
四万十川源流域。 そして、渓流釣りにひたすらのめり込んでいたある一時期の ************************************************* 僕は時々、自分というものがなんだかわからなくなって、 四万十川へ行こうと思い立った気持ちの底には、 強がっていてもほんとうは、釣りだけじゃなく周りのすべてに、 四十にして惑いっぱなしの、「くすぶる魂に再点火作戦」、うまくゆくのでしょうか? **************************************************
こうやって一人、渓流へ車を走らせることが、なんだかとても懐かしく感じられる。
釣りは相変わらず大好きだし、年間けっこうな回数釣りに行ってもいる。
しかしここ数年に限って言えば、お客さん状態で釣らせてもらうバス釣りとは違い、
僕のやっていた渓流釣りは明らかに“接待”に近く、
内藤賢二の言葉を借りれば「ケツの穴から突き上げるような」
釣りへの熱病のような強い欲求が伴ったものではなかった。
彼は「人間がスレた」とも言ってたな。
たしかにその通りだと僕も思う。
どちらかというといささか趣に欠ける国道縁のこの支流は、
10年近く前に初めて竿を出して以来、
そのロケーションには似つかわしくない素晴らしい魚たちが、
幾度となく忘れがたい記憶を刻んでくれた、想い出深い川なのです。
僕の心の記憶を呼び覚ます、一つのキーとなる場所でもあります。
今年の初釣りに、僕は迷わずこの川を選びました。
小雪が舞う肌寒い中の解禁釣行となりました。
そんな時、やや強引に自分の行動に意識付けをし、
予定された結末を、あたかも自然の流れだと、そう思いこむことで、
自分自身をごまかすというか、だますというのか、
一筋縄でいかぬものを単純化して無理矢理嚥下するような
そういう作業で安心するみたいな、
人様に言うのがちょっとはばかられるような性質があります。
単純に釣りを楽しむ事が出来なくなってしまっている自分を、
あのころの場所で、あのころのように一人きりで釣りをすることで、
釣りそのものも、自分の生き方も、疑いもなく愛していたあの気持ちを
もういちど取り戻したいという魂胆が見え見えでです。
若かりし日々のような情熱を持てなくなっている、
そんな自分自身こそ、一番情けなく感じているのです。

記憶をたどりつつ土筆が10cmほどに伸びた土手を下りてゆくと、 「あの岩の向こうで25cmくらいの奴釣った!」記憶が瞬時に蘇ります。 「今日はいかに?」 わずか数投で釣れた初物は、あまりにも小さく(上の写真)、 しかし、さらに数投すると、キャストが冴えてくる。 狙い通りにポイントに入って、思い通りのアクションで、
車のボンネットの上に、今日の相棒となる道具を置いてみました。
おとといの雨がまだ山には残っていて、いつもより少し水量が多いようです。
押しの強い流れをしっかり捕まえられるように、
今日は縦アイの50mmミノーをメインに選びました。
竿はブッシュを嫌って4,7feetの短竿、しかしパワーがないので大物は獲れません。
過去に良い思いをした場所とはいえ、この時期には大型は出ないと読んだからです。
ならば楽しめる道具の方が良い・・・これは正解でした。
リールはいつものss600+ナイロン3ポンド、スナップを介して直結です。
見覚えのある岩や淵が、ずっとそのまま待っていたかのようです。
漁協が放流していないから遊魚券買わなくていいと言われたこともあり、
そもそも期待などあまりせずに、単に手軽さから入渓していたので
最初のあの一匹は嬉しくて、写真を何枚も撮ったのを憶えています。
ピュッとキャスト、カチャンとベール返す。
トゥイッチトゥイッチトゥイッチ!!
「ビビン!」
「ヒット!」
グネグネグネ・・・
「ちっちゃ!」
ノスタルジーと現実のギャップ、あれから10年という歳月のうつろいが、
かなり残酷なものに感じらました。
そうするとなんだか体にしみついた躍動するリズムが戻ってきて、
魚のサイズが期待はずれだなんてことはどうでもいい感じで、
狙ったピンスポットにミノーを打ち込むことが楽しくなってくる。
イメージしたコースを引くと、すぐに答えが出る。
活性は高い!
小型ながら頻繁にチェイスがあると、先ほどの落胆が嘘のように、
「さすが南国、四万十川!」みたいな気持ちにどんどんなってくるから
人間という奴は(いや、たぶん僕だけ)不思議です。

うちを出たときの、無理矢理に自分をリセットしようなんて考えていた事が、
「そうや、この感じや」
ポイントに対する集中力がキ〜ンと高まって、
見つめればそこへ、間違いなく投入できるような自信が蘇る。
完全なハンターと化して、雑念はいつしかきれいに消え去ってゆく。
アホらしくなるくらい、川の中でルアーを投げているとに無意識のうちに、
それは見事にただの釣り師になっていた。
何匹か釣った後にそのことに気が付いた僕は、
肩からすっかり力が抜けて、ケツの穴方面からなにやら突き上げるものを感じ、
「ここは絶対おる!」とか、そんなことだけを考えている自分が楽しかった。

