▼今はたった一枚きりになってしまった学生時代の彼女の写真。
賀茂川のベンチで、いつも飽きることなく語り合っていた。
ある日の新聞記事に核シェルター販売開始という記事が載っていて、僕は単純に「へ〜、欲しいな〜」などと言っていたら、彼女は「私はいらないわ、だって核を認めることになるもの」と少しいらだったふうに答えた。
「だけど現実に核は存在するんだから、どうにかして身を守らないと人類は終わっちゃうよ」と僕が反論すると、「私は死んでもかまわないわ、いいえ死ぬべきだと思うの」と、こともなげにさらりと彼女は言った。
バスが生態系への配慮という大義名分の下で駆除されるべき対象で、ニジマスはなぜ有害外来種ではないのか?
一見混沌に思えるこの世界には、人間のこじつけの秩序など一時の変異にしか過ぎぬような揺るぎない秩序があるのではないだろうか。軽薄すぎる矛盾が逆にそんな想像を働かせる。
彼女は「自分の資格」ということを良く口にした。
その頃の彼女の心には、それが大切なキーワードだったのだろう。
今やっと僕も自分達の心が生んだ核で死んでも仕方ないと思う。
そこで生きてきた老人が悲しそうに僕を見つめていれば、僕はバスの命を奪おう。誰も見ていなければそっと水に返してやろう。自分の屁理屈に誰かの悲しみに勝るほどの重みなどないのだ。
洗礼を受けクリスチャンとなった彼女のようなストイックな強さが僕にはなかった。
ただひたすら信じ愛そうとしてくれた彼女には、その時の僕は悲しいほどに子供過ぎたのだ。
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