知っていたもの=容易に頭に浮かぶものを足 がかりにして入り込みやすい状態を作り、そこから未知なるものを想像させて いく、もしくは想像できていると錯覚させていく。この部分が、岩井俊二をス トーリーテラーたらしめる理由なのだろうなぁ。  ただひとつ、映画『ACRI』がなければ生まれなかったであろうこの小説 が、映画『ACRI』が存在するが故に映像化されることがないというのが、 唯一の心残りではある。

「タイタンの妖女」"The Sirens of Titan"(1959)

by Kurt Vonnegtut Jr. (2000/05/07記)  「スローターハウス5」の解説を読んで、一番気になったのが、 この「タイタンの妖女」。 「スローター・・・」の中でもキーとなった、トラルファマドール 星の存在が、キーとなるということで、どのような話が展開される のか、非常に興味が湧きました。  ヴォガネットの作品の中では、ある種一番判りやすい作品だと言 う話も聞いていたし。  あと、トラルファマドールと言えば、最初に知ったのは、梶尾真 治の短編、「トラルファマドールを遠く離れて」。 その意味を、「スローター・・・」を読んでようやく知ったのです が、・・・とこれはまた別の話。 さて、話の構成は、トラルファマドール人の影響を受けていない主 人公の視点から見た時間構成。 そういう意味では、理解はしやすい。 しかしながら、トラルファマドール人的視点を持たざるをえない事 故に会い、時間の虜(と便宜上呼ばせていただく)になってしまっ た、ウィンストン・ナイルス・ラムファードが、未来を知る存在と して、神にも近いポジションにまでなり、文字どおり話を進めてい くこの物語は、何かP.K.ディックを髣髴とさせてくれました。 「逆回りの世界」「ユービック」それとも「偶然世界」? 理不尽なものに振り回される主人公、マラカイコンスタント。 しかしながら、話はディックに比べると荒唐無稽な部分をそのまま 放置しているせいか、かなりに明るく、ここが、個人の好みがはっ きりするところでしょうね。 などと思いながら読み進んでいくと、そこには、皮肉に満ちたクラ イマックスと、それ以上に印象に残ってしまうエンディング。 最後の最後に運命から開放された主人公、という印象を受けるこの 終わり方こそが、ヴォガネットの真骨頂だったようですね。 kaname

「スローターハウス5」"Slaughterhouse Five or The Children's Crusade"(1969)

by Kurt Vonnegut Jr. (2000/05/07記)  この本は、昔から読みたかったのだが機会を得られずにいたので、 読む時には、かなり過剰な期待を伴っていました。  とはいっても、私がそれまでに得ていた情報は、 「時間を越えて戦場をさまよい歩く主人公」 「三人の兵隊が歩く和田誠調(あれ、本人だったかな?)の表紙」 「時代を反映しながらも、非常に個性的だと言われているカートヴォ ネガットJr.の作品の中でも代表作」(ちなみにヴォネガットの 作品とは、これが初対面」 と言った形でだったので、自分にとって、当たりとなるかハズレと なるかも、全然予想もつかなかったのですが。  さて、そんな形での遭遇だったこの「スローターハウス5」は、 いろいろな部分で予想を覆してくれて、非常に面白かったです。  まず、導入部で、この作品に関するルールが、ヴォネガット自身 が説明してくれる。これが、60年代から70年代の映画に親しん でいる人間にとっては特に、非常にビジュアルが明確に出てきて・ ・・、何かあの時代の原点的なものを感じてしまいました。  作品の進行している最中に、作品の主人公、もしくは第三者が、 いきなりスクリーンに向かっている観客、もしくは読んでいる読者 自身に向かって、前のシーンに関する説明、さらには「今となって は自分はこう思ってるんだけれどね。」的な話しっぷり。  これは、好きだわ。  そして、そのルールによって築かれた、読者、もしくは主人公に とっては時間は一本道であるのに、実際には、主人公の表面的な時 間を、縦横無尽に駆け巡ってしまうというトリック。(^^)  そして、(今まで提示された)作品全体に対する視点・思考を、 常に頭の片隅に置くことができ、それが、中弛みのなさと、テンポ の良さを産み出していく。  そして、その提示された世界の荒唐無稽さ=非現実さ加減が、第 二次大戦中の屈指の大虐殺の中のひとつと言われている、ドレスデ ンのそれが、いかに非現実的な話であるかを表現する上で、こんな にもマッチするとは。 やられました。 kaname

「擬態」"Mimic"(1942)

  by Donald A. Walheim (SF映画原作傑作選 創元SF文庫より) (2008/12/27記) 『ミミック』"Mimic" (1997)の原案短編。 (映画は未見。) 冒頭からのくだりで ある程度想像できてしまうもののラストは見事! これとほぼ同じような意図の映像をどこかで観た事があるのだけれど、 あれはこれが元ネタだったのか。

「怪人二十面相」(1936)

  by 江戸川乱歩 (2008/02/24記) 「怪人二十面相」(江戸川乱歩 全集23巻より)を久々に読みました。 初見は三十年以上も前。少年少女向けの単行本の二十面相シリーズが 母の実家にあって(というよりは従兄弟が持っていた)それを夏休み に遊びに行くたびに繰り返し繰り返し読んでいました。 しかしその後は読み返す機会も無く、今回は前述の「怪人二十面相・ 伝」を読む機会があった流れで久々に手にする事になった次第。 さて、久々に手に取ったこの少年少女向けのこの小説は、今読むと、 けっこう辛い。 優しい文章になっているのと今では子供視点で読めなくなったのの二 重苦で、なかなか読み進む事が出来ませんでした。 けれどもその中に、書かれた当時ならではの表現や江戸川乱歩ならで はの鮮やかなトリックの使い方の面白さに時々唸らされ、懐かしさと 相まって楽しく読む事が出来たのでした。 しかしこれは「鉄人28号」や「墓場鬼太郎」などがオリジナルのテイ ストを残しつつ表現できている今映像化してみるとけっこう面白いの ではないかなぁと思わされてしまったのでした。

「青銅の魔人」(1949)

  by 江戸川乱歩   (2008/02/24記) 「青銅の魔人」の江戸川乱歩全集24巻版を読みました。 シリーズの第一作「怪人二十面相」の頃と比べるとやはり キャラクタがよりしっかりとしてきてターゲットに対して 迷いが無くなっているなぁ。 それだけに淀みなく次から次への展開で、(まぁ既に「… 二十面相」で久々にたいしても免疫ができたせいかもしれ ないが)すすーっと読めました。 けど不思議だよなぁ。同じ児童書でも童話絵本の類いや手 塚初期作品なんかはなんの抵抗も無く読めるのに、なんで 「…二十面相」はあそこまで抵抗があったんだろう? 他の乱歩作品とのギャップに戸惑いすぎたのか? さて、他の二十面相作品も全集の23及び24巻には残って いるけれど、これ以上読むとやはり混乱してきそうだから、 「陰獣」の入っている3巻(「パノラマ島奇談」「一寸法 師」「虫」等)でも借りて心の平衡を戻さないと。

「美味礼賛」(1991)

by 海老沢泰久 (2002/09/22記)  嘘の中に客観的な真実をたくみ混ぜこむ事でさらなる大風呂敷を 広げられるという手法が、フィクションというジャンルのひとつの 真骨頂であるとすれば、逆にそれをセミドキュメンタリー的なもの に当て込む事で、どんな効果が得られるのか? そんな事は想像もしていませんでした。 それを見せてくれたのがこの作品。 もっと判りやすい言い方をすれば、有名どころでいうとイアン・フ レミングの007シリーズ。 このシリーズの諸作品中に展開される数々の大風呂敷は、実は話の 中に登場する数々の「物」のディティールに対するウンチクの応酬 によって、成功しています。 それがこのシリーズの一番の醍醐味なのですが、この手法を、半生 記という半伝記的なものに適用し、それが話の中に引き込んでいく ための手法として見事に成り立っているなぁと感じたのが、この 「美味礼賛」という、料理研究家の辻静雄の半生記的な話でした。 題材が題材というのもあって、食べ物に関するウンチク的な描写が 見事。 決して感覚的な言葉を使わず、料理本のように料理を描写していく この描写力は、ホント思わずイアン・フレミングを思い出してしま いました。 そして、ここに書かれている辻静雄という人に対する距離の取り方 も見事ですよね。 時には、個人のエゴにも見えかねないような部分も、こびる事も突 き放す事も、ドラマチックに描く事もせずに、それでいてしっかり と書き込まれている。 自分のやってきたことはなんだったのかと自問自答するシーンにお いても、自分が悩む理由と、それでも進むべきだと思い至る経過の 描き方がそういうスタンスで書かれているために、逆にいうと読者 に考えを押しつけず、判断させていくというスタンスにもなってい て、それが著者に対する好感を生みました。 それにしてもホント、何かを追求していくというのは、まず価値観 を持つために、自分の感覚に覚え込ませなくてはいけないというこ とは、私個人の信条でもあるので、何か嬉しくなってしまいました。 そして、それが故に、私も過去に何人もの人にけっこうひどい事を 言った事もある。それでも、それは言わなくてはならない事であっ たということを今でも信じています。 kaname

「エマノン」シリーズ(1979〜)

  by 梶尾真治 (2009/12/27記) 続いて梶尾真治の代表作ともいえるエマノンシリーズを読了。 しばらく中断していたと思ったこのシリーズ、続きが書かれていた事を今更ながら 知りました。 で、今回は復活したシリーズも含めてすべて読める徳間デュアル文庫版での読了。 以下はその作品リスト。 「おもいでエマノン」 ・「おもいでエマノン」 ・「さかしまエングラム」 ・「ゆきずりアムネジア」 ・「とまどいマクトゥーブ」 ・「うらぎりガリオン」 ・「たそがれコンタクト」 ・「しおかぜエヴォリューション」 ・「あしびきデイドリーム」※ 「さすらいエマノン」 ・「さすらいビヒモス」 ・「まじろぎクリィチャー」 ・「あやかしホルネリア」 ・「まほろばジュルパリ」 ・「いくたびザナハラード」 「かりそめエマノン」 「まろうどエマノン」 今までは短編(というか中編)ばかりだったけれど、書き下ろし長編も出たのね。 中断前に書かれていたのが「おもいでエマノン」(※除く)と「さすらいエマノン」。 ※の付いた「あしびきデイドリーム」で復活して、その後「かりそめ…」と「まろうど…」 という長編2編、計3編が初見。 …ううむ、我ながらまとめるのが下手だ…。 ということはおいといて感想。 まずは再見となる「おもいでエマノン」と「さすらいエマノン」。 最初の作品である「おもいで…」は見事に当時のSFしてるなぁという一編。 この作品は好きなんだよなぁ。 まぁ厳密にいえば、「おもいでエマノン」のほうは概ね好きな作品が多い。 が、「さすらいエマノン」に入った辺りで人間対自然という図式が繰り返されるように なって、正直ちょっと辛くなって来た。 好きではあるけれど変なループに入ってしまった…行き詰まってしまった感が出て来て… その後シリーズは中断される事になった。 で、今回初見となる作品。 「あしびきデイドリーム」はさすが星雲賞とっているだけの事はあるなという作品 でした。 ここでなんとクロノス・ジョウンターの布川輝良登場。 どうやら同一人物ではないようではあるが。 というところは置いといたにしても、それまでの行き詰まり感は見事に消えて、しかも エマノンしてる。 こりゃ冷却期間置いて正解だったなと思いました。 そしてシリーズ初めての長編「かりそめエマノン」。 これもまたうまく目先を代えてきたな。 さながら某作品と化すあたりはある意味梶尾真治の面目躍如という感じ。 ホント、あ、そう来たのか感が目から鱗で何か嬉しくなってしまいました。 続いての長編「まろうどエマノン」。 これはまた今の梶尾真治が組み合わさって良い感じになって来ている。 このシリーズで初めてウルっと来たよ。 梶尾真治の作品としては、らしいと思いつつも今まで異質感が拭えなかったこのシリー ズで初めて融合されたという感じ。 さらに前から振られていた比丘尼ネタもここで回収。 で、この2002年の「まろうど…」でまたもや中断中。 とはいってもネタはいろいろあるという話は出ているし、思い出したようにまたポンっ と出てくる新作を楽しみにできる今の状況を楽しみたいなと思います。

「サラマンダー殲滅」(1990)

  by 梶尾真治 (98/01/24記)  梶尾真治の作品を最初に読んだのは、いつ、どの作品であったかはも う覚えてはいません。しかし、何に惹かれたかは、覚えています。  「美亜に贈る真珠」や、「時尼に関する覚え書き」などの、時を題材 としたSFジュブナイル物の短編。これらの短編が、どうにも忘れられ ないものになってしまったからでした。こと、この分野に関する限り、 いくつもの「珠玉の名作」と呼ばれる短編を作り続けている人を私は、 知らないからです。  まあ、これらの作品の話は、後日機会があればまた書くとして、短編 作品は数多く読んでいるのだけれど、長編となると、読んだ記憶がない。 あるとしても、せいぜいオムニバス程度で、この人の描く長編というも のはどんなものだろうかと言うことは思い付きもしませんでした。  そんな時、この本に出会い、さらには、その本の帯に「日本SF大賞 授賞」なんて言葉を見つけたりしたら、これはもう期待するしかないじ ゃないですか!  そんな状態で読み始めたのが、この本でした。 そして、読んで「やられた!」と思いました。  実は昔から、「自分でも映画を作りたいなあ」なんて事を無謀にも 考えていて、それは「できるはずはない」と思いつつも、いろいろな 設定や、その映画の中で展開されるシーンなんかを、たまに思い付い ては、今まで考えていたことと繋ぎあわせて・・・と言うことをして いました。  その中で基本的な骨子として考えていた事が、この作品には見事な までに描かれていて、しかも素晴らしい出来になっている!  これは「悔しい」を通り越して、本当に嬉しくなっちゃいました。 ある意味では、「自分の考えていた作品の方向性」と言うものが、決 して間違ってはいなかったと言う意味で。そしてそれよりも大部分は そんな事は二の次三の次にしても、その作品によって描きだされた世 界に出会えたことに。  そして、さらにはその作品全体から得られる読後感というのが、梶 尾真治が書いてきた短編とまったく同じだと言うことに。  今の私の希望は、この作品を誰か映像化して欲しいと言うことだけ です。もしできれば、凄いものになるとおもう。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 かなめ

基本的な骨子として考えていた事

 私が頭の中でまとめていた話と言うのは、「復讐劇」、それも最後 には・・・。  この最後に与えるであろう印象が、私が考えていたことにかなり近 かったのですよ。微妙に違うところはあるのだけれど、それはこの作 品のネタばらしになってしまうので、ここでは書きません。

「黄泉がえり」(2000)

  by 梶尾真治 (2002/9/14記)  大抵の人たちの例にもれず、私も、良く電車の中で本を読んだり する。 それは、日本ではさして珍しい風景でもないのだけれど、人がそう いう状況に陥ったことは、今まで一度も観たことがない。 ましてや私も初めての体験。  通勤途中に読んでいて、涙が止まらなくなってしまったのだ。  それが、この「黄泉がえり」という小説。 既に「サラマンダー殲滅」に関してのテキストをここでも掲載して いる、梶尾真治の作品。  今度、『月光の囁き』や『害虫』の塩田明彦監督の手により映画 化されるとのこと。 大好きな梶尾作品の初映画化ということで、こちらも楽しみにして います。 (以降、作品の内容に触れます。) フィリップ・K・ディックであれば『逆回りの世界』。 山田太一であれば『異人たちとの夏』。 それを映画化したのが大林宜彦。 (ええと、ロメロは今回外しておきます。(^^)) その各々が、自分の作家性を十分に伸ばした作品を作っているこの 「死者の蘇り」の(もしくはそれに類似する)話であるが、例にも れず、この「黄泉がえり」も、梶尾真治の真骨頂たる部分が存分に 出ている作品であったような気がします。 まず、なによりもSFであること。 蘇生には(SF的に王道を走るような)原因があって、それに翻弄 される人がいて、その原因があるが故に、結末へと突き進む。 なんというか、今回は特に、小松左京的なSFしているなぁと思い ました。 そしてその上で、たぶんこの人がもっとも得意とする、「時間」が 関わった話であること。「時間」というと誤解されるかもしれない のでもう一言付け加えると「時間と記憶」と言ったほうがいいかな。 「美亜に送る真珠」では、ずばりそのものの時間旅行の実験台とし て旅立っていく主人公と、ちょっとした行き違いから永遠の別れを することになってしまった彼女との関係を、ふたりの持つ時間差と、 過去の記憶を交錯させることによって、ひとつの「瞬間」を描いて いく話であったし、「エマノン」シリーズは、太古の記憶を延々と 持ち続けているひとりの女性に関わる話、「時尼に関する記憶」も、 あ、これは「時」も「記憶」もそのままタイトルに入っているな。(^^; (ちなみに、前出の山田太一も、この「時尼・・・」と同じような題 材の「飛ぶ夢をしばらくみない」を書いている。これもまた面白い。) 他にも「百光年ハネムーン」は、年を取ってから、孫たちが新婚旅 行をプレゼントしてくれるのだがという話でこれも同じ題材。 さらには「サラマンダー殲滅」も、タイムリミットとしての「時間」 と、非常にSF的なエピソードである「空間溶融」が、これまた記 憶に絡んだものであったりもする。(動機も記憶に絡んでいるな。(^^)) まさに、この手のものに関して得意中の得意とする梶尾真治が、な ぜ今までこの「死者の蘇り」に関する話を書いていなかったのかが、 今思うと不思議なくらいである。 まぁ、そのような形で、これは絶対に外さないなと思っていたのだ けれど、まさにその通りのものができていました。 さらには、言葉や名詞の選び方や雰囲気が、まさに「昔のSF」を 髣髴とさせる部分も、心くすぐられるものがあるのだろうか。 舞台も、出身地であり活動地でもある熊本にしたことがいろいろな 意味で成功しているし、最初から「書かれるべくして書かれた話」 なのかもしれない。 そうだなぁ、人に説明する時は、「小松左京版『異人たちとの夏』」 という説明の仕方が一番ぴったりくるかな。(^^) kaname

「波に座る男たち」(2005)

  by 梶尾真治 (2008/08/12記) 「波に座る男たち」(梶尾真治)を読みました。 いやホントこういう話はうまいなぁ。>梶尾真治 ほど良いブラック感とシチュエーションを作るお膳立てのうまさ。 お膳立てが揃ったところで展開が判ってしまっても、逆にその餌に 釣られて一気に読ませてしまううまさ。 この手のネタならいつものように短篇にしてしまうところをキャラクタ たちに引っ張られたのだろうなぁ。この長さになったのは。 それでも、話の引き際は見事。 ページ数が残り少なくなっていくに従い落ち着き場所はそこだろうなと 思いつつも、確かめるまでは判らない。 加速されるペース。 で、加速の付いたまま終われる事の気持ち良さ。 こういった泣かせるだけじゃない梶尾真治の真骨頂のほうもぜひとも 映画化して欲しいところだけれど、テーマがテーマだけに…ってところも らしいといえばらしいのか。 やはり次に映画化があるのならぜひ「サラマンダー殲滅」をという ことになるのかな。

「新編 クロノス・ジョウンターの伝説」(2005)

  by 梶尾真治 (2005/11/08記) 「新編 クロノス・ジョウンターの伝説」を読みました。 出版当時からその存在を知っていたにも関わらず、読む機会、というよりは本屋で出会う 機会がなかった作品。ソノラマだからなぁ。なんてこともあるんだろうけれど。 まぁそんなうちに映画化なんて話もあって・・・とこういった余談はこの辺で。  時を駆ける梶尾作品はそれこそ梶尾真治のひとつの真骨頂。(もうひとつの真骨頂は 言わずもがなオバカネタ。)  その中でも私の中の一番はやはり「亜美へ送る真珠」であり、それはこの作品を読んだ 今でも変わらない。(次点は「時尼に関する関する覚え書き」か。) しかし、連作という形であれば、これは一番のお気に入り作品になるかも。 第一篇の「吹原和彦・・・」は三作品中シチュエーションや手法としてはある意味一番 オーソドックスながら唯一の哀しさ漂う作品。それでも吹原は最後満足したのだろうなぁ。 ところが二篇めの「布川輝良・・・」からは時の神クロノスがいろいろな意味で介入して くることで違う結末を用意してくれる。 そして最後の三編め「鈴谷樹里の軌跡」。 前二篇を「体験」したクロノスが、最後に小粋なプレゼントをしてくれました。 いやぁ、この構成こそが梶尾真治の真骨頂。 本当に引き出しの多い人だなぁ。 しかし、この三編目の「鈴谷・・・」ベースの話だけを映画化して、これを再現できるの だろうか? (まぁプラズアルファな話は着いているみたいだけれど。) なんてことも少し思いながら、まずは堪能させていただきました。 P.S. しかし命名理由がここまでストレートだとは思ってもみませんでした。(笑)