3歳から培われたハンターの感が、魚の居場所をも的確に捉えて始めているようです。
一見どこに投げても釣れそうなこのポイントも、
優位な個体は、おそらくあるピンポイントで定位しているはずです。
場を荒らさないよう、先に左側の反転流から小型を一匹仕留めたあと、
写真の右上の倒木の左、そこがホットスポットと読んだ僕は、
上流側の白っぽい岩の手前めがけてキャスト。
着水後コンマ何秒か、ミノーのリップを白泡になじませてからトゥイッチ。
「ピッピッピ・・ピピッ・ピッ、ドンッ!」
ドンピシャの場所でヒット。
グネングネンとローリングする魚体は、久しぶりにアドレナリンが出るサイズ。
「ジリリリン・・・フッ!!」
わずか数秒のファイトで、大物はあっけなくフックオフ。
やはりこの竿では、大型の顎を貫いてセットフックに持ち込むパワーがありません。
ダウンクロス気味に釣る分には、軟らかい竿でも流圧でフッキング出来ますが、
アップクロスの時はバットパワーがものをいいます。
でも、悔しさまでもがたまらなく心地良いです。
またもや「あ〜この感じや!」

**************************************************** たくさんの経験を重ねることで、いつか人は新鮮な感動を失ってしまうのだろうか? 誰かと一緒にやる釣りは、その時は楽しくて、 それが年齢的なものか、個人の資質的なものかは僕にはわからないけど、 どんな分野でも、たとえどれだけキャリアを積んだとしても、 ただ魚を釣りたいという本能に身を任せておりさえすれば、 一人きりの釣り、特にキャリアの長い人にこそ良いものかも知れません。
結局今日の最長寸は、上の写真の22〜23cm(手尺)の奴でした。
軟らかい竿を選択したことが功奏して、充分に引きを楽しめたし、
なんやかや言いつつ、午後3時に入川して5時過ぎに川抜けするまでに
15匹も釣れたのですから、この時期としては望外の好釣果といえるでしょう。
ただ、一匹だけ運悪く目玉にフッキングしてしてしまい、
致命傷を負わせてしまったのが悔やまれます。
盛期、家族に望まれたときは、良型は情け容赦なくキープして、
遠火であぶって塩焼きとか、からっと唐揚げとかにしておいしく食べるのですが、
家族も珍しさがなくなったのか、アマゴのはかなさい美しさに気が付いたのか、
最近はそんなことも年に一度あるかないかになりました。
3月のいまだ冷たい水の中で、果敢にミノーにアタックしてくる小さな美しき魚を
今日はどうしても川へ戻してやりたかったのです。
新鮮な感動が薄らぐと、すべてのものは規定値としてインプットされ、
そこから何かを得ようとか、感じようとする気持ちがスポイルされて、
僕の場合結果的にそれが、やや不遜な態度となってあらわれたりするのです。
ぜんぜん嫌いじゃないのだけれど、そればっかり続けてると、
気が付くと自分と魚との距離感が、いつしか遠いものに感じてしまっていたり、
大自然の中においてはあまりにもちっぽけではあるけれど、
そのあまりにも小さいという本来自分があったはずのポジションすら見失い、
それがひいてはふだんの生活の中の諸々の事柄さえ、右往左往、
方向を見定めることが出来なくなるような、
おおげさに言うとそんな気持ちに苛まれることが、最近多くなっていました。
僕にとって驚くべき事は、こうして良い釣りをした後というのは、
ぐるぐる廻っていたコンパスの針が、突然ピンッ!と一方向を指し示すように、
迷っていたことさえ忘却の彼方というか、そんな気になれる事なんです。
家を出るときの、「釣りをしてすっきりしよう」などという、
不純な動機があったことすらも、もう忘れてしまっているのです。
エイ!と高速に飛び乗ったことさえ、それすらも、
今となっては、どうしても釣りに行きたかったからそうしたんだと思えるのです。
ストイックに何かを追求する姿勢さえ保っていれば、
きっと人は生きることに迷うことなどないのでしょう。
普通なら努力や忍耐なくしては到達出来ないような精神集中の境地へ
いとも簡単に到達することが出来る。
たとえ一瞬であっても、迷いなどどこにもないのだと感じられる。
そう感じた記憶を道標にして、進みたかった方向を再発見する事が出来る。
これも個人差があるのでしょうけど、釣りは僕にとっては
まさしくそのような趣味なのだと、あらためて今日実感しました。
僕は今、素直に大物が釣りたい気分です。

明日は41歳になります。
おわり