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gODHEAD HYSTORY


1991年の終わり(Washington, DC) 大学2年生の頃、 Jason Millerはバンドを辞めボーカリストを捜しているバンドのために広告を出した。
そして、いくつかのバンドからコンタクトがあった。けれど、それらはJasonには興味のないバンドばかりだった。
Jasonは、今あるバンドに求めることをあきらめて、自らのバンドを立ち上げるためにメンバー募集の広告を出した。

一方で、JasonはNathan Camfiord(幼馴染みのドラマー)の家の地下室で彼と一緒に多くの曲を書いた。 しかし、彼らに何かが起こる前に、Nathanはリッチモンドへ引越してしまった。

答えを待つ間、Jasonは旧友、Dwayne Reid(まだ別のドラマー)と、次に始めたいプロジェクトのこと、自分がやりたい音楽の事について話し合っていた。
Jasonは、The Cure, Soundgarden, や Fugaziのような多くのバンドの最も良い要素だけを結び付けたかった。
DwayneはJasonの考えに賛同してくれた。そして、二人は一緒にバンドを始めることにした。

ベーシストのオーディションを行っている時に、Bruce Brandstatterというベーシストを粗末なクラブの奴に紹介された。
彼とのセッションはすぐにうまくいった。三人はJasonが書き続けていた音楽をはじめることにした。

三人が次に必要としていたのは、バンド名だった。
何週間も考えた末に残った名前は、Godhead とBlindの2つ。
JasonとBruceは、Godheadを主張したが、Dwayneは、"Blind"をバンド名にすると譲らなかった。
二人はDwayneの主張に負け、"Blind"をバンド名にすることで落ち着いた。

1992年4月 "Blind" の最初のショーは、ジョージ・メーソン大学のRathskeller (ビヤホールの事)であった。
またその日の夜には、Tiki Falaというクラブでもショーを行った。(Dumfries, VA)

その後6ヵ月間 "Blind"は、DCエリアの到る所でオープナーを必要としたいくつかのバンドの前でプレイした。
そして、headlineをつとめる若干のギグとエージェントとマネージャーをつかまえることができた。

JasonとBruceは、新しいdrummerが必要だと感じていた。
Dwayne Reidを追い出した後、Sins of SoulというバンドからJohn Pettitを引き抜いた。

新生"Blind"は92年から93半ばまで、DCや東海岸に沿ってプレイし続けた。
   ----その間に"Blind"はレコード会社との契約をとるために、デモを作成する。----


Jasonは大学を退学し、Bruceは仕事を辞めた。

92年の夏から94年の初めまで、彼等は3度全米を周った。


   ----(jason 「私たちがどんな最悪な場所でプレイしたか、何人の人々が我々の足を引張ったか。
どれくらいのクラブが我々から搾り取ったかあなたに話すことはむずかしい。
あなたが知らない街でプレイすると分かるだろう。私がどんなことを言おうとしているかが。」)----

アメリカのレーベルから声がかかることはなかったが、SIT guitar strings, Mesa/ Boogie amps, Gibson guitars, から支持を得た。それは、とても大きな出来事だった。

そして、ある時ドイツ ミュンヘンのレーベルから声がかかった。
そのレーベルは、デモテープのみで彼ら"Blind"にコンタクトをとってきた。

93年の終わりMarlboro Musicと契約をかわした。

ヨーロッパでリリースするにあたって、彼らにすでに"Blind"というバンドが存在していることを知らされた。 彼らの選択は明らかだった。

1994年3月、"godhead"は生まれた。This was great!
   ----(「godhead」と小文字でつづるほうを選んだ理由は覚えていない。。しかし"godhead"は生まれた。) ----

彼らの最初のギグから2年、彼らは4月に大きなスタジオにいた。プロデューサーはWarren Croyle。
そして、アシストとしてBernhard Lockarが支援してくれた。 素晴らしい一時だった。
夏には、PVを撮影しアメリカツアーを行った。 そして、ドイツでも3度のショーケース・ギグを行った。

94年9月 "America Now"リリース。

Marlboro Musicは、godheadと契約を更新することを決定。
godheadは、予算を与えられ新しいアルバムをレコーディングすることになった。
それは、95年の3月から4月に行われ、10月にリリースされることになっていた。
(また、再びWarren Croyleがプロデュースすることになった。)

94年の12月に、JasonはWarrenとBernhardと共にLos Angelesへ飛んだ。
Jasonはロスにいる間にKommunity FKのショーを見に行った。80年代からの伝説のgothバンドはTroubadoreに出演していた。

(-- リードシンガーのPatrick Mataは、ここ数年の中でもjasonに対する巨大な影響をあたえる人物になる。)

そのショーはとても素晴らしかった。Jasonはショーの後居ても立ってもいられず、Patrickを訪ねた。
そして、一緒に曲を書いてくれるかどうかというアイデアを話した。
彼はそれを受け入れてくれた。3月にまた逢うことを約束した時、Jasonは「うまくいく」と確信していた。

1月に、Ace Frehleyはボルティモアへ来た。
そして彼にgodheadの曲を与えて、彼に新しいアルバムでソロを弾きたいと思うかどうか尋ねた。
1週間後、彼のマネージャーはWarrenに連絡を取り承諾した。

バンドは3月に、WarrenとリハーサルしたLAへレコーディングの為に飛んだ。
その週に、Patrick Mataとjasonは曲を書いた。「No More」。それはアルバムに収録された。

3月から二ヶ月をかけて3つのスタジオで、レコーディングを行った。
彼らはアルバムタイトルを"Apathy"と名付けたかった。 しかし、最終的にMarlboroはシンプルに「GODHEAD」とつけた。