「この胸いっぱいの愛を」(2005)

by 梶尾真治 (2005/11/08記) 『この胸いっぱいの愛を』の原作者によるノベライズ版、「この胸いっぱいの愛を」を 読みました。  映画観てからのほうが良いとは言われていたのですがつい。(笑) 原作「クロノス・ジョウンターの伝説」を先日読み、さらには映画のキャストと あらすじ(と評判)が頭の中に入っている上だったので、かなり具体的なイメージが ある上に、元々梶尾真治自身の(客観的な)作風がイメージを作りやすいもの だったので、かなりの早さでぐいぐいと読むことができました。 そして・・・。 やはり凄いわ>梶尾真治 たぶん映画化する上で作られた設定の上にこれを持ってきたかと言うラスト。 たぶん言葉で語ってしまうとそれほどにも思えないかもしれないかもしれないものを、 文章でポンッと投げてここまで泣かされてしまうとは思いもよらなかった。 具体的なキャストイメージがあった上でこそ、余計にくるものはあったかな。 ここで視点をこうしてこうやることで・・・なんて技術的な話で片付けることも できるのだけれど、その手際を見せられるとやはり凄いと言わざるを得ない。 またまたやられました。

「つばき、時跳び」(2006)

  by 梶尾真治 (2009/12/23記) 「つばき、時跳び」を読了。 少し前に、ハインラインはある時期からずっと「夏への扉」を探し続けて…、否、繰り 返し続けていたんだ云々の話を書いたが、同じ見方をするとすれば、梶尾真治はある 時期から「美亜へ送る真珠」を繰り返し続けているという言い方が出来るかもしれない。 この人、梶尾真治の真骨頂はコンスタントなレベルでウェルメイドのバカSFと泣ける SFをコンスタントに書き続けている事にあると私は思っているが、ここ最近特に私が 目にするものは後者をどんどん突き詰めているように感じている。 とは言っても私が梶尾真治の追っかけが出来ていたのは2000年くらいまでで、本屋に 足を運ぶという習慣が無くなってからは、まぁ今回のように2006年の作品を今になって 読んでいるという状況だから、実際には違うのかもしれない。 さて、枕はこれくらいにしておこう。 もし今まで私が語った、もしくは書いたものに少なからず感じるもの共感するものが あった方はこの文章以降は一旦読むのを止めてこの作品を読む事を強くお薦めする。 もしくは、当然の如く未見ではあるが近々上演される事になるこの作品の舞台化された ものを観るという形でも良いかもしれない。(作品タイトルで検索すればその詳細は 判るのではと思う。) ここから書く事で決してこの作品のインパクト阻害するような事は無いが、今回私が 受けたものと同じ1stインプレッションの楽しみを場合によっては奪う事になるかも しれない。 …ということで少し改行。 最初は…というよりはもうほとんど終わりに近いところに至るまで、「相変わらず うまいなぁ」程度に思っていた。 例えば過去と未来の対比のさせ方と、それぞれの時代の魅力の追体験のさせ方。 五感を刺激させられながら長編ならではの時間をかけた感情移入のさせ方は、同じ 主題を違う形で延々と書き続けて来た梶尾真治のもはや職人芸とも言えるものであり、 この作品も例に漏れず、何度も同じ主題を観て来たにもかかわらず新鮮さを失って いない。 ただ一方で毎回泣かせられてきた身としては、たまにはこのテンションで終わるのも 良いかなという感じになってもいた。 話の中に散りばめられたものから、どういう形に落ち着くかというのが見えていたから。 そして、その予想は予想通りの展開を見せる…。 そう、展開は予想通りであった…。 ただし、にも関わらず、予想に反して突如涙腺が決壊した。 これはもう見せ方のうまさとしか言いようが無い。 シチュエーションだけ説明しても分からない。 これはもう自分の想像以上に登場人物たちに感情移入していた、させられていたという こともあるだろうし、それまでの話の起伏から突如として逸脱したからという展開の させ方のうまさもあるだろうし…。 なんてことを頭の片隅で考えながらも、…相変わらず卑怯な…なんて事を思いながらも… もうその流れから自分の身を離す事も出来ず溺れていく快感に身を委ねるしか無い… それがこの梶尾真治という人のうまさなのだという事が分かっていても…もしくは 分かっているからこそ余計悔しさと至福感を味わっていた。 それも、ある意味群像劇的な形で感情を揺さぶられる「黄泉がえり」や「クロノス・ ジョウンター…」とは違い今回は一点集中な長編という形で弄ばれた感情の果てである から、その効果たるや予想できていてもおかしくなかったのにかえって盲点になって いた。 そう、この人には「サラマンダー殲滅」でやられたんだよなぁ。何故やられたのかを すっかり忘れていたよ。 で、まぁ今度舞台化されたりもするのではあるが、個人的には映像で観てみたいなぁ なんてことも強く思ったりしています。 それも、大林宣彦とか岩井俊二とか中島哲也、アニメーションなら細田守が良い。 スタイリッシュな技法使いまくりで映像美も奏でられる人の手で。 もしそんな至福の時間が得られる機会があれば、そのとき私はどこかの劇場のスク リーンを前にして涙しているに違いないと思う。

「悲しき人形つかい」(2007)

  by 梶尾真治 (2009/12/27記) まぁ揺り返しという事で「悲しき人形つかい」を読了。 祐介の親友機敷埜風天は天才発明家。 しかしながら常識を持ち合わせないが故にアパートを追い出され、代わりに不動産屋に 紹介された格安物件のある街は2つの暴力団による抗争でゴーストタウンと化していた。 そして…。 というわけで、想像通りの『用心棒』設定。 そして梶尾真治お得意の、どちらかといえばバカSFな世界。 まぁ楽しませていただきました。 途中で展開はほぼ分かるしそれが予想通りではあるのだけれど、ちょっとだけ斜め上の 嬉しい展開があったり、本当に期待しているところは外さなかったりで、まぁエンター テナー梶尾真治節炸裂の楽しくて不謹慎な作品でした。真骨頂という奴だな。 そしてまぁこれこそホントに舞台化か映像化してみたらホント面白いぞ。 予想通りであるが故に役者(特にとある役)の演技を心ゆくまで楽しめる構成。 そうだなぁ、妄想キャストするとしたら、例えば …っとこの辺でやめておこう。 あえていうとすれば雇われに徹した本広監督とか、中島哲也とかCGと役者使いとコメディ のうまい人辺りが内容改変せずに手がけてくれると面白いかも。 などと妄想しながら読んでいました。

「あねのねちゃん」(2007)

  by 梶尾真治 (2010/06/13記) いつか読もうと思っていたもののまだ読んでいなかった「あねのねちゃん」をこのたび 文庫版が出たという事で購入し、読了。 (以降内容に触れるので注意) いやほんと、最初はちょっと不思議な…それこそファンタジーな始まり…今回の文庫版で 新井素子が解説を書いているのもよく判る…ものだったのがある瞬間にして一転ホラーっ ぽい雰囲気に…。 まぁここまでは割とよくあるさ。 けど、そこからさらにコメディにまで発展し、最後には泣かせてしまうという芸当はやは り梶尾真治の職人芸と言わざるを得まい。 いや、ある意味バカSF化した時点でいつも泣かされてるだなんていうことはすっかり忘れ ていたさ。 もう感情を弄ばれることこの上なし。本当にうまい!としか言いようが無い。 で、これも本当に映像化しないのかなぁという方向に毎度頭が行ってしまうのも梶尾真治 なんだよなぁ。 これこそ本当に低予算でやっても(というよりはむしろ低予算でやったほうが)面白そう な気はする。 いつか、こういった梶尾真治の作品群が続々映像化されるような日々が来る事を密かに楽 しみにしていよう。 そしてその暁にはこの作品も必ずや入っている事を楽しみにしつつ。

「クロノス・ジョウンターの伝説∞インフィニティ」(2008)

  by 梶尾真治 (2009/12/26記) こんなものも出ていたのねということで、「クロノス・ジョウンターの伝説∞インフィ ニティ」を読了。 掲載作品は下記6編 「吹原和彦の軌跡」 「栗塚哲夫の軌跡」※ 「布川輝良の軌跡」 「鈴谷樹里の軌跡」 「きみがいた時間 ぼくのいく時間」※ 「野方耕市の軌跡」※ 「新編 クロノス・ジョウンターの伝説」を読んでいるので※を付けた3編が初見。 まず再見の3編だが、これを読んで今更ながら『この胸いっぱいの愛を』の梶尾真治 ノヴェライズの うまさ…というよりは原作愛を感じた。 映画からのラスト改変の元ネタはここにあったのね。(ホント今更) そして、どれもウルウルと来てしまったが、初見の時は「吹原…」が一番気に入って いたのが「布川…」に変わっていたのは、まぁその時々の心情なのだろうなぁ。 で、初見の3編 「栗塚…」は他編と比べると思いのほかあっさりしていたような気がするのは、やはり 主人公のキャラクタに寄るものか。 「きみがいた時間…」はこの中ではやはり異質だったな。かなり舞台を意識して 書かれたような感が強いなぁと思ったら、やはり本当に意識して書いた部分があった ようなのである意味納得。 異質感は唯一クロノス・ジョウンターを使わない…というよりはよりご都合的な時間 遡行してしまうからかも知れない。 けれど、それでもひきづる感は十分にあるんだけれどね。(その余韻はまた舞台的 なのだけれど。) で、最後の締めたる「野方…」はある意味すべてをまとめるための一編。 開発プロジェクトの長である彼の時間遡行を他作品と絡めてという形で、静かな幕 引きを狙ったものだと感じた。 ある意味まとめることの方に気がいっているような気はする。本人のけじめとして 必要だったのだろうななどと妄想。 で、こうやって改めてすべてを読むと、元々の「クロノス・ジョウンターの伝説」 たる「吹原…」の印象が薄くなった原因も分かってくる。 「美亜へ送る真珠」的な終わり方をそう何回もやることはできないので、結果として クロノス・ジョウンターの持つシステムの悲劇性が薄くなっちゃったのだろうなぁ。 彼の悲劇(と対比的な都合上悲劇と書くが)のほうがかえって現実味が薄くなって しまったもの。 そして「きみがいた時間…」や今回読んだものには入っていない「この胸いっぱいの…」を 読んだ事で改めて梶尾真治という人のメディアミックスまで含めた作家としての うまさを感じました。 オリジナルで書いてもらえば、また面白いものが出来るんだろうなぁこの人は。

「戦うボーイ・ミーツ・ガール」(1998)

  by 賀東招二 (2009/06/14記) 「フルメタル・パニック!」のアニメ版1話と2話を挟んで、その原作である表題の 作品を読みました。 うーむ、こういうものは「花咲ける青少年」的なものであれば受け入れられるのだけれ ど…、やはり絵柄が受け入れられないからかなぁ…。 それとも設定的に現代と近すぎるのにこの展開だからか。(まぁ歴史改変ものだという ことは知ってはいたのだけれど。) …などと観ていたアニメの1話も、この原作のほうは割と抵抗無く受け入れられた。 かなめ視点のある部分はちょっと危ういけれど、それ以外のパートが増えてきてからは 実に文章が生き生きとしている。 まぁこれならハリウッド映画化なんて話も納得できるな。 それと比べて弱かった部分を意図的に補強しているのであろうアニメのほうは、まだ2 話までしか観ていないけれど、うーんだからといってもったいない原作の使い方をして いるなぁ。 こういう扱いをしなければ、もっと原作の評価は高いだろうに。

「放っておけない一匹狼?」(1998)

  by 賀東招二 (2009/06/20記) ということで、「フルメタルパニック」の原作短編も借りられたので、さっそく読了。 その前に1期アニメを10話まで鑑賞。(中途半端なところまでなのは原作読むのを優先 しているから) …で、 正直短編はスルーしようかと思っていたのだけれど今回読み始めた理由は、短編原作な アニメ版が予想外に面白かったので。 長編1作目「ボーイ・ミーツ・ガール」に関しては、原作小説が私の好きなテイストだっ たのに対し、アニメ版はいろいろと肌に合わない部分(キャラや、原作の改変に対する スタンス)が多くてちょっと…と思っていたのだけれど、アニメが短編パートに入って からは別作品か?と思えるくらいハマっていたのでもしやと思い…まぁ読んで良かったわ。 短編に関しては内容ののせいもあるのかなぁ。アニメのほうが生き生きとしてる。原作 改変はあまりしていないのだけれどネタがネタだけにメディアとしてあっているのだろ うなぁ。(逆に長編になると、やはり…) ううむ、だいぶ散文化してきたので、長編2作目「疾るワン・ナイト・スタンド」を読 み始めることにします。 そうそう、書こうと思っていた事をそもそも忘れていた。 短編に関しては典型的なシリーズものライトノベルなノリだというところが受け入れ やすかったんだろうなぁ。 長編2作目はどうなっているのか? アニメとは融合しやすくなっていそうな気がするけれど。

「疾るワン・ナイト・スタンド」(1999)

  by 賀東招二 (2009/06/21記) 一巻一巻感想書いていくのも、続け読みしながらだとちと面倒くさい。 まぁけどペース落とさないと借りてる分あっと言う間に読んでしまうからなぁ。 というわけで、「フルメタルパニック」の長編2冊目読了。 短編1冊分挟んだせいか「戦うボーイ・ミーツ・ガール」よりもだいぶこなれてきた。 世界観が確立されたという感じか。 1冊目の学園パートと戦場パートのアンバランス感はなくなり…個人的には1冊目の ほうが好みなのだけれど…その分学園パートというかかなめパートが面白くなり、これ ならばアニメ化されたものとのアンバランス感も消えるだろうなという感じか。 逆に、ハリウッド実写化して面白いのは1冊目だけだろうな。 1冊目のそういう部分の面白さは弱くはなってはしまったけれど、必要な毒=リアリティ はまだ残っている。 それがこの作品の魅力なのか。 アニメ3期目がR-18指定なのはそのせい?それとも単にエロ化してるだけなのか? まだまだ先は長いけれど楽しみです。

「揺れるイントゥ・ザ・ブルー」(2000)

  by 賀東招二 (2009/07/04記) ようやく借りることができた「フルメタル・パニック!」長編三作目、そしてアニメ 1期の最終パート。 こういうの好きだなぁ。 学生の頃、どんなバカ話してどんな妄想していたのかが手に取るように判る。 ただ、そういう肝の部分をアニメのほうはことごとくスルーしている。 まぁそれが何を言っているのかが普通は判らんので一般化するためにスルーしたの だろうけれど、それこそがSFの醍醐味なのに、そういうところは分かっとらん。(笑) それはさておきこれの次作長編を先に読んだからか余計にまだ模索している感がある わな。 一気に読ませてはくれたけれど次作ほどの一直線感は少し足りない。 けれども、まだイントロダクションという観点で見れば問題はない。 潜水艦アクションの何たるかを全部詰め込んでいるし(まぁそれが故にのダイジェスト 感)、そこに持っていくが故のあまりにもあからさまな進行に誰もブレーキをかけない ところもある意味リアルといえばリアルか。 けど、うまさも必要だよなぁ…とここで思わせての次作と見れば…。 さて、ようやく繋がった。 残りの既刊はすべて借りたし、あとはTSR観た後に一気読み…したいところだけど そこは抑えて片道一時間増えた通勤時間の共には最適か。

「同情できない四面楚歌?」(2000)

  by 賀東招二 (2009/06/27記) 短編集「同情できない四面楚歌?」というよりは、この中の一編、「エンゲージ、シッ クス、セブン」、既に観終えたフルメタ一期で使われたこの一編の読み終えての感想。 アニメ版はまぁこんなものかと観ていたのだけれど、原作読んで見方が変わった。 こんなに面白い話を、なんで無理矢理超ダイジェストしてしまうのだ! アニメ初見時点でもやや説明不足過ぎないかとは思っていたのだけれど、原作のパーツ は使っているもののそこで描かれていなかった部分こそがこの話の本質だろうに。 こんなんだったらこの時点でアニメ化しなければ良かったのに>この話 なんて怒りが沸々と沸いてきた一編でした。 (当然原作にではなくアニメのほうにね。>怒り)

「終わるデイ・バイ・デイ」(2000-2001)

  by 賀東招二 (2009/07/01記) アニメ版でいうところの「フルメタル・パニック! The Second Raid」の原作にあたる 表題作も読了。 先日の「踊るベリー・メリー・クリスマス」より前の話にあたる。 その先日の話で「格段に面白くなっている」と書いたが、こちらも十分面白い。 しかも、ちゃんとそれまでのものからの転調という重責も見事に果たしている。 こうやってみてみると、1期が「起」ふもっふが「承」TSRが「転」でここから一気に 「結」へと向かっていくという形のアニメ化というのも結構考えられて作られたのだなぁ と思った。 まぁここからが長いのだけれど4期はそれこそ4クールくらいかけてやってしまっても いいんじゃないか。1期が2クールで長編3本+5話くらいだったし。 さて、これをどう映像化するのか。 TSRが楽しみです。

「踊るベリー・メリー・クリスマス」(2003)

  by 賀東招二 (2009/06/25記) 本当は刊行順どおりに読みたかったのだけれど、いまだ借りられない状態なので途中 (長編2本といくつかの短編集)をすっとばして、本作に突入。 これがフルメタ4期にあたる作品となるのか? (ということで原作未読者にとってはネタバレ注意) いままでと比べて格段に面白くなってる! 曖昧だったキャラクタの立ち位置も徐々にはっきりしてきていて、そして自分たちの 立ち位置が分かったキャラたちが、その能力を遺憾なく発揮。 そして、何よりも今まで不満だったブラックテクノロジーのレベルが何故抑えられて いたのかがはっきりする。 さらにステップアップした脅威を見せるためだったのね。 人間サイズのASやデ・ダナンの性能を凌駕する兵器。 今までと逆転した立場となったことで逆に発揮されるキャラクタたちの能力。 個人的には人サイズのASがツボでした。 そっちに行き着くよな。 (まぁ巨大ロボット路線でいきなり殺人アンドロイドというパターンはどこかでも あったけれど。(笑)) などと書いてて、基本的な展開はアレと同じじゃんという暴論が思い浮かんでしまった。 あちらの元は遺産から発掘されたオーバーテクノロジーだし、かたや学園ラブコメとの ミックスに対し、お色気ギャグコメディ路線とのミックスだし。 まぁ妄想はそれくらいにして、ここから先は本当に面白い事になりそう。 未だに借りれない分はアニメで補完してこのまま一気に進んでしまうのもいいかなと 思い始めている次第。

「つづくオン・マイ・オウン」(2004)

  by 賀東招二 (2009/07/07記) さて、いよいよ佳境に入ってきた「フルメタル・パニック!」長編6作目。 (以降一応ネタバレガード) 『帝国の逆襲』じゃん! タイトルの「つづく」は、まさにこのことだったのね! 「転」はこれのほうだったのね! あちらのお姫様はハン・ソロだったけれど、こちらはそういう意味では定番でかなめだが。 これは、アニメ4期はここで終了して以降製作無しというパターン希望だな。(意地悪) それにしても、(殺すべき時になかなか殺そうとしないという意味では)フラストレー ションが毎回溜まるアクションものが多い中で宗助というのは理想的なキャラクターだな。 それはテッサや他のプロフェッショナルなキャラクターも含めて。 というよりは作者自身がそういう思いあるのだろうな。 それでいて主要キャラクタは殺さないでいるというエンターテイメントは守るうまさ。 さて、これからが本番です。

「燃えるワン・マン・フォース」(2006)

  by 賀東招二 (2009/07/07記) 続いて「フルメタル・パニック!」長編7作目。 (以降ネタバレガード) まぁ、こうなるだろうなという展開を期待どおり見せてくれる。 さらに、ナミという飛び道具まで使って。 まぁ彼女は飛び道具であると同時に、この物語の残り時間が少ないことも示してくれる。 (と、これはやや妄想か) さあて、これでクライマックスのために使いそうな伏線は「アラスカ」と「共鳴」と いうことになりそうだな。 果たしてどんなものを用意してくれているのか?

