カツオ漁
(2001.9/17)

水平線が緩やかな弧を描き、ひたすらに蒼く穏やかな太平洋が今、目の前に広がっている。

数日前、世界中を震撼させた出来事を僕もライブで見ていた。
状況が少しずつ輪郭を見せ始め、それがテロだとほぼ確実視されるにいたって、重苦しい気持ちにさいなまれつつあった僕の脳裏には、この太平洋の景色がぼんやりと浮かび、そしてだんだんと、まるでシャープネスフィルターをかけるように鮮やかさを増し、その波音までも聞き取れるようになっていった。

松本しんちゃん船長に電話をかけてみた。
「もしもし、元気ぃ〜?」
「うん元気、上原さんの好きな戻りガツオが釣れよるじょ〜!」
かわらぬ陽気な声にほっとする。
「うわぁ!ほんま〜?」
「ワイルドのナオキ君等が月曜日に来る言うとったで〜」
「なにぃ〜!」
ジャストタイミング!!
僕はこのもやもやした気持ちを自宅で一人引きずるのが嫌だったので、ワイルドフィッシュへ速攻で電話して、一緒に乗せてもらうことにした。

月曜日、5時半出航。
ナブラを追って船を走らせる松本船長。
そして今、僕らも舳先で目を皿にして360°の見張りをする。
しかし、本職の漁師は目が違う。
船長は、僕らがさざ波に紛れて見過ごすようなわずかな海面の変化に鋭く反応、船は針路を急転回してエンジン全開。
このあたりとおぼしきポイントに到着後、すぐさま散水機を稼働して集魚する。
カツオは止まると死んでしまうので、一時もその場に留まってはいないから、追いかけて釣ることは不可能である。
散水しつつ、ルアーで水面を叩き、群が寄ってくるのを待ちかまえる。

今日はゲームというよりは、ほとんど『漁』である。
漁は楽しくないのかといえばさにあらず。
普通では経験しえない激しい連続ファイト。
またその中にひそむ様々な真実を見つけることもまた、僕には貴重な経験である。

数分後、船の周りで派手なボイルが始まった。
まるでスイカほどもある石をドボンドボンと投げ込んでいるかのように水面が炸裂する。

その後はさながら戦場である。
ライトタックルを限界までひん曲げて、合わせ切れ防止で少し緩めとはいえ、そこそこに締めてあるドラグを、まるでターボがかかったかのように、無負荷であるかのごとく、ほんの5秒で30mはゆうにPEラインを引き出してゆく。
悲鳴をあげて逆転するスプールが加熱している。
人間もアドレナリンがドクドクと湧き、湯気が出るほど熱くなっている。
次々とデッキに上がるカツオは自ら血を吐き、辺り一面、服も顔も、鮮血にまみれてゆく。
写真を撮っている暇さえ無かった。
ひとしきり、手が棒になるほど釣り、群が遠のいて反応が無くなり、また次のナブラを探して移動した。

こうして血にまみれながら釣りをしていると、ニューヨークで起こったことがとても遠い世界の出来事に思えてくる。
もしくは、とてもバーチャルな世界の出来事に感じられる。
誰もが実体のないもののために戦っているような、そんな気がしてくる。

魚を食べるときも、肉を食らうときも、屠殺の痛みを感じることなく、血の匂いを嗅ぐことさえもなく、貨幣と交換に食料を得、あまつさえ、より旨いものを追い求める。
株を売買し、土地を仲介し、何も生み出さずに、実体のない利益を得ようとする。
国家のため、神のため、美学のためと偽って、一方的な理念を追求するために他人を傷つける。

一義的には、イスラム社会の中に、貧困や世界情勢の中での憤懣などが、僕らが想像し得ないほど絶望的に横たわっているのかも知れないが、その中からテロで現状を打開しようという勢力が生まれてくる温床の一つには,実体を失いつつある僕らの生活が、どこかに皺寄せてしまっているのではないだろうか?