そのアルバムレコーディングは、彼(jason)の人生の最高の時間のうちの1つであった。

アルバムを作成している間、 Sonic Underground recordsからの契約を待っていたのを覚えている。
そこでは、我々の作品の中から5曲を米国版EP"America Now"としてリリースする運びになっていた。
しかし、リリースされる2週間前にSonic Underground recordsは破産してしまった。 (米国版のリリースはなくなった。)けれどもその後に、米国ツアーや'95 Foundations Forumの出演、 '96年2月には再びヨーロッパをツアーする予定だったので、気にするほどのことではなかった。

この時、 Marlboroから歌手に専念するように guitar playerを探すようにと話があった。
その為に非常に優秀なギター・プレーヤーで友人のDanny Reibezを迎えたが、彼とは穏やかに別の道を行った。

彼が去ってからヨーロッパツアーのちょうど前に、すばらしいプレーヤーはやってきた。
バンドの元クルー・メンバーが友人であった彼を呼び出し私に紹介した。私たちはすぐ「うまくいく」と思った。 Mike Miller, 彼はすぐにgodheadの全ての曲を演奏することができた。godheadと一緒に活動すべきなのは彼だった。

godheadはドイツ、オーストリアとスイスをツアーし、ダラス、テキサスからはUgly Mus-tardとともに行った。

'96年3月、彼らは自宅に戻った。彼らの音楽は4年間に変わっていた。
goth/ industrialシーンにJasonはますます影響されていた。そして、彼はこれのより多くを自分たちの"音"に組み込みたかった。
Jasonは、JohnとBruceの心をそれに向けるために二人を試していた。しかし、二人は本当に興味を示さなかった。

ここで、Jasonはこれからの活動の中で非常に重要な人物と巡り会った。
彼は、Jasonにデモ・テープを渡した。Jasonは彼と曲を書くことができたらそれはとてもcoolなことかも知れないと思った。

その彼とは、Oolie....the methodであった。

5月、the methodがバンドの正式なメンバーになった、そして、6月には米国レーベル"Sol 3 records" と契約をかわした。

7月、godheadはDrew Mazurek(我々の最初のデモのプロデューサー)とともにスタジオに入り、新しいアルバムをレコーディングした。(「GODHEAD」からも、4曲のトラックを使った。)

10月、「nothingness」をリリースした。

リリース後、godheadは今後のことを話し合った。が、音楽の方向のことですぐに話は、行き詰まった。
長いこと話し合ったあと、JohnとBruceは立ち去った。そして、Jasonは疲れていた。

JohnとBruceとはSol3でのリリースまでにJasonと4年間を過ごした。そして、彼らが 信じた何かのためにツアーをし、曲を書いて、働いた。
でも、Jasonは引き返すことはしなかった、godheadの最も長い化身はその日に死んだ。
彼らのたった一つの選択は"続けること"だった。 Mike、Oolie(the method)とJasonは新しいドラマーを捜すことに決めた。

そして、やる気のある James O'Connorがやってきた。
Oolieはキーボード以外にBassも弾くことができたので、彼らはこの4人でやっていくことになった。
新しいアルバムのためのおよそ30曲を書く6ヵ月の間、彼らは新しいラインナップでショーを再開した。

'97年2月、彼らのプロデューサーRichard Gotterhrerとともに、godheadはニューヨークの3つの異なるスタジオに入った。
8月に彼らは、新しいアルバムを作り終え、1998年2月「Power Tool Stigmata」をリリースした。

98年から99年の初めにツアーを敢行。
98年の6月には、DragonConにも出演した。
99年、彼らはGenitorturersと、2、3のショーもした。十分幸運だった。

3月、World Horror Conventionに出演。
godheadはGWARのリードシンガーのDave Brockiの目をひいた。 そして、運良く彼はgodheadのショーに興味をもってくれた。

GWARのツアーには、まだ前座のバンドが決まっていなかったことを知らされた。
そして、GWARとはスタイルが合わなかったけれども、一緒にツアーをすることは大きいチャンスだとも思っていた。

godheadは、このチャンスに飛びついた!
これは、毎晩1000〜2000人の人々の前でプレイすることを意味した。

ツアーの最初の夜は、我々のhometownであった"9:30 Club"だった。

GWARの大部分のツアーでは彼らにビン、ピッチャーと何でも投げつけられた。 けれども、彼らにとってはちょうど通過の儀式の一部としてそれを楽しんだ。
だが、面白いことに彼らを邪魔扱い、 あるいは彼らに向かってビールを投げていた同じ連中がgodheadのCDとTシャツの両方を買っていったことだった。

ツアーは6月に終わった。 しかし、godheadは「Power Tool Stigmata」がまだ何かを持っているように感じていた。 そして、彼らはもう一つのツアーに参加した。'99年9月、Christian Deathツアー。
(このツアーは、本当に楽しかった。 私たちは町から町に行く、まるで狂った1つの大きいサーカスのようだった。)

Sol 3がgodheadにできることは全てしてくれた、けれど彼らはそれ以上のものを必要をしていた。 したがって、godheadは再度メジャーレーベルとの交渉を試みることにした。

godheadは弁護士 Terri DiPaoloの助けを借り、 また99年の終わりから2000年の初めまでに多くの主要レーベルの為にショーケースを行うため (もちろん、全ての費用はレーベルが支払った)何度かハリウッドへ飛んだ。

How we ended up on Marilyn Manson's Posthuman Records will be revealed at a later date, but all I can say is that we couldn't be happier and we feel incredibly strong about our future.

2001年1月23日
"2000 Years of Human Error"リリース。



引用         旧 GODHEAD OFFICIAL SITE BIOGRAPHY

: 許可なく転載はしないで下さい。訳文は要略している箇所があります。
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