「つどうメイク・マイ・デイ」(2007)

  by 賀東招二 (2009/07/08記) 「つどうメイク・マイ・デイ」読了。 前作のかなめはちょっと危険な方向に行ってるかと思ったけれど、そうでもなかった のね。 と思っていたのにレナードと共鳴してまた危険な引き。 アーバレスト後継機は正統派ロボットアニメしてるなぁ。Al(アル)の口の周り具合も ますます調子が出てきて良い感じ。 そしてアレを応用した武器の発展のさせ方もうまいな。すでにベヘモスがその先鞭を 付けてはいたのだけれどそこまでは思い至りませんでした。 これで超合金Zと光子力があれば…。 今までのキャラクタたちもまた生かされていてうまい具合に廻っている。 案の定最初に出てきたあの女の子もキャラとして生きてるし。 話の展開としてもテッサを始めとしてまたまぁ良い感じ。 しかしこの調子だとハリウッド実写は「HEROS/ヒーローズ」パクリだという奴が出て きそうだ。(笑)

「せまるニック・オブ・タイム」(2008)

  by 賀東招二 (2009/07/09記) ということで「フルメタル・パニック!」長編9作目。 そして今のところ最新刊。 ここに辿り着くまで長かった… ようやくすべての役者が揃い、クライマックスに向けての舞台も揃った。 もはやアマルガムもただの傀儡でしか無く、敵味方もきれいにすっぱりと分かれ、 舞台も始まりに戻りつつある。 また、正邪はまだ混沌のようにみえて詰まる所目的はひとつ、いやひとりになりそうな 気配。 そして、まだ「アラスカ」と「共鳴」の大仕掛けは残っている…はず。 世界は元に戻り、かつての死者生者敵味方がそのかつての因縁を超えて会う機会という ものがあるのだろうな…たぶん。 まぁリアルタイムで読んだ人たちほどではないけれど、次刊、最終刊が待ち遠しい。 まぁ、とりあえずは…疲れた…。

「ずっとスタンド・バイ・ミー(上)」(2010)

  by 賀東招二 (2010/07/18記) このシリーズもついに最終話。 私は去年から読み始めたのだけれど、前作からでも二年、シリーズ1話 からは世紀またぎになってしまったこの作品はずっと読んでた人には本 当に待ち望んでいたこの瞬間なのだろうなあ。 とはいっても、まだ下巻が残っているのだが…。 (以降下巻予想込みのネタバレあり) これ、下巻で終わるのか? という部分と もう、最後の対決…というか下巻のネタフリはもう全部提示されてしま っているじゃないか というところで、下巻に対する期待と不安が今入り交じっている。 前者は、まだ残された謎の多さと予想される最終回の段取りに対して、 上巻と同程度の厚さに収まるように思えないから。 後者は、けど最終対決の段取りは済んでるんだよね。 誰かさんはやはり生きているみたいだし、かなめを目覚めさせる鍵はあ のメモリーデバイスの中にあるであろうクラスの皆からのメッセージだ ろうし、妖精の羽はある意味万能だし、アルに施された最後のチューン アップ…バスの増強はアルを完全自律させるための最後の一押しだし、 プロローグはエピローグを完全に意識したものだし。 ただ、それは下巻に引っ張るために物語をねじ曲げたりしていないとい うことでもあるんだよなあ。 積み上げてきたものの延長線上で話はちゃんと進んでいる。 それは、この作品に惚れた理由…不自然な命の駆け引きはしない…と同 じくらい…いや延長線上…で存在するシリーズ通しての骨で、それが最 後まで貫かれるのだろうな。 何はともあれ8月20日発売の下巻が楽しみです。

「怪人二十面相・伝」(1989)

  by 北村想 (2008/02/16記) 年末に金城武主演で公開される映画「K-20/怪人二十面相・伝」の 原作「怪人二十面相・伝」を読みました。 (以降ネタバレもあります) その名の通り江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズの怪人二十面相を 主人公として描いた作品。 ちなみに本作中で描かれているのはその誕生から「怪人二十面相」 まで。「…・伝」としては続編として「青銅の魔神」編までありま す。 江戸川乱歩的な美学に彩られた物とはちょっと離れている感があり ますが、まぁそれは原作がそもそもそうではあったからそれはしょ うがないか。当時の世相と作中の出来事をよりうまく絡ませて二十 面相視点で描かせているあたりが面白いなと思いました。 二十面相も「怪人」というよりはより普通の人間として描かれてい るし、対する明智小五郎もどちらかといえばルブランの書いた「ル パン対ホームズ」におけるヘルロック・ショルメス(=シャーロッ ク・ホームズ)のような描き方。 ルブランのルパンシリーズは好きで社会人になってからも文庫でい ろいろ買い直したりして読んでいたものの、怪人二十面相シリーズ は読んでから既に30年以上経っているので「…伝」も含めてせめて 「青銅の魔人」くらいまでは読み返してみようかな。 そのうえで、これをどう映画化するのかを楽しみたいなと思います。

「怪人二十面相・伝 青銅の魔人」(1991)

  by 北村想   (2008/02/24記) 「怪人二十面相・伝」に引き続き、その続編「怪人二十面相・伝 青銅の魔人」を読みました。 前作の読後に感じた通り、この続編を以てして初めて一つの作品と なる作品でした。 前作(戦前編)と今作(戦後編)が奇麗に対になりつつ、前作での 布石が回収されていく様はむしろ前作より爽快感が強かった。(ま ぁ前作はある意味話半ばで終わっているようなものだからそれはし ょうがないか。) やはりオリジナルの「二十面相」が持っているものはどうしても超 えられない部分があるものの、そのフォロワーとしてのひとつの解 を読んでいくのはなかなか楽しいですな。 こちらも現実の世相・人物を交えつつ、ある意味オリジナルより地 に足が着いたものとなったひとつの世界を形成しています。それが 良い部分と悪い部分両方を兼ね備えてはいるのですが。 ちなみに、映像化するのならこちらのほうが山崎監督向きかな(っ て『K-20』は佐藤嗣麻子監督ですが) 映画の方はどうするんだろうなぁ。こちらは続編要素として残して おくのかなぁ。

「ニューロマンサー」"Neuromancer"(1984)

by William Gibson (96/09/29記)  今となっては説明する必要もなくなってきた、SFサイバーパンクの記念碑 的な作品。  冒頭の章、Chiba-Cityでは、映画『ブレードランナー』を髣髴とさせる雰囲 気で話は進んで行きますが、逆にアイデアはギブスンが昔から暖めていたもの。 ですので、映画館で『ブレードランナー』を観たギブスンは悔しがったと言い ます。  しかし、この作品、発表されてから時間が経つにつれ、その世界観が「『ブ レードランナー』よりもより現実的な近未来観であった事に気付かされ、その 先見性には驚かされます。  破壊された神経を直す代償として、仕事を依頼されたカウボーイ・ケイスと そのボディガード、さらには・・・のモリィ。そして仕事をするために集めら れた人々とその真の目的。  魅力的な世界観と、魅力的なキャラクターを要する傑作だと思います。

「幼年期の終わり」"Childhood's End"(1953)

by Arthur C.Clarke (2000/01/22記) 「幼年期の終わり」"Childhood's End"(Arthur C.Clarke,1953)を 久々に読みました。 この作品、本来の作品としての面白さも然る事ながら、新井素子の 作品群におけるイメージのかぶさった部分の多さも、興味深く読め るんですよね。 Overloadの存在や意義、そして人類の可能性なんて部分に関しては 「絶句・・・」がほぼそのまま踏襲しているし、「大きな壁の・・・」 の壁を作った本当の理由についても然り、「いつか猫に・・・」の彼 と主人公たちの関係も同じくだし、最新作「チグリスと・・・」にも 既視感を覚える部分も無いことはないし。 などと言い始めると、ありとあらゆる作品について、縦横無尽にそ の関係を追いかけることにも繋がりかねないので、これくらいでや めておきますが、読書でも映画鑑賞でも、ひとつの分野について根 気強く付き合いを続けていると、こういった密か(でもないか)な 発見もまた喜びの一つとして加わっていくことが、ある程度年を重 ねた今、改めて、「良かった」と思わせてくれます。 まぁ、それは置いといて、もうそろそろこの作品も映画化なんて話 はないものかなぁ。そういえば、『ID4』や『ディープ・・・』に も、この作品に既視感を覚えるような・・・ kaname

「大戦勃発」"The Bear And The Dragon"(2000)

  by Tom Clancy (2002/05/26記 at FMOVIE 19番会議室) トム・クランシーの小説「大戦勃発」を読みました。 [新潮社文庫/原題"The Bear And The Dragon"(2000)] 最終的には、それらすべてが軍事オタクの真骨頂たるクライマック スに繋げるための布石とはいえ、本心なのか舞台作りなのか図りか ねる部分が多々あって、そういう部分では、現実とあまりにも近い 事が今回マイナスに作用しているなと強く感じました。 たしかに、主人公がアメリカ大統領となってしまった以上、虚構を 作りだすための方便として、そういう部分を描かなければならない のだけれど。 テクニカルな部分がリアルに近いことで、その部分まで正論と捉え てしまう人がいないかというのが少し心配。 「そういう部分」というのは、「如何にアメリカとアメリカ人は正 しいのか」と言っているように思えるような、諸情勢や諸問題に対 する主人公の捉え方。 しかしながらそこを過ぎれば(文庫で約500ページ3冊分)、クラン シーの真骨頂たる「リアルな現代戦」の畳み掛けるようなクライ マックス。(同約500ページ) 「日米開戦」のラストに匹敵するような(もしくはあれが伏線で あったかのような)箇所も見受けられ、この作品が、「日米開戦」 「合衆国崩壊」と続いた三部作の終わりである事を意識させられま す。 今、これをどう捉えるかが非常に難しい状態ではありますが、まず は、ようやくこの話もひと段落着くだろうということで、ほっと しているところです。 kaname(CXE04355)

「カーテン ポアロ最後の事件」"Curtain: Poirot's Last Case"(1975)

  by Agatha Christie (99/01/29記)  私は、"favourite database"にもあるように、アガサクリスティ の長編小説が大好きなのですが、今回は、その中でも1、2を争うほど好きな、 「カーテン」について書きます。  推理小説を話す際の禁じ手、内容にも一部踏み込んではいますが、私は、ク リスティがその66作も書いたその長編は、決して推理小説として書かれたの ではなく、「推理小説と言う形を使って書かれた恋愛小説」として書かれたと 思っているので、その点はご了承ください。  確かにクリスティの書くものは、推理小説としても、なかなか凝ったアイデ アはいろいろあったのですが、そんなものは枝葉に過ぎません。この66もの 様々な愛憎劇を、「単なる推理小説」として捕らえてしまうには、あまりにも 文字どおり愛に満ち溢れていますから。 さて、そうは言っても念のため改行しておきます。  さて、この「カーテン」ですが、ここに及ぶまでに、この小説の主人公、 エルキュールポアロが関ってきた話、"The Mysterious Affair At Styles" から、この「カーテン」の前の事件まですべてにおいて、常に物語の登場人物 に対して、あくまでも傍観者の立場でしかありませんでした。  彼はその職業的立場から、実にいろいろな人間の愛憎や運命の皮肉を観つづけ ながらも、常に真実のみを追い続けた。  それは、第一次大戦中にベルギーからイギリスに疎開した時にヘイスティン グス大尉と出会って以来、本当に長い旅でした。  が常に傍観者であり続けたその旅の果てに、自らも愛すべき友が巻き込まれる 事件に遭遇してしまい、と言う皮肉。  この話にも、当然謎解きはあるのですが、そんなものはどうでもいい。事件 と言うものが常に身近にあったポアロにとっては、いつ起こってもおかしくな い事がついに起こってしまい、それまでのポアロの半生にとって、最大の皮肉 となってしまったこと。  私は、本当にこの小説を「推理小説」として扱いたくはありません。同時に、 ポアロの、ミスマープルの、トミー&タッペンスの関ってきたすべての話達も、 推理小説とは思えないのです。  クリスティが本当に描きたかったのは、愛憎する人たち、そしてそれでも愛 おしい人たちの話を書きたかったのだと。  それを、この「カーテン」は確信させてくれました。自ら作り出した最愛の 傍観者を、最後に主役に据えたことで。 クリスティの描き出したすべての登場人物に愛をこめて。 かなめ

『ブレードランナー2』"Braderunner2"(1995)

  by K.W.jeter (96/09/04記)  ついに邦訳が刊行された『ブレードランナー2』。 これは、リドリースコット監督の映画『ブレードランナー』の続編で、同監督 がいずれ監督するであろうと言われている話の原作となる小説です。  物語は、映画『ブレードランナー』のラストから約一年後、前作映画での謎 のひとつ、「六人目のレプリカント」を追うために、死にゆくレイチェ ルと残り少ない日々を過ごしているデッカードが呼び出されるところから始ま ります。  内容に関しては、映画化された際のお楽しみにかなり触れることになってし まうのでここでは話せませんが、映画化に際しては、悪酔いしそうな程の悪夢 を見せてくれることを期待しています。 「ブレードランナー2」ネタバレ編はここ 注)「六人目のレプリカント」 映画『ブレードランナー』の中で、ブライアント警視がデッカードに仕事の依 頼をする際に「六人のレプリカントが地球に戻ってきた。」と言う話をする。 しかし、その直後の説明で、「一人がタイレル社に侵入しようとして破壊され 、4人が逃亡中。」と言う。残り一人については、ファンの間でいろいろな説 が出て、『ブレードランナー』の中の謎の一つと言われていた。

「ブレードランナー2」ネタバレ篇

例えば、手足を削ってまでも、人間=レプリカント・プリスを生かそうとする セバスチャン。死してなお、ロイバティを忘れられないプリス。死に行くレイ チェルと残された時間を過ごすためだけに生きるデッカード。自分を愛してく れる人を探し続けるサラ。  もしくは、アイデンティティを取り戻すためにデッカードを追うロイバティ。 デイブホールデン。 謎を隠し続けたブライアントは死によって開放され、レイチェルは・・・何と 言えばよいのだろうか? 映画『ブレードランナー』の(レイチェルを除く)すべてのキャラクター達が、 苦悩を続けているこの世界。 そして、決して報われることの無い結末。 サラと旅立ったデッカードの選んだ道は、私に何とも言えない思いを起こさせ て終わりました。許せないのか、悔しいのか、やり切れないのか・・・。 読み終わると同時に、私の中で悪夢が始まりました。

「遠すぎた星」"The Ghost Brigades"(2006)

  by John Scalzi (2008/09/29記) 「遠すぎた星 老人と宇宙2」を読みました。 (「遠すぎた星」"The Ghost Brigades"(2006) by John Scalzi) ううむ、これにBlackが付くといろいろと意味深いものに。(笑) などということは置いといて、前作で舞台背景は説明がなされているので スムーズに物語に突入。 語り口も相変わらずスマート。 けど今回逆にそのスムーズさ故に根本的なところに対する突っ込みどころも 前より分かりやすくなってるかなとも感じました。 まぁそれでもキャラクタやSFに対する愛情が随所に表れているこの作品は 十分に魅力的。 前作よりもほろっと来たし。 しかし、前作と本作を読んで続編が作れる余地が見当たらなかったのだけれど この状況下でどんな続編を作るんだろう? (主人公たちさえ出なければこの世界自体はいくらでも作れるかもしれないが)

「老人と宇宙」"Old Man's War"(2005)

   by John Scalzi (2008/09/20記) 「老人と宇宙」を読みました。 "Old Man's War"(2005) by John Scalzi ちょっと時間かかるかなと思っていたのだけれど、昨日の 夕方に借りてきて今日の昼には読み終えたので思ったより さくさくと読めました。 発想にしても話の展開にしても凄く洗練されていて面白かっ た。 それでいて少しだけ昔のSFの匂いがするのはやはり作者自身 がそこらへんを好きなのだろうなぁ。 しかしこうやって一連の作品を読み進んでいくと、やはりハ インラインの「宇宙の戦士」の持っていたエネルギーは凄かっ たんだなぁと思う。 あの作品にはある意味迷いが無い。その代わりこちらほど洗練 されてもいないのだけれど、それがまた良いのだろうなぁ。 で、これこそ良いお年の俳優さんたちがまだ生きている今のう ちがこの作品映画化するには旬なんだろうなぁ。 老けメイクというのもあるのだからその逆パターンで。 というわけで現在「遠すぎた星」を図書館に予約中。

「最後の星戦 老人と宇宙3」"The Last Coloney"(2007)

   by John Scalzi (2009/10/18記) 「老人と宇宙」三部作の三作目、「最後の星戦」を読了。 前二作を読んでから少し間が空いてしまったので大丈夫かなと思っていたが、何の事は 無い、杞憂だった。 主人公ペリーやジェーン、ゾーイ、そして特殊部隊や非人類型異星人たちなどもそれら の描写が出て来たその瞬間に思い出す事が出来た。 語り口のうまさ、なのだろうな。 前2作と異なるのはあまり映画やSF小説ネタが無かったところと、戦闘描写の量かな。 けれどもこの三部作をまとめるのにふさわしい内容だった。 あくまでも趣味にこだわり続けるのではなく、物語の成立にこだわってくれたのは嬉しい。 とはいってもコロニーへの植民絡みの話なので西部劇的な要素はしっかりあり、その 部分で楽しませてもらった。 三部作の三作目が西部劇のSFってどこかで聞いたような。 ただまぁあれに絡んだ邦題には持っていけないわな。(そもそもサブタイトルなかったし) この三部作は終わりだけれど、この作品をゾーイ視点で描いたものが2008年に出版 されているのでその邦訳を楽しみにしていよう。 うまい作家の作品を読む楽しみがまだ残っている事は嬉しい事です。

「殺人ブルドーザー」"Killdozer!"(1944)

  by Theodore Sturgeon (SF映画原作傑作選 創元SF文庫より) (2008/12/27記) 「殺人ブルドーザー」"Killdozer!" by Theodore Sturgeon (1944) TV映画『殺人ブルドーザー』"Killdozer!" (1974)の原作 中編。本人が脚本も担当。 (映画は未見。) この作品が初放映された枠で、その3年前にスピルバーグ の『激突!』が放映されたという話を聞くと、ある意味全 部腑に落ちてしまう…といったら身も蓋もないのだけれど、 こちらは原作1944年だからね。 「殺人ブルドーザー」と聞いて、この冒頭は予想できません でした。 ただし、これで紛う事無くSFと化している。 去年の大ヒット映画の大元のネタとされているもの設定がこ れのパクリだったと言われても別に不思議には思わないほど のこの冒頭の状況設定はさすがシオドア・スタージョン!… というのは言い過ぎか(それとも妄想か) 映像化されたものは時代設定を始めとして諸々の設定を変え てしまっているらしいのだけれど、この原作の設定のほうが 良いと思う。それだけで深みが違うものなぁ。(まぁお金は かかるだろうけれど。) 原作の隅々に至るまで映画的なこの作品。アンソロジー選者 の「これ、このまま映画化したら今でも面白いのに!」とい う声が聞こえてきそうです。(これも妄想)

「銀河パトロール隊」"Galactic Patrol" (1950)

   by E.E."Doc" Smith (2009/09/26記) レンズマンシリーズ第一作「銀河パトロール」をようやく読了。 いやぁ、私の心はすっかり汚れてしまっていたのね。 ツッコミ…というか気にしだしたら全然前に進まなくなるほどのツッコミたい部分の 嵐という心理状態。 それでも何とか軌道に乗せて、まさに次から次へと怒濤のごとく新しい世界へと突き 進んでいく話に身を委ねる事が出来た。 ある意味そのセオリーを積み重ねてひとつの世界を作っていくハインラインとは正反対 の作劇のこのレンズマンシリーズはたしかにちと辛かったが、一方でそれが故にこの ジェットコースターを少し離れた視点で見る事が出来たのは面白かった。 ではこのシリーズを残り6冊続けて読みたいかというと…もう少し余裕が無いとこれは 辛いわ。(笑) まぁそういう状態になった時に続編を読んでいきたいと思っている。