釣りにしても、キャッチ&リリースがカッコええなんて言い出したんはいつからかな?
そりゃ単にカッコの問題だけではなく、現実にリリースすべき場面は存在するのはじゅうじゅう承知しているけど、ぼくらが子供の頃までは、みんな餌をつけて、それぞれに知恵をめぐらせた釣り方で、ようやくしとめた獲物をありがたく食べていた。
そうして獲物を手にしてくる大人がカッコよかったし、釣りそのものがどんな釣りであれ、もう少し高貴に感じられたものだった。
いつの頃か餌釣りはいやしいと、勝手にその地位をおとしめられ、獲物を食すなどはもってのほかで、原始的な行為のように語られるような風潮になりつつある。
食べるという行為が、命を奪うことであるという当たり前の現場から、あまりにも遠ざかった結果、理念だけが一人歩きするようになったように感じられてならない。
文明国の胃袋を養うために第三国で行われている屠殺の絶対数を想像できないはずもなかろうに、知らんぷりを決めこむのは罪である。
自然の荒廃によって激減した個体数を調べずとも、リリースが声高に叫ばれるのも無理からぬことだが、それよりも、もったいないお化けが出るほど『ありがたみ』について無関心すぎる方がもっと大問題だと思う。
文明国の残飯の総カロリーが、貧困世界を養うに余りあるというのはどう考えてもおかしい。
それも、あまりに手を汚さずに何でも手に入れられる便利さの弊害だろう。
人の命さえも、やがてはバーチャルな概念上の価値しか持ち得なくなってゆくのだろうか?
一度でも自分の糧となるために、生き物が手の中で絶命してゆく体験を持てば、無関心で押し通すことは出来なくなると思うのだが…

憎むべきは無知や無関心であり、際限のない欲望であり、そして殺戮者である。
これから僕はどうしたらいいものか?釣りは何になってゆくのか?世界はどうなっゆくのか?難しいことは残念ながら、なんぼ考えてもぜんぜんわからない。
ただ、普通に生きているつもりの自分が、まったく及び知らぬうちに、ひょっとしたら地球の裏側の誰かの生活を搾取し、いわれのない偏見で誰かの尊厳を傷つけているかもしれないことを、今まで以上に意識しなければいけないなということと、善意にしろ悪意にしろ、矛先の方向を間違ってはいけないと、ナブラを追って移動する船上で、心地よい風で浴びた返り血が乾燥してゆくのを見て、柄にもなく考えたりしたものだった。

次に遭遇したのはヨコワ(クロマグロの幼魚)の群だった。
散水を始めた船の下をビュンビュン泳いでいる。
ワンキャストワンヒット!
ルアーが空中にあるうちから追跡している奴もいて、水面に着水するより早く、水柱があがる。
さっきのカツオよりはだいぶ小型ながら、それでもドラグは出る出る、ミディアムパワーのバスロッドなどはバットからミシミシいうほどひん曲がる。
水面を切って、突進出来ない状態にしてから、某まんまベイト作者のように、右手でロッドを持ち、左手でデジカメを操作してみたりしたが、群のいるうちに釣っとかんとあぶれてしまうし、どうも彼のようにはうまくいかないのですぐに諦めた。

嫌なことがあると、僕は釣りに出かける習性がある。
現実からの逃避でもあるが、新たな発見の場でもあると思っている。
だいいち、人間には逃避出来る『場所』は絶対必要じゃなかろうか?
自分がいるスペースがないと、自分の中にとじこもってしまうしかないものなぁ。

少しストイックになりたいときは一人渓流へ出かけてアマゴを釣り、
楽しさを求めるときには友人と共にバスを釣る。
そして、どうしようもなく重苦しい気持ちの時は、僕は何故かこの海に恋い焦がれる。
どこまでも広大で、すべてを包容し、何ものをも拒絶するこの海にしか癒せないものが、人間の中には渦巻いているのかも知れない。

何一つ、世界が変わったわけでも、問題が解決したわけでもないけど、少なくとも僕の気持ちの問題は、きれいさっぱり海に溶けてしまった。

青い海、沸き立つナブラ、ドラグの悲鳴、血の匂い。
僕に心の平静をもたらしてくれた海と、命と引き替えに、筆舌に尽くしがたい旨さをくれた、戻りガツオとヨコワ達に感謝!
カツオ漁おそるべし。

おわり

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