「ワームウッドの幻獣」(2003)

  by 高千穂遥 (2009/08/15記) クラッシャージョウシリーズ9作目、「ワームウッドの幻獣」を読了。 長らく中断していたシリーズの久々の作品。 けれども中断していた匂いというものを何も感じさせない。 外伝「ドルロイの嵐」の次の作品ということで、ダン、そしてエギル (ええと出てきたっけかな。(笑))に絡んだ話となる。 そのエギルの娘たちのチームとの共同戦線という状況設定。 例によって雇い主たちは裏がありというのは最初からほぼ提示されており… と言う形でフォーマットは変わらずなのではあるが、故にこれぞ冒険活劇と いう形態を安心してみせてくれる。 ホント、なんでしばらく中断していたのかなという感じ。 とりあえずは既刊の読み逃していた分はすべて読了。 まぁこういうものは本人のモチベーションだからとやかくは言えないが、復 活したからにはダーティペア含めてまた続けてほしい。

「ダイロンの聖少女」(2005)

  by 高千穂遥 (2009/08/11記) まぁ、ダーティペアの新刊が出ていることを見つけたら、当然こちらも無いかと探す訳 だな。 というわけで、こちらは本当にしばらく新刊の無かった…というより出ると思って いなかったクラッシャージョウの10作目。 久々の新刊となった9作目「ワームウッドの幻獣」はまだ借りられていないので先行 してこちらの「ダイロンの聖少女」を借りて、読了。 こちらのシリーズは外伝「ドルロイの嵐」以来だな。 とはいってもこちらも見事にブランクを感じさせない作品だったな。 ジョウもアルフィンもタロスもリッキーも相変わらず。 おまけに劇場版の声で頭に響いてきやがる。(笑) しっかり満喫させていただきました。 その上、まだ読んでない一編があるという喜び。 で、まぁソノラマという足場を失ったクラッシャージョウシリーズは、いつの間にか 早川JAで再刊されていたのね。 しかも安彦さんの新しいイラスト付きで。 ダーティペアシリーズも面白いけれど、高千穂遥の真骨頂はやはりこちらのシリーズ。 そのうち、また改めて読んでみようかな。

「ダーティペアの大征服/大帝国」(2006/2007)

  by 高千穂遥 (2009/08/10記) 「…大復活」は少し気づくのが遅れながらもフォローしていたものの、その後も出て いたのね…というわけで、事実上前後編とも言える「ダーティペアの大征服」と「ダー ティペアの大帝国」を読みました。 「大征服」はヒロイックファンタジー、そして「大帝国」はポケモンへの愛溢れる、 そして2編とも相も変わらぬ高千穂遥節…というよりはもはやキャラクタが勝手に 動いているとも言える作品でした。 堪能。 本編、いつものコスチュームではなく、ケイは女戦士、そしてゆりは魔法少女!な コスチュームに身を包み…それがまた安彦さんのいつもの絵…やっぱりFLASHは無し だよなぁ…ということでそちらも満足。 今回寂しいのは愛機ラブリーエンゼルもかのブラッディカードも無いんだよなぁ。 けど、前述の大サービスの上にムギが…。まあ予想通りというかそれやっていいのかと いう感じのことまでやってくれる。 そしてクレアボヤンスも今回は大サービス。 そして、何よりもまっっったく変わらないケイとユリで、心おきなく楽しめました。

「涼宮ハルヒの憂鬱」(2003)

  by 谷川流 (2009/04/17記) 何をいまさらと思われるかもしれませんが、アニメの方を全話観たあと、図書館で借り て読み始めました。 とりあえず借りられる事の出来た「憂鬱」「溜息」「消失」「暴走」をあっと言う間に 読破。(というかまぁ読みやすいので当たり前か) という訳で今回は厳密にはこの4冊を読んでの感想。 たしかに面白いわ。 もう1周どころか2周3周遅れなものだから関連情報はいろいろ手に入るし、そういう ものも含めてアニメ、原作と触れていくと、この作品のオーソドックスながらそれをう まくまとめているところにとても心地よさを感じる。 そして、アニメがまた原作を忠実にかつうまくまとめているなぁとも感じた。 切るところはすっぱり切っているにも関わらず、肝心なところやテイストは見事に原作 の魅力を踏襲しつつ、ひとつの形にしている。 実を言えば、最初にこの作品の話を聞いたとき、梶尾真治の「サラマンダー殲滅」にお ける空間溶融を思い浮かべたのだけれど、実際読んでみると、そのテイストのせいもあっ てか、これはむしろ「…絶句」における主人公新井素子だよなぁなんて感じた。 まぁそれに限らず、あの彼女はあの作品におけるあれをイメージさせるよなぁなんて思 わせたり、あれは実はこの作品の影響下にあったのかとかこの作品のキャラはどこかあ れに通じるものがあるなぁとかそう言ったところが見え隠れするのがまた面白い。 こういう部分はある意味「エヴァ」と似たような部分はあるか。 そもそも世界観が、表向きはそうは見えないもののどう見ても絶望的な状況であるとこ ろも似ているといえば似ているか。 当然ながら実はこの物語の真の支配者は誰なのか考えるのもまた面白い。 例えば主人公キョンのモノローグと台詞の区分けが曖昧なところ。これがブラフかなに かを意味するのか考えながら読むだけでも面白い。 まぁこういうところは最後まで曖昧なままにして終わってほしいものだが、読み進める につれ、なんとなくこうなのではないかと思えるようなシチュエーションがいくつか出 始めた。 ただこれも…けどけっこう伏線はきっちり予想通り出てきてるからなぁ…なんてことも 考えてみたりする。 そしてそういうところもアニメがうまく拾ってきているのがまた面白い。 まぁようするにあれだ。 私はこの手の話が大好きだということ。 これに尽きるかな。 1周遅れ、いや2周3周遅れでも、いや、だからこそ良かったわ。 これ以上続きも出そうにないし、あとは想像の翼をいくらでものばして…。 さて、残りの作品も早く借りられると良いのだけれど。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (2012/12/22追記) 「涼宮ハルヒの憂鬱」(2003)を読了。 改めて読むとやはり1作目というものは特別なものがあるのだな。 磨かれてないが故の荒々しさ。これでもかとばかりに詰め込まれた自分。そしてらしさの断片。 そういったものが本作にも詰まっている。 後々発揮される後付けストーリーテリングの上手さとか、一部まだ肉付けしきれてないキャラクター毎の台詞 回しとか、SF的なものの密度とか。 そんなもの全部含めてやはり面白いよ。 なかなかそういう訳には行かないのだろうがこれこそ実写化すればいいのにと毎回これも思うこと。 それこそアニメ以前に実際のモデルとなる場所を彷彿とさせる描写が多いよな。とはあらためて思った。 そして毎度毎度思うのはキョンはハルヒのことホント好きなんだなということ。 そこがこの作品の肝なんだなということが最初からぶれないんだよな。 だからこそ話が続いているというのが私としてはとても嬉しい。

「涼宮ハルヒの消失」(2004)

  by 谷川流 (2009/11/18記) 久々の再読。 急に読みたくなったので…というよりはアニメのほうをまた観直したのと今度この話が 映画化ということになったのが読みたくなった理由だろうな。 初見の時にも思ったのだけれど、過去作品からの伏線の回収の仕方と未来への伏線の 張り方は見事。 シリーズ中でも一番じゃないかな。 そして、その伏線の結晶はここですべての物語を閉じてしまっても良いくらいの出来。 こりゃあ後々のハードルも高くなるわな。この転換点の後の話の結晶は実際中断して しまっているわけだし。 このシリーズを読んだ後でいくつかのラノベを読んではみたもののいまだにこの結晶を 超えるものには出会っていない。 シンプルで効果的で感動的。 映画化されたものがどうなるのか。今から楽しみです。 【以降2013/02/08追記】 「涼宮ハルヒの消失」(2004)を久々に読了。 って、いったい何度書いたことか。 まあ毎回素晴らしいとしか書かないのだが、今回は劇場版アニメの記憶も新しいうちに かつシリーズ刊行順に読んでいるのだけれど、これもまた毎度のことながらアニメのこの 原作の拾いっぷりに惚れ惚れしつつ当然原作単体としての綺麗な流れに感心などして いるのである。 クライマックスですべてを解決せずに未来にドラマを残している所なんかも好きなんだよなあ。 あの余韻と緊張をいつ回収するのかを楽しみにしつつ読み終えることが出来る。 まず、そこを解決する前にやることがあるんじゃないかという感じで。 「…憂鬱」で言えばハルヒがラストで短い髪をむりやりポニーテールにするくだり的な ご褒美の方が先決だよねとばかりにハルヒ特製闇鍋の香りで終わるとかもうね。 冒頭の「地球をアイスピックでかち割ったら…」が、ブラックアウト後目が覚めた時に聞こえる 音と目にする物体に何気なく類似している所も好きだ。 なんて話が止まらなくなる。 好きな本との再会というものは何度あってもいいものだ。

「ロング・グッドバイ」"The Long Goodbye"(1953)

  by Raymond Chandler (2008/02/10記) 私にとって何物にも換えがたい2つの小説と2つの映画がある。 そのうちの1つの映画は1つの小説を映画化したものであったり もする。 「夏への扉」という小説と『フォロー・ミー』という映画と共に 何物にも換えがたいと思っているその作品は清水俊二により「長 いお別れ」という名で翻訳され『ロング・グッドバイ』という名 でロバート・アルトマンにより映画化されたレイモンド・チャン ドラーの"The Long Goodbye"という作品である。 その"The Long Goodbye"が村上春樹により「ロング・グッド バイ」という名で翻訳された。 それをようやく読む機会を得る事が出来た。 (以降、内容に触れたりもする。) 読む前に「あとがき」という形で綴られている村上春樹による氏 のこの物語との出会いから始まる思い入れと著者レイモンド・チ ャンドラーとこの作品との関係に対する文を先に読んだ。 この物語自身は既に何度も読んだ物であり、何故氏がこの物語を 敢えて今訳そうと思ったのかを頭に入れてから読みたいと思った からだ。 これは先に読んでおいて良かったと思う。 読み始める前は少なからず前訳者である清水俊二のものがあるに も関わらず氏が翻訳したものを出す事に少なからず不信感をいだ いていたが、これを読んでその部分は氷解した。 そして氏に訳された本編もその内容に違わぬ物だったと思う。 たしかに、氏=村上春樹によって訳された物は氏による他の作品、 それはドキュメンタリである「アンダーグラウンド」などまでに 至るものと同様に、正しく整理され、読みやすい物で あった。こんなにも分かりやすいものだったのかと思うくらいに。 しかも、元々の原書(いまだ読破できず)のトーンをより正しく 受け止めたものでもある。 原書を読み始めた時に感じていた清水俊二訳との違和感も今回こ れを読む事でようやく理解する事も出来た。 まぁただ、それでも多感な時期、まだ何も知らない時期に読んだ もの観たものというのは絶大であるということも感じた。 それは、私の知らない私の大事なものを今になって知らされたよ うなもの… いや違う…私はきまじめで文学的なレイモンド・チャンドラーが 書いた"The Long Goodbye"ではなく、清水俊二が訳した「長い お別れ」、ロバート・アルトマンが監督した『ロング・ グッドバイ』が好きだったのだろうなぁ。 イアン・フレミングが書いたジェームズボンドシリーズではなく、 井上一夫が訳したそれが好きであったように。 …などというような事を考えながら読み進めていた。 しかしそれも、いつのまにかどうでもよくなった。 訳者が変わろうとも、「長いお別れ」におけるフィリップ・マ ーロウの信念はほとんど変わらない。 それよりも変わったのは、まだこれを書いた時のチャンドラー の歳にはまだほど遠いものの自分がこの作品におけるマーロウ と同い年になったことのほうが大きい。 初めてこの作品を読んだ時、世の中はもっと複雑で厳しいもの だと思っていた。 しかし今は、物事は常にシンプルであり、人はそれにたいして 目を瞑る事で複雑なものに従っているだけであるという事が少 しは見えてきている。 まさに、この作品世界そのままであるということである。 もちろん、それはこの作品の世界そのものということではなく、 この作品が私に訴えかけてきているものがという意味である。 それを考えると、当時の私も捨てた物じゃなかったなと思えてく る。この作品の価値を知らずのうちに汲み取っていたのだから。 あとは、今の私これからの私が当時の私の期待にいかに応えるか という事だな。 いつか、その期待に応えられるようになりたい。 その気持ちを少しでも持ち続けていたいと思う。 以上、相も変わらず意味不明な駄文書きのkanameでした。 (一応しらふ)

「筒井康隆全集 第17集」(1984)

by 筒井康隆 (2007/08/04記) 「七瀬ふたたび」掲載が掲載されている「筒井康隆全集 第17集」を借りてきて読みましたのでその一連の作品 の感想など。 (以降ネタバレもあります。) まず、この本のメインは「七瀬ふたたび」。 ふたたびこの作品と向き合う機会を得られただけでも私 は満足と言えてしまうこの作品は、初見がたしか中学生 (小学生ではなかったと思う)の時でした。 ただし、それが原作が先かNHKの少年SFシリーズの多岐川 裕美子版が先かが既にはっきりしていません。たぶん同 時期だったんだろうなぁ。 で、このTVドラマ版のほうは、(そう機会は多くなかっ たと思うのだが)何回も見ていたり、たまたま書籍扱い 系ビデオのはしりの頃に出たビデオを入手していたりで、 かなり縁があるんだよなぁ。 故に七瀬は昔の多岐川裕美のイメージで固定されていま す。 「七瀬、森を走る」のイメージで。 何かとても当時のこのシリーズらしい匂いをさせている ことが「それでも好きだ」という部分と「また誰かが映 画化してくれないかなぁ」という部分を併せ持っていて、 思い出すたびに心は千々に乱れます。 と、これも語りだすと長くなるので割愛して、そこまで TVドラマに思い入れがあるにもかかわらず、原作にはそ れ以上の思い入れがあります。 何よりも、キャラクタにある意味尽きてしまうのかなぁ。 七瀬の揺るぎのない主役然としたところや、文字通り彼 女が存在するが故に存在する恒夫や藤子、ヘンリーやノ リオという状況設定。 ノリオは理解者として彼女が必要だったし、ヘンリーは 彼女が存在しないと能力を発揮できない。(まぁそれ以 前にヘンリーは七瀬の信奉者と自ら言っているものなぁ。) さらに矛盾を抱えた能力を持つ藤子は七瀬に(完全にと はいえないが)そのジレンマに対する安らぎを与えても らえたし、さらに自己矛盾な能力を持つ恒夫に至っては、 明確に自分の存在意義を彼女に見いだしてしまう。 ある意味その作品群からどちらかというとブラックなと いうよりはシニカルな話が得意な筒井康隆を以てして、 主人公自身を意図的に神にしてしまうという意味におい て最も「らしい」作品のような気がします。ここまであ ざといものをここまでの話にしてしまうのはそう誰でも 出来る事ではないと思う。 (これが、さらに「エディプスの恋人」に至って本当に 神にしてしまうところが、そういう事(ある意味自虐ネ タ)を書かずにいられない彼らしいところなのですが。) さて、「七瀬…」もまだまだネタはあるのですが、この 第17集の他の作品の短評など。 「メタモルフォセス群島」  短編集の表題作として前から気になっていた作品で、 実は初見です…と言いたかったのだが、前に読んだ事あ るよなぁ。 バカバカしいところから始まって、最後「森を走る」な 所は筒井康隆お得意なところか。 「定年食」  こちらは本当に初見。ただ大ネタは割と早くに分かっ たなぁ。 それでもそれをさらにネタに話を拡げていくところもま た筒井らしさが出ています。 「走る取的」  ある意味これが筒井の真骨頂。頭の中に映像が駆け巡っ てました。 ネタ一本で読ませる事のうまさと言ったらもう。 この集では後述の「鍵」とこの作品が双璧をなすと思い ます。 (むろん「七瀬…」は別格。) タイトルの元ネタはいうまでもなく「走る標的」。 「こちら一の谷」  それを言ったらおしまいというネタをどこまでひっぱっ て落とすかと思ったら平家物語。(ネタバレ) 「母親さがし」  こういうネタになるだろうなぁと思っていたら、よく 考えてみたら主人公にとっては最初から最後まで目的に ブレが無い事に気づかされた。 ただ、うまいとは思うものの、途中がちょっと。 「特別室」  オチが…という部分はあるものの、この混沌も筒井調。 「老境のターザン」  辺境ではなく老境というところがネタのしどころだっ たのは作中でネタばらしもしていますが、筒井版ターザ ンといったところか。 ホント、壊れる話が好きだよなぁ。 「平行世界」  落語のネタみたいな話なのだが、まぁ落語のネタみた いな話だなぁ。 「毟りあい」  思いつきの一発ネタで予想通りの方向に引っ張ってい かれることへの快感。 筒井作品は単発で読むより、こうやって続けて読んでい くことのほうがいいなぁなんて思い始めてしまう。 「案内人」  これもオチがちと苦しいような気が。まぁブラックと 言えばブラックなのだが。 「バブリング創世記」  一言で言えばジャズセッション。 他国から見ればその国のことはじめなんてみんなこんな ものなのだろうなぁ。 「蟹甲癬」  これも初見ではなく何度か読んでいる作品。 タイトルの元ネタは『蟹工船』(っていうまでもないか) ひとことで言えば飲み屋の馬鹿話。(ただし語り手が筒 井康隆)といったとところか。 「鍵」  前述のように、本集では「走る取的」と双璧をなす、 これぞ筒井と言える作品。 意図した悪意がここかしこに…。 「問題外科」  筒井ワールド爆発ですな。 まさにマンガな世界。 とだいたいそんなところでした。 さて、これも読み終わったので次は「裏小倉」を借りて こようっと。 (この集のメインは「エディプスの恋人」)

「筒井康隆全集 第19集」(1984)

by 筒井康隆 (2007/08/21記) というわけで、引き続き「裏小倉」掲載の筒井康隆全集第十九巻 の感想など。 「12人の浮かれる男」 筒井流12人はこう来たかという感じ。伏線も見事。 「ヒノマル酒場」 何が起こるかと思いきや…。それでいいのかという終わり方がまた 素敵。 「発明後のパターン」 うむむ。パターンと言えばパターンなのだろうなぁ。 「善猫メダル」 オチはやはりそうなるのかぁ。とはいえ読ませてくれる。 「前世」 テイストは「善猫…」と同じだが、これはこれで面白い。 「逆流」 そうか、気がつかなかった。(笑) 「死にかた」 まぁまず死に方ありきなのだろうが、ここまで引っ張って読ませる のはさすが。こういうのホント好きだよなぁ>筒井 「こぶ天才」 このネタだけで物語にしてしまうところは見事。 「裏小倉」 (うらこくら)だと思っていました。(笑) お、だんだん筒井的展開が見えて来たぞと思ったら、あれ、結局 そっちにいってしまったのね。という感じ。 あれがオチに使われるだろうなぁと最初に思ってしまったのが そのままだったのもちと残念でした。(^^; 「上下左右」 これぞ本領発揮なんだろうなぁ。くだらないんだけれど好き。 「三人娘」 すべて一筋縄じゃいかないキャラクタ作りが見事。 このオチをぱくってたマンガを昔読んだのを思い出してしまった。 「廃塾令」 こういうのホント好きだよなぁ>筒井康隆 「ポルノ惑星のサルモネラ人間」 本巻掲載の短編中では一番の作品。 これぞ筒井SFな話でした。 で、「エディプスの恋人」 久々だったので忘れているところもけっこうあったが、これを読 むと七瀬って本当に筒井康隆にとって特別なキャラクタなのだな と思う。 この作品中における七瀬はある意味「…ふたたび」以上に残酷な 仕打ちを受け続ける。本当に救いが無い。 まさに、「…ふたたび」における七瀬の最後の台詞に対する答え なんだろうなぁこれは。 というわけですっかり筒井づいてしまったが、これ以上続けると とりあえず全集制覇したくなりそうなので…。ううむ。

「パプリカ」(1993)

  by 筒井康隆 (2009/08/16記) 「パプリカ」読了。 非常に筒井康隆らしい作品だなあ。 敦子にしても、それをとりまく男たちにしても、そして女たちにしても、質量を持った ものとして感じられる。 猥雑で匂い立つ感覚。 これらがとても心地良い。 そして、徐々に夢と現実の境界線が無くなっていく? けれどもそれこそが夢の本質であり、だったら現実はどこにあるのよという感じなのだ が、それは個々の解釈に委ねるということなのだろうなあ。 本来ならDCミニと関わっていないあの2人をどう捉えるかがキーなのだろうけれど。 ちなみに私は、まあわりと単純に捉えている。

「指輪物語」"The Lord of the Rings"(1954 - 1955)

by J.R.R. Tolkien (2006/10/14記) 「指輪物語」を読みました。 読み出すまでが長かったのですが、それはおいといて。 なんというか、久々にこういう文体を読むと、ホントに ほっとします。 テクニックとしての文章が削ぎ落とされているように みえて、読んでいるほうもまっすぐ物語に迎えるという 感じでとても心地良かったです。 酔える文章やテクニカルな文章も好きではあるのですが、 この本と向き合っているとそういうところに疲れていた 自分もあったのかな、なんて思ったりもしました。 固有名詞も意味のある日本語になるとまた味があるなぁ。 なんて感じで読んではいましたが、モルドール行はやはり 読んでいてひたすら暗く辛かったです。 (かといってそこで止まってしまう訳では決して無いですが。) さすがに疲れた。 で、『ロード・・・』の話。 かなりいろいろな部分で話は変えているものの、うまく 脚色して小説「指輪物語」の入門編として機能していたんだな と強く思いました。 まともに映画化していたらこんな尺では収まりきらない話 だから、逆に原作から得たビジュアルイメージを、原作を これから読む人間に易しくなるようにうまく作っていくことに のみ専念していった結果ああいう映画になったとみれば いいのかな。 (メインキャラクタの描き方に、原作に愛着を持ってしまうと やや難が出てきますが。) また、字幕のあの人は、原作が何故固有名詞を一部日本語化 しているかという意味を完全に誤解していたんだろうなあと いうことを改めて認識させられました。 固有名詞って人名だろうと地名だろうと意味があって 付けられているんだから、それを意図して使う事には 何かしら意味があるっていうところまで想像が 及ばなかったんだろうなぁ。 それにしても、長く心地よい時間を過ごさせていただきました。

「悪霊」"Бесы"(1871)

by Фёдор Михайлович Достоевский (2009/07/29記) 「悪霊」を読了。 先日もちらっと書いたが、冒頭からしばらくはあまり魅力を感じないまま話を 読み進めていく感じでした。 それが、話が進んでいくにつれ、まずは登場人物たちに徐々に興味を持つように なってきた。 あくまでも第三者の視点から書かれたものという形なのでその心情に関しては 行動から察するしかない。 それが、その積み重ねで徐々に見えてくる様、そしてその語り口が非常に面白く なってくる。 最初はステレオタイプなロシア人ばかりにしか見えないのが、徐々に血肉を得て いくその様が面白い。 そうして十分な前フリが行われた後、その裏の各々の本性が見えてくる。 ただ、その本性も一面的ではなく見事に人間的。 ある時には強く見えるものも弱くなり、逆もまたあり。 状況が変わることで立場も変わり人物たちにさらなる血肉が与えられる。 そして運命の時を迎える。 そこにはちっぽけな人間の様が見えてくる。 それでも、人物たちは自分というものを生きていく。 時には舞台的なシーンもあるが、むしろ映画のような形のほうがこれの本質的な 面白さは伝えられるかな…というよりはそのような形でぜひ観てみたいと思った。 (まぁ小説という手法がもちろんベストな作品であるが。) 当然やるならダイジェスト的なものではなく、何時間かけてでも完全な形で。

「傷物語」(2008)

  by 西尾維新 (2009/08/14記) 続いて傷物語を読了。 こちらはさらに悲しい物語。 思わず読み進む。 最後の方法だけが少しだけ納得いかなかった。 語彙だけたどれば決してそういうふうには思わなかっただろうけれど、それでもここ までこちらを持ち上げての解決法としては納得いかない。 これは今まで読んだ分からきた期待度の弊害だとは思う。 それにしても、真の悪意はやはり羽川だったのだな。 物語の中の統一感、白いものが実は黒く黒いものが白いというのは好きだ。 そういう意味で羽川は怖い。 化物下巻の羽川はいったいどこまで黒いのか。 楽しみである。

「化物語」(上)(2006)

  by 西尾維新 (2009/08/14記) アニメの方もようやく「まよいマイマイ」まで観終えたところでこの「化物語」の上巻 を借りることが出来たので読了。 (何か日本語が変) しかしまぁ、そのアニメを観たときから感じていたことだけれど、この作者は本当に 言葉遊びが好きだ。 いや、ちょっと違うか。 言葉を連ねるのが好き…と言い換えた方が良いかな。 自分の知識…たぶん元々知っていたことに加えて書くためにさらに興味が湧いて知って いった知識をそこかしこに連ねることに無常の喜びを感じている。そんな風に妄想した。 そしてそれが読む側の心をちょこちょこと刺激されていく。 例えば「ロリータ」などがそうであったように。 (ちょっと違う?) 知的好奇心を刺激する言葉遊び。そしてそれを連ねていくための物語。 どっちが主でどちらが従なのだろうか? そしてそれさえも遊びに思えてしまうほどにみえる。 まぁこれは本当に「絶望先生」をあの形でアニメ化した新房監督にはもってこいの題材 だわ。 アニメの方はそれをうまく処理している。 そしてその処理しきれなかった部分を原作で補完していく作業がまた楽しいのだな。 そこまで計算しているかのようなうまいアニメ化。 ただまぁそれが無くても十分すぎるくらいに楽しい小説=物語ではあるわな。 物語の構造もまた語られていく時系列が十分に考えられたもの。 この順番であるからこそ彼らキャラクタが十分に活かされているし、物語としての厚み も増していく。 アニメで2話目となる…そして原作で2話目でもあるマイマイを観終えた時には泣き そうになったもの。 1作目がそれくらいに「そのためのもの」になっている。 そして3作目は1、2作目を血肉として作られたもの…という形で進んでいるという ことは言うまでもない。 下巻が待ち遠しい。

「化物語」(下)」(2006)

  by 西尾維新 (2009/08/15記) そして化物語の下巻も読了。 ううむ。ある意味予想通り羽川は黒かった。 というか、この構成はホント見事。 言葉遊びの洪水の中、着地点をこういう形で用意してたのね。 吸血鬼の使い方のうまさ。 まあネタバレ表記してるから書いてしまえ。 魅了の使い方はホントうまいと思った。 見事に引っかかったわ。 そしてその先にある正しい着地点。 そしてそれだけではなく、すべてのキャラに優しい着地点を用意してくれた。 読み終わった後アニメのほう、するがモンキー壱を観て、エンディング改めて聞いたら 泣きそうになったよ。 こんな仕掛けまで用意してたのね。 ホントもう、なんてやさしいんだ。 ホント好きなんだな。

「偽物語」(上)(2008)

  by 西尾維新 (2009/10/24記) 「化物語」の後日談、「偽物語」の上巻、「かれんビー」を読了。 読む前に小耳に挟んでいた「化物語から各キャラが変わっている」というのはある意味 その通りであったけれど、それは緊張した時間=「化物語」の時間を終えてオフ状態 もしくは緊張の緩んだ状態に各キャラがなったが故により肩の力が抜けたからという 感じであった。 それはそれで面白いものではあったけれど、やはり個人的には「化物語」のテンションの 方が好きだ。 そして、アニメのほうでもこの「偽物語」から結構取り入れられていた部分があったん だなということも判った。(まぁ読めば一目瞭然な部分ではあるが。)「傷物語」も 取り込んでいたからなぁ。>アニメ版 そういう意味で、またアニメ版の志の高さ…といって良いのかどうか判らんが…を 改めて認識した。 返す返すも「なでこスネイク」の放送回が時間切れであのような形でのものになって しまったのが残念。(BD/DVD版では修正されるとのことなので、いつか見る機会が あればいいなと思っている。) まだ情報は出ていないが、「つばさキャット」の放送回も同じような状況だったので あろう。(こちらはまだ公式な情報は出ていないのだけれど。) にしても、暦にブレが無いのは当然としてガハラさんのツンデレ度にますます磨きが かかっていた。 羽川はある意味「化物語」よりもブラックさに磨きがかかっていた。 真宵はますます上の境地を開き、神原は解放されたんだなという感じ。 そして撫子も自分の行動に迷いが無い。あくまでも迷いが無いだけだが。(笑) そうそう、ツンデレ2大巨頭の一角、忍も「化物語」の沈黙から解放されてツンデレ 再開している。 そういう意味で、続編ではなくあくまでも後日談。そう割り切って読めるのであれば なかなか面白かった。 いかんせんタイトルロールの火憐が活躍しづらいキャラクタではあったのは、他の キャラを引き立てる「化物語」の主人公暦と兄弟だなぁといってしまえばそれまで なのか。(笑) あと、そうそう、これはアニメ未見ではなく観終わった後(まだ終わっていないけれど) で読む事になって良かった。まぁいろいろと。

「偽物語」(下)(2009)

  by 西尾維新 (2009/12/10記) 「偽物語 下 つきひフェニックス」をようやく借りる事ができて読了。 さすがに新刊は借りるのに半年近くかかってしまいました。 なんともまぁ「化物語」の後日談の締めくくり(とはいってもまだ2つほど話を書く らしいが)にまさかこんな爆弾が用意されていたとは。 例によって「化物語」とそれに関する物語については好きではあるけれど、きっと西尾 維新の他の作品とは自分は合わないだろうなということを改めて認識させられながらも、 この最後の物語を堪能させていただきました。 前半、というか後半も…ってそれじゃ全編じゃないか…に至るまで今回のサブタイトル である阿良々木暦の妹、月火自身はほとんど本編には絡まない。 しかも前半は「化物語」の今までの登場人物との日常に終止していて本題はいつに なったら出てくるんだ度が過去最高のパーセンテージ。 ひたぎの空気度も過去最高。(唯一会話のやりとりがまったく無い) …でもね、最初から仕掛けは始まっていたりするんだな。 なんでもない会話の隅々に仕掛けられた罠。 まぁそこらへんのうまさ、空気の作り方のうまさがこの作品、いやこの作者の作品の 醍醐味でもあるのだけれど。 怪異との関連性、呪縛が薄まっていくにつれ「化物語」のヒロインたちは普通に戻り つつある。 ひたぎに至っては前作「かれんビー」を経た事で本人の属性…に見えていた毒が すっかり消えてしまいただのデレ(本文中の表現では「ドロ」)にまで至っている らしい。 前作のヒロイン火憐も、言ってみれば偽の怪異であったわけで…。 そんな訳でいずれにせよそういった形で普通に戻れる可能性があったわけだけれど、 死に至るまでそれと付き合う事になってしまった暦以上のものを背負った月火を最後に こういう形で持ってくるとはね。 いや、なんとなく耳に入ってはいた事ではあるのだけれど、まさにそう来たかという 感じだった。 フェニックスがよもやあれとは。 言葉遊びで視点を変え続ける事で物語を紡ぐ西尾維新ならでは…と言っては褒め過ぎ かなの技でした。 まぁ正直言って物語として筆が乗りまくっていたであろう「化物語」本編ほどの面白さ というものは落ちてはいるけれど、そのオチが持つエネルギーとしては、それが持つ 意味という意味で凄いわとは思った。 あと、暦の変態度としても本作が一番か。(笑) というか今回は未遂だったが暦の真宵に対する変遷を見るに一線を越えるのも時間の 問題だ。(笑) はみがきプレーってこれだったのか。(笑) これじゃあラスボスも適わないな。(笑) まぁある意味、「化」本編でたまに書かれていた暦の家族に対する愛情というか執着と いったものをこれで完全回収し、伏線を完全回収できたかなという感じではあるが。 …まあまとまりが付かなくなって来たのでここら辺で止めておきますが、西尾維新の うまさとその弱点に関してとてもよくわかるような作品ではありました。

「ロリータ」"Lolita"(1955)

  by Vladimir Nabokov (2007/12/22記) 「ロリータ」を読みました。(新潮文庫、若島正訳版のほう) キューブリックによる映画『ロリータ』は私のとても好きな作品のひと つではあるものの今まで手を付ける事はなかったのですが、機会をもら い読む事が出来ました。 読むきっかけをくださった方々、ありがとうございます。 さて、そのような(どのような?)きっかけで読み始めたこの作品です が、出会う事が出来て良かった。本当にそう思える作品でした。 「序」でこの物語の構造がある程度示されてはいたのですが、その上で 始まった「第一部」の冒頭ですっかりやられてしまいました。 なんだ、これは。 この物語そのものが持つトリック、キャラクタと一部の地名を仮名にし たことと、作中の筆者となる主人公が精神的におかしくなっているとい う前提の上での一人称ということで現実と非現実の区別がつかなくなる 部分が有る事、そして内容がインモラルであるが故の間接的な表現、こ れらすべてを示した上で始まった「第一部」冒頭の、言葉の使い方の素 晴らしい事! 最初に挙げた仮名は、そのキャラクタを表現する上で読者の想像力を刺 激すると同時に、手塚治虫も使っていたキャラクタの顔を別のキャラク タに変えていくような技法の使い方にもなっていた。 現実/非現実の区別のつかない一人称も、その時々の状態が果たして現 実なのか非現実なのかを読者に常に考えさせる。 間接的な表現の多用もまた読者の想像力に委ねたもの。 これらの部分は「ドグラ・マグラ」を思い起こさせました。 そしてさらに物語はロードムービーやミステリの様相まで帯びてくる。 それらすべてをアメリカの当時の文化というヒントで表現することのう まさ。 そしてそれらを包み込むのが前述のような言葉ですもの。 これで恋に落ちないはずがありません。 しかしながら、何せ常時頭を使うこの作品。 エネルギーを使うこの作品は図書館で借りた=2週間の期限付きで読む のは、体力の落ちている時期というのもあって正直途中挫折しそうでし た。 それでもそれらを包み込むのが前述のような言葉ですもの。 最後には無事読み終える事が出来ました。(本の期限は過ぎてしまいま したが図書館の開館前にポストに返してこようっと。) それでもこの作品に出会えて良かったです。 読書の本当の楽しさ素晴らしさを久々に思い出させてくれた。 あとそうそう、最後にこの本を読み終えた時、涙していたのを付け加え ておきます。 何故か? それはこの本を読んだ上で想像してみてください。

「月世界征服」"Destination Moon"(1950)

  by Robert A. Heinlein (SF映画原作傑作選 創元SF文庫より) (2008/12/27記) 「月世界征服」"Destination Moon" by Robert A. Heinlein (1950) 『月世界征服』"Destination Moon" (1951)の原作「宇宙船 ガリレオ号」"Rocket Ship Galileo" (1947)を映画に合わせ て本人がノベライズ化した中編。 (映画は未見。) 原作(「宇宙船ガリレオ号」)はジュブナイルらしく搭乗員 に子供たちがいるらしいのだが こちらは本来適正である宇宙 飛行士の年齢を飛び越えてプロジェクトリーダークラスがあ る事情により月へ向かう事になる。 さながら『スペースカウボーイ』だな。 親父たちが繰り広げる月への旅は本当に魅力的でスリルに溢 れている。 この映画ラストは変えてしまったらしいがそれでも観てみたい。 なお、このアンソロジーには映画の監修としても加わったハ インライン自身がその顛末を書いた「『月世界征服』撮影始 末記」なるドキュメンタリーも収録されている。 こちらもハインラインらしい視点で現場が描かれており、楽 しませていただきました。

「人形つかい」"The Puppet Masters"(1951)

by Robert A. Heinlein (2008/07/01記) いやぁ、ナイトキャップに読むものじゃないですね。 案の定夢に見ました。(笑) …というわけでハインラインの「人形つかい」を読みました。 これぞハインラインといわんばかりの作品ですね。 この前読んだ(同じような題材を扱った)「盗まれた街」とここまでテイストが違うとま たもう見事としかいいようがないです。 この作品で見事と思ったのが、物語もそんなに進んでいないうちに視点が急に侵略者側に 変わったこと。 これは凄い!ってホント思いました。 「盗まれた街」の視点で見た世界も怖かったけれど、これはより本質的な意味で怖いわ。 …まぁその後超人的な主人公設定であっさり復帰してしまうあたりがちょっともったいな かったですが。 けどまぁそれでも十分面白いんですけれどね。 数々の乱暴な伏線張りもまた魅力的。 あまりにもあからさますぎて気づかない「おやじさん」とか、その一番パペットマスター に取り付かれたら大変な事になるそのおやじさんに案の定…なところとか。 あと、実はソ連が…はまぁ。(笑) さらにはいろいろな作品があからさまにこの作品のネタ使ってるなぁというところもまた 読んでいて面白い。 ほぼそのままみたいな『ヒドゥン』とか、ヒロインの実は…の設定がそのまんま誰かさん とか。(他にも推測の域を出ていないものであれば何点もあり) こういうのも古典を読む醍醐味だよなぁ。 しかしまぁ評価の高いこういう作品でも、「夏への扉」みたいなジュブナイルでも、それ こそ「フライデイ」みたいな作品でもテイストが一貫しているのはまた見事だよなぁ。 (内容は似たようなもの?(笑)) 逆にこのテイストでこういう作品や「夏への扉」みたいなものを描ききってしまう(しか もこれでしかあり得ないと思わせてくれる)のはホント好きだわ。 まぁこれを実写化するならほぼこのままをあの悪趣味なオランダ人しかいないよな。まぁ クローネンバーグとかでもありだけれどハインラインテイストは薄まるかな。

「夏への扉」"The Door into Summer"(1956)

by Robert A. Heinlein  私は、この話が大好きで、何故かと考えると、それは護民官ピートが夏への 扉を探すオープニングだったり、だれることのない話の展開だったり、ネタば れになってしまうから書けないけれども、にやりとするようなエンディング だったりします。 読んでいても気分が落ち込むことはなく、未来に希望が持てるような、この話 は大好きです。

「夏への扉」[新訳版]"The Door into Summer"(1956)

by Robert A. Heinlein (2009/10/25記) 私には行動規範にしているふたつの小説がある。 ひとつはレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」であり、もうひとつが、この ロバート・A・ハインラインの「夏への扉」である。 さらにはオールタイムベストでもあるこの「夏への扉」。 その新訳版を読了。 福島正実版のそれはまさに唯一のものであり、故にいろいろなところ、例えば「ハイ ヤードガール」が「おそうじガール」となっていたり「護民官ピート」が「審判者 ピート」になっていたり、が引っかかったりはしていたが、物語は変わらない。 読みながらホント泣きそうになったよ。 ピートは正しい。 家中の扉を開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず”夏への扉”なのだという 信念をぜったいに曲げようとしないピートは。 そのピートの相棒たるダニーは、いささか時間という神、もしくはハインラインと いう神に運命を操られながらも「夏への扉」を見つけた。 そういう小説だ。 「ハインライン」というキーワードで話をしてみれば、実にハインラインの良さに 満ちあふれている作品だ。 例えばそれは2000年という今となっては過去となった未来に現実になったいくつかの 事や、それ以上に現実に至らなかった多くの事を嬉々として描いている様がまさに目に 浮かぶようだ。 当然ながら面識は無いが。(そしてそれがとても残念な事だが。) そしてその魅力的な未来描写を上回る物語をここに提示してくれた。 これこそハインラインの真骨頂。 私はそう思っている。 「夏への扉」。 例え家の外がコネチカットの一月であろうともピートは決してあきらめない。 そこにはキャットミントが生い茂り、雌猫は親切で、ロボットの敵手が猛烈な戦いを 挑んでくる(以下略)。 そんな未来すべてをピートが本当に望んでいるかどうかは判らないが、ピートはそれに ふさわしい。 私はそう思っている。

「ダブル・スター」"Double Star"(1956)

  by Robert A. Heinlein (2009/10/06記) 「ダブル・スター」を読了。 失業中ながらも自称偉大な役者ロニーは、つい酒場で男に声をかけてしまったがために とんでもない仕事を引き受けるはめになった。 それは、誘拐された政治家の代役となることだったが…。 …などと言った感じの『ザ・マジックアワー』を観たあとに読むのも面白いなという アウトラインを持つこの小説ですが、その方向性は違うので…ええとこの話と絡める のはちょっと難しいか。(笑) さすが、同年に発表された幾多の作品、例えばアシモフの「永遠の終わり」クラークの 「都市と星」フィニィの「盗まれた街」マシスンの「縮みゆく人間」などを押しのけて ヒューゴー賞を受賞したのも納得できる作品。 嬉々としてこの作品世界を作り上げていったのではないかと思えるくらいの絶頂時の ハインライン節炸裂なこの作品は本当に面白かったです。 まぁ展開はある意味予想通りではあるのですが、そのシチュエーション作りやディ テール作りのうまさといったらもう絶品です。 タイトルの「ダブル・スター」も文字通りの「連星」だけではなく「スターダブル」 =スターの代役という意味だったのですね。タイトルから受けるハードSFなイメージ とは全然違ってむしろ活劇の味わい。 これは誰、といった感じで頭の中で配役しながら読んでいました。 そして、しばらく後期の作品ばかり読んでいたので馴れかけていたのですが、やはり この時期の作品は絶品だわ。 その短さとも相まってあっという間に読んでしまいました。

「メトセラの子ら」"Methuselah's Chilidren"(1958)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/10記) で、先日読んだ「愛に時間を」が続編である「メトセラの子ら」をさっそく読了。 長い間人類の中に潜んでいた長命種「ハワードファミリー」はその秘密のある生活を やめ、自分たちの存在を公表することにした。 しかしその目論みは失敗。狩られる立場となった彼ら一族10万人の大脱出劇が始まる。 長い話2本続けて読んだ直後だったせいと、直球の中でも直球勝負な本作品はあっと 言う間に読み終えてしまいました。 今回設定された環境は、「人類の中から長命種が生まれ、名乗り出てきた時にどうなる か?」かと思ったらそこから出た結論から必然となった脱出劇のほうでした。 ホント、あっという間に読み進んで「え、ここで終わり?」という感じでした。 続編「愛に時間を」で出てくるキャラクタや土地などの話もいろいろあり、まぁ設定に いろいろ齟齬があったり歳を重ねた主人公が昔はこんなだったのにという感じだったり とかいうのも楽しみながら読めました。

「宇宙の戦士」"Starship Troopers"(1959)

by Robert A. Heinlein (2008/08/09記) How romantic! やはり私はハインラインの事好きだわ。 というわけで、「宇宙の戦士」を読みました。 本当に面白い。  理系のバカ話…というと少々語弊が生じるかもしれないけれど、あるひとつの理論なり 実験結果、もしくは調査結果があって、もしそれをとてつもなく拡大解釈なり大風呂敷を 拡げるなりすると…。 それが「時」というものであれば切ないジュブナイルなどが発生したりするのかもしれな いのだけれど、この作品の場合は、「生存競争」。(すみません、もっと良い言い方がぱっ と出なかった。) 故に競争相手はクモであり(日本人の場合だと蜂とか蟻のほうがしっくりくるのだけれど)、 人間にも外殻や筋力強化が必要になってくるのでパワードスーツが出てくる。 最初のアイデアが出たら、もうこれは湯水のように話の骨格が浮かび上がってきたのでは ないかと思えるほどのシンプルなメカニズム。 中盤過ぎたあたりのあのエピソード(理屈)が出てくることですべてがぱっと一つに繋が るんですよね。 ここに思想というフィルターがかかるから論争が生まれるのであって、科学というロマン チシズムに彩られたバカ話のひとつとして読む事が出来るのであれば、こんなに面白いも のはありません。 そして、ハインライン…私の最も好きな小説である「夏への扉」の作者でもある…は本当 にこういうものを純粋に抽出するのがうまいなぁと改めて感じさせられました。 で、それを踏まえてしまうと映画はやはり物足りなかったわな。 ビジュアル的なものだけを捉えてもそれでも面白いとは思うけれど、本質(と私が思って いるもの)が欠如しているもの。 それにしても…やはり好きだわ、ハインライン。

「輪廻の蛇」"The Unpleasement Profession of Jonathan Hoag"(1959)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/12記) ハインラインの中・短編集「輪廻の蛇」を読了。 各作品に関してコメントなど。 「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」 "THE UNPLEASEMENT PROFESSION OF JONATHAN HOAG" この本の原題となっているのがこの中編作品。邦題が「輪廻の蛇」になっているのは タイトルのインパクトということなのだろうなぁ。 SF好きには判る符号でもあるし。 余談はさておき、本作品は2010年公開予定でアレックス・プロヤスが撮る(撮っている) らしいという情報を事前に入れていたので少しだけそれを意識しながら読んだ。 結果からいうと、例えそれを意識していなくても、ああ、これならアレックス・ プロヤスが撮ったものを観てみたいと思うわ。 実際の配役は知らないが頭の中で配役まで出来てしまうくらいに。 出だしは、まぁこれほどまでとは思わなかった。 しかしながら主人公が誰なのか判った途端に話が動き出す。(というか何をやろうと しているのか見えてくる。) 後はどこにどうやって着地するのかを見守るだけ。 ホント、これならアレックス・プロヤスで観てみたい!と思う作品であった。 「象を売る男」 "THE MAN WHO TRAVELED IN ELEPHANTS" 短編!って感じの短編だったなぁ。エピソードをイメージ化して、あ、こんな イメージに着地したい!というところを如何に作り出すかということに終始している。 文章を読み、それを想像することの楽しさを思い出させてくれる作品でした。 「輪廻の蛇」 "-ALL YOU ZOMBIES-" この作品集の邦題を飾っている作品。 原題とも違うが、この邦題に関わるものが出てくるし、よりこの作品にふさわしい タイトルとも言える。 (まぁ原題はより内容に即したものではあるが、やはりね。) この作品の訳者である井上一夫氏のセンスなのかな。 SF好きなら一度でも考えたことがあるテーマに対して、逆にハインラインから 「これならどうだ!」とばかりに押し出してきたんじゃないかとも思える作品。 とてもハインラインらしい。 この手のネタとしては「愛に時間を」のほうがより完成度が高いとは思うけれど、 美学としてはこちらのほうがテーマを絞りきっているが故に上か。 ここに持ってくるためにあんなことやこんなことを持ってくる。それの徹底ぶりが ハインラインの特徴とすれば、まさにこれはひとつの「ザ・ハインライン」だよな。 個人的には一番徹底していた(というかある意味感動した)のは「宇宙の戦士」では あるが。 「彼ら」 "THEY" これも本当にハインラインらしい作品。 ただネタとしてはこうならざるを得ないというのが残念と言えば残念なのだけれど。 それ故にこの作品は短編として留まってしまったのだろうな。 「わが美しき町」 "OUR FAIR CITY" 「輪廻の蛇」において語ったことがハインラインの魅力の一つであるとすれば、もう ひとつの魅力はそのエンターテイメント性。 本作品集においてそれが最も発揮されていたのがこの作品か。 ネタの選び方とか転がし方とか本当にうまいよなぁ。 このネタでこういうこと出来るのが彼の魅力だと思う。 「歪んだ家」 "-AND HE BUILT A CROOKED HOUSE-" 「空間的な四次元の家」という設定から出てくる結末の数々。 しかしこの人は本当にアイデアひとつでは満足できない人なのだなということを強く 感じた。 それがオーソドックスだろうが独創的だろうがすべて詰め込む。 畳み掛けるように。

「異星の客」"Stranger in a Strange Land"(1961)

  by Robert A. Heinlein (2009/10/08記) 「異星の客」を読了。 後期のスタイルが出始めたのはこの作品からなのかな。 出てくるキャラが始めは皆あまり感情移入しにくい奴らばかりなのに、いつの間にか 好きにさせられていく。 善い奴はいないがかと言って悪い奴を悪一辺倒にもしない。 その匙加減がちょうどいい。 そして話の転がし方も相変わらずうまい。 欠点をあえつあげるとすればあまりにも語りすぎてしまうところか。 まあ主人公自身がそういうキャラクタであるのをよいことな言いたい放題。 まあそういうところもすきなんだけれどね。

「宇宙の孤児」"Orphan of the Sky"(1963)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/13記) 「宇宙の孤児」"ORPHAN OF THE SKY"を読了。 道中における反乱で当初の目的から外れ、閉じられた状態が当然の世界となり何世代 か過ぎた移民船団の「船」。 外に世界があることさえ忘れられてしまったその「船」の住人が如何にして「外の世界」 を再び認知し、惑星へと降り立とうとするか。 ううむ、うまく言い表せていないな。 だんだん感想が定型となりかけてきているが、このようなシチュエーションの構築の うまさは本当にうまい。 それをエンターテイメントとしていく手腕も見事。 ご都合主義なところもあるが、そもそもそうでないと物語は成立しないほどの運が 必要なシチュエーションであるからこの際それには目を瞑ろう。 そういう部分もエンターテイメントには必要なのだ。 まぁそれよりもそういう仮面を身につけて、識者のいなくなった移民船団の成れの 果ての状況を描きたかったのだろうなとも思う。 そしてそこまで「盲目」になってしまった人間が如何にして再び外の世界を認知する かを。 ああ、なんてすてきなハインライン尽くし!

「月は無慈悲な夜の女王」"The Moon is a Harsh Mistress"(1966)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/02記) 「月は無慈悲な夜の女王」"The Moon is a Harsh Mistress"を読了。 その一見冷たいような印象を受けるタイトルとは裏腹に、そこで展開されるのは血沸き 肉踊る物語。 「意識」を持ったコンピュータと唯一判り合える関係となったばかりに「月世界住人」 の地球からの独立に深く関わることとなる主人公マニー。 この状況を下地にハインラインは如何にすれば月が地球から独立するような状況にでき るかと、如何にすれば地球と対等の関係に持ち込めるかというひとつの手法を彼自身の エンターテイメント性を駆使して描いている。 これがまた必然=切迫した状況からでないというところがまた良い。 地球側も「悪」という訳ではなく、ただ無知なだけ。(まぁ無知ほど純粋な悪意はない という点はこの際置いておく…いや置いておかない方が良いか。) さらに一番おいしいところを持っていくのは…まぁそれは読んだ人には判っているで あろうことだからここではあえて書くまい。 この中で描かれた魅力的なことの幾つかはその後いろいろな形で今でも魅力的なものと して見ることが出来る。 まぁそういう作品を数多く輩出しているのがハインラインの魅力のひとつであるのだが。 さらにそれをエンターテイメント上でやってしまうのが私にとってのハインラインの 一番の魅力。 つくづく侮れないおっさんだなと思う。 魅力的な登場人物たちに愛と賛辞を贈ることでこの作品への愛情を示したいと思う。

「ウロボロス・サークル」"The Cat Who Walks Through Walls"(1966)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/30記) 「ウロボロス・サークル」を読了。 グエンがレストランで席を外した時に目の前に現れた男は、リチャード・エイムズに 殺人の依頼をしている最中に目の前で殺され…。 そこから始まる物語、謎に対して突き進んでいく物語は、ハインラインのディテール 描写のうまさからくるストーリーテリングのうまさが最大限に発揮されていて非常に 面白かった。 そして、物語は「月は無慈悲な夜の女王」に繋がっていきそして…。 まぁ「獣の数字」などと同様で「愛に時間を」のラザルス・ロングの一団が関わって くるまでは非常に面白いんですよね。 ところが彼らが出てくるとその存在の異質さに順応するまでの過程が毎回ブレーキに なっているような気がする。 手順の詳細を語る事を楽しんでいるハインラインからしてみれば、そこをうやむやに 済ますような事はできないので痛し痒しといったところか。 魅力的な主人公、ヒロインという点ではここのところ読み続けてきたハインラインの 一連の作品の中では一番。 故に筆が進んでいたような気がするし、故に余計前述の一団との融合はなかなか手間が かかっていたような気がします。 まぁそれも仕掛けの一つだったりするので…おっと。(笑) さて、次は「悪徳なんかこわくない」。そしてバロウズの「火星のプリンセス」 シリーズ(最初の話だけ読むつもりが合本だったので)と読んだ後に、「異星の客」 「太陽系帝国の危機/ダブル・スター」あたりに手を出していこうと思っています。 正直その気はなかったのですが、こうなったら邦訳作品ひと通り読んでみるかなぁ。

「悪徳なんかこわくない」"I Will Feaar No Evil"(1971)

  by Robert A. Heinlein (2009/10/03記) 「悪徳なんかこわくない」を読了。 95歳のヨハンはその資産が故に死ぬ事も出来ず生きながらえさせられていた。 その状況から脱出するために若い身体への脳移植というどちらに転んでも負けの無い 賭けに出たが…。 ある書きたいシチュエーションとそれをなし得る状況設定、世界設定のうまさとごま かし、容赦のなさ。 この作品はそういったハインラインのうまさを最大限に引き出したもののひとつである のだろうな。 そして、この作品を読んで改めて、そのタブーの無さ加減、容赦の無さ加減は映画監督 で言えばあのエロオランダ人と通じるものがあるんだなと改めて思った。 そういう意味で、『宇宙の戦士』の映画化は作品のテイストは一見違うものに見えるが あのエロ親父本人も大喜びだったに違いないと思う。 かといって『夏への扉』をあのエロオランダ人に監督させる訳にはいかないが。(笑) 話は少しずれたが、これを潤沢な資金で制限無しにあのエロオランダ人監督に作らせ たら面白いだろうなぁ。 『インビジブル』さえも甘く見えそう。(笑) 逆に「透明人間」ネタを(まぁ方向性が違うので書かないだろうが)もしハインライン が取り扱ったら、やはりこっちの方向に走るのだろうな。(エロオランダ人監督と同じ 方向) そして、この作品をもう少しおとなしくさせるとディックっぽくなりそうな気がしたの は気のせいか。 逆にディックがそのディックらしい部分を抜いていくと作劇法としてはハインラインっ ぽくなりそうな。 …などと考えてもみたが、そういう部分は詰まる所そのハードボイルドチックな文体が 似ているだけだなとふと思った。 ううむ、だんだん訳が分からなくなってきたのでこの辺で。

「愛に時間を」"Time Enough for Love"(1973)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/07記) 4,000年以上も生き銀河の人類の多くが子孫である男が死に場所を求め訪れた先で、 その子孫から助けを求められる。 しかしすべてを体験しこれ以上生きることに価値を見いだせない男はそれを拒否。 子孫は何とかして協力を得るために…。 という冒頭から、このタイトルに結びつく展開へ。 その展開の強引さもハインラインらしいといえばらしいのだけれど、そこから始まる 話にはいろいろと考えさせられるものがあり、やはりハインラインはいいよなぁ。 なんて思っていたら、前科があるのである意味予想していた展開ながら、まさかそこ まで持っていくとは! さすがの私も生々しさにちょっと引いたぞ。(笑) まぁこういうところでの帰結点の容赦なさもまたハインラインらしいんだけれど…。 ちょっと中盤まである意味心を持っていかれていただけに最後まで乗り切れなかった のは喜ぶべきか悲しむべきか。 中盤や引きの見事さは「夏への扉」クラスのお気に入りだけになぁ。 あ、ロリ属性はあってもエディプス属性はないというのではなく、どちらの属性も 持っていないということで念のため。 第一「夏への扉」のあれは成長後だし…あ、ピュグマリオン属性もないので念のため。 そういえば「エディプスの恋人」もそこらへんはちょっと引いた覚えが…。 (それでもあの作品は好きだという点ではこの作品と同じか。) 何か泥沼になってきたのでこの辺で。

「獣の数字」"Number of The Beast"(1980)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/22記) 「獣の数字」"THE NUMBER OF THE BEAST"を読了。 ゼバディア・ジョン・カーターはプロポーズした女性、デジャー・ソリス・バロウズの 父親が発明した多元宇宙連続体飛行機で、彼女、彼女の父親、そして彼女の叔母と共に、 自らの身を守るための旅に出る。 で、旅の道程に必要な条件を彼らの体験を通して描いていくのが目的かと思いきや…。 やりやがったなハインライン! あなたは本当に自由だ。 「愛に時間を」の終盤で「あ、これはカンザスシティへと向かう旅なんだな。」なんて ことをなんとなく思っていたが、あなたの思いはそれだけじゃ飽き足らず、とうとう ここまでやったか。(笑) 一見さんお断りなどころかコアな人じゃないと付いていけんぞ。 とは言いつつも判りやすい部分もあり、ボブ、アイザック、クラークなんて名前が出て きたからと思ったらそっちかい!なんてのもあり。 思えば、最初からジョン・カーター、デジャー・ソリスなんて名前が出てきた時に 気づくべきだったな。 獣の数字=THE NUMBER OF THE BEAST=666の使い方は「それだったのか!」と 思いきや、「それだけじゃなく」入れられるものはすべて入れてしまう部分はとても ハインラインらしい。 しかし本当にあなたにはタブーというものが無いな。 だからこそ好きなのだろうなあ。

「ヨブ」"Job:A Comedy of Justice"(1984)

  by Robert A. Heinlein (2009/10/30記) ハインラインの「ヨブ」を読了。 カンザスシティ! [愛に時間を」以降(だったと思う)ハインラインのすべての邦訳作品のキーワード とも言えるこの都市の名前がこの作品にも存在する。 しかし、その中で唯一「未来史」シリーズと関わらないでもある。 それでいて、「カンザス」と対をなす「竜巻」が唯一出てくる作品でもあった。 故に、だろうなぁ、ある意味唯一物語的なハッピーエンドを迎えられる作品でもあった。 YELLOW BLICK ROADは出て来ないがある意味それが目指していたもっと直接的な ものは出てくるし、何よりもこの作品が一番「オズ」へ向かう旅であった。 後期はインラインがここまでこだわり続ける「オズへの旅」(正確にいうと「オズ」へ いくのも目的をかなえるための手段でしかないが)は言い換えてみれば「夏への扉」を 探し続ける護民官ピートと同じものである。 私がここまで愛してしまうのも、「愛しているものの別の形」だからだったのだと 今更ながら気づいた。 「ヨブ記」さながらの苦難の旅を続けるアレックスの旅は、見方を変えてみれば 「夏への扉」でのダンの旅と同じである。 「夏への扉」を探し続け、最後に得られたのは愛するものとささやかな生活。 形を変え、綴られ続けた「夏への扉」。 これが後期ハインラインだったのだな。 それほどまでにハインラインは「夏への扉」を愛していたのだと私は妄想する。

「落日の彼方に向けて」"To Sail Beyond The Sunset"(1987)

  by Robert A. Heinlein (2009/09/18記) ハインラインの遺作「落日の彼方に向けて」"TO SAIL BEYOND THE SUNSET"を 読了。 「愛に時間を」の主人公ラザルス・ロングの母親であるモーリンを主人公とし、彼女を 通してハインラインの幾つかの作品世界が起こるであろう過去を描いた物語。 今、私たちにとっても過去の話なのだけれどまあ一筋縄ではいきません。 話の舞台は未来だし。 まあハインラインの作品すべて読んで頭の中に入っているときに読むとさらに面白い ものになるのだろうけれど、まあそこまでしなくてもじゅうぶん楽しめました。 そして… 電車の中で読むものじゃなかったな。 朝の通勤電車で、必死に涙を堪えてました。 ずるいよ。

「複眼の映像 −私と黒澤明」(2005)

  by 橋本忍 (2007/11/03記) 「複眼の映像 −私と黒澤明」を読みました。 実は本来この手の本はあまり読まない。 記憶にある限りでは「スカイウォーキング」と「メイキング・オブ・ブレー ドランナー」くらいじゃないかな。 しかしどうやら、『椿三十郎』のリメイク話でも再加熱しなかった黒澤熱が 『隠し砦…』リメイクで火がついてしまったらしい。 それとも、もうじき『椿…』が公開なのと、先日観てしまったドラマ版「天 国と地獄」に触発されたのか。 この病気は昔かかったことがあり(ここにはいない)何人かの人に迷惑をか けたことがあるのでできるかぎり避けたかったのだが…。 それはさておき、まず脚本家橋本忍から観た脚本家黒澤明の創作の現場話と しては非常に面白く、興味深かった。 ただ、かなり冷静に判断しているところも多い反面、そういう部分から急に 飛躍して自分語りになってしまったり、想像を断定で書いているような雰囲 気も見受けられ、なんと言うか『幻の湖』を観たときと同じ感覚…この人は 脚本家としては素晴らしい人なのだが映画を撮るには不向きなんだなぁとい う感覚… を抱いてしまった。 読者の視点を分かっているように思えるにもかかわらず、たまに自分を制御 できなくて暴走している…ように思えた。 まぁ私の視点も十分歪んでいるので他の人が見ればそんなにひっかからない のかもしれないが。 もっとも本文中でも自作『幻の湖』に対するコメントもあり、以前小國英雄 に「(シナリオライターとしての)腕力の強さで(橋本忍に)かなう者は日 本には誰もいない。しかし腕っ節が強すぎるから、無理なシチュエーション や不自然なシチュエーションを作る。成功すれば拍手喝采だが失敗する可能 性の方が高いし遥かに大きい」と忠告されていたのに、出来た脚本がそうな ってしまい自信が持てずあれこれ悩んでいるうちに制作準備が進んでしまい 後に引けなくなりスタートした結果、脚本の無理が祟り作品の出来がもう一 つになってしまったとあった。 あの状況に比べれば、本書は遥かに成功しているのだが、やはり本質的には そういう傾向があった人なのだろうなぁ。橋本忍という人は。 ある意味、黒澤明をと橋本忍のふたりについていろいろ考える事が出来るお 得な本でした。(まぁ副題が「私と黒澤明」だからタイトルに偽り無しか。 (笑)) というわけで、今、手元には図書館から借りてきた「全集黒澤明」の第五巻 があります。 掲載作品は『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』 『赤ひげ』そして『暴走機関車』。 この中で、シナリオとして一番読みたいのはやはり『暴走機関車』。 ちなみに個人的に一番好きな『隠し砦の三悪人』は以前シナリオ本を古本屋 で購入しており、裏ベストの『醜聞(スキャンダル)』は唯一老後の楽しみ として未見のままにしてある『生きる』と同じ巻にあるため、まだ借りるの を躊躇しています。(読まなきゃいいんだけれどね。) いや、本当にシナリオとして読みたいのは『醜聞』と『酔いどれ天使』。 どちらも、前者が三船敏郎、後者が志村喬の演技に引っ張られて話が変わっ てしまったと言われている作品なので、その話が本当なのか、元の話が本当 はどうだったかを観てみたい気がします。 まぁまずはその前に第五巻だな。

「宇宙兵ブルース」"Bill, the galactic hero"(1965)

  by Harry Harrison (2008/08/15記) 「宇宙兵ブルース」を読了。 ("Bill, the galactic hero" by Harry Harrison 1965) 『ソイレントグリーン』の原作者(原作は未読)という 認識でしかなかった人なのだけれど、これはきついわ。 特に「宇宙の戦士」の後に読んだものだからその落差が 厳しくて、読みながらホントに目眩がしました。(実際 に3日間くらいかけて読んだのですが、その間観た夢も また混沌としていて辛かった。) さらにちょっと長めの出張明けで日本食に胃がなじまな くなっていて刺激物や油物、消化の悪いものを控えざる を得なかったので大幅エネルギーダウンしている最中に これというのがまたきつかった。(体力が少しでもあれ ば、まだ楽だったのだけれど。) これで面白くないとか趣味嗜好に合わないならまだしも、 どちらも普通の状態なら好きな部類なので止める気にもな らない。 バッドトリップな日々を送らせていただきました。 まぁそんなわけである意味これを読むには最良のコンディ ションで読んだのですが、やはり語るべきは「宇宙の戦士」 との対比だわな。 まず思ったのが、ある意味「宇宙の戦士」が科学的な興味 から針小棒大に話を発展させたバカ話という考え方は正し かったのかもしれないということ。 この「宇宙兵ブルース」には(同じようなテーマ、攻勢に も関わらず)そういう考えは微塵も無く、ただひたすらブ ラックユーモアに終始しているのみで、バカSFというより は逆にこういうものこそいくらなんでもそこまでやらなく てもいいんじゃないかと思うくらいのパラノイアな思想小 説なんだろうなぁ。 (これでボネガット並みのインテリジェンスが匂えば良い のだけれど、それさえも自ら拒否している。) さらには前者は作品とその世界に対する愛情に満ち満ちて いるのに対し、後者は作品世界に対する嫌悪感しか感じら れない。 理想に満ちた前者と現実をさらにデフォルメした後者。 どんなに凄惨でも希望に溢れた前者と、どこまでも救いの 無い後者。 けれども、作者の作品に対する愛情の無い小説は大嫌いな 私でもこの作品を好きになれるのは…、それが突き抜けて いるからなのだろうなぁ。 うむむ、感想まで訳判らないものになってきたのでこの辺 で。 (語りたい事はいろいろあるのだけれど。)

「主人への告別」"Farewell to the Master"(1940)

  by Harry Bates (SF映画原作傑作選 創元SF文庫より) (2008/12/27記) 「主人への告別」"Farewell to the Master" by Harry Bates (1940) 『地球の静止する日』"The Day the Earth Stood Still" (1951) および『地球が静止する日』(原題同じ)(2008)の原案中編。 (映画は未見) 映画の方は、まず主張したいことがあって そのための原作を探 し この作品を選んだということだけあって、ほぼ別物とのこと。 冒頭の各キャラクタのシチュエーションから最後に至るまで、 見事にミスディレクションされまくりました。 作品としてはハリウッド大作というよりは東宝特撮シリーズだ よなぁ。 あのテイストに頭の中で当てはまると本当に見事にハマる。 今ならそうだなぁ、舞台を日本に置き換えて塚本晋也あたりに 作ってもらうと面白いかも。(もちろん低予算。)

「ハイドゥナン」(2005)

  by 藤崎慎吾 (2008/10/13記) 「ハイドゥナン」を読了しました。 (「ハイドゥナン」(2005)by 藤崎慎吾) 昨日の昼に借りてハードカバー上下巻1,000頁ほぼ 一気読み。 この間読んだ同著者による「蛍女」にちょっと不安 な点があったので正直恐る恐るな部分があったので すが、こちらはその部分が見事にクリアされていま した。 ある種のハードSFにありがちな「説明過多」になり すぎて本筋がちとおざなりになっていた部分を、 「説明」の量はそのままで他の部分を増やした=頁 数増やした事で見事にバランスが良いものになって いる。 まぁスケールははるかに大きなものになってはいる んだけれどね。 後は「蛍女」のキャラクタの一部をそのまま使って いるのでキャラクタ説明も熟れたものになっている。 しかも話的には繋がっているので、「蛍女」を読ん でおけば話に広がりも感じる事が出来る。 こうやって著者が成長して行くのをみるのもまた良 し。 で、上記のようにかなり熟れてきたのだけれど、こ の人の場合は、まず主要キャラ全部出して、それか ら話を大きく動かすというのが何かマニュアル的な 話の作り方に相変わらず見えてしまうのがちょっと 残念。 その代わり話が動き出してからの疾走感はそこそこ になってきてはいるし、伏線的な部分のオチが割と (私にとっては)オーソドックスなところに落ちる ものの、そのオチた時のじわじわ〜っという感触が たまらないわな。 大オチもある意味期待通りのところにきれいに落ち ていたし。 (神様話なら…ってネタバレになってしまうか。(笑)) しっかりと楽しませていただきました。

「蛍女」(2001)

  by 藤崎慎吾 (2008/09/29記) 「蛍女」を読みました。 (「蛍女」(2001)by 藤崎慎吾) 基本アイデアな部分はとても興味深かった。実際にその手の 論文(?)出ていてもおかしくなさそうだし。(それとも本 当にある?) そしてそれを肉付けするための作業は本当に楽しかったんだ ろうななんてところが見て取れる。こういうのってどこでど こまで嘘を混ぜるのかが腕の見せ所なのだけれど、そういう のを楽しんだんだろうなぁ。 ただ、この人の弱点はそれを補完するためにさらに必要とも いえる語り口がちょっと弱いか。(語り口に惹き付けるもの がちょっと弱いというか) 文章以外の表現方法であれば私の場合特に気にならないのだ けれど、そこだけがちょっと残念。 まぁその代わりにキャラクタが魅力的なのと、そういうキャ ラクタを配することができたが故にできる後半の個別行動な クライマックス作りが面白かった。 ただこれも、この話を作る上で必要だったというよりは、こ れをやりたいがために作られたシチュエーションにみえてし まうのがちょっと難点か。 などといろいろ書いているけれど、物語としてはとても好き な物語。 漫画や映像になると上記の部分も消えてしまうと思うので、 そういう意味で見てみたいものです。

「盗まれた街」"The Body Snatchers"(1955)

by Jack Finney (2008/06/21記)  先々週の出張の共に成田で買ったのはジャック・フィニィの「盗まれた街」。 個人的にはエリオット・グールドの『SFボディ・スナッチャー』なのですが、SFの古典と もいえるこの作品を読む機会を得ました。(同じ本棚に「夏への扉」もあったのでどっち にしようか悩んだのですが。) 『SFボディ・スナッチャー』ももう20年以上前に観たきりだし印象的なシーンのイメー ジ以外はすっかり忘れていたせいもあってけっこう楽しめました。(まぁよくも悪くもハ リウッドテイストになっちゃてるからなぁ、映画の方は) 集団ヒステリーに関する話をうまく挿入することでそれまでやや退屈になりかけていた話 を一気に加速、と同時にそれも伏線にしてしまうところは見事。途中で仕掛けが見えてし まうものの、着地点が見えるわけではなく、むしろ読者は気づいているのに主人公たちが 見えていないパターンだから(やり方によっては醒めてしまいかねないものの)なんとか 楽しめました。 戻るところの動機付けに関してはちょっと弱かったと思ったものの、それが結局正しい結 果に繋がったところは作者個人の信念によるものなのだろうなぁ。 そういえば『インベーション』のほうはキャラクタはいろいろ替えているものの原作によ り近かったという話をどこかで読んだような気もするけれど、あれを使ってのくだりは今 のハリウッド的にはOKなのかな? 個人的にはB級臭漂う作品のうまいジョナサン・デミやフランク・ダラボンあたりに愚直 なまでに原作そのままに描いてもらえると面白そうだなぁ。 サム・ライミくらいになると力の入れどころがやや違う作品になってしまいそうだが。 などといろいろな監督に当てはめてみるといつまでも妄想が続きそうな作品でした。(ク ローネンバーグとかシャラマンとかフィンチャーとか、それこそカーペンターやデ・パル マ…)

「刺青の男」"The Illustrated Man"(1951)

by Raymond Douglas Bradbury (2008/06/30記) 「万華鏡」を読んだ繋がりで、その全体をなす短編集、「刺青の男」を読みました。 どれも死の匂いと冷たい現実を含んだロマンチック(場合によってはノスタルジー)に溢 れた物語で、物語そのものの連続性は無いものの、あきらかにひとつの物語として成立し ているあたり見事。 それを成立させているのが、最後の話とその一つ前の話。 ひとつ前の物語にこれを持ってきたというのがいいわな。 そして最後に最初の話に対するこういうオチを持ってくることで全体がひとつの話となっ ている。 あと思ったのは、ひとつひとつの短い話に語られない多くの部分を想像させる見事さ。 彼らはその瞬間のみを生きているのではなく、そこに至るまでの各々の人生が見えるんだ よなぁ。 そこをあえてすべてを文章で表現する事無くあくまでその物語の一部分のみにスポットラ イトを当てて描いているその手法が面白いなと思いました。 (まぁどのような短篇もそういう側面はあるものの想像させる幅がとても広い。) これがブラッドベリのうまさなのだろうな。

「万華鏡」"Kaleidoscope"(1951)

by Raymond Douglas Bradbury (2008/06/27記) かの作品のある場面の元ネタといわれているブラッドベリの短篇「万華鏡」を読みました。 ブラッドベリ!と言える作品でまさにこう来たかという感じでした。 これは元ネタと言われても仕方が無いな。 ただそれを、石森章太郎はあの場面から繋ぐ事でさらに大きな落涙のシーンへと変貌させ たのですが。 これを読んだ事で、あのシーンの印象が変わってしまうような事にならなくて良かった。 それまでを読者の想像にすべてを委ねる作品を作ったブラッドベリと、読者との共有時間 の果てに敢えてこれを持ってきた石森章太郎。 どちらも素晴らしいな。 (「刺青の男」ハヤカワ文庫NV111所収)

「趣味の問題」"A Matter of Taste"(1952)

  by Ray Bradbury (SF映画原作傑作選 創元SF文庫より) (2008/12/27記) 「趣味の問題」"A Matter of Taste" by Ray Bradbury (1952) 『イット・ケーム・フロム・アウタースペース』"It Came from Outer Space"(1953)に原案とされる短編。(映画は 未見。) というよりは、実際にはブラッドベリが"Ground Zero"とい うほぼ映画に近いものを映画用に書き上げており、その原案 としてこの「趣味の問題」を使っているらしいとのこと。 (この映画におけるブラッドベリのクレジットは「原案(story)」) 今回読んだアンソロジー、「SF映画原作傑作選 地球の静止 する日」の冒頭にこの作品を持って来たのは見事! 作品の冒頭から見事に「これぞSF!」的なシチュエーション から始まる。 そしてその作り出されたシチュエーションの見事な事!  いかにもブラッドベリなテイストに満ちている。 惜しむらくは、この作品で一番のポイントである視点が映 画では逆になってしまったらしいとの事。 ぜひこの作品設定そのままで実写映像化して欲しいもので ある。

「007/ゴールドフィンガー」[改訳版]"Goldfinger"(1959)

by Ian Fleming (98/08/29記)  一見荒唐無稽とも思える話を、豊富な知識と絶妙な話のリズムで、読む人を 惹きつける第一級のエンターテイメント。 これが、この007シリーズの原作者イアンフレミングの真骨頂とも思えるの ですが、その中でも、話の荒唐無稽さと知識のブレンドというものが、もっと も成功していると思うのが、この「007/ゴールドフィンガー」じゃないか なと思います。話の展開の仕方となると「007/ロシアから愛をこめて」 (原作邦題は「ロシアより・・」ではない)に一歩譲らなければならないし、 さらに全体のバランスという面では「007/カジノロワイヤル」に譲らなけ ればならないのだけれど、それでも、このゴールドフィンガーは、大好きな作 品です。  007とゴールドフィンガーの出会い方といい、そこから、徐々にゴールド フィンガーの、狂気に囚われないサイエンティストぶりが、最後のこの大仕掛 けまで一気に引っ張ってくれるところといい、良いよなぁ!  そして、この原作を映画化した同名の作品も、その映画としての展開のさせ 方がとてもうまかったですよね。  原作では結構凄惨なシーンになりそうなフォートノックス襲撃のシークエン スなんかは、原作からさらに荒唐無稽なエンターテイメントに進んで、伝説に でもしたいくらいの最高の展開をしてくれるし、話のちょっとした部分も印象 に残るようなシーンにしてくれてました。果てにはDB3の助手席まで飛ん じゃうしね。(笑)  あと、実は私が初めて翻訳者というものを意識したのが、この作品の翻訳を した井上一夫さんでした。この人の功績というのもかなりあると思います。0 07シリーズを面白いと思ったのは。 そういうこともあって、既に文庫判の原作を持っているのにもかかわらず、今 回[改訳版]を買うに至ったのでした。さーーて、これから最初の訳の方も読ん でみようかな? 98/08/29 かなめ

「女王陛下の007」[改訳版]"On Her Majesty's Secret Service"(1963)

by Ian Fleming (99/03/28記)  この作品も、[改訳版]が出たと言う事で、久々に読み返してみました。 この「女王陛下の007」。映画化された同名作品は、007シリーズの中で 一、二を争うほど好きな作品ではあるのですが、その原作であるこの作品に関 しては、他の同シリーズ原作小説に対して、やや冗長な部分があるかなと思っ ていました。  ところが、今回読み返して思ったのは、そんな事ない、全然面白いじゃない ですか!  映画の『女王陛下・・』の面白さは、これはもう監督であるピーターハント のセンスの良さがかなりの部分を占めていると思っていたのですが、今回読み 返してみて、「あ、これは脚本作るのも、めちゃめちゃ楽しかったんじゃない かな?」と、感じました。  この映画って、原作の、とても絵になる部分が、とても印象的に映像として 残されているんですよね。一番象徴的なのが、アルプスの山々の中を、夕陽を 浴びながら飛ぶ、輸血用血液の空輸ヘリと、ミラージュとのシーン。もう、そ のまま文章になっています。  他にも、ピズ・グロリアからの脱出からトレーシーとの再開のくだりなんて、 映画よりこっちの方が個人的には好きかもしれない。 まぁ、映画の場合は、後のピズ・グロリア襲撃シーンが小説ではやや淡白にな りすぎなのを盛り上げる為に、少々無理してしまったのかな、というのはある のですが。(原作の007シリーズは、総じて最後のクライマックスはやや淡 白。)  そして、フレミングの豊富な知識が織り成す、「俗物根性を満たしてくれる 数々のうんちく」も、本当に嫌みなく、文章の中に織り込まれています。映画 だと、やはりこの部分が、どの作品でも希薄になりがちなのがとても残念。  前に読んだ時に思った、紋章院のくだりの長さも今回は気にならずに読む事 ができました。  これは、もう少し原作よりな再映画化っていうのも観てみたいな。 誰か作らないかな。

「007/ゼロ・マイナス・テン」"Zero Minus Ten"(1997)

by Raymond Benson (2003/03/30記)  イアン・フレミングが生んだジェームズボンドシリーズの ジョン・ガードナーに継ぐ3代目の後継作家、レイモンド・ ベンソンによる初の長編作品「007/ゼロ・マイナス・ テン」を読みました。 このレイモンド・ベンソン、007フリークが昂じてという 出自だけあって、過去の作品、イアン・フレミングの小説と ショーン・コネリー主演の映画からの影響が非常に大きいと いうのが、この作品から既に全開状態となっています。 これは、ファンとしては嬉しい限りなのですが、かつての映 画のシリーズがそうであったように、限界が見えてしまいそ うなのがやや不安でもあるかな。 さて、今回の舞台は中国に返還される直前の香港。 この返還当日をゼロアワーとして直前の10日間のボンドの活 躍が描かれています。故に、「ゼロ・マイナス・テン」とい うタイトルで、言ってみれば007シリーズ版「ゼロ時間へ」 (アガサクリスティーの小説"TOWARDS ZERO")。 三合会という香港の地下組織と香港を拠点とする貿易会社に 中国の将軍が絡んで、香港という都市の歴史まで絡めた話と なっています。 しかし、物語を進める上で、虚構を際だたせるための現実世 界の膨大なうん蓄を使う手法もさすが。 往年のシリーズを髣髴とさせるもので、こういうところも喜 ばせていただきました。 一方、善悪揃った役者の配置は映画からの影響が大きいのか な。特にボンドガールが香港が舞台だからといっていきなり カンフー使ってしまうのはなんとも。(^^) kaname

「007/ファクト・オブ・デス」"The Facts of Death"(1998)

by Raymond Benson (2005/06/16記) 久々に本の感想など。 この作品はフレミングの2代目の後継者、レイモンドベンソンによる ジェームズボンドシリーズとしての第三作。 このレイモンドベンソンの作品は、特に過去の作品へのエクスキューズが 多いという事はその後継者としての処女作、「ゼロマイナステン」でも 思ったのですが、今回は特に多い。 ざっと思いつくだけでも、「ドクターノォ」「ムーンレイカー」 「死ぬのは奴らだ」「ロシアから愛をこめて」「007は二度死ぬ」 「女王陛下の007」「サンダーボール作戦」。 さすがに少し多すぎかなとは思いました。 さらには初代Mのメッサヴィー卿まで出てくるし。 語り口を似せているのは割と良いかなとは思うのですが、それにこれが 加わるとなぁ。 お題としては、冷凍精子ビジネスということで面白いと思うだけに少し残念。 元々がマニアな人だというのが今回は悪い方向に作用したかなと思いました。

「007/赤い刺青の男」"The Man With The Red Tatoo"(2002)

by Raymond Benson (2005/06/18記)  レイモンド・ベンソンのジェームズボンドシリーズとしては 映画のノベライズ2本も含めば8作目の作品。 邦訳としては"High Time To Kill", "Doubleshot", "Never Dream Of Dying" という三作をすっとばしての作品なので、冒頭部分の前作↑を引きずった 設定にはやや戸惑いもあり。 しかしながら日本が設定という事と、ボンド自身が日本という国に行く事に 対し以前来日したときに起こった事をこだわっている事から「007は二度 死ぬ」をかなり意識した内容だという事がわかり、それ故に前作の設定は必要だ という事もまぁしょうがないのかなとは思った。 と、それくらい「二度死ぬ」オマージュな部分の多い作品。 物語の基本ラインの部分を除けば、ほぼ至る所に見え隠れしています。 あと意識しているなと思ったのが映画版『黄金銃を持つ男』。 小人を意識した河童というキャラクターは読みながら(劇中では日本人なのに) あのキャラクタが頭の中にずっと浮かんでいました。 ずっと浮かぶと言えば、本作は日本が舞台という為か、かなりの部分が 映像で想像しやすいようにも思えました。舞台やキャラクタの想像がしやすい といったところか。 タイガー田中は今の丹波哲郎で行けそうだし、田村礼子やマユミマクマーンは 何人か当てはまりそうな人も想像できる。 そういう意味で、今一部で話題になっている映画の誘致活動が起こるというのも 納得できるような作品でした。 (ノリカという名のソープランド嬢も出てくるのも何かのエクスキューズか?(^^))

「007/ダイ・アナザー・デイ」"Die Another Day"(2002)

by Raymond Benson (2003/03/16記)  いよいよ先週から日本でも公開が始まった007シリーズ20作 め&40周年記念作品、『007/ダイアナザーデイ』。 この本編のほうも楽しみなのですが、それ以前に、個人的には小説 からファンになったシリーズですので、例えノベライズであっても 先に読みたい! ってことで、竹書房からでているノベライズ版「007/ダイ・ア ナザー・デイ」をまずは読んでみました。  ちなみにノベライズを担当しているのは、イアン・フレミングの 書いたシリーズの後を正式に受けて書いている2人めの作家、レイ モンド・ベンソン。イアンフレミングの原作のタイトルとしては存 在しない「消されたライセンス」以降の作品は同シリーズの小説の 後を受けて書いている2人の作家、ジョン・ガードナー(「ゴール デンアイ」まで)とレイモンドベンソンの2人がノベライズも担当 しているので、ノベライズといえど、ある程度のものにはなってい ます。 さて、ここからはたぶん本編にも触れるかもしれないので、念のため 改行。 このレイモンドベンソンという作家、元々は早い話が007オタク みたいな人で、故に「トゥモローネバーダイ」以降の彼の手掛けた ノベライズは今までの作品へのオマージュ的な部分も多かったと感 じていたのですが、今回は凄い。 たぶん、これは彼のあまり関わっていないであろう脚本段階からの アイデアだと思うのですが、特に過去の映画からの引用が半端じゃ ないです。 予告編でもかかっている「海から上がるハルベリー」がイコールで 『ドクターノオ』におけるウルスラアンドレスのそれをイメージし ていたであろうことは割と判りやすいのですが、その他に白い猫 (あ、これも判りやすそう(笑))とかだけならいざ知らず、実在 する鳥類学者のジェームズボンド氏の本が出てきたり(イアンフレ ミングはこの本の作者の名前を自分の小説の主人公の名前にした。 また『ドクターノオ』の中でもこの本出てきます。(^^))レーザー 光線による股裂き(『ゴールドフィンガー』)、敵に捕らえられて 何年間も幽閉されていたり(ええと小説の「2度死ぬ」だったか な?)、『ムーンレイカー』のドラゴを髣髴とさせるグレーブスの 設定などなど。 こうなると、療養所が出てきたり(『サンダーボール作戦』)や、 タフな韓国人の手先(『ゴールドフィンガー』のオッドジョブや ゴールドフィンガーの手先はすべて韓国人という設定)、敵と味方 が実は逆であった(『ユアアイズオンリー』)、女性スパイとの タッグチーム(これは『私を愛したスパイ』と『トゥモローネバー ダイ』)などまで勘繰ってしまいたいぐらいの思わせぶりな語り口。 そういえば敵国の諜報機関の中に別組織があったり(『ロシアより 愛をこめて』)ダイヤモンドがらみの話(ってこれは『ダイアモン ドは永遠に』)までこじつけられそうだ。 (ええと、本当はもっとあったような気もしたのですが読んでから 既に数週間たっているのでやや忘却のかなた) まぁどこまで意図しているかは判りませんが、本作品は少なくとも 『オースティンパワーズ』よりも007マニア度の高い作品になっ ていそうなので、とても楽しみです。(^^) kaname(CXE04355)

「007 猿の手を持つ悪魔」"Devil May Care"(2008)

  by Sebastian Faulks (2010/06/06記) 「007 猿の手を持つ悪魔」を読了。 この作品がフレミングの生誕百年記念作品として刊行されたのは知っていたものの、邦訳 されていたのを実はつい先日まで知りませんでした。不覚。 まぁおかげでその時に入手していた情報すべてがまっさらな状態で読めたのはある意味得 したかもしれないな。 Raymond Bensonのようにマニアックではないが、実にうまい形で今までのフレミングの 描いたジェームズ・ボンドシリーズを拾い上げた作品となっていました。 ただ訳者がそれを判っていて訳しているように見えないのがちょっと引っかかったかな。 まぁ判る人には判るからヒントだけ訳中に残しておけば良いだろうという意図だったのか もしれないけれど、もう少しストレートに出てきた方が良かったかな。(まぁこれは作者 のセバスチャンフォークスの意図なのかもしれないが。) というよりはたぶん、私は井上一夫的な訳をどこかで期待していたのかもしれない。 (「ここはこういう意味もある」みたいな訳注が付くような形) まぁそういう瑣末なことは置いておけば十分に楽しめるし、楽しませるために作った小説 だということがとても良く判る。 まず、時代設定をフレミングやその後継者が続けていた「刊行時点のリアルタイム」な話 というところからあえて外して、フレミングの遺作となった「007/黄金の銃を持つ男」 から1年半後という今となっては40年以上前(本作品の刊行当時からちょうど40年前) としたことだけで、もう過去作品との結びつきが強くなった気がする。 その当時であれば、過去作品で起こったできごとに作中のボンドが思いを寄せることがあっ てもより不自然さがなくなるもの。 故にルネ・マティスもフェリックス・レイターも、そしてもちろんMやマネーペニーも当時 の延長線上として存在している。 (さすがにメアリー・グッドナイトはいないがローリア・ボーソンビーやメイもいるし。) と同時に、その時期はといえばまさに冷戦まっただ中。 まさにネタの宝庫となった時代にフレミングが存命していなかったことを今更ながら気づか された次第でもありました。 で、一方でガジェットの扱い方や舞台は、それこそ原作設定の世界感ながら映画のほうの 雰囲気を持ってきているんだよな。 さながらサンダーボール的なアレとか、リビングデイライツ的なアレとか(まぁうがった 見方だけれども。) そしてやはり忘れてはならないのが、フレミング作品の特徴でもあるディテールに対する こだわり。 残念ながら後期のフレミングのように本筋忘れてしまうまでのところまではいかない(と いうかそれをやったらパロディになってしまう)ものの、そこの匙加減がまさにフレミン グ作品のツボ。 あと、ボンドが受ける苦痛と与える苦痛、偏質であるが故に大物感と小物感のいりまじっ たキャラクタを持つ悪役の作り方やその末路などなど、好きなところは多数。 そんな中で一番のお気に入りは…まぁここでは書かないでおこう。 実はあれこそがもっともフレミングらしいやり方であるのだから。

「終わりなき戦い」"The Forever War"(1974)

by Joe William Haldeman (2008/07/21記) (実は読み終わってから10日以上経ってしまっているのですが)ジョー・ホールドマンの 「おわりなき戦い」を読みました。 冒頭の作者の言葉にもあるように、「異星人(異邦人)との戦い」と「時間」というアメ リカ人兵士から観たヴェトナム戦争の象徴的な部分をここまでかといえるくらいにデフォ ルメすることで非人間的な状況を表してしまったことは本当に見事。 そしてそれ以上に見事だったのは社会性のあるメッセージで終わるかと思いきや…。 いや、最後の最後までここまで書いてしまうのはホントに凄いなぁと思いつつ読み進めて いたのですが、最後にこれを持って来られた時には号泣ものでした。 本当に最後のページをめくるまで、ありうるとは判っていたのですが語り口のうまさで頭 の中がそっちに向いていなかった瞬間にこれだからやられました。 これ、本当に電車の中で読まなくて良かったわ。

「ロト」"Lot"(1953)

  by Ward Moore (SF映画原作傑作選 創元SF文庫より) (2008/12/27記) 「ロト」"Lot" by Ward Moore (1953) 『性本能と原爆戦』"Panic in Year Zero!" (1962)の原作と 言われている中編。(映画上では"uncredit"、また厳密には 本作とその続編「ロトの娘」までが原作らしい。) (映画は未見。) この手のパニックもののお決まりなシチュエーションからい きなり始まり、しかも最後まで何がおこっているかの説明は いっさいなし。 日本人に判りやすい言い方をすれば、「怪獣の一切出てこな い怪獣映画」といったところか。 さらには主人公が家族とともに出発する前段階の描写も一切 なし。 いきなり出発シーンから始まり、何がおこっているかではな く、そのシチュエーションに置かれた家族のリアクションと そこから派生する行動にに至るまでの顛末が書かれているの みである。 話の終わり方も非常に潔い。 描きたいシチュエーションだけ書いて、「後は勝手に想像し てね」というのはSF中短編ものとしてある種鏡たる作品であ るわな。

「女囮捜査官」シリーズ(1996)

  by 山田正紀 (2006/12/23記) たまたま観ていたテレビの2サスでかかった「おとり捜査官 北見志穂」のオープニング ロールで「原作 山田正紀」の文字をみつけ、思わずその原作「女囮捜査官」を買ってし まいました。 基本的には警察ものであるものの、全5作のサブタイトルが「触姦」「視姦」「聴姦」「 嗅姦」「味姦」などが示す通りのジャンルではあるのですが、やはりここでも話を転がす 事のうまさ全開。(というよりはある意味得意分野か。(笑)) そしてそのどんどん転がっていく話の中を泳いでいく主人公はもちろんのこと脇役のすみ ずみに至るまでのキャラクタ作りのうまいこと。 さらにここに警察の組織や鑑識などの蘊蓄の混ぜ方のうまさが絡まってくるのだな。 で、最後の最後に泣かされてしまったからなぁ。(ちょっとこれは卑怯だよと思いつつ。) さすが山田正紀としかいいようがない作品でした。 そうそう、こういうジャンルではあるものの、前述の2サスでは5作品とも原作ベースで ドラマ化されていた模様。 さらに、今はオリジナルを加えて11作まで作られているようです。私の観たのはすでにそ ういう匂いが無くなってましたけれど。 まぁ昔の土曜ワイド劇場は江戸川乱歩シリーズなどのエロ満開のものがあったので、そう いう意味では少し残念。(笑)

「深夜プラス1」"Midnight plus one"(1965)

  by Gavin Lyall (2005/09/25記) 「深夜プラス1」を読みました。出張のお供として。 実は初見です。 この手の作品に関してはけっこう好きだったりするのですが、意外と間口は 広げていない。けっこう読んでいない作品も多かったりしまして、その中の 代表的な作品のうちのひとつでした。 さて、これを読んでまず思ったものは、映像でぜひ観てみたいという 強い欲求でした。 時代がかった固有名詞の付け方・・・これが正確な訳によるものなのか 訳者の個性によるものなのかは原文を読んでいないのでわからないのですが、 これにはちょっと馴染むのに時間がかかったものの、そのイメージを絞り だすのは容易ですし、あとはこれをどうやってどう味付けしていくか。 想像するだけでもワクワクしてしまいました。 そして、映像を想像する上で、思わず思い出してしまったのが『隠し砦の 三悪人』。 保護すべき人間を伴っての敵中突破劇という意味で、ある意味きわめて オーソドックスでシンプルな「深夜プラス1」を読んで、これは素晴らしい と思いつつも、さらにいろいろな要素を加えた『隠し砦・・・』って やはり凄いわなと思いました。 あそこで、語り部としてそして枷として、あのふたりをつけて成り立てて しまうというのはまさにあの時代の黒澤作品の真骨頂だよなぁ。 まぁ逆にノベライズ化してしまうとするとこの「深夜プラス1」にはかなわ ないのであろうなというのもまた事実。 これはメディアの違いによる部分も大きいかなと思いました。

「スターウォーズ 崩壊の序曲」"Star Wars: The Approaching Storm"(2002)

  by Alan Dean Foster (2002/04/23記 at 「日本一勝手に『エピソード2』を楽しむサイト」)  いよいよ本日(4/23)発売した、エピソード2ののノベライズに先がけて そのエピソード2(「クローンの攻撃」)へのブリッジノベルである 「スター・ウォーズ 崩壊の序曲」を読みました。  著者は、スター・ウォーズのノベライズには非常に縁の深い、アラン・ ディーン・フォスター。  スター・ウォーズの最初のノベライズにおいて、ジョージ・ルーカスの ゴーストライターとして関わったものの、エピソード4と5のブリッジ ノベルとなるはずだった「侵略の惑星」が、発行後、「帝国の逆襲」の 路線変更により、事実上シリーズ外の扱いを受け・・・。  と、まぁ過去の事は過去の事。  本編の紹介です。 この作品は、タイトルが示す通り「崩壊の序曲」として、「エピソード1」の アナキン少年が、如何にしてジェダイのパダワン、アナキン・スカイウォーカー へと成長していったかを、とても強く感じさせてくれる小説でした。 はたしてエピソード2のみで、成長したアナキンをここまで描ききる事が できるか?というと、それは、これから読む「クローンの攻撃」が示して くれるはずですが、かなり難しいように思う。 そういう意味でこの作品は、(『エピソード2』を予備知識なしで観たい 人にとっては、まだ早い内容も多々あるものの)位置づけとして、あって 然るべきものかなぁと思いました。 同じくブリッジノベルである「シャドウ・オブ・ジ・エンパイア」(『帝国 の逆襲』と『ジェダイの復讐』のブリッジノベル)並みという表現が一番 良いかな。 あと、小説としても、キャラクタの使い方が、ウェルメイドな小説を感じ させてくれる、なかなかのものでした。具体的にどういうことかは、内容を 想像させてしまうのでこれ以上は触れませんが。 kaname

「スターウォーズ シャドウズオブジエンパイア」"Star Wars: Shadows of the Empire"(1996)

  by Steve Perry (97/08/05記)  実はですねえ、あの「ルークがいかにして『帝国の逆襲』から『ジェダイの 復讐』になるまでに急にあんなに強くなっちゃったのか?」と言うのは昔から 私も不満だったのですが、その空白部分を埋める小説が出て、それを読んで、 納得しました。(と言うか、その小説が面白かった。)  その小説の名は「シャドウズオブジエンパイア」。NINTENDO64の ソフトにもなっている話です。TVの宣伝なんかに出てくる、ダッシュレンダ ーと言う奴は小説ではサブキャラクタとなっていて、やはりメインはルーク達 となっています。あのESBのエンディングでチュウイとランドがファルコン で、カーボナイトフリーズされたハンソロをジャバに引き渡そうとするボバフ ェットを追って行くところから、ROJのオープニングの3POとR2−D2 がジャバの宮殿へと向かうシーンまでの話です。読んでいてうれしくなっちゃ いました。  そうそう、そのダッシュ君ですが、彼の載る「アウトライダー」と言う機体 が、しっかりANHの特別篇でモスアイズリー宇宙港でしっかり出て来ていた りするそうです。(当然追加されたシーンですが。)こんなところまで遊んで いる。(^^)  ダークプリンスシゾールとレイアとのくだりはちょっと(^^;でしたが、他は 本当に面白い。ルークが苦労して自分のライトセイバーを作りながらジェダイ ナイツになっていくくだりやら、何故レイアはあの賞金稼ぎの格好をしていた か、もしくはあのサーマルデトネイターはどこで手に入れたのかなんて事まで ちゃんと筋を通してくれるし、ベイダーと皇帝の関係なんかも納得できちゃい ます。  さらに前述のダッシュ君。ゲームの方ではそんなことはないだろうけど、途 中であっさり死んでしまうのは、やはりその後の話にまったく絡んでこないか らか。けど、そういったところも、話として面白くしている所なのだろうな。

「スターウォーズ ダークセイバー」"Star Wars: Darksaber"(1995)

  by Kevin J. Anderson (97/08/10記)  映画終了後の世界も描きつづけている、小説版『スターウォーズ』の世界。 その世界でのたぶん最初の区切りとなるであろう話がこの「ダークセイバー」 と言う小説です。  一応その設定上、その話以前に出てきた生き残りキャラクタ総動員した、 言ってみればオールスターキャストの話。そのうえ、その舞台として、映画 で出てきた世界、ヤヴィン4、ホス、ダコバなんかが出てくるので、ビジュ アル的な補完もされていて、嬉しくなっちゃうような話です。  そして、この話を書いているのが、今、この小説世界のみならず、コミッ クで展開されている、映画の4千年前の世界まで監修として入っている、 Kevin J. Anderson。多くの作家が平行して書いているため、比較的バラバ ラに進んでいるこの世界を一番把握している人間が書いているので、話もと てもうまく進んでいきます。  で、なんでダークセイバーなのかと言うと・・・、これは読んでのお楽し み。(^^) 思わずにやりとすることが出来ると思います。(何かに似ている しね。(笑))

「オルガスマシン」"Orgasmachine"(2001)

by Ian Watson (2001/09/23記)  『A.I.』のスクリーンストーリーを書いた、このイアンワトソンの この「オルガスマシン」。  初めからそういう意識を持って読んでいた部分もたぶんにあったせいか、 随所に共通点が見えてくる。  例えば、海の上を飛ぶ武装ヘリ。ゴミ処理場。公開処刑。超越したものの 登場。顧客のために擬似自我を植えつけられた存在。マッドサイエンティスト。 special&uniqueと思っていた自分がそうでない事に気づく事。オフ状態の自分。 もちろん、表面的なテーマは違ってはいるのだが、この2つのテーマがとても 近い事に思えた。「自我とは何なのか?」と、「愛するということはどういう 事なのか?」 どちらにも、ルールがあって形があるように、今、私達が生きている社会では 思われているが、実はそれは、例えば他人から押しつけられたものと、自発的 なものとのは違いがないものであったり、決められたルールは、実は本質的な 部分とは違った所から派生したものであるということを提示してくれる。  価値観を崩壊させることで、「では本質的には何をすべきなのか?」という 事を考えさせてくれる。  もし、これがキューブリックを捉えて離さなかったテーマであったとすれば、 それはものすごく納得のできる事かもしれない。 で、うーーーーん、と考えてしまうのは、果たして『A.I.』を観ずに、 この作品だけ読んで、同じ境地にまで達せられるのかということ。  話的な深さでいえば、こちらのほうがより深いものにみえるのだが、 映像・音楽・時間を絡めて、さらにより本質的な部分を際立たせた『A.I.』 …というよりは、ある種ストレートな屈折である本作品よりは、いろいろな意 思が絡んでびつになってしまった感もある『A.I.』のほうが、より情報量が 少なく、故に心に残ってしまったような気もする。 kaname

『スターウォーズ』シリーズ"Star Wars and other stories"(1977〜)

by Geroge Lucas etc.  実は"Star Wars""Empire Strikes Back""Return of Jedi"の三部作をいずれ も映画館で観ていないのです。どうやら私には、「映画を観たい時期」と「ほ とんど映画を見ない時期」というのがあって、三本ともその時期に公開されて しまったもので・・・。  そのかわりに、ノベライズについてはロードショー前後にいずれも読んでい たりします。  何故か?  答えは「小説のほうも面白かったから。」  このStar Warsのノベライズは、著者がジョージルーカス、翻訳者がSF作 家でもある野田昌宏さんと、当時小学生→中学生だった私の好奇心を見事に刺 激してくれました。 ビジュアルとしてのルーク、レイア、ハン、チュウイやダースベイダー、およ びC3PO、R2D2、ミレニアムファルコン、x-ウイング、デススターはちまたに溢 れていましたので、そのイメージが文章の力を借りて頭の中で動きまわり、映 画『スターウォーズ』とは別の小説「スターウォーズ」を作り上げてしまった のだと思います。 ですので、映画が一段落しても続いている小説世界のルーク達の物語は、いま だに私のお気に入りです。  まあ、書き手がいろいろいるので、話としての当たり外れはあるものの、ル ーク達はいまだに活躍しつづけています。

クリスマスにはクリスティを!!

(96/12/20記) 「クリスマスにはクリスティを!!」  このフレーズは私のお気に入りのフレーズです。  これは、アガサクリスティが、ある時期から年に一回クリスマスシーズンに 新作を発表するようになり、それで出版社が作ったキャッチフレーズだったと 思います。(注・ここらへんの記憶はかなり曖昧)  私はクリスティの(特に長編の)作品は好きで、長編に関しては結局すべて 持っていたりします。推理小説の形を持った恋愛小説。それがクリスティの長 編すべてにあてはまる特徴であり魅力だと私は思っています。  人が人を愛するが故に起こる悲劇。それは恋人だけではなく、家族であった り友人であったり・・・。  クリスティに関しては、いずれまた書こうとも思っていますが、今回はこの 辺で。  最後にアガサクリスティ 長編著作リストを作りましたので、ぜひご覧くだ さい。